ピー、15歳半。おととい死んだ。天寿全うだ。柴犬っぽいメスの雑種だった。
夏以降、みるみる体力が弱り、こちらがしびれを切らすほどゆっくりにしか歩けなくなり、そのうち歩くことすらできなくなり、寝たきりになり、流動食となり、ついには水も飲めなくなり、「ウォン、ウォン」と苦しげに鳴いて訴えることもできなくなり、昏睡状態となり、最後は眠ったまま息を引き取った。自分の死にすら気づかない静かな往生だった。
生まれたのはおそらく1996年5月。乳離れして間もなく捨てられ、動物病院に拾われ、新しい飼いを待っていたところに、獣医学部の学生だった娘がたまたま見学に行ってもらってきたのがピーだ。わが家に来たのは8月。
以来15年あまり。実にユニークな犬だった。ピーと前後して、メリー、リョウ、マルタがやってきた。わが家はたちまち4匹の犬であふれた。その中で、ピーだけだった、犬でない犬は。
他の犬は飼い主に無心にじゃれてきた。尻尾を振ってすり寄ってきた。他愛なく寝転がり、腹を見せた。
ピーだけは違った。まるでヒトだった。ヒト科イヌ属だと信じ込んでいる犬だった。最初から最後まで、素直になつかなかった。じゃれてすり寄って来ることがなかった。いつでも数歩身を引いていた。抱かれることを嫌い、抱き上げると、身もだえしてあばれた。
ぼくや家内を飼い主と見ていないからではない。えさをくれたり、散歩に連れて行ってくれるのが誰なのか、もちろんちゃんとわかっている。
一言で言えば、気位が高いのだ。まるでその感性がヒトなのだ。えさ入れを目の前に置いてやっても、他の犬のように喜んですぐにがつがつ食べたりはしない。「別にほしくはないわよ」と目をそらし、まずは尻を向けて遠ざかる。ややあって、「ふん、じゃあ少しだけ味見してあげるわ」と、戻ってきてしぶしぶ食べ始める。
目つきも犬ではない。哲学者ぶっている。木の上のハトや、軒先のスズメを、いつまでも飽きることなく見上げている。アリの行列があれば、これもまた不思議そうにじっと見つめている。地と空と自分との、永遠の不可解を哲学している気分なのだ。
体面をとりつくろうことすら知っていた。今の今まで木の棒をくわえて遊んでいたのに、ぼくが近づくと、ぽいとそれを捨ててそしらぬ顔をする。「わたしはこんなくだらない物に夢中になるような犬ではないわよ」と、いかにも高貴ぶるのだ。
ようやく死の数日前、抱かれても素直に身をあずけ、口に注射器で水を流し込んでもらうことをもいやがらなくなった。
気位の高さが消えた。プライドや面子、自意識の強さが消えた。
家内が言っていた。「はじめてピーと心が通じ合うようになった。ピーが犬に戻った」と。
それから二日後、ピーは一人ひっそりと旅立っていった。先に旅立ったメリーとリョウとマルタの住む国に旅立っていった。
15年間、一日も欠かすことなく一緒に、あらゆる町筋、あらゆるあぜ道、あらゆる土手道を歩いたぼくと家内を残して、彼らはみんな旅立ってしまった。
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