2016年2月24日 |
もう3年も更新していなかったことになる。つい先日、68歳になった。歳月の早さに驚く。年寄りのたわごとを再開しようかと思う。 と書いて思った。3年前まで、自分を年寄りだと自覚することなどなかった。だのに、わずか3年経ったにすぎない今、いとも自然に「年寄りのたわごと」などと書いてしまう。なんとしたことだ。 自分を思わず知らず「年寄り」に分類してしまう現実の悲しさ。事実は事実として、つまり世間の一般的な目で見て、「おれ年寄りだろな」とは認めても、自分に向かって「おれ年寄りだよな」と自覚することは、死にも値するほどつらい、苦しい、悲しい。まだそれほど体力は落ちていないのだし。 ところが近ごろ、自分を年寄りと自覚させられる機会がとみに増えた。 たとえば、10日ばかり前、免許証を更新した。無事故無違反でゴールド免許をもらったのはいいが、次に期限が切れるのは73歳。頭の中でそう計算したとき、愕然とした。70代がすぐそこだ。 驚きはこれで止まらない。「次からは、無事故無違反でも有効期限は3年になりますよ」と言われてしまった。しかも、更新手続きに先立って、教習所で年寄り用の講習を受けないといけないのだと。 なんとなんと。あと5年で、そんな歳になってしまうのか。もはや現役とは誰からも見られず、箒で社会の片隅に掃き寄せられる存在になってしまうのか。腰を抜かした。気づかぬうちに、人生はもう秋を過ぎて、初冬ではないか。 ぼくが好きな童謡に、 村の渡しの船頭さんは、というのがある。初めて覚えたのは、小学2,3年生のころだ。子供の雑誌に、艪をこぐおじいさんの絵とともに載っていた。以来、「六十」=「たいへんなお年寄り」が、ぼくの中で定着したイメージとなった。そのぼくがだ、気づくと六十を過ぎ、七十が近い。それを知ったときのショックは、耐えられなかった。激痛だった。 まだある。功なし名をなした先人たちの享年が、たいていは今のぼくの齢に達していないことを知ることだ。たとえば、2月に入って読んだ本で言えば、寺田寅彦が57歳。ハイネが59歳。堀辰雄が48歳。岡本かの子が49歳。こういう人たちのきらめくような仕事を思うと、何もしないで68歳まで生きてきたぼくがえらく年寄りに見えてしまう。 |
2016年2月25日 |
前回、『船頭さん』の童謡を引き合いに出した。 童謡というと思い出すのは、『月の沙漠』だ。三歳になるかならないころ、母が歌って聞かせてくれた。 ぼくが人生において最初に聞き覚えた童謡、とまで言ってよいのかどうかは知らないが、幼い心に響いた最初の童謡と言うなら、たしかに『月の沙漠』がそれだろう。 母の膝の上で、母が開いた絵本を眺めながら、母が歌ってくれる歌を聞いた。その場面を今もはっきり思い出す。 てかてかした色合いの絵本じゃなく、しっとりと落ちついた、どちらかと言えばくすんだ色調の絵本だった。そこに、ラクダに乗った王子様とお姫様がいた。どこまでも続く砂漠だった。 ぼくはそのとき以来ずっと、今にいたるまで、『月の沙漠』の歌は、本当に月にいる王子様とお姫様の歌だとばかり思っていた。月の沙漠は、ぼくのイメージの中では、そのものずばり、月世界の砂漠だった。誰もいない月世界の砂漠を、どこに行くともなく、王子様とお姫様がラクダに乗って歩いていく。それがぼくの『月の沙漠』だった。 幼心にも、もの悲しく、哀切な歌だった。じんと心に残った。 今、歌詞をつくづくと読んでみて、それがまちがいだったと気づかされた。 次のような歌詞だ。 月の沙漠をはるばると、旅のらくだが行きましたもの悲しく、哀切。それは、いま読んでもまちがいない。 だが、「朧にけぶる月の夜を」とある。これを見て、衝撃に震えた。イメージはまるで逆転だ。コペルニクス的転換だ。 この一句を、ぼくは長年見落としていた。気づいていなかった。言葉通りの「月の沙漠」と信じこんでいるから、何度読んでも、何度聞いても、この一句を素通りしていた。 なんだなんだ、地球上の砂漠なのか。月の光に照らされた砂漠なのか。それも、煌々たる満月ではなく、おぼろにかすんだ月の夜なのか。どこか日本的な、しめっぽい砂漠なのか。 そう思ったとき、歌の評価が、ぼくの中でグラッときた。 ぼくにとっては、『月の沙漠』は「月の沙漠」のままであってほしかったのにな。その方がよほどイメージはもの悲しく、哀切で、美しいのにな。神秘的で美しいのにな。 |