2012年8月7日 |
ずいぶん長く更新していなかったが、いろいろなことがあった。 個人的なこと、対人的なこと、自分を見つめ直すこと、過去をふり返ること。 あまりに多くのことが一気に身の回りを流れていったものだから、ここに書き尽くすこともできないし、その気にもなれない。 しかしまた、ぽつりぽつりと今の自分の心境や生活を語る生活に戻りたいと思う。60数年を生きたが故にわかる自分自身・世のありかた・人間存在の意味、存在一般、などを語り続けていきたいと思う。 一週間ばかり前、三日間にわたりぼくは絵画漬けになっていた。絵を描き続けたのだ。愛媛県美術館が主宰する夏期洋画講習会というのに初めて参加した。 朝10時から夕方4時半まで、50分間の昼休みを除く時間以外は、絵を描き続けた。ぼくが参加したのは着衣クラス。他に、ヌードと静物クラスがあった。 油絵の人と水彩の人が交じり合っての会だった。ぼくは、うんと昔、二十歳代の後半から三十代の前半にかけて、油絵を習っていた。だが今は水彩だ。水彩の楽しみにのめり込んでいる。二年前に始めた。 二枚描いた。20号ほどの大きさ。わが人生において、あれだけ集中して絵を描くことに埋没したのは、今回が初めてという気がする。 出来映えはもちろん素人そのものだが、今ある力を出し切ったという意味で、最高に充実した満足が得られた。 ちょうど今オリンピック期間。オリンピック選手と自分を比較するのはあまりにおこがましいことだが、彼らの満足に似た満足を味わえた気がする。人の満足は結果で決まるのではないことがよくわかる。力を出し切ることが、もう最高度の満足なのだ。 もちろん、金を狙わねばならない宿命の人もいる。銀になっただけで、悔しさと申し訳なさに顔も上げられない人がいる。それはそれでいい。その世界の人たちなのだから。 だけど、オリンピック選手の大半は、そうした世界に生きてはいない。9割くらいの人は、脚光を浴びることなく、ただオリンピックに参加できたこと、そこで力を出し切れたことに、最高度の満足を得ている。その満足を生涯の宝として生きていこうとしている。 それに似た満足が、わずか三日間とはいえ、絵の世界に埋没することでぼくにも得られた気がした。 |
2012年8月9日 |
父が生きていたらちょうど今百歳なんだと感慨にひたりながら、数日前、父と母の墓を詣でた。 父は明治45年(1912年)4月12日の生まれ。明治の人だと本人も言い、ぼくも信じてきた。だが、思えば父の明治は3ヶ月半にすぎない。 父は北予中学時代をよく懐かしんでいた。今の松山北高である。 父の在学期間は、秋山好古の校長時代にほぼ重なる。好古の任期二年目に父は入学し、好古の校長退任と同時に父は卒業した。 秋山校長のことは、父から子ども時代に何度か聞かされた。だが、覚えているのは(というか理解できたのは)、元は有名な軍人だったということくらい。聞きながら、想像を絶するほど遠い、真っ暗な海の底か霧の奥のような話だと感じた、その感覚の方が、ぼくにとっては鮮明でリアルだ。 父の世代ほど高校野球に熱中した世代はないのではなかろうか。夏の県大会の時期が来ると、父は必ずぼくを自転車に乗せて松山球場にでかけた。平和通り側から球場に近づくと、球場の外壁が見えはじめるあたりから人が満ち始め、場外でラムネやかち割りを売る屋台が興奮をあおっている。中に入れば、観客席はぎっしり満員。通路にも人があふれ、お堀の土手を利用した一塁側の観客席は、背後の松の木にまで人が鈴なりだった。文字通り、熱気と興奮が球場を包みこんでいた。 父は強豪という意味では松山商業のファンであったが、同時に、母校である松山北を熱心に応援していた。自転車にぼくを乗せて、松山北の練習グラウンドに足を運ぶこともしばしばだった。 ぼくが野球の練習のすさまじい迫力と華麗さを初めて目にしたのは、父に連れられて北高のグラウンドに行った小学2,3年生のころだった。当時は、なぜ父がいつもこの学校に出かけるのか不思議でならなかったが、後に父の母校であることを知った。 父が北予中学の生徒だったころには、堀之内に松山球場はなく(その当時、堀之内は歩兵第二十二連隊の兵営だった)、中等野球大会の県予選は道後で行われていた。今の姫塚テニスコートである。伊佐爾波神社の山の斜面が観客席だった。 ぼくが自転車に乗れるようになった4年生のころ、夕方になると父と二人で、道後公園や、今はホテル街になっている坂道をよくサイクリングした。あるとき、自転車を止めて、伊佐爾波神社の石段を登り、頂上から下を見下ろすと、眼下に広場が見えた。 そのとき父が言った。 「この広場はのう、昔、野球場じゃったんぞ。今は想像もつかんけど、この崖の下に観覧席があってな。父ちゃんは昔、ようここに野球の応援に来たもんじゃ」 秋山校長も生徒と一緒に応援に来たのであろうか。 だが、そうは言われても、ぼくの目には雑草がはびこるただの広場。さして広くも見えない。「つわものどもが夢の跡」を見るような不思議な気がしたのを覚えている。 そのころはまだテニスコートにもなっていず、荒れ放題の広場だった。 堀之内に松山球場ができたのは1948年。ぼくが生まれた年だ。その松山球場も今はなく、野球場は郊外に移って坊っちゃんスタジアムとなった。松山球場や陸上競技場があった堀之内は今、広大な緑の公園になっている。 そう言えば、堀之内から松山球場が消えたのは2003年。父が死んだ年である。 歳月はかくも無情に、はかなく流れていくものなのだ。 父が死んで半年もせぬうちに母も死んだ。二人の墓は松山の南、八坂寺にある。死ぬ20年も前から二人が買って用意していた墓だ。 高台にあって、眼下に松山平野が見渡せる。 そこで先日の話に戻ろう。九州の西を通過した台風の影響で風が吹き、大気の汚れを吹き流してくれたらしい。炎天の昼下がりにもかかわらず、空気はすばらしく澄んでさわやかだった。遠くまでよく見通せた。 妻と二人、墓地から松山平野をぼんやり眺めていて、父と母がこの地を墓所にしようと決めた理由がわかった気がした。もちろん以前から気づいていたことではあるが、その日くらいはっきりとそれを感じたことはなかった。 父と母の思い出の地のことごとくが、墓の高台から眼下に見下ろせるのだ。 父が生まれた太尺寺、母が生まれた牛渕。二人が結婚して最初に住んだ祇園町。その後住んだ、小坂町、東一万町、福音寺。山かげに隠れて見えないところもあるにはあるが、「ほら、あそこだ」と指で指せる位置にすべてがある。 もちろん墓に二人はいない。あるのはただ亡骸としての骨だけだ。墓から今も毎日、二人がゆかりの地を眺めて暮らしているとは思わない。でもやはり、墓からすべてが見下ろせるのは嬉しい。 二人がいるのはどこだろう。 ぼくの心の中には、疑いようもなく二人の命が息づいている。ありありと今を生きるように彼らの姿が焼きついている。姿とともに彼らの心がしみついている。これはまがう事なき真実だ。 でも、それだけだろうか。いや、そうではない気がする。 きっと彼らは今もどこかにいる。時を越え、空間を越えて、きっと彼らはいる。 どことはっきりは言えない。空間も、時間も越えた世界なのだから。 百万光年の彼方に百万年前の世界が、まるで今のように見えるのと同じく、きっと死に絶えることなく続いている何かがある。 ぼんやり松山平野を見下ろしながら、そんなことを思った。 きっと二人に会える。どこかできっと、ぼくらはつながっている。そんな思いが、濃厚な予感とともに、ぼくの内部をよぎった。 |
2012年8月31日 |
勤めていた頃は、映画館に映画を見に行くなんて、年に一度もないことだった。それが、退職すると不思議に映画好きになり、シニア1000円という魅力もあって、最低でも月に一度は見に行く。 月に一度で映画好きとはおこがましいと言われるかもしれないが、ぼくにとってはけっこうな頻度だ。久しく忘れていた妻とのデート、ときめきのデートのような気分を味わっている。 一昨日は、『あなたへ』という映画を見に行った。 刑務所に勤める年老いた男と、その妻の話。妻はもともと刑務所に歌の慰問に来ていた童謡歌手だった。挿入歌の「星めぐりの歌」、なかなかいい。宮沢賢治の作詞作曲だそうだ。 男は、その童謡歌手と熟年結婚。そして、子どものいない十数年を経て、妻はやがて死ぬ。その妻の遺言が、「私の生まれた長崎の海に散骨してほしい」というもの。男は手製のキャンピングカーで散骨の旅に出る。 こんな話だ。 昼間にもかかわらず、けっこう人が入っていた。いつもはぽつりぽつりと数名のことが多いのに。 見回すと、みんなぼくらと同年配か、もっと上の老夫婦。中にぽつんと一人で座っている人もいる。ああこの人、悲しきWidowerだろうか。 予告編が始まるまでの幕間の気抜けした静寂の中で、ぼくは思わず家内に「年寄りばかりだな。老人の品評会だな」とささやいてしまう。 何と心ないささやきだったことだろう。しかも、当の自分が歴然たるその一員であることを忘れて。 映画はぼくの心にしっかりと寄り添ってきた。 そうなんだ、この映画、老年者の心に寄り添う映画なのだ。WidowerにもWidowにも寄り添ってくれる映画なのだ。 だから若者は来ない。はじめから若者など相手にしていない。ぼくらの世代に的を絞っている。だから昼間でも客であふれるのだ。 老後のこと、死後のこと、生きている間の夫婦の愛情のこと、人と人とのつながりのこと、いろいろ思わせられる映画だった。 軽薄な泣かせ映画ではない。泣きはしないが、じーんと来る映画だ。久しぶりにいい映画を見た。 このところ、見る映画の3本に2本はハズレだ。4本に3本と言ってもいい。アタリは滅多にない。『あなたへ』はアタリだった。 それにしても、海への散骨をぼくは願わない。後に続く世代に気遣いさせなくてもいいように、ひっそりと痕跡をこの世から消し去り、ひとり海の底に眠りたい。散骨は、そういう思いからのようだった。 それはそれでいい。所詮は同じことだ。 海の底に眠ろうと、骨壺に納まって墓石の下に眠ろうと、いずれは痕跡はこの世から消え、すべては無となり、自然の元素に同化していく。元素になればもはや互いの区別もつかない。それが少々早いか遅いかだけの問題だ。 しかし、命ある何十年かを生命体としての統合の中で過ごした以上、それが完膚無きまでに無に帰するとは、ぼくは思いたくない。 その影のようなものが、その証しとして、この宇宙に揺曳し続ける。そうぼくは信じたい。 ぼくは神秘主義者ではない。オカルト主義者ではない。たしかにキリスト教という信仰は持っている。しかし、教義に書かれているから天の国を信じる、そういう受け身の霊魂不滅主義者ではない。 ぼくの体の奥底に、消えない影が生き続けることを信じさせる何かがあるのだ。 それは散骨うんぬんの話にはつながらない。まあ、どちらでもいいのだ。何が正しく、何が間違っているという話ではさらさらない。そのときが来れば、ぼくだって散骨してほしいと遺言するかもしれない。 ともかく大事なのは、生き残った人との心のつながりだ。ぷつっと切れてしまわないことだ。それが切れないかぎり、影は残るのだ。切れたようでも、実はつながっているのだ。それも大事なことだ。決して切れたりはしないのだ。だから影は残るのだ。 星めぐりの歌 (宮澤賢治) |