腸(はらわた)
2012年4月27日
 連句をイメージしたリレー短文を思い立った。五七五七七にこだわらず、短文の連想リレー走をしようというのだ。

 スタートのお題は「腸」。

 「腸」を訓読みすると「はらわた」だという。少々変だ。概念図が一致しない。腸ははらわたの一部にすぎないではないか。

 そこで、「はらわた」を広辞苑で引いてみる。(1)腸、(2)臓腑とある。つまり、「はらわた」が腸だけを指すこともあるということだ。もちろん五臓六腑すべてを指すこともある。「はらわた」を訓読みにもつ漢字には、ほかに「腑」もある。これは頷ける。

 ちなみに、五臓六腑における五臓とは、肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓。六腑とは、大腸、小腸、胆嚢、胃、三焦、膀胱のことだという。三焦というのは聞きなれないが、漢方で使う言葉らしく、単独の臓器を指すわけではなさそうだ。

 ともあれ、五臓六腑は人間が生命を維持していくのに欠かせない基本的なエンジンおよび循環系統のすべてだといえそうだ。

 これと、脳を中心とする神経系統、すなわち思考、判断、記憶、伝達などの系統。この両者があいまって、人間としての生命が維持されているのだろう。

 それに引き替え、手足の部分は、体の移動や他者への働きかけには必要だが、生命維持の必需品とは必ずしも言えないのかもしれない。

 さて、ふたたび腸に戻るが、「腸」が単独に「はらわた」と呼ばれるには、それなりの理由があるのだろう。腸には他の五臓六腑にはない重要な働きがあるからだろうか。それとも、切腹するとまずぐにゅっと出てくるのが腸だからだろうか。腸は、五臓六腑の中では最下部に位置するが、体全体の中では真ん中だ。しかも、小腸までも含めれば、容積は五臓六腑の大半を占めていると言えそうだ。まさに腹の中心だ。はらわたの代表だ。そういうことだろうか。

 私はかれこれ三十年近く、腸を病んでいる。三十六歳という、壮年の盛りで大腸からの出血を見、潰瘍性大腸炎と診断された。そして、病名を告げられると同時に、「これは一生治りませんよ」と宣告されてしまった。

「ガンへの移行さえ阻止できれば、この病気自体が命取りになることはありません。でも、一生涯、潰瘍の進行と退行の波をくり返すでしょう。ガン化のおそれは常にあるので気をつけて下さい。現在の医学では、いまだに原因も治療法も見つかっていません。できるのは、ひどくなったときに症状を和らげるくらいのものです。難病指定を受けているので、治療には公費の補助が出ます」

 とまあ、こんな話であった。

 以来、年に二度ほど、ほぼ周期的に悪化の時期を迎える。一度悪化すると、 二、三ヶ月は続く。だから、一年の半分は腸に違和感を覚える暮らしをしていることになる。

 そういうとき、腸ははらわたそのものだと、つくづく実感させられる。体の中心なのだ。そこに鈍痛や違和感や出血があっては、とてもじゃないが人間は元気になれない。日に何度もトイレに行っては、下痢とともに便器が赤く染まるのを見る。気が滅入る。身体全体から力が抜ける。微熱が続く。

 とはいえ、見方を変えれば、一年の半分は元気だ。二十代半ばから続けていたジョギングを、潰瘍性大腸炎と診断されてからもずっと続けた。腸がどうしようもなくなれば休み、よくなるとまた始める。それをずっと長くくり返してきた。

 五十歳まで続けた。そしてついに、潰瘍性大腸炎の決定的激甚化を体験した。

 生まれて初めて入院した。だが当初は、入退院をくり返しながらも、だましだまし仕事を続けた。その挙げ句、とことん悪くなり、生死の境をさまよう状態で入院してからは、一年間休職することにした。トータルすると、激甚期間が二年間ほど続いたことになる。

 それを機にジョギングはやめた。ジョギングと合わせて、二十年あまり続けていたテニスもやめた。運動といえば散歩。散歩が最大の楽しみになった。

 そうは言っても、体調がよくなると、ついつい昔を思い出して走ってみたくなることもある。しかし、数日続けるともう腸に負担がかかってくるのがわかる。てきめんに悪化の兆しが現れる。それがわかってからは、もう決して走らないことにしている。

 早いもので、退職して二年になる。いまだに律儀に年に二度、そう春と秋だ、潰瘍性大腸炎が私のもとを訪れる。こちらは忘れているのに、向こうが忘れない。

 だけど、仕事に縛られない有難味で、悪化の兆しが見えれば、直ちに身体を休めることができる。そして主治医の指示で適切な処置をとることができる。

 その上、潰瘍性大腸炎とはもうすっかり顔なじみになっているから、彼の訪問を、玄関のベルが鳴るよりも早く、遠くの道を歩いてくる足音だけで素早く察知することができるようになった。これが大きい。だから、処置も早く、近頃では悪化がかつてのように二ヶ月も三ヶ月も続くことはない。せいぜい一ヶ月で治まる。二週間ほどのこともある。

 その分、元気で暮らしていられる期間が長い。人生が長くなったのと同義だ。

 今ちょうど、半月ほど前に訪れた悪化の兆しから立ち直りつつあるところ。なのに早くも気分は五月晴れのようにさわやかだ。

くりかえし(周期性)
2012年4月28日
 くりかえし(周期性)とはもちろん、一定の(時間)間隔で同じパターンがくり返されること。数式で書けば

f(t+a) = f(t)

 がすべてのtで成り立つことであって、aがその周期である。

 周期性の対極にランダム性がある。

 くりかえしが約束されている現象は、待っていても苦ではない。毎日同じ時刻に郵便配達がやってくる。それを待つのは心楽しいことだ。そろそろ来るぞという期待感が嬉しい。

 ところがランダムだと、なかなかこうはいかない。心待ちにしている友人からの手紙が、いつ来るのかわからないのは辛い。前回はこちらが出して3日後にやってきた。だから今度も3日後だろうと待っていると、いっこうに来ない。4日たっても、5日たっても、10日たっても来ない。こんなのを待つのは苦痛以外の何物でもない。

 遠くの寺で参拝者が鐘を打つ。これもたぶんランダム現象だろう。次はいつゴーンと鳴るだろうと気になりだすと、とても集中して仕事ができないなんてこともあるだろう。

 一見話が変わるが、近頃、車が人の列にぶつかって死傷者が出るという事故が相次いでいる。居眠り、考え事、テンカンなど、理由はいろいろ言われている。本当のところ、よくはわからない。が、とどのつまりは、運転者が今やっていること(つまり運転)に集中できていないということに行き着くのだろう。故意でないかぎりは……。

 衝突という重大事故にいたるその瞬間まで、加害者は自己の身体を伴って進行している現実そのものから意識をそらしているのだ。現実を離れた仮想空間の中に意識が漂っているのだ。人間存在の最も基本的要素である身体性を、大脳のみならず、反射にかかわる即自的神経器官すらが、忘れてしまっているのだ。端的に言えば、生物的には生きていても、それを包む現実空間を生きていないのだ。

 なぜこういう現象が多発するのか。考えてみると、いくつか思い当たる。

 一つは、現代性の象徴であるIT社会、インターネット社会には、一個の人間の中で本来統合されているべき身体と頭脳とを乖離させる作用がひそんでいるという事実。インターネット空間になじんでしまうと、仮想空間と現実空間の境界が曖昧になり、ことさら現実空間を意識しなくても日常生活が成立してしまうという、仮想性のこわさが表面化してくるのではなかろうか。そういう生活になれっこになると、いま目の前で起きている現実への身体的対処すら忘れてしまう危険性がある。まるで胡蝶の夢である。夢とうつつと、どちらが現実なのか区別がつかなくなるのだ。

 もう一つは、最近とみに気になることだが、テレビ番組におけるコマーシャルへの切り替えのタイミングである。ググググッと視聴者の気を引きつけ、「さあ次は?」とわれわれに最高度の期待と緊張をもたらした瞬間、パッとすべてを遮断してコマーシャルに移る。そのテクニックはますます巧みになっている。

 これはもちろん、コマーシャル中に別のチャンネルに切り替えられないための心理作戦であるのはわかりきっている。しかし、それにしても、あまりにも巧みで、異常だ。視聴者の心を手玉にとって小馬鹿にしているというか、残虐な爪で心をかきむしるというか、とにかくひどすぎる。

 この残忍なかき傷が、ひょっとすると、現代を生きるわれわれの精神状況に異常をもたらす要因の一つになっているのではないかとすら思うのである。感情のストレートな高まりがいきなり奈落に突き落とされ、目の前にまったく無関係な光景が流れるという経験をくり返し味わわされているうちに、人の精神は何かしら傷やひずみを蓄えるにちがいない。

 心に豊かな許容量をもつ人や弾力に富んでいる人なら、その衝撃も数秒にしておさまるだろうが、中には引っかかれた傷を癒しきれず、ひずみを蓄えてしまう人もいるに違いない。

 蓄えられたそのひずみが、いつともなしに苛々の原因になったり、あるときふっと集中力が途切れたりする要因になることもあるのではなかろうか。

 コマーシャルによる感情の流れの容赦ない切断は、ボディーブローのように静かに着実に人の心にひずみを蓄え、あるときふっとそれが重大事故を招くような精神不安定として顕現化するということは、ありえるのだと思う。

 周期性の悪用なのだ、これは。人はコマーシャルがすめばまた元の画面に戻り、先ほどの緊張の続きに再突入できることを知っている。だから、我慢してコマーシャルを見るのである。だが、緊張と高揚の瞬間を迎えようとした矢先、すべてを無に帰すような不連続な断絶が外部から強制的にもたらされては、人は心に傷を残さないはずがない。

 真剣に見ていた子どもの心は、突然行き場を失って、集中力を乱すだろう。落ち着いた子どもに育つことを阻害しないはずがない。

「さあ、鞍馬天狗の運命やいかに」

 で終わって次週に続くという番組とは、心にもたらす影響は似て非なのだ。正反対なのだ。

 周期性は、心やさしい期待をもたらすもののはず。周期性を逆手にとって、やわらかい心を爪でひっかくようなやり方は、私の感覚では尋常でない。

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