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2012年2月23日 |
ああ、ずいぶん長く更新していなかったものだ。
忙しかったものな、この間。
今日、とりあえず種々の仕事に段落をつけた。
メインの仕事は本を出すことだった。それも、これまで20年以上にわたって数えきれず書いてきた数学の本ではなく、いわば文芸書。
初めて自費出版という形で本を作ることにした。
つい先日、ようやく原稿がぼくの手を離れ、ゲラ組みの段階に移行し始めた。
一仕事終えた安堵にひたっている今なのだ。
といっても、出版は、春がめぐり、季節がことりと初夏に移ったころになる。
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2月3日の雪の日、わが家の庭より
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今日はまた、同時並行で進めていた数学の本のゲラ刷りの校正を終えた。
さらにまた今日、青色確定申告書を税務署に提出した。
税理士に依頼していたのをやめ、自分で書類を作るようになって今回が2度目。経理のことや、税金の仕組みも、自分の手で2年もやっているとわかってくる。
税体系はうまくできているものだなと、初心者なりに感心している。
ぼくの場合、年金の他に、ちょっとした不動産収入と原稿料と、二つの収入源がある。申告書類が不動産用と一般用の二種類あるため、種々の経費を二つの収入源にどう配分すると効率のよい節税になるかと、これまで頭を悩ませていた。ところが、とどのつまりはどうやっても結果は変わらないということに、2,3日前、ようやく気がついた。
まあそれが、「税体系はうまくできているな」の感想の元なのだ。
税金は個々の収入源にかかるのではなく、ぼくという個人にかかるもの、というのがその本質なのだが、プロなら当たり前のこの事実に、ぼくは2年かかってようやく気づいた。うまく仕組みがそのようにできている。
給与所得があった2年前までは収入源が3つあったことになるが、当時のぼくは税のことにはまったく無知で、税理士に任せっきりだったものだから、税金というのは給与から引かれ、それ以外からも引かれ、それらを合わせてぼくの税金なのだろうと、単純にイメージしていた。
実はそうではなかったわけだ。
今、William Saroyan という人の "The Human Comedy" という本を読んでいる。語学の勉強をかねて原書で読んでいるのだが、これが実におもしろい。Comedy
という言葉から察せられるおもしろさではなく、日本的と言ってもよいしっとりとした情緒で人生を描いている。それがおもしろい。
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4歳の孫が台湾で作ってくれた粘土のバースデーケーキ。6日前がぼくの誕生日だった。 |
そうそう、ぼくが本作りで最後の苦闘を重ねているとき、妻は台湾に五泊六日の旅に出た。このところ、たいてい旅行は二人で行くことにしているのだが、今回ぼくはあまりに忙しすぎ、留守番役に回ることにした。
娘夫婦と孫たちも一緒だったが、彼らのうち中国語が多少わかるのは娘だけ。他の者は「シェーシェー」と「ニーハオ」しか知らず、それでまあよくも6日間も向こうで過ごせたものよと、帰ってきてから様々なハプニングを聞くにつけ、思ったものだった。
また暇々に更新することにします。忙しくなると中断するかもしれませんが。
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2012年2月24日 |
昨日、"The Human Comedy" のことを書いた。
「日本的と言ってもよいしっとりとした情緒で人生を描いている」と書いた。
まだ読み切っているわけではないが、随所にそれは感じられる。
今日読んだ箇所から少し引用してみよう。
高校生のHomerが、夜はアルバイトで電報局の配達員をしている。妹が、夜食用にと母親が作った弁当を届けに来た。ところがHomerはすでにパイを2個買ってきていて、一人では全部食べきれない。Groganという年老いた局員に、弁当の一部を手伝ってもらった。そこでGroganが言う。
"Please thank your mother for me."
するとHomerは
"Oh, it's nothing."
Groganは
"No. It is something. Please thank her for me."
「母さんにお礼を言っといてくれ」
「えっ、たいしたことでもないのに」
「いや、たいしたことなんだ。だから母さんにお礼を言っといてくれ」
といったことになるのだろうが、"it's nothing"に、「何もありませんけど」と言って食事を勧める日本の習慣とどこか似たものを感じておもしろかった。
もう一つ。
勤勉なWillie Groganがなかなか休憩しようとしない。そこで局長のSpanglerが言う。
"Willie, go to Corbett's and have yourself a drink. Sure I know you
shouldn't drink, but I also know you like to drink and what a man likes
to do is sometimes more important than what he should do."
「コーベットの店で一杯飲んできたらどうだ。飲むべきじゃないと君が思っているのは知ってるよ、君が飲みたいと思っていることもね。したいことの方がすべきことより大事だってことも、人生にはあるんだ。」
といった意味だろうが、この最後のフレーズ、
"what a man likes to do is sometimes more important than what he
should do."
が、ぼくの心に強く響いた。
定年になって自由を得た今、これこそがぼくの生き方そのものだと、強く共鳴するものがあった。
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2012年2月26日 |
愛媛県美術館で行われている故宮博物館展を見た。
美術館友の会の会員証を見せると無料になったのが、まず驚きだった。多少は割引してくれるかな、というくらいの気持ちで見せたのに。
次に驚いたのは、人の多さ。公衆浴場の混雑ぶりを「芋を洗うような」とよく言うが、その言葉がぴったりなまでに、フロアに人があふれていた。
行列がいっこうに前へ進まず、一点一点を見るのに気が遠くなるような時間がかかる。もうまるで一昔前の国会の牛歩戦術だ。
それでも何とか一通り見た。
清朝における皇帝や皇后の日常生活をしのばせる品々が展示されていた。
贅を尽くしたきらびやかなものだ。
だが、どうも死んでいるな、これがぼくの実感だった。
紫禁城の奥深く、無数の宦官や女官に囲まれ、逼塞して萎縮した生活。
庶民には想像することすらできない贅沢品を手にしていても、どこか生気が感じられない。
宇宙が狭いのだ。
狭い宇宙における死んだ贅の数々の中で、ぼくの印象に残ったのは、ラストエンペラー溥儀の子供時代の書の練習帳だった。
これだけは生きていた。溥儀の命が感じられた。
溥儀が皇帝として紫禁城にいたのは五歳くらいまでだから、この書はおそらく退位後のものだろう。
辛亥革命で退位させられた後も、しばらくは紫禁城でささやかな宮廷生活を許されたはずで、その彼が少年時代に書いたものであろう。
宿帳のような形をした一種のノートに、びっしりと2cm角ほどの大きさの漢字が記されている。子供とは思えぬしっかりした書体だ。繊細で几帳面な性格が、その書体からうかがい知れる。
溥儀の人生は、われわれには想像もつかないほど波乱に富んでいる。
第一の人生とも言えるラストエンペラー時代のことは、『ラストエンペラー』という映画でよく知らていれるが、ぼくは十数年前、『紫禁城の黄昏』という、溥儀のイギリス人家庭教師が書いた本で読んだ。以来、溥儀が身近に感じられるようになった。
革命によって紫禁城を抜け出した幼い溥儀は頤和園に潜んだ。『紫禁城の黄昏』はそこまでの話だった。頤和園は、おそらく溥儀にとって初めて見る外の世界だったのではなかうか。
そこで見た広々とした庭に、彼は生涯消えることのない憧憬の念を抱いたのではなかろうか。晩年の彼が文史資料研究所に勤務しながら、同時に週に一、二度は植物園に出かけて庭師として働くようになった動機の一つは、幼い目に焼きついたあの庭園にあったのではないかと、ぼくはひそかに考えている。
溥儀の第二の人生は、満州国皇帝であった。自ら望んだ皇帝ではない。日本軍に担ぎ上げられ、形だけの皇帝になったのだ。
そして、敗戦後は長いシベリア捕囚の身となった。これが彼の第三の人生である。解放されたのは1959年。その間に厳しい思想訓練を受け、身も心も平民となった。
続いて中国での平民としての第四の人生が始まる。
第四の人生については、『わが夫、溥儀』で読んだ。1962年に結婚した妻の李淑賢が書いた本だ。読んだのは一年前。
李淑賢とは恋愛結婚である。愛もなくあてがわれたそれまでの后や夫人たちとはちがい、真剣な恋愛の末の結婚であった。
看護婦をしていた李淑賢とは病院で知り合い、溥儀の方が見初めた。以来、勤務を終えた夕方、わざわざバスに乗って市のはずれからはずれへ李淑賢を訪ね、愛を打ち明ける日々が続く。
こうして二人は愛し合うようになり、1962年に結婚した。そのとき溥儀はすでに五十代の半ばを越えている。結婚後も共働きであった。
溥儀にとっては初めての、愛ある家庭生活であった。
上にも述べたように、溥儀の勤務先は文史資料研究所であり、同時に植物園の庭師でもあった。清朝の内部事情に詳しいというのが、文史資料研究所に雇ってもらった理由であった。
『わが夫、溥儀』によっても、溥儀がいかに勤勉実直な人で、おごらず、過去の栄華を自慢したりせず、感覚が庶民的で、へりくだる人であったかかがわかる。
そして、彼の書が一級品であったことが書かれている。頼まれて、近所の人や訪ねてきた人に揮毫をすることもあったらしい。
彼は結婚5年後の1967年、肝臓がんで死んだ。
光緒帝の墓のそばに、ひっそりと小さな墓が作られて葬られた。
こんなことを知っていたものだから、今日、溥儀の少年時代の書を見て、何とも言えぬ感慨にひたったのだった。あの丸メガネの溥儀が、書の向こうからぼくを見つめているような気がした。
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