セミ異変・ツバメ
2012年9月3日
 自分の体験やわが家の周辺環境を一般化することはできないが、この夏、不思議にヒグラシの「カナカナカナ」を聞かなかった。いまだに聞かない。

 昨日初めてツクツクボウシを聞いた。ツクツクボウシも例年より遅い。鳴き方も変だった。「ツクツクバウバウ、ツクツクバウ」と聞こえる。これを繰り返す。あるいは生まれたばかりのツクツクボウシで、世慣れていなかったせいかもしれないが。

 セミの世界に少し異変があるのかという気もする。

 というのは、わが家の周辺(あるいは西日本全体)では最も多いはずのクマゼミが、この夏はやはり少なかった。わが家の庭のクロガネモチの木は、その根元がセミの繁殖地で、例年なら何十個ものセミの穴ができ、木の幹や葉っぱの裏にはまたそれと同じくらいのセミの抜け殻が貼りついているものなのに、今年はなぜかまったく見なかった。

 孫が来ると、菓子箱いっぱいにセミの抜け殻を収穫することができた。それが今年は皆無だ。

 いつも犬を散歩させる並木道の桜の木には、ひょいと見上げると恐怖を感じるほどに、いたるところにクマゼミがじっと動かず貼りついていたものだ。特に探さなくても、一目で十匹くらいのクマゼミを視界に入れることができた。中には這い上りつつあるのもあるが、たいていは不思議に動かず、手でつついても動かないのではあった。セミの集団自決の場かと恐怖を覚えたことすらあった。

 それも去年までのことだ。今年はそれすら見かけない。

 なんだか変だ。

 今年、わが家の周辺ではツバメが多かった。これは事実だ。一般には、ツバメが減っていると聞く。しかし、そんなことはない。昼間、仕事をしながら書斎の窓からふっと外を見ると、四角く区切られた窓枠の視野の中をしばしばツバメがよぎるのを見た。

 散歩をしていても、ツバメの超高速低空飛行にしょっちゅう遭遇した。地面すれすれ、5cmか10cmのところをかすめて飛ぶ。猛烈なスピードでそばをすり抜け、上下にも左右にも、スピードを落とさず、瞬時に進路を変える。ツバメの飛行能力は天下一品だ。もちろん彼らは、その優れた動体視力で、ぼくなどには目にも入らぬ小さな虫を瞬時のうちに口にしているのであろう。

 今年は子ツバメもたくさん孵った。巣立ってしばらくは、そのぎこちない飛び方で一目で子ツバメだとわかる。見た目は親と同じでも、やや小さく、ひ弱だ。その分、羽根の色が黒光りして、みずみずしい。それが必死に飛んで、虫を食べている。けなげなものだ。

 巣立ってもしばらくは親と一緒に暮らしているのがわかる。が、やがておそらく離れていく。親子は互いを肉親だと認識しなくなる。

 9月に入った今の季節、いつの間にかツバメを見かけなくなっている。みんな南に帰っていったらしい。子ツバメにとっては、帰るというよりは、初めての地への旅立ちだ。向こうに着けば、本能がそこをふるさとだと感じさせるのだろうか。不思議だ。

 たぶん今ごろは南の地で暮らしている。

 と思ったが、果たしてそうだろうか。こんなに早く南へ帰還するのだろうか。少し早すぎる気がする。ツバメはひと夏に二度繁殖するとも聞くから、もう少し様子を見よう。

悩みと迷いの青春時代
2012年9月7日
 昔の日記を読み返し、何かのときのためにとデジタルデータ化する仕事をふたたび始めた。

 ぼくの日記は、今も残されているものとしては中学1年の正月(1961年1月)に始まる。そこにぼくが書いているところによれば、もう一冊、その前身のノート(手帳)があったらしい。それは小学6年から始まるもののようで、たしかに言われるとそういう手帳をもっていたと、かすかな記憶がある。だがその手帳、今はおそらく跡形もなく灰になっていることだろう。

 中学1年から大学卒業までをすでに入力していた。特に大学時代の分は、その恋愛的側面だけを抜き出す形で、『二十歳のかけら』という本にして、この夏出版した。人に自信をもって薦められる本でないことが、著者自ら大いに残念なことなのではあるが……。

 まあしかし、悶々と悩み、苦しみ、迷った青春時代の証しとして、自分自身への懺悔の気持も込めて出版したのであった。

 今ふたたび入力し始めたのは、大学卒業後の、東京・府中におけるNEC時代からである。

 会社にぼくは結局4年間いた。その間もまた、大学時代にまさるとも劣らぬ、いやそれ以上の、しかも大学時代とは質の異なった、悩み、苦しみ、迷いの道にはまり込んでしまった。

 今読み返すと、壁に頭をぶつけては必死に生きる道を探る自分が、哀れで、切なく、もうほとんど「勝手にしてくれ」と言いたいほどの落ち込みよう、泥沼の深さである。

 同期で会社に入り、同じ部(コンピュータの基本設計部門)に配属された人が20人ほどはいたと思う。その中には、仕事を生き甲斐とし、それこそが人生だと言わんばかりにバリバリ働く人もいれば、仕事と自分の生き方との間にしっくりしないものを感じて、仕事に没頭できない人もいた。

 ぼくは当然のごとく、後者であった。落伍者であった。仕事は仕事として割り切って会社には行くが、人生の目的を別のところに求めつづけていた。求めざるを得なかったのだ。

 怒濤のような組織の流れに身をまかせることのできないぼくは、小さく引きこもり、しかし内面では、自立の道へと、自己完成の道へと、大きく羽ばたく夢をもち、その思いに支えられながら必死に読み、考え、そして結果は深い陥穽に落ち込んでいった。

 逐一の日々のその過程を日記にたどるのは、今のぼくにとって苦痛以外の何ものでもない。当時はなりふりかまわず必死だったから、逆に身の痛みはなかったのかもしれない。

 40年の歳月をおいて今読み返すと、かえって痛みがじかに伝わってくる。読むに堪えない気持になる。

 そして、そんな自分があったのかと懐かしくもなり、よくもまあその泥沼から這い出して今を生きていることよと、感心もし、信じがたい気分にすらなる。

 みじめで悲惨な自分ばかりが日記から読みとれ、悲しく、切なく、消え入りたいような気分になる。

 何と馬鹿なことに悩み、地面から足を離して空想に走り、ありえようもない夢を追い、周囲との間に自ら壁を作り、孤独の中に埋没していたことか。

 そんな過去の自分を、実を言えば昨日まで、ぼくは後悔と慚愧と軽蔑の思いで見ていた。冷や汗をかきながら読んでいた。悲しすぎて、正視するに堪えなかった。

 しかし、ふと気づいた。

 迷いの中にあることが、人を輝かせるのだと。迷い抜くことで、ぼくという人間が輝いていたのだと。卑下する必要はさらさらないのだと。

 人は悩み、苦しみ、迷うことを通してのみ、高みに登ることができるのだ。それのない人は平地にとどまったままである。平地にあって、高みを知らないままである。悩むこと、迷うことを引け目に感じることはないのだ。

 迷いがなくなれば、人は死んだも同然なのだ。淡々と惰性で平地を歩くだけの人間になってしまうのだ。

 そうなったときの日記ほど、おもしろくないものはないのだ。

 そうなったときの人生ほど、おもしろくないものはないのだ。

 それにふっと気づき、その瞬間、過去の自分を許せる気持になった。青春時代のぼくを許せる気持になった。いとおしくすらなった。

 他人に対しては、悩み落ち込むことで成長するんだとか、平気でこれまで言ってきたのだが、自分の青春時代をそのような寛容の目で見ることができたのは、今が初めてという気がしている。

 実を言えば、会社の中でぼくが例外者だったかというと、決してそうではない。ぼくのような生き方をしている人は周囲に何人もいた。みな、それぞれに悩みを抱え、それを自分一人の悩みだと信じて口外しないものだから、それぞれの内部でのみそれは深化し、はけ口のないままじくじくと膿んでいた。

 ぼくは4年で会社を辞めたのだが、ぼくより先に会社を辞めた人が同期の20人ほどの中にも、4,5人はいた。次への飛躍のステップをはっきり保証されて辞めた人はいないはずだ。悩みの果てに、耐えきれなくなって辞めたのだ。

 そのうちの二人とは、いまだに手紙のやりとりがある。一人は庭師の家業の跡継ぎとなり、もう一人は、転職の後にふたたびそこを辞め、畑違いの法学部に熟年入学し、ドクターをとって大学で研究生活に入った。長い放浪のはての夢の実現であった。

 ぼくも実は、NECにおける最後の一年の後には、京大文学部に学士入学(3回生から編入)するつもりでいた。その手続きも終えていた。そのつもりで余暇を利用して勉強もしていた。

 結果は、思わぬことから教師の道に進んでしまったのだが、その思わぬ事態が生じなければ、今のぼくはまったくの別人になっていたのかもしれない。

 一度しかない人生、波乱はどこまでもつきまとうものだと思う。

 教師になってからもぼくの悩みはどこまでも続き、結局、安住ということをぼくは知らないままで還暦を迎えてしまったように思う。教師になるところまで、まだ日記を読み進めていないのだが……。

震災後一年半の東北に
2012年9月10日
 わずか一泊二日の旅ではあったが、テレビやニュースで数え切れない間接体験をしてきた津波被害の実態を、初めてわが目で直接体験した。九死に一生を得た人の体験談も聞くことができた。震災後一年半が経過した東北に、その爪痕はいまだ生々しい。復興の道の遠いことを思い知らされた。

 旅の主目的は、次女が障害者である関係で、肢体不自由児者連合会の全国大会に出席することであった。これまで愛媛県内の大会では、この春国会で可決され、来年4月から施行される障害者総合支援法の主旨や内容が今ひとつはっきりつかめないでいた。県の障害福祉課の担当者の説明は、条文を逐一読み上げるに等しいもので、これでは何のことやらさっぱりわからなかった。

 今回の大会において、法案作成に直接たずさわってきた民主党・自民党の障害福祉担当議員、厚生労働省障害福祉課長、内閣府総合福祉部会の委員などから直接お話を伺うことができ、これまで手袋をして物に触るような印象だったこの法律が、ようやくリアルに具体的に見えてきた。この法律が総体として何を目指し、何をしようとしているのか、これまでの障害者自立支援法と何がどう変わったのか、今なお積み残されている問題にはどういうものがあるのか、こういったぼくらが最も知りたかったこと、にもかかわらず県の担当者からはちっとも要領を得た説明がなされなかったことが、今回よくのみ込め、すとんと腹の底に落ちた。

大きな収穫だった。

 これが旅の半分。残りは、仙台の北、登米市に住む友人を訪ねること。この友人、実は犬を通しての一種の親戚である。13年前、ぼくが飼っていた犬とぼくの両親が飼っていた犬とが交配し、子犬が5匹生まれた。この子犬たちが全国各地にもらわれていった。一匹はぼくの職場の同僚の教師にもらわれ、他は大阪、香川など、信じられないくらい全国に散っていった。

 そのうちの一匹が登米市に行ったのだった。ちょうど娘が麻布獣医大の学生だったときで、娘の研究室の先生と登米のその人とが知り合いであった。紹介してもらって電話で話をするうち気が合い、犬を送ることにした。当時は松山から仙台まで直通の飛行機があったから、それに乗せて犬を養子に出した。

 以来、電話や手紙、季節季節の特産品の送り合いなどで長いつきあいとなり、一度は犬も一緒に登米からわが家に遊びに来てくれたこともあった。

 こちらからはなかなか行く機会がなく、今回が初めての訪問となったのだが、登米のその犬は今年の春すでに死んでしまっていた。もちろん犬の両親もすでに死んでおり、ぼくの両親もすでにいない。あの頃が遠い過去のことになってしまった。

 しかし、ぼくら夫婦と向こうの夫婦は元気だし、犬がもらわれていったとき中学生だった向こうの家の長女はすでに結婚して二人の男の子のお母さんになっている。その長女ともお会いすることができた。犬をかわいがって、よく散歩に連れて行ってくれていた子だ。おばあさんともお会いできた。いつも犬はここに座っていたんですよ、というお気に入りの座敷の一角をも見せていただいた。

 山の奥にある犬のお墓(共同墓地)にも行った。伊達家ゆかりの古いお寺のようで、その山の斜面に犬猫の共同墓地がある。線香を立て、手を合わせた。

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 登米は今は小さな町だが、かつては城下町として賑わったという。歴史を感じさせる町並みが残っている。登米尋常小学校の情趣豊かな大きな建物がそのまま保存され、博物館になっている。ちょうど愛媛県の卯之町(現西予市)を思わせるたたずまいだった。

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 帰り、車で仙台空港まで送ってもらう途中、石巻の海のそばを通り、津波被害の光景を目にした。

 一緒に車で空港まで見送りに来て下さった娘さんは当時、陸前高田で働いていて、3月11日のその時刻にはたまたま高台の建物にいたから大丈夫だったけど、同僚が亡くなったという話だった。津波の発生があと数分ずれていたら、自分もその同僚と同じ運命にあったかもしれないと言っていた。

 元々しっかりした明るい人柄だったのだろうが、その体験を経て、人生観がさらに広く、豊かに、かつ強固になっているのを感じた。

 海岸から数キロのところを一直線に伸びる高速道路を走っていると、一目で右と左の光景の違いがわかる。右(海と反対側)には、たわわに実った田んぼが広がる。伊達藩を支えたのどかな穀倉地帯だ。見なれた松山平野の田園地帯とは平野の広がりの規模が違う。しかし、左(海側)は一面荒れ地である。視界のかぎり緑だから、最初はこれも田んぼかと思っていたのだが、よく見ると明らかに違う。雑草だ。塩害がひどく、去年に続き今年も田植えはできなかったという。半分水に浸かったままの、土むき出しの田もある。

 そんな光景が延々10キロも20キロも続く。この高速道路が津波を最終的食い止める防波堤の役目を果たしたというわけだ。天国と地獄の分け目ともなった。海側の農家の人たちはどんなにつらい思いをしていることだろう。

 ぼくの知り合いで、今年の2月、東北にボランティア活動に出かけた人がいる。仙台市から見て東北に当たる海岸で、土砂に呑まれた農家の納屋の片づけ作業にたずさわったと聞いた。ちょうどぼくが高速道路から見たあの一帯のどこかだったのだろうかと、ふとその人から聞いた話を思い起こした。

 がれきの山もまだところどころ残っている。一見生活は元に戻っているようでも、復興の道は遠いというのが実感であった。

 昨日はNHKテレビで、何兆円もの復興予算が事実上日本再生予算化して、東北の復興とは関わりのない事業にも使われていると聞いた。その反面、本当に復興に向けてあえいでいる現場にはなかなかその予算が回らない実情もある。この矛盾が、あの放置されたままの荒れ地に象徴されているように思われた。数年前、イギリスで見たヒースの荒野とそっくりだった。

松山秋景色、早くも彼岸花
2012年9月13日
 一昨日、家の近くの田んぼの中を歩いてみた。

 まず見つけたのは、彼岸花。9月11日だよ、まだ。

 意外だった。まさか、という気がした。ちょっと気が早いのではないか、君。

 満開なのはただ一本。そばに赤い新鮮なつぼみが数本伸びていた。

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 稲にはいくつか種類があることが、実りの時期を迎えるとよくわかる。農業にも米のことにもまったくの素人であるぼくにも、これはわかる。

 ぼくの目に映るのは三種類だ。

 一つは、「ごく早生」というのか「早場米」というのか、米の正式の品種名は知らないが、8月中旬にはもう刈り取られる。

 わが家の近くでそれをやっている田は決まっていて、一辺が300mほどもある近在一の大きな正方形のため池のそばにある。こんもりした台地の眼下に広がる一帯でもある。

 南を台地、北を山裾、東を自衛隊演習場のなだらかな丘、そして西をため池にせき止められた、一種の盆地状の一帯が、早場米をやっている地域だ。

 例年、8月中旬から下旬にそのあたりに行くと、運がよければ、一家総出で刈り取りをしている光景に出くわすことができる。もちろん手で刈り取るわけではなく、機械で一気に刈り取る。それでも、小さな子どもも含めて一家総出の作業である。写真は去年の8月16日。

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 今年は残念ながら刈り取りの現場に遭遇することはなかった。一昨日見ると、刈り取られた跡に二番穂がすでに青々と伸び、ちょっと見にはふたたび青い田が出現していた。

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 二つ目は、通常の早生。今がちょうど実りの時期である。真っ黄色に色づいて穂を垂れている。昨日行くと、刈り取りを始めた田もあった。

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 三つ目は、標準的なもの。あるいはこれを「晩稲(おくて)」というのだろうか。今はまだ穂を垂れることもなく、力強く緑の穂を上に伸ばしている。

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 早生が老年期に入っているのに対して、晩稲は今が壮年期だ。

 田ごとに、早生と晩生が入り混じっていて、少し高みから田園を見渡すと、まるでパッチワークのように、色の違いが鮮やかだ。

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絵を描く喜び、散骨した人
2012年9月17日
 8月に描いた25号ほどの水彩画を秋の県展に出してみようと思い、昨日、画材屋で額に入れてもらった。水彩画を始めて2年半。25号というのは、ぼくにとって過去最大の大きさだ。額に入れると畳半分を越える。ちょっと感激だった。絵の良し悪しは言わないとして、我ながらその努力に合格点をやりたい気分になった。

 まあ、初心者の感激である。ここからが出発点という、そのスタート地点に立った感激にすぎない。

 春の県展とちがい、秋の県展には審査がある。審査で合格しないと展示してもらえない。その関所がぼくにとっては高い壁だ。

 はてさて、どうなることか。

 実を言うと、うんと若いころ、そう二十歳代後半のころ、油絵を県展に出したことがある。審査のない春の県展だけど……。

 あれ以来だ。

 何にしろ、進歩というのは坦々と登る坂道であるがずはない。2年半前に水彩画教室に通い始めてから、飽きもせずに週に1枚ずつ、6号か8号の作品を描き続けてきたことになるが、ちょっとうまくなったかなと思ったその翌週には、とんでもないはちゃめちゃの絵になったりする。

 それが何週も続く。一度穴に落ち込むとしばらくは這い出せない。むしゃくしゃして、もう行きたくないと思うこともある。

 そんなことを繰り返しつつも、最近はようやく自分流の作品スタイルができてきたという気がする。固定してしまうと進歩がないから、常に模索と冒険の日々ではあるのだが、そんな中からも、特に色彩という意味で、自分流のスタイルができてきた気がするのだ。

 この2年半、小さな美術展には何度か出した。そして、会場に展示されている多くの作品を、そして中でも自分の作品を、つくづくと眺めていて、映える絵と映えない絵の違いがわかってきた気がする。

 人の目に何かを訴える造形というものが、ほんの少し、ほんの少しずつ、徐々に徐々にと、つかめてきた気がする。

 ぼくの場合、デッサンはダメだから、色彩でその下手さを補うしかない。動き、リズム、見た目の楽しさ、一種の躍動感といったものが、色彩を通して表現できれば最高だと思う。

 先日、同じ対象をたまたま、プロ級にうまい人とぼくが描いた。そして、2枚の絵を並べて何人かの人に批評してもらった。

「こちら(プロ級の絵)はプロ野球だね、そしてこれ(ぼくの絵)は甲子園だね。プロ野球の技術のすばらしさには脱帽するしかないけど、絵としての若さと躍動感があるのは甲子園の方だね」

 ある人がそんなことを言ってくれた。うれしかった。

 そう言われると、自分には気づかなかったよさが自分の絵の中に見えてくるから不思議だ。それが少々破調のデッサンと、色彩のリズムからきているのかと、自分なりに納得したりする。

 プロ級の技術はぼくにはとても無理。もうこの線で行くしかないのかと、一種のあきらめとともに、これでいいのだという自信めいたものも出てきている。

 まあこれが進歩ということだろう。

 まさに自画自賛である。

 というよりも、芸術というのは、本質的に自画自賛の世界でしか生きられないのだと思う。まずもって、自分が「これで良し」と認める瞬間に至らないことには、筆を止めて制作完了とならないではないか。「これで良し」と思ったものだけが、人の前に作品として出されるのである。そうでないものは「作品」とすら呼ばれないのである。

 評価はもちろん人それぞれだから、絶対的な「良し」などありはしない。自画自賛は自己満足と同義語である。それでよいのだ。おそらく、たぶん、永遠に。

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 話は変るが、先日、『あなたへ』という映画を見たことを書いた(「還暦よりの旅立ち」78)。妻の遺骨を海にまくという話だ。

 あれを見たとき、よく似た話があったなと思った。そして、今ふと思い出した。『ピーターラビット』の作者 Beatrix Potter だ。彼女が死んだとき、遺言(文書ではなく、言葉)にしたがって、散骨されたのだ。

 彼女は死の床で使用人にひそかに頼んだのだった。長年住んだ Sawrey (イギリスの湖水地方の村)に散骨してほしいと。

「しかし、誰にも内緒でね。どこに蒔いたかは、絶対に誰にもしゃべったらダメよ」

 そう言い残して、彼女は1943年12月22日に死んだのだった。使用人は彼女の灰を Sawrey に持ち帰り、いまだに知られていないある場所にひそかに蒔いた。秘密は生涯守られたという。

 3年前にイギリスを旅し、ウィンダミア湖畔にある彼女の博物館を訪れたときに買った "Beatrix Potter" (Judy Taylor)という伝記を読んで知ったのだ。

 Beatrix Potter にもまた、一つの信念があったのだろう。その信念が何なのかはわからない。誰にも知られず、永遠に一人だけの眠りにつきたいという、こみ上げるような願い。それがどこから、どのようにやって来るのか、ぼくにはいまだわからない。いつの日か、ぼくにもやってくるかもしれないその願い。

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 写真は、"Beatrix Potter" から転載したもの。馬車の上で立っている人が、彼女の灰をまいた使用人。背景は Sawrey から遠くない Hill Top。ここにも彼女の家があった(ぼくも Hill Top の家を見学した。今は小さな博物館)。

 この本を読んだときには、この写真は散骨に出かける彼を撮ったものだとすっかり信じたのだが、秘密のはずの散骨の様子が写真に残っているのは変だ。おそらく散骨のときの写真ではない。

自由になって
2012年9月18日
 退職し、自由な身になってはや二年半。夢にまで見たこの自由。

 水彩画を始めたのは大きな収穫だった。描いているととにかく楽しい。時を忘れる。自分を忘れる。すべてを忘れて、目の前の色彩空間に没入している。

 今こうして書いているように、文章を書くのも楽しい。好きな時間に、好きなように書けるのがうれしい。

 「……しなければ」という束縛感がない。これが自由というものだ。

 読むのも楽しい。今は "ENGLISH HISTORY FOR STUDENTS" という学生向けの英国史の概論を読んでいる。ケルト時代やローマ軍進駐時代に始まって、いまスチュアート王朝まできた。日本で言えば、江戸時代初期だ。残り3分の1になった。

 読んでいて思ったのは、王(日本で言えば天皇)に対するとらえ方がずいぶん違うということだ。庶民や官僚にとっては、はっきり言って、王は誰でもよい。誰がなってもよい。それがイギリス流だと思った。

 外国からの侵入者をも平気で受け入れる。征服され、その結果、しかたなく征服者を王としてあがめる、というのとはちょっと違う気がする。

 ローマ人をも、ゲルマン人をも、北方のデーン人をも、フランス人をも、侵略し征服してくれば、彼らを支配者として認め、彼らの中の指導者をイギリス王にしてしまうのだ。
 実に発想が柔軟だ。

 日本の歴史には、少なくとも天皇家が支配権を握ったあとの日本の歴史には、このような現象はなかった。外国から侵略を受け、征服されるという経験自体が日本にはなかった。

 「万世一系」ということを絶対天皇制時代には、日本の誇りと考え、国体思想を作り上げた。

 イギリス史を読んでいると、万世一系などという思想にしがみつく頑なさが信じられなくなる。

 要は、庶民がどう生きるかが問題なのだ。頭の飾りにこだわることはないのだ。イギリス史はそれを象徴的に語っている。

 庶民の立場から見れば、万世一系など、何の意味もない。

 一人の王が死ねば、王選びの手続きは振り出しに戻るのだ。息子に引き継がれる保証はない。それがイギリス流だ。

 昭和天皇は、大正天皇の摂政時代、ヨーロッパを旅行し、特にイギリスにおいて、イギリスの、そしてヨーロッパのこうした王政の思想を学んできた。

 中国史にもある、一種の革命思想だ。万世一系に価値をおかない思想だ。

 庶民の立場から国を見る思想だ。共和制にも進みうる自由な思想だ。

 昭和天皇は、個人の思想としては、けっこう開明的であったと言われる。軍の力に抵抗しきれなかった弱みはあったが、個人としては決して戦争を容認していたわけではなかったと思われる。

 話が飛んでしまった。

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 自由な身となってからの楽しみは、まだある。旅行、温泉めぐり、映画、そして家庭菜園。

 今年はゴーヤがよく取れた。ウリもたくさんなった。今はすでに9月中旬、夏を惜しむように、ナスが実をつけ続け、ミニトマトがまだまだ盛りである。

 彼らを見ていると、自然の力、生命の不思議な力に目がくらむ思いがする。

 一粒の小さな種の中に、季節を察知して芽を出し、成長し、再び実をつける力が潜んでいる。不思議だ。

秋景・コスモス畑
2012年9月21日

コスモスの花々々に照る銀河
人の世は邂逅にしてコスモス凛
ふうわりと風来ぬ吾にコスモスに
友と逢ふ嬉しき日なり秋桜
この道の末にあるとふ群れコスモス
かへりゆく道いづこぞと馬追鳴く
一人われたたずむ川に風は秋

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 重信川の土手は、かつてはジョギングコース、走ることをやめてからはサイクリングや散歩のコース。思えば、かれこれ35年もの長いつきあいとなる。いや、27歳で砥部町に住んで以来だから、正しくは37年か。

 森松橋から横河原橋にかけて、川の風情で知らないところはないと自負するまでになっている。春夏秋冬、あらゆる季節、あらゆる草花、あらゆる木々、あらゆる風、あらゆる水、あらゆる砂塵、あらゆる石、あらゆる傾斜、……。

 目を通してだけではない。体ごと、あらゆる川の風貌を、土手道からぼくは体験してきた。

 そのぼくに、昨日一つの発見があった。何でもないことだ。

 自転車で牛渕橋から上流に向かっていた。もう何百回走ったかしれない土手道だ。近ごろは、そのまま横河原橋をすぎ、どんどんと最上流、さかだる村のあたりまで行くこともある。

 昨日走ったのはわずかな距離だ。柳源泉という澄んだ水の湧き出す泉をすぎ、やがて川は東向きから北向きへと流れを変え(下流から上流を見ている)、土手道がわずかに川を離れ、道と川との間にホースライディングパークという乗馬クラブのあるのを右に見、やがて再び道は土手へと戻っていく。
 そこだ。何度も何度も通りなれたそこだ。

 高速道路の橋脚の隙間からコスモスが見えた。一瞬視野を横切っただけだが、半端な数のコスモスではないことは直覚できた。群がり咲いている。その群生に人影が呑まれている。どうやら写真を撮っているらしい。

 まるで突然現れた桃源郷だ。

 いったん通り過ぎたものの、土手へは上がらず、道をそちらに戻した。

 広さは小学校の校庭くらいか。一面のコスモスが風に揺れている。見るとコスモスの向こうに、白い建物があり、壁に「坊っちゃん劇場」と赤く大書されている。

 えっ、何だ、ここだったのか。利楽(りらく)という温泉もある、よく知られた保養施設だ。

 ここに来る時はいつも車で正面から入るから、裏側のことを知らなかった。秋にはコスモス祭があり、100万本のコスモスが売りになっていることは、よく知っていた。しかし、その時期にコスモス祭に来ることは、これまでなかった。

 今、はからずも裏口から入り込んでしまったわけだ。もちろん入場料などないから、無断侵入ではない。

 この土手道、サイクリングロードである。何度自転車を走らせたかしれない道だ。だのに、坊っちゃん劇場がそこにあること、道が劇場のすぐ裏手を走っていること、その事実に、なぜかぼくは気づくことがなかった。理由は簡単だ。土手のサイクリングロードからは、坊っちゃん劇場がちょうど死角に位置しているのである。高速道路という障壁のために。

 表裏一体の表と裏とが、高速道路があるがために、ぼくの頭の中で結び合っていなかった。昨日まで。

 こんなこともあるものだ。

 大仰にいえば、人生によくあることだ。自然科学にだってある。数学の世界にだって。

 最近、ABC予想が証明されたと読んだ。数百年もの間、数学者を悩ませ続けたあげく、天才ワイルズによって20世紀の暮れ方にようやく証明されたフェルマーの最終定理が、ABC予想を使えば、いとも簡単に証明されてしまう。

 ABC予想自体は1980年代に出されたものだ。ABC予想がABC定理になってしまえば、それを使ってフェルマーの最終定理を証明することは、ぼくにだってできそうだ。一つの数学的事実を、表から見るか裏から見るか、それが世界をまるで変えてしまうという実例である。

 坊っちゃん劇場とフェルマーの最終定理を結びつけるのは少々強引だが、まあよく似たものだ。陰に隠れて表口しか見えなかったものも、そのヴェールを引きはがして裏から眺めれば、「なあんだ」の一言で終ってしまうのである。

 それにしても、ひょんなことから、ひととき、よい時間を過ごすことができた。思わず下手な俳句をひねってしまった次第である。

 十分堪能し、帰途につく。心地よい秋風が体の奥までしみ通る。

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