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2011年10月5日 |
犬を連れて、あるいは家内と二人で、あるいは一人で少し遠くへと、毎日よく散歩する。
歩いていると、同好のウオーカーによく出会う。家の周辺、半径五百メートルばかりの範囲にかぎると、不思議なことに同じ時刻にほぼ同じ人に出会う。
別に時間を見計らっているつもりはないのだが、「さて散歩しようか」と体の奥に何かうごめきを感じはじめるのは、体内時計とでも言うべき無意識のスイッチによるものらしい。太陽のかげりとか、空気の微妙な肌合いの変化とか、鳥の様子の変化とか、机に向かっていたことによる疲労感とか、ともかく定量できぬほどのかすかな動きや変化に誘引されて、何かある気分がうごめきだし、「散歩の時間だよ」と意識を刺激するのであろう。
当然日没時刻が大きく影響するから、季節によって散歩の時間は異なる。しかし、短期的に見れば、不思議なほどそれは一定しているものらしい。いや、そうではないのかもしれない。時計の時間で見れば、日によってけっこうばらついている気がする。
にもかかわらず、一定しているものがあるのだ。それが「散歩情動」だ。
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呆けた彼岸花の緑色の芯
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「散歩情動」を誘引する要素は、案外どの人にも共通していると見えて、ぼくが散歩に出ようと心がうごめいたときには、Aさんも、Bさんも、やはり散歩に出ようと心がうごめくのだ。昨日はそれが6時だったものが、今日は5時半かもしれない。絶対的な時間にはばらつきがある。しかし、「散歩情動」の視点で見れば、毎日変わりはないのだ。
こうして、何とも不思議な現象が生じることになる。ぼくがある角を曲がって五十メートルばかり行くと、決まって向こうからAさんがやってくる。
「今日も来るかな」と緊張感が高まる。ひょっとして向こうもそうかもしれない。角を曲がってしばらく行くと、「あっ、やはり来た」となるのである。
もちろん空振りの日もある。散歩コースは日によって違うわけだから、当然だ。だがそれにしても、偶然とはいえない確率で、あるコースをとったときにはほぼ同じところでAさんに出会う。
Bさんについても同じだ。Bさんに出会うのは散歩コースの最終盤。車の通る大きな道をわが家に向かって歩いていると、病院の前あたりでBさんとすれ違う。「あっ、また」と、二人ともちょっと驚き、目で挨拶してすれ違う。
そういえば、数ヶ月前に読んだ本で、あれはベートーベンだったか、モーツァルトだったか、毎日決まって同じ時間に同じコースを散歩するものだから、町の人から、「彼が来たから…時だ」と時計代わりにされたという逸話があった。
朝の散歩は別として、夕刻の散歩情動は人間の体の仕組みともかかわって、なかなか不思議なもののようだ。
そして、散歩情動に導かれた散歩には、決まって何か新しい発見がある。毎日、新しい何かを見つける。
昨日は、枯れて呆けて色あせた彼岸花の芯に、みずみずしい緑色の玉ができているのを発見した。もちろん誰もが知っていることだろうが、ぼくにとっては「発見」だった。
この緑色の玉、よく見ると、真っ赤に花咲いているときからすでにその芯に存在している。それもまた、昨日知った。彼岸花のあの真っ赤な花弁の芯は緑色なのだ。
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彼岸花の葉
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彼岸花は茎がすっと数十センチ伸びて、その先に火炎のような花をつける。茎に葉はない。茎はまさに先端に花をつけるためだけに伸びるのだ。葉をつけるためではない。そして数日後、葉をつけることなく枯れていく。おそらく種を作るという仕事を秘めて……。
じゃあ、彼岸花に葉はないのか。いや、ある。葉が出る時節には葉だけを伸ばす。葉の時節と花の時節が食い違っているのだ。しかも、一見まったく別種のごとく様相を異にして、葉の時節には葉をつける。
花が枯れきってしまった後に、同じ茎からではなく、まったく別に葉だけを群生させるのだ。そして、冬の間を葉ですごす。その葉に冬の陽を浴びて球根を育てる。夏を迎える頃には葉はすっかり姿を消している。彼岸花の一年は不思議なものだ。
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2011年10月8日 |
退職して一年半。散歩しているとホントにいろんな人と出会い、すれ違う。
よほどでなければ立ち話はしない。「あっ、いつも会う人が来るな」。向こうから歩いてくる姿を、見るともなく視界に入れるだけ。そして、すれ違うだけ。小さく会釈して。
あるいは、反対側の歩道を、互いを視野の隅で確認しながらしばらく同じ向きに歩くだけ。
それだけのこと。ホントにそれだけのこと。だのにそれで、その人の人生が垣間見えるから不思議だ。想像にすぎないと言えば言えよう。でも、きっと真実の何かがそこに見えている。それはたしかだ。
仕事の場や公の場では見せない、人それぞれの裸の内面が、散歩の顔には表れるから。
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老犬を連れて散歩しているときには、ことさら周りがよく見える。
老犬とは、十五歳をすぎた雑種の中型犬ピーのこと。ここ一年ほど、めっきり老けて弱ってきた。去年までは先へ先へとサッサと歩いて、近所のがんセンターの生け垣の、腰くらいの高さの土塁の上にいとも簡単に飛び上がったもの。何百メートルも続く土塁の上を、ウバメガシの枝葉の張り出しをうまくよけながらずんずん歩くのが好きだった。枝が土塁を塞いでしまって、もはや先へは進めない地点に来ると、首をひねって一瞬考えた後、ひらりと身をひるがえして飛び降りたものだ。
今はもうそんな雄姿は夢のまた夢。歩くことすらいやがる。
昼間はひたすら眠っていて、人の気配がすると、億劫そうにかすかに目を開ける。
とはいえ、足腰が弱るにまかせてはおけないので、夕方になると必ず散歩に連れ出す。
こちらがいらいらするほどゆったりとしか歩けない。
そのゆったりさ故に、ぼくはさまざまな観察ができる。
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八月、セミの鈴なりを見つけたのは、ピーとの散歩の際だった。街路樹の桜の木からセミの鳴き声が聞こえ、その主が見つかるはずもなかろうがと思いつつも、ふと木を見上げてみた。ピーがゆっくりなものだから、ぼくもゆっくり探すことができる。
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関係ないけど、孫と集めたセミの抜け殻
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最初は幹と葉っぱしか見えなかった。セミのパターン認識が頭の中にできていないものだから、識別できるのは幹と葉っぱだけだった。
鳴き声がするあたりに目を凝らしてみる。そして、ついに発見した。「シーシーシーシー」という鳴き声と、羽が透明なことから、クマゼミだ。
その瞬間、セミ捕りに夢中になっていた子供のころに帰った。見つけた喜びに心が踊る。
じっと見つめているうちにセミの形状が頭の中にパターン化されたのか、識別眼がつき、次の瞬間、あっと驚いた。
何と、その一匹だけではない。幹にびっしりセミが貼りついている。
樹皮と同系色のため、はじめは気づかなかったが、気づいてみれば、ざっと数えて十数匹。見えない葉陰を含めれば、もっといるだろう。そのほとんどは太い幹にとまっている。密度は十センチあたり一匹といったところ。
あそこにも。あっ、ここにも。またあそこにも。
もう鈴なりだ。手の届く高さにもいる。
中に一匹、今まさにゆっくりと這い上っているのがいた。しかし、ほとんどは死んだように動かない。手でさわれば、さすがにおしっこでも振りかけて飛んで行くかと思いきや、触っても動かない。鳴きもしない。
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これはいったい何事かと、心臓が止まる思いがした。
交尾をすませたあとの力尽きた姿なのだろうか。セミは何年も何年も土の中ですごし、地上に出ればひと月もしないで死んでしまうという。繁殖相手を見つけて交尾するためだけの成虫期間らしい。
そういえば、ハチの中には、成虫になるやいなや交尾して、食べるという個体維持の努力すらしないで死んでいくものがいると、たしかファーブルの『昆虫記』で読んだ気がする。
そんな宿命を負ったセミの、いわば集団自決の現場なのだろうか、この木は。神秘の念に打たれた。
ひょっとして、その一本の桜の木だけが特殊なセミの墓場なのかとも思い、歩道に並んでいる桜を次々に点検してみた。
あっ、いたいた。どの桜にも鈴なりになっている。少ない木で七、八匹。多いのは二十匹ほど。そしてどれも決まって動かない。死んだようにじっとしている。触っても動かない。
こうなるとさすがに墓場とは思えない。考えられるのは、地中から出てきたばかりのセミが行儀よく並んでいるところか。でも夕方だ。ぼくの感覚では、セミは朝早く地中から出てくる。そう信じていた。
それに出てきたばかりのセミなら、近くに抜け殻があってもいいはず。それがない。
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あれから一月半、幻のように思い出すが、やはりあのセミたちは死の寸前だったのだと、今は考えている。
はたして交尾の相手はいたのだろうか。それもわからない。
木に貼りついたまま死んでいたのかもしれない。息はあっても、間近に死の運命を背負っていたのはたしかだろう。その証拠には、数日後、木の下にセミの死骸がいくつもころがっていた。ピーがその一つをうまそうに食ってしまった。多くはまだ木に止まっていた。
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セミとヒトと、同じ空間に棲んでいながら、まるで関わりなく生きている。それぞれの生活圏と行動原理を守って争わない。競合しないから、そのまま生きていける。
セミはひょっとして、ヒトの存在に気づくことなく生涯を終えるのではなかろうか。
ヒトもまた、セミの生活行動に気づくことなく、同じ町に同居している。あの激しい鳴き声をすら、「静けさや」と、ほとんど気にも止めず生きている。
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そのセミたちの実存性を眼前に引っ張り出してくれたのは、老犬ピーだった。「おいおいお前、そんなに急がなくてもいいだろう」と、ぼくにカタツムリのような歩きを教えてくれたのだ。
普通に歩いていたら、決して気づくことのなかったあのクマゼミの鈴なり。「生きてきてよかったよな」と、ピーはぼくにウインクしていたかもしれない。
散歩を通した人との出会いも、これと本質はちっとも変わらない。
せかせか生きていた現役時代には見ることのなかった世界を、今ぼくは見ている。これぞ退職者の特権か。
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2011年10月11日 |
キンモクセイよ
君は来てくれたね
ぼくに
年ごとの命のしるしを運ぶ
キンモクセイよ
君と近しくなって
もう五十五年
律儀なものだ、君は
あの秋の風と秋の雨の記憶とともに
ひとときぼくを
日常から連れ出す
ぼくの生が
ひたすら澄み透っていたあの頃
未来がわけもなく輝いていたあの頃
君は秋祭りの太鼓の音とともに
ぼくの髄に棲みついた
あれからぼくは
ずいぶんくたびれたよ
未来が食い破られ
夢の果実がぽとぽとと落ち
失望と落胆にあえぎ
地を這う苦痛に
顔までゆがみ
希望とは諦念のことだと
すり切れた過去が語るまでになった
それでも君は
変わらぬ甘い香りと
秋日に照る金色とで
郷愁をぼくに
鮮烈なむごさで
呼びもどす
先日、秋祭りが果て
君も果てた
金色の実は
輝きを失い
音もなく地に降った
そして、ああ、ふたたび
君はよみがえった
ぼくは信じていた
きっときっと
二度咲きの夢をぼくに見させてくれるに違いないと
君は帰ってきた
みずみずしく
神々しい金色の輝きをもって
清新に
陽光を受け
いっそうやわらかく
満面のほほえみで
ぼくのもとに帰ってきた
ああ、この匂い
届かぬ過去へと消え去ったと思った
この匂い
ぼくの鼻腔をふたたびくすぐる
この匂い
ぼくは信じていたよ
待っていたよ
期待すれば失望も大きいと
悲しい経験が告げていたが
それでもぼくは待っていたよ
キンモクセイ
郷愁に根を張る
キンモクセイ
ぼくの悲惨の全行程を知る
キンモクセイ
来年も
再来年も
ぼくは君を
あこがれ続けねばならないのか
待ち続けねばならないのか
一年の澱みから吐き出された
芥のごとき
不稔の種子とともに
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