自伝風エッセイ (20) 魚と真珠
2010年11月3日
 ぼくの時計が動き始めたのは、たしかに2歳1ヶ月と10日ばかりのときだ。それが特定できるというのも不思議なことだが、初動の瞬間に続く一年ばかりの記憶が模糊としているのも、不思議と言えば不思議。当然と言えば当然だ。

 途切れ途切れにいくつかの記憶はあるのだが、2歳のときと確証できない。互いの脈絡もない。それらについては追い追いと語ろう。

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 父は新しい仕事のあてのないまま下駄工場を去った。工場時代の蓄えは、新居の購入に消えてしまった。暮らしの支えは雀の涙ほどの退職金だけ。底をつくのは目に見えている。食うための仕事を何としても探さねばならなかった。

 とはいえ、父には、勤めるとか雇われるとか、そんな形の仕事は念頭にもなかった。勤めたという経験すら、一度もないのだ。

 兄の兼光との共同経営は、少なくとも父の目には雇われ仕事ではなかった。工場のあるじであった。兼光の死後、義姉の芳子が父のことを雇われ工場長とみなす ようになったのであり、それはたしかに事実を突いてもいたのだが、当初の兼光との約束では、父はあくまで主体的な共同経営者であった。

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 東一万の新居に引っ越してからの仕事探しにおいても、勤める口を探すという発想は父にはなかった。

 父がまず始めたのは、魚の行商であった。魚を扱った経験などまったくない父がいったいなぜ? と、ぼくには不思議でならないのだが、戦後の混乱がまだ収束しておらず、闇市なども横行していた時期だと思えば、納得もできる。

 誰もが皆、その日を生きるのに必死だったのだ。聞きかじったわずかな儲け話にも、藁をもつかむ思いでしがみついたのだ。朝鮮特需だの、それによる戦後の経済復興だのと、かつて歴史で習いはしたが、片田舎の父の暮らしには、まったく無縁な話であった。

 「父ちゃんは昔、自転車に魚を積んで行商みたいなことをやっとった」と、子供時代、何かの拍子に一度か二度、父の口からこぼれ出たことがある。夕食後のひととき、ほろ酔い気分で、兄やぼくにユーモアたっぷりにさまざまな思い出話をしてくれた父だ。

 だが、それにしては、この行商の話はイメージがぼやけている。たぶん父にとっても、語るに足りるほどの体験ではなかったのだろう。わずかな期間でやめてしまった仕事であったのかもしれない。

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 今考えてみると、魚を売り歩くためには、まず仕入れないといけない。仕入れ先は三津の朝市だ。それしかない。威勢のいいかけ声で名をとどろかせている三津の朝市。

 毎朝暗いうちに、父は三津浜まで買い付けに出かけていたのだろうか。片道10キロはある。街灯もほとんどない真っ暗な道だ。大変な距離だったろう。あるいは、利潤は下がっても、仲買人から買っていたのだろうか。

 いや、父はまちがいなく、明けやらぬ空のもと、自転車をこいで三津浜まで出かけていた。それを暗示する事実に、今はたと思い当たる。

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 ぼくが小学生だったころ、父は仕事のない日、自転車の荷台にぼくを乗せて三津浜によく出かけたものだ。かつて、三津は松山の海の玄関口だった。夏目漱石が着いたのも三津浜だったし、正岡子規が船出したのも三津浜だ。貨物輸送においても、漁港としても、繁栄を誇っていた。

 その後、高浜港が作られ、松山の玄関口の座を高浜に奪われはしたが、それでも三津浜は漁港であり、多くの航路の発着港であり続けた。

 父は、三津の港からしばらく海を眺め、漁船や貨物船で賑わう港界隈を抜けると、次には必ず渡し船に乗った。手こぎの小さな渡し船が入り江を横切っている。対岸に行くには便利だ。人も自転車も一緒に乗せてくれた。この渡しは、今もなお健在で、三津の風物詩となっている。

 三津からさらに、港山か梅津寺まで足を伸ばすこともあり、ときにはさらに高浜まで行った。

 三津浜に向かう途中、道を分かれて大可賀の海岸に向かうこともあった。大可賀は、防波堤の下がすぐ岩場になっていて、波に洗われる岩肌に、牡蛎がびっしり貼りついていた。小石で叩いてはがし、生のまま食べた。そのおいしかったことは、いまだに忘れられない。

 ぼくは今でも、牡蛎を食べて独特のあの香りと味を味わうと、必ずそこに大可賀の記憶がよみがえってくる。大可賀はぼくにとって、牡蛎の記憶の原風景である。

 今ではもう、あの大可賀の浜は埋め立てられて跡形もない。民家や工場が立ち並んでいる。海岸であったことにすら気づかない人が多い。だが、ぼくにはわかる。当時の印がかすかに残っている。牡蛎を食べたのはここだと、特定できるかすかな印が。

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 自転車で三津浜に出かけた当時の光景を思い出すたび、ずいぶん長い距離をよくもまあ何度も出かけたものよとか、あのころの父はよほど海が好きだったのだろ うとか、今の今までぼくはそんな風にしか考えたことがなかった。だが、今これを書いていて、はたと胸に突き当たるものがある。隠されていた真実の風が突然 ぼくに吹いてきたのを感じる。

 そうなのだ。三津浜への道は、行商時代の父が毎日通い慣れた道だったのだ。ぼくにとっては延々と遠い道のりに見えたあの道は、父にとっては通い慣れた道だったのだ。自転車に またがると、自然に足が向く道だったのだ。

 父は追憶の道を、ぼくを乗せて走っていたのだ。そうにちがいない。

 それに、今にして思えば、10キロなんて自転車で何ということもない距離ではないか。

 父が行商に汗を流していたのはせいぜい二、三ヶ月のこと。おそらく夏までだ。どこからか新しい話が舞い込み、そちらに乗り換えた。

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 その話とは、真珠の加工である。本物の真珠ではない。ガラス玉の模造真珠だ。模造真珠の玉を大量に仕入れ、それに糸を通してビーズを作る。まさに手内職の世界だ。

 だが、父はそれに、新しい工夫を凝らした。大きさも色彩もさまざまな玉を巧みにつなぎ、これまでの腕輪やネックレスとはひと味違った、新しい趣向の工芸品を作ったのだ。

 父のデザインをもとに、母がガラス玉に糸を通した。

 安さと新奇さが客の目を引き、問屋から次々に注文が舞い込んでくるようになった。二人三脚で商売は軌道に乗るかに見えた。

 だが、それはいっときの話だった。開いたかに見えた花は半年もすると、しぼんでしまった。あだ花であった。

 売れるとなれば当然まねをする者が現れる。売れたのは、特殊な技術ではない。単なるデザインだ。まねるのは容易である。せっかくの創意工夫も、コピー品を前に、価値を失った。

 こうして、花開くかに見えた模造真珠の加工も、ぼくが3歳になった頃には、つまり昭和26年3月頃には、すでに過去の話になっていた。

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 この苦い体験は、父に特許や実用新案に目を向けさせるきっかけとなった。それ以降、発明と特許が父の生涯にわたる夢となった。仕事の暇々に、父はいつも図面を引いたり、模型細工のようなものを作ったり壊したりしていた。ぼくが覚えている父の、最も父らしい姿である。

 ぼくの幼児期から、小学校、中学校時代を通して、父はいくつもの発明をし、いくつもの特許を取った。

 ようやく一つの特許が製品化し、それで生計を立てることができるようになったのは、ぼくの高校時代であった。長年の夢が叶ったと言える。そのとき、すでに父は51歳であった。

 それからの40年間の後半生は、その製品、および関連する特許製品の製造・販売に明け暮れることになった。

 40年のうちには、下駄工場時代と同様、何人もの従業員を雇い入れて賑やかに仕事をした時期もあれば、雇い人は職人一人だけという零細企業になった時期もあった。浮沈こもごもであった。だが父は、90歳になるまで夢を捨てず、創意工夫の手を休めることはなかった。

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 話が先行してしまったが、ぼくが2歳の頃、父がたずさわった仕事は魚の行商と、それに続く模造真珠の加工であった。いずれの仕事も、幼いぼくの記憶に具体的な場面をとどめてはいない。

 真珠を仕分けて入れるのに使っていた、細かく仕切られた底の浅い木の箱が、当時と後のぼくをつなぐ唯一の架け橋であった。その一つをもらって、ぼくは宝物入れにしていた。

 玄関土間で遊んでいたぼくに、真珠の箱を手にした母が六畳間から声をかけ、放り出したままのガラクタ類をその中に詰め込みながら言った。

 「こうやって、この中に入れて、しまっておくのよ」

 母はさらに、

 「母ちゃんは昔ね、これに真珠を入れて、飾り物を作る仕事をしていたのよ」

 と言った。ぼくが、父と母のやっていた真珠という仕事を知った、それが最初だった。そのときは、意味もわからず、ただ「真珠」、「飾り物」という言葉を耳に焼きつけただけではあっただろうが、この場面は今も鮮明に記憶されている。

 さまざまな状況から、それが3歳のときだったこともわかる。たぶん、4歳に近い3歳だ。以来、その箱がぼくの宝物入れになった。後にガラクタが増えて、もっと大きな箱をもらうことになるのではあるが……。

バーチャルな交わりへの危惧
2010年11月8日
 一昨日、公民館が主催する小学校区の文化祭に参加。

 大変な賑わいように唖然。田舎の交流力のすごさと熱気に、びっくり仰天だ。

 空き地では、朝から一日中、餅つき大会が行われていて、勇ましいかけ声が会場全体に響き渡っている。

 おばちゃんたちが作ったうどんやぜんざい、手作り食品や工芸品のバザー、絵や書道の展示会、子供たちやお年寄りの出し物、そして、囲碁や将棋の大会などなど、盛りだくさん。

 近所づきあいは、これまでもっぱら妻まかせだったぼくだけれど、リタイアした今、近所の人たちとの顔合わせも大事だろうと、囲碁大会に参加した。

 まあ言ってみれば、町内会デビューだ。

 20名ほどの参加者がいて、見たところ、ぼくが一番若い。

 楽友会とかいうサークルがあって、月一くらいで集まっては碁を打っているらしい。参加者のほとんどは、そのメンバー。新顔はぼくだけのようだった。

 A,B,Cの3ランクに分かれ、ぼくはAランクで出た。Aは5人による総当たり。対局した感触だと、三段から五段くらいの人たちか(自称六段という人もいるにはいたが)。

 まあ、自分で言うのも何だが、並みの五段に負けるとは思っていない。結果は4戦全勝。

 それはそうとして、勝ち負けとは別の次元で大いに楽しんだ。田舎の人特有のあたたかな人情、知らない人との新しい出会い、その上、心地よい疲労感、さらには優勝賞品まで。最高に楽しい一日だった。

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 こうした賑わいの中にいると、日本もまだまだ捨てたものじゃないなと、湧き上がる勢いに頼もしさを感じる。

 だけどひょっとして、都会からはこうした人間味あふれる勢いが失われつつあるのではなかろうか。

 たとえば、今はやりのスマートフォン。便利なことはわかるが、こうした間接媒体の大衆化は、人と人との直接のふれあいをますます脇に追いやり、バーチャルな交わりを真の交わりだと錯覚する若者を増殖させる結果になっていくのでは?

 気がついてみると、物理的には孤独。その寂しさを、ネットという得体の知れないバーチャルな媒体を通して癒している。そんなロボット化された新人間種族が増えていく気がしてならない。

自伝風エッセイ (21) 2歳の記憶 〜不思議な縁〜
2010年11月9日
 記憶の揺籃期、萌芽期。2歳というのはそういう時期らしい。孫を見ていてつくづく思う。

 自我はある。どんどん言葉を覚え、しゃべり、理解する。しかし、2歳の日々をはたして孫は、後の日にどこまで記憶にとどめているのだろう。記憶にかかわる 自我は、2歳時には、まだようやく芽生えたばかり。後になって思い出そうとしたとき、浮かんでくるのは、おそらく断片的なぼやけた記憶がほんの少々。

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 それを証しする小さな出来事があった。いま、孫は3歳と3ヶ月。

 つい先日のことだ。孫が小さいころから大事にしていたママゴトの小さな弁当箱を見て、そして、そのおかずが描かれた部分に穴が空いているのに気がついて、

 「これ、杏ちゃん(自分のことを杏ちゃんという)が赤ちゃんのとき空けたの?」

 と聞いた。たしかに孫が空けたのだ。ぼくが退職して間もない、桜の季節をすぎたころだった。ぼくにとっては、つい昨日のことと言いたいほどのわずかな過去だ。ぼくと遊んでいるうちに、孫がうっかり爪で引き裂いてしまったのだ。

 穴を空けてからも、何度も何度も孫はそれで遊んだ。穴に気づきもせず、あるいは気づいたとしても、不審がることもなく……。

 そして、先日、唐突に、大発見でもしたかのように、穴が空いていることに気づき、どうしてだろうと考えたのだ。孫には、半年前のあの引き裂いたときの記憶 はないらしい。穴が空いて、中のおかずの一部がなくなっている弁当箱を見て、不思議に思い、漠然と自分が赤ちゃんのときに空けたのではないかと、想像した のだ。

 ぼくにとっては不思議な不思議な体験だった。幼児の成長の微妙な不連続点に気づかされた瞬間だった。

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 3歳の子にとって、2歳までの出来事は夢の中も同然らしい。記憶が確立されるところまで、まだ自我が目覚めきっていないのだ。

 だが、ぼくが孫を見ている限り、2歳のころにはすでにちゃんと自我はあった。じいちゃん、ばあちゃんを認識し、それも父方の祖父母と母方の祖父母を区別 し、パパ、ママももちろん認識していた。ぼくの家にいるたくさんの犬の一匹一匹を区別して、それぞれを名前で呼ぶこともできた。小型犬の散歩など、一人で 平気でさせることができた。自分のしたいことを口に出して言い、してほしいことも言った。友達との遊びもでき、一人遊びもできた。

 だのに3歳になった現在と2歳のころとの間には、明瞭な一線が画されているのだ。いったいどこに線が引かれたのだろう。ぼくには皆目わからない。ぼくの目で見るかぎり、明らかに孫は連続的に成長してきた。決定的な不連続点に気づくことはなかった。

 孫のあの「赤ちゃんのときに空けたの?」という問いは、ぼくにとって衝撃的だった。孫は、2歳から3歳へと成長する過程で、たしかに明瞭な自我の質的転換 点を越えたのだ。周囲の大人が気づかないほどひっそりとさりげなく、孫はルビコン川を渡っていたのだ。その時点より前を、「赤ちゃんのとき」と言うしかな いほどに、明瞭な意識の飛躍を経験したのだ。ある時点を境として、ぼやけていた認識が、くっきりとした認識に変化したのだ。

 何という不思議。

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 ぼくにもそれがあったのだと思う。

 2歳の記憶はどこか温かく、おだやかで、霞がかかっていて、突拍子もなく、断片的で、いつも何かにくるまれている感じ。

 自我が独立しているわけではないから、記憶にストーリーがない。カンガルーの赤ちゃんが母親の袋からほんの気まぐれに顔をのぞかせて垣間見た世界、そんな感じなのだ。脈絡のない一瞬の光景、それが2歳の記憶なのだ。

 ぼくが幼いころ、わが家に愛媛大学の学生を何人か下宿させていたことがある。生活費の足しにと、母が始めたのだ。しかし、ある出来事に懲りて、母はわずか1年で学生下宿をやめることにした。

 すべては、後に母から聞かされた話である。

 学生を下宿させていたのがいつのことだったのか、はっきりとは聞かされた覚えがない。種々の記憶の断片をつなぎ合わせると、それはどうやらぼくが2歳のときらしい。

 その決定的証拠と思われるのは、学生が下宿していたころ、左右対称な二軒長屋のわが家の二階の廊下が仕切られておらず、つながっていたことである。

 ぼくが自覚的にわが家を認識するようになってからは、二軒長屋の東と西は、一階も二階も完全に仕切られて、行き来ができなくなっていた。二階の廊下の中央にはベニヤ板で壁が作られ、一階の土間にあった開き戸も、釘が打ちつけられて開かなくされていた。

 普段の生活において、わが家が二軒長屋の半分だと自覚することすら、ほとんどなかった気がする。

 ところがぼくには、不思議なことに、二階の廊下に仕切り壁がなかったころの記憶が一つだけあるのだ。

 西の棟の二階の八畳間に、白いワイシャツ姿の大人が二人座っていた。ぼくは、自由に行き来できる二階の廊下から、障子が開け放たれたその部屋を覗き見たの だった。二人もまたぼくを見た。視線が合った途端、ぼくは怖くなって、逃げ去るように廊下を走って、東側のわが家に戻ってきた。

 それだけの記憶である。

 その記憶に意味づけがなされたのは後のことだ。

 そもそも二軒長屋を買った父と母のもくろみは、東の棟に自分たちが住み、西の棟は賃貸しすることであった。しかし、すぐには借り手がつかなかったのであろう。

 愛媛大学が学生下宿を募集していると伝え聞いた母は、大学に出かけて下宿の登録をした。大学までは歩いて10分もかからない。地理的条件は悪くない。数日後には、早くも学生が二人紹介されてきた。

 話はとんとんと進み、西の棟の二階の八畳間を二人に相部屋で貸すことになった。

 上記のぼくの記憶は、二人が引っ越してきた直後のものに違いない。知らない人が二階に住むことになったと聞いたぼくは、きっと、こっそり覗き見に行ったのだ。二人はワイシャツをまくし上げていたように記憶するので、5月も半ばを過ぎたころのことだろう。

 3歳になると父はウズラの商売を始めていて、その頃にはすでに西の棟にも借り手がついていた。それはたしかなことである。西と東に隔てがなかったのはぼく が2歳のとき、しかも、その全期間というよりは、ほんのわずかな期間にすぎない。仕切りのない廊下を通って学生たちを見に行ったあの記憶は、まちがいなく 2歳のときのものだ。

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 だとすると、学生下宿についてのもう一つの記憶も、やはり2歳のときだと断定できる。母が学生を下宿させたのは一年間だけなのだから。

 そのころ母からは、「二階には上がったらいかんよ」と、口を酸っぱくして言われていた。東の棟の二階にも学生を入れたからだと、今になれば想像がつく。

 「上がったらいかんよ」と言われると上がってみたくなるのが子供心である。ある日ぼくはこっそりと階段を上がってみた。一段一段、音を立てないよう に上がった。上がりきったところに踊り場がある。その横がふすまで、開けると直ちに八畳間である。左右の棟とも、二階には八畳間が一つあるだけだった。

 ぼくはそっとふすまを開けた。部屋の真ん中に、男の人が一人、文机に向かっていた。おそらく本でも読んでいたのだろう。ランニングシャツと半ズボン姿だった。その人はぼくのことを見知らぬ風でもなさそうで、にこっとほほえむと、こっちにおいでと手招きした。

 そばまで行くと、その人はいきなりぼくを抱き上げ、ごろっと横になって腹の上で遊ばせてくれた。

 握り拳を目の前に突き出し、指を開けてみろという。ぼくは両方の手で小指を力一杯開こうとしたが、開かない。あきらめて手を離すと、指は自然にぱかっと開いた。あっと思って指をつかむと、再び指は固く閉じられ、もう決して開かない。

 そんな遊びに熱中していたとき、ぼくはふと、半開きになった押し入れの奥に新聞紙にくるまれた何かがあるのに気がついた。

 なんだろうと手を伸ばしてみた。

 「だめだめ、大事なものだから」

 ぼくはますます見たくなり、「見せて、見せて」をくり返した。そのうち、しかたがないという顔で、その人は新聞紙を開いてくれた。

 中から人形が出てきた。赤や青に彩色された、つやつや光る女の子の人形だった。

 「触っちゃいかんよ。見るだけ」

 目元が生きているようで、ぼくは食い入るように人形を見つめた。

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 記憶はそこまでだ。2歳の記憶にしては奇妙にも長いストーリーをもっている。

 だが、そのときも、その後も、ぼくは二階にいたその人が何者であったのか、まったく知ることがなかった。その日一度きりのこととて、顔を思い出すことすらできない。あの日以降、もはや二階に上がることもなかった。おそらく母からきつく叱られたのであろう。

 たった一度きりの断片的な記憶。だが、それは不思議にも、ぼくの脳裏に強く焼きついた記憶となった。

 それから十年ほどしたある日、母が話してくれた。

 「昔、学生さんを二階に下宿させていたことがあったのよ。いい人でね。礼儀も正しくて、よく勉強する人だった。だけどどうしたわけか、下宿代を払ってくれ なくてね。卒業までには払ってくれるものと思っていると、いつの間にかこっそりいなくなってしまったの。二階に上がってみたら、荷物もなくて、もぬけの 殻。夜逃げされたのよね。押し入れに一つ忘れ物があった。たしか瀬戸物の人形だったわ。売ってもいくらにもなりはしないと思ったけど、あの頃父ちゃん、仕 事がなくて苦しかったから、古道具屋さんに引き取ってもらって、いくらかのお金にしたのよ」

 母はその後、その人の実家にまで押しかけて行ったという。

 「お宅の息子さんの下宿代がたまったままなので、払ってください。」

 そう言ったというのだ。母は人に向かって自分の主張をするような人ではなかったから、その話をぼくはとても信じられない気持ちで聞いた。よほど切羽詰まっていたのだ。

 「だけど、結局は汽車賃の無駄になっただけ。あれに懲りて、学生下宿はやめてしまったの」

 その話を聞いたとき、ぼくは、昔のあの遠い記憶を思い出した。あの人がそうだったのだと合点した。

 西の棟でぼくが見かけた二人の下宿人は、おそらく西の棟に借り手がついた時点で出て行ったのであろう。あるいは西の棟の新しい借り手が、又貸しをしたのかもしれない。

 ともかく、夜逃げの話はこれで終わりになるはずだった。母の悲しい思い出で終わってしまうはずだった。ところが、そうはならなかったのである。まったくの偶然が、ぼくの前に新しい展開を見せた。

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 21世紀の幕が開けると間もなく、父が死に、やがて母も死んだ。父と母にからんだ幸も不幸も、喜びも涙も、すべてが闇の中に消えてしまった。残るのはた だ、ぼくの中のかすかな記憶だけ。下宿代の踏み倒しなどという遠い遠い出来事は、死に絶えたも同然の記憶になってしまった。

 ところがである。1年ばかり前、ぼくはある人の回想録を読んでいた。シベリア抑留に関する資料を読みあさっていたうちの1冊であった。

 次のような一文があった。

 「戦後の物も金もない時期に、母は父の復員を待ちながら、小さな駄菓子屋を開き、私を大学にやらせてくれた。4年生になった春、待ちに待った父がようやく シベリアから帰還した。しかし、さあこれからと思ったのも束の間、シベリアでの重労働がたたって父は帰らぬ人となった。母は以来病みがちとなり、私への仕 送りは絶えた。何とか卒業だけはしようと、アルバイトで食いつなぐことにした。安い下宿屋に移ったが、それでも下宿代はたまる一方だった。卒業を間近にし たある夜、進退窮まった私は、罪悪感にむしばまれながら、わずかばかりの荷物を風呂敷に包んで下宿を逃げ出した。」

 我が家でも昔こんなことがあったよなと、母の話を思い起こしながら、次を読んだとき、ぼくは「あっ」と声を上げた。

 「父が死んで間もないころ、裁縫の内職で母を助けていた姉が山道で足を滑らせて死んだ。小さいころから私をかわいがってくれたただ一人の姉だった。周囲に は、人生を悲観した自殺だと言う人もいたが、私は信じなかった。貧しさと病苦のただ中にいた母は、姉にまともな葬儀もしてやれなかった。私は姉が大事にし ていた陶器の人形を位牌代わりに引き取り、やがて独り立ちした暁には、ちゃんとした墓を建ててやろうと決意した。だが、下宿を逃げ出した際、押し入れの奥 にしまっていた人形を置き去りにしてしまった。それが今なお心残りでならない。」

 さらに、

 「下宿の奥さんには申し訳ないことをした。当時、ご主人には定職がなく、奥さんが幼い子供を育てながら、真珠で腕輪やネックレスを作る内職に精を出してい た。ほつれ髪のまま真珠台に向かっていた奥さんの悲しげな目元を今も忘れることはない。それでも、顔を合わせると、にこやかな笑顔を向けてくれるやさしい 奥さんだった。あの笑顔を思うにつけ、罪の意識はふくらむばかりとなり、後日、謝罪して返済しようと、当時の家を訪ねた。しかし、あの家はすでになく、別 人が管理するアパートに取って代わっていた。果たせなかった謝罪の思いがいまだに胸の奥につかえている。姉の形見の人形とともに、忘れることのできない青 春時代の一コマである。」

 読んでいるうちに、ぼくの目頭はきゅーっと熱くなり、涙が滝のようにあふれ出た。二階に上がって遊んでもらったあの日のことが、昨日のことのようによみがえってきた。そしてあの人形のえもいわれぬ色合いが。さらには、幼いぼくには見えなかった当時の父や母の生き様が。

 あれが2歳と半年ばかりのころのものであったことも、偶然手にしたこの回想録で証明された。人生の縁(えにし)とは、なんと不思議なものではなかろうか。

明日の朝、神様がいらっしゃるよ
2010年11月12日
 先日、叔母を訪ねたとき、

 「NHKのラジオ深夜便で流れている『明日の朝、神様がいらっしゃるよ』という歌、子供の声で、すごくかわいらしくて、いいのよね」

 と聞かされた。

 「私はもう歳で、録音することもできないから、Kちゃん、一度聞いてみて、録音したらいい。」

 とも。放送時間を尋ねると、

 「歌がかかるのは0時台か3時台」

 平気な顔で答える。まさしく深夜だ。「へえっ」、思わず叫んでしまう。

 「叔母さん、本当にそんな時間にラジオ聞いてるの?」

 そうだという。それも、相当に熱心な視聴者だ。番組の雑誌「ラジオ深夜便」の定期購読者でもある。86歳にして、まだまだ若い。

 その『明日の朝、神様がいらっしゃるよ』(岡本おさみ作詞、宮川彬良作曲)だが、なかなかぼくは聞けなくて、今日アマゾンでCDを注文した。10月下旬に発売になったものらしい。

 歌はまだ聞いていないが、歌詞だけは手元にある。いい歌詞だ。
明日の朝 神様がいらっしゃるよ
森の木立をぬけて注ぐ
光の道を通って

明日の朝 神様がいらっしゃるよ
遠い約束 果たすために
光の中へ もうすぐ
  「光」、これはキリスト教においては、宇宙の始まりであり、生命の源であり、キリストそのものである。

 創世記には、神による天地創造の第一日目の仕事として、
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
  とある。また、ヨハネによる福音書には、
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
 とも。神が約束された救いを、光のイメージを通して見る。これは信仰というより、一つの体験であろう。

 私にもその体験がある。十年あまり前、死の縁をさまよう重度の病に陥ったときのこと。生と死の境にあって、耐え難い苦痛を味わっていたとき、ベッドに横た わる私の目の前にほのかな光の輪が現れ、私の苦しみをあるがままに、ともに受け止めてくれた。私はそれによってどれだけ癒され、生きる力を与えられたかし れない。
苦しみはもうない
悲しみはもうない
ロバを連れて 迎えに行こう
 ロバは、キリストが受難を予知しながら、エルサレムへの最後の道をたどったとき、弟子たちに命じて用意させた乗り物である。

 その意味で、ロバはキリストの受難の象徴であり、同時に、受難を通してわれわれの罪をあがない、われわれに永遠の救いを約束された、その救いの象徴でもある。

 苦しみも、悲しみも、それによって取り除かれるのである。
明日の朝 神様がいらっしゃるよ
愛を汚した罪人たちに
剣の裁きを下しに
  ああ、何と神の愛は過酷なものか。

 マタイによる福音書に、
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
 とある。

 途中の数節を省略し、最後から2節目は
明日の朝 神様がいらっしゃるよ
涙の跡を癒すために
血が流れた草原に
血が流れた草原に
 「血が流れた草原」とは、何と生々しい表現だろう。ぬるっとした血糊の温みすら感じられる。「剣の裁き」に呼応しているのだろうか。あるいは、現実の人間世界の愛なき無情さを象徴しているのだろうか。

 人の世の無情をも超越して、神はわれわれに愛をもたらしてくれる。
ロバを連れて 迎えに行こう
風が走る 草原に
 心地よい終章である。

がんばってる? 菅直人さん
2010年11月13日
 昨年夏のあの民主党大躍進と政権交代。国民の期待を一身に背負って成立した内閣。

 あの燃え上がった火は、いったいどこへ消えてしまったのだろう。

 やることなすこと、後手後手。そして決断の先延ばし。ずるずると何もしないまま、あてどなく漂う日本国政。

 ぼくだけではないだろう。誰もが感じている失望感と先行き不安。

 かといって、自民党政権に戻すわけにもいかない。まとわりつく利権集団によってブクブクとふくれあがり、一般庶民との間に分厚い壁を作ってきた自民党に、今さら戻ってもらうことはできない。

 じゃあ、何を頼ればよいのだ。それがないのが、今の大多数の国民の苛立ちであり、無力感の源泉となっている。

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 ぼくは個人的には、社民党、共産党に期待する。利権によるしがらみをもたず、何者にも気兼ねせず、誰の傀儡にもならず、正義だと思う主張を展開できるのは、この2党くらい。

 しかし、いかんせん、勢力が弱く、政権を動かす可能性はない。

 やはり、今のぼくにとって、真に頼れる政権担当者はいないと言わざるをえない。

 実際のところ、どの政党であろうと、政権をとると、政府組織・官僚・経済界・外交という実に重たい桎梏に手足を縛られてしまう。身軽だった時代の飄々とした理想論は、現実の桎梏の中で窒息させられるのが落ちだ。今の民主党がまさにそれだろう。

 「国民の期待、標準的国民の家計」、これも本来は、政権に対する重たい桎梏のはず。だが、何せこれは一丸となってぶつかる塊をなしていない。個々ばらばらなのだ。だから、政権を縛る桎梏としては最も軽いものとならざるをえない。

 民主党はたしかに多少、そこに目を向けて舵切りをしようとはしている。だが、「国民」というのは、結束は弱くとも巨大な集団だ。本気で手をさしのべようとすると巨額の費用がかかる。痛し痒しの板挟みで、生ぬるい政策にならざるをえない。

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 鳩山さんは、普天間基地の問題で沈没した。明瞭な対案をもたないまま口約束が先行し、国民の大多数を納得させられる決断を下せずに、結局は約束の方を反古にせざるをえなかった。

 強力な決断と、それに沿った強力な政策推進の力、そのどちらもが鳩山さんには欠けていた。

 菅さんはどうか。「新しい」という期待だけで成立した菅内閣だったが、決断力のなさでは鳩山さんに決して引けをとらない。いや、その上かもしれない。

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 では、どうして2代も続けてそうなるのか。理由を考えてみた。

(1) 勉強不足。指導者たるべき、政治と政策に対する勉強ができていない。勉強に裏づけられた個人としての力量が不足しているから、周囲の助言に頼らざるをえなくなる。いきおい、最終決断を後回しにせざるをえなくなる。

(2) 強者への遠慮と気兼ね。強者とは、もちろん小沢一郎だ。菅内閣成立時には、一応勝利者の勢いで、「脱小沢」っぽさを演出してはみたものの、根本的には小沢という存在がトラウマになっているのは誰の目にも明らかだ。しかも、相当根深いトラウマだ。面と向かってものも言えないほどの。
これが政権運営を片肺飛行に陥らせ、思い切った手を打てなくさせている。

(3) 空気を読みすぎ。こちらを立てればあちらが立たないのは世の常。それをすべて立てようとして、さまざまな空気を読みすぎ、結局は、対策が後手に回る。
「自分の意見」、「自分の決断」というのが、菅さんにも鳩山さんにも見られない。空気が熟成して、先行きが見えてくるのをいつまでも待っている、そんな感じだ。

(4) 難問が立て続けに持ち上がった。勉強不足、力量不足のところへもってきて、普天間、尖閣問題、北方領土問題、 円高問題、ビデオ流出問題、小沢問題等々、一つを解決するのさえ大変な問題が立て続けに出現し、もうどうにもならないお手上げ状態になっている。菅さんの 頭はほとんど崩壊状態にあるのではなかろうか。
冷静に考える時間的ゆとりすら与えられず、目の前の処理に追われている。そうなれば、あれほど独立したいと願っていた官僚の力に対し、独立どころか「教えて、ねえ、早く早く」と乞い願うしか手がないことになる。

 まあともあれ、菅さんに、「ああもう、いやになった。や〜めた」と、自民党末期政権の誰かさんのように、尻をまくって退陣されても困る。ブレーンを固めて、集中的に勉強しつつ、適切な判断と決断のできる力をつけてほしいと、ひたすら願うしかない。

君の名は
2010年11月14日
 今日、松山市映画祭で、岸恵子の『君の名は』と『おとうと』を見た。

 『君の名は』

 何と懐かしい響きだろう。この言葉を聞くだけで、ぼくの胸は高鳴る。

 幼いころラジオからしょっちゅう流れてきた主題歌は、すっかり耳にこびりついて、ぼく自身の一部に同化している。

 今日、映画の冒頭でいきなりその曲が流れ、ストーリーが始まらないうちから、泣けてしまった。

 ラジオは、菊田和夫の脚本で、1952年4月から丸2年間続いたという。毎週木曜日、夜8時半から9時まで。

 「放送が始まると、銭湯が空になる」とは、当時の世相を象徴する言葉だ。

 放送されていた2年間は、ぼくにとっては、今でいう幼稚園年中・年長組の2年間に相当する(ただし、ぼくは幼稚園には通っていないのだが、……)。

 まだ幼かったから、ラジオを聞いてストーリーを楽しむなんてことはできなかったのだが、父と母が、

 「今度はどうなるんだろう」

 「二人は会えるんだろうか」

 などと、まるで我がことのように「君の名は」の世界に没入しているのを、ぼくはそばで見ていた。

 考えてみると、『君の名は』を懐かしいと言っておきながら、ストーリーを知ったのは、今日が初めてだ。映画を見たのも初めて。

 何だか、当時の父と母の世界を、半世紀も過ぎてから追体験したようで、、それだけでも胸が熱くなる。父と母が夢中になっていた話はこれだったのかと。

 話は、東京大空襲の火の海の中で偶然知り合った二人が、数寄屋橋で別れ、「もし生きていたら、半年後にまたここで会おう」と約束するところから始まる。

 話は、東京だけでなく、佐渡、北海道、九州など、全国を転々とする。それで思い出した。あのころ父が、

 「こうやって全国各地に話を移して、みんなの興味を引こうとしとるんじゃ。今度は四国にも来るかもしれんぞ」

 そんなことを母に話しているのを聞いたことがある。すっかり忘れていたが、今突然思い出した。

 映画は3部作で、その第一部は1953年に作られたというから、ラジオ放送がまだ継続しているうちから、ラジオを追いかけるように映画化されたことになる。『君の名は』がいかに全国の庶民を熱狂させていたかが、ここからもわかる。

 映画を見ていて驚いたことの一つは、岸恵子が、あの独特のエキゾチックな顔かたちとは打って変わって、映画の中では純日本的な美女だったということ。

 岸恵子にとって、『君の名は』はデビュー作。これで一躍大スターに跳ね上がったのだが、元々の顔かたちにはあのエキゾチックさは微塵もない。可憐で悲しげな、魅力あふれる日本美人だ。

 「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の哀しさよ」

 これは、番組の冒頭で毎回流れていた台詞なのだが、映画を見て、この言葉が『君の名は』の全編を底流する主題であることを知った。

 二人は、再会したり別たれたりを何度も繰り返す中で、その都度、「もう忘れてしまおう」と誓うのだ。だが、忘れ得ずして忘却を誓う心は哀しい。その哀しさが、ふたたび二人を引き寄せる。

 それが全編を通して何度となく繰り返され、いよいよ最後には、二人を引き離す要因がすべて掻き消えて、永久の愛が二人を包む。ハッピーエンドである。

 だが、それはハッピーエンドであると同時に、新たな悲劇の始まりなのかもしれない。物語はその余韻の中に終焉する。

 最後に、『君の名は』の主題歌の歌詞を紹介しておこう。菊田和夫の作詞である。
君の名はと たずねし人あり
その人の 名も知らず
今日砂山に ただひとり来て
浜昼顔に きいてみる

夜霧の街 思い出の橋よ
すぎた日の あの夜が
ただなんとなく 胸にしみじみ
東京恋しや 忘れられぬ

海のはてに 満月が出たよ
浜木綿(はまゆう)の 花の香に
海女(あま)は真珠の 涙ほろほろ
夜の汽笛が かなしいか
 長くなったので、「おとうと」については、ここでは省略する。これもいい映画だった。

超人性
2010年11月14日
 井原西鶴という人。「好色一代男」などで有名だが、若い頃はプロの俳諧師。

 といっても、同世代の俳人である芭蕉のわび・さびなどとは比較のしようもない、世俗的で軽々な句しか残していないというのだが……。

 すごいのは、大矢数(おおやかず)という、一種の催し。

 寺の境内かどこかに数千人の聴衆を集めて、一日24時間ぶっ通しで、4000句の俳句を詠んだという。

 一人で次々に浮かんでくる句を詠み上げ、それを何人もの控えの速記者が書き記していくのである。

 単純に計算して、20秒に1句をひねり出さないといけない。これはもう言葉の速射砲だ。24時間に4000発を撃つ速射砲。

 当時はこうした独吟での一日大矢数を競う趣向があったようで、最初西鶴が1000句を詠んだ。さらに自ら1500句に記録を伸ばす。対向して、1600句の記録が生まれ、さらに3000句という破格の記録が作られた。

 負けじと西鶴が4000句に挑戦したのである。これはもう後続の意気をくじく記録であった。

 しかも、4000句の中に、一句として駄作、凡作のないことを、西鶴自ら誇らかに自負している。まあ、西鶴は大変な自信家、自慢家であったのだ。彼の言葉をそのまま信じる人はいないようなのだが……。
 ついでにいえば、競争者をけなす文章力も大変なものであった。当時は、俳諧師同士、激しい言葉でけなし合うのが常であった。

 要するに、17世紀後半というその時代、文学性、芸術性などは、二の次であった。俳諧はまさに興業だった。見せ物であった。

 一人芭蕉のみが、芸術性を追求し、価値あるものを後世に残した。

 それにしても、一日4000句には参ってしまう。体力、知力、気力、集中力、即興力、あらゆる人間力を総合して発揮しないと、とても作れる記録ではない。

 西鶴さん、すごい!  (「超人を超える」 に続く)

自伝風エッセイ (22) 鐘の鳴る丘
2010年11月16日
 先日見た映画『君の名は』。その原作とも言えるラジオ放送は、1952年4月から1954年3月まで、丸2年間続いた。空前絶後の国民的大ヒット番組であった。

 放送が流されていた2年間は、いま思うと、ぼくの4歳と5歳の2年間だ。今風に言えば、幼稚園年中組と年長組。

 父と母が熱心に聞いていたそばにぼくもいて、話の中身などわかりはしないが、一緒に場の雰囲気を楽しんでいた気がする。覚えているのは主題歌(の一部)と、たしか番組の冒頭に流れていたと思われるナレーションくらいだ。

 「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の哀しさよ」

 独特の抑揚を押さえた渋みのある声が、まるでお経か呪文ででもあるかのように、意味から切り離された言葉のかたまりとなって、ぼくの記憶に染みついた。

 ラジオが一家団欒を取りもっていたころのわが家の茶の間の風景とともに、すべてが懐かしく思い出される。

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 『君の名は』を思い起こすと、古い古い記憶の中から、もう一つ『鐘の鳴る丘』が浮かんでくる。『君の名は』が大人のメロドラマであるのに対して、『鐘の鳴る丘』は子供向けの楽しいドラマだった。

 といっても、ぼくの記憶に残るのはやはり主題歌のみ。焼け跡に残された戦災孤児たちと、彼らのための施設を作った復員兵士の物語であることを知ったのは、後のことだ。

 『鐘の鳴る丘』の主題歌は、誰でも歌える明るいメロディーで、歌詞もわかりやすい。ラジオから流れてくるそれを聞いて、幼いぼくもたちまち覚えてしまった。

 『鐘の鳴る丘』につながるぼくの記憶は、7歳年上の兄がよくラジオで聞いていたこと。そのラジオから流れてくる主題歌がとても明るく、心地よくて、一、二度聞いた後には、もう覚えて歌っていたこと。そして、ラジオを聞いているとき、ふと母がぼくに言った次の言葉。

 「『鐘の鳴る丘』は、Kちゃんがまだ生まれてなかったころから兄ちゃんが大好きで、毎日聞いていたのよ」

 そう、母はそのとき、そんな風に言ったのだ。いま思い出した。それを聞いたとき、ぼくの心は一瞬、不可解な淀みに落ち込んだ。「生まれる前」という不可思 議な世界に触れた、おそらくそれは最初の体験だったのかもしれない。暗い暗いトンネルの奥のような得体の知れない闇がぼくの前に立ちふさがった。

 とらえようのない神秘の矢が、心の奥にちくりと刺さった感覚でもあった。そのかすかな痛みが、ぼくの心を暫時震わせた。

 一瞬の体験である。次の瞬間には、ぼくはもうすっかり立ち直っていた。痛みもケロッと忘れてしまった。

 心の奥にふっとよぎったかすかな体験は、長く長く記憶の底に沈み込んでいた。死滅していたと言ってもよい。想起するきっかけがなければ、埋もれて朽ち果てたまま、ぼくは最後の時を迎えることになったのだろう。

 『君の名は』の連想で、ふと『鐘の鳴る丘』を思い出したのがきっかけで、今、これを書きつつ、唐突にもこの瞬間、思い出したのである。不思議なことだ。

 一瞬のうちに通り過ぎたかすかな傷の痛みが、半世紀にあまる歳月を経た後、よみがえったのである。人の記憶システムの何という摩訶不思議。

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 それがいったい何歳のときの体験なのか、ぼくには見当がつかない。いや、思い出した瞬間には、見当をつけることができなかった。そこで、調べてみた。そしてわかった。結果はなんと二歳のときであった。

 これもまた何という偶然だろう。このところずっとぼくは、二歳のときの記憶で残されているものはないかと、洗いざらい探し出そうと試みていたのだ。そのぼくにとってすら、今知ったこの事実は、まったく予期していなかったものであった。

 これが二歳のときの記憶なら、二歳というのも捨てたものではない。心の働きはもう始まっているではないか。正直、そんな気持ちになる。

 二歳と断言できる根拠は何か。それは、『鐘の鳴る丘』が放送されていた時期である。調べてみると、1947年7月に放送が始まり、1950年12月まで続いたという。ロングランである。夕方の、子供が聞きやすい時間帯に、ほぼ毎日放送されていた。

 兄がラジオを聞いているそばでぼくも聞いていたのは、場面の記憶から、明らかに東一万町の家である。茶の間のラジオの前だ。父たちが工場を去って、東一万町に引っ越したのは、1950年3月末。ぼくが2歳になった直後である。

 証拠はこれで十分である。

 母がさりげなくぼくに語った上の場面は、しっとりと心地よい季節であった気もするので、おそらく秋だろう。となると、ぼくが2歳半のころ。

 2歳半のその日、「生まれる前」という、実に不可解で得体の知れない世界をぼくは垣間見たのであった。大仰に言うと、神秘の縁を覗いた恐怖。そのかすかな 恐れに心が震えたことが、その場面をぼくに記憶させたのであった。この恐れの感覚は60年という歳月を経ても生き残っていた。

 不思議としか言いようがない。

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 最後に、歌っていると懐かしくて涙が出そうになる『鐘の鳴る丘』の主題歌を、以下に記しておこう。少なくとも一番の大部分を、ぼくはこの歳になっても、しっかりと覚えていた。
緑の丘の 赤い屋根
とんがり帽子の 時計台(とけえだい、と歌っていた)
鐘が鳴ります キンコンカン
メエメエ仔山羊も 鳴いてます
風がそよそよ 丘の家
黄色いお窓は おいらの家よ

緑の丘の 麦畑
おいらが一人で いる時に
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は 父母の
元気でいろよと いう声よ
口笛吹いて おいらは元気

とんがり帽子の 時計台
夜になったら 星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
おいらはかえる 屋根の下
父さん母さん いないけど
丘のあの窓 おいらの家よ

おやすみなさい 空の星
おやすみなさい 仲間たち
鐘が鳴ります キンコンカン
昨日にまさる 今日よりも
あしたはもっと しあわせに
みんな仲よく おやすみなさい

超人を超える
2010年11月16日
画像

 先日、「超人性」 で、一日4000句と書き、もはや乗り越えられない記録、と書いたのだが、調べてみると、西鶴はその後、自ら記録を更新していることを知った。

 一日23500句という、とてつもない記録を作ったのだ。

 本当だろうかと、疑いの目で見てしまうが、大観衆を前にした興業で、まちがいはない。芭蕉の弟子である其角も、そのときたまたま江戸から上方に出て来ていて、観衆の一人として見物したというから、信憑性はある。

 計算してみると、3.6秒に1句。それを下回ると、24時間で23500句には到達しない。
 それを西鶴という人は、大観衆の前で本当にやったのだ。

 4000句の場合は、速記者が何人も控えていて、交代で速記することによって、とにもかくにも、生み出された句はすべて記録された。そして、後に出版されさえした。

 しかし、23500句の場合には、さすがに速記者をつけることも不可能で、ただひたすら数え上げる人がついていただけだという。
 作られた句は、したがって記録されていない。

 本当に句の体裁をなしていたのかどうかも、少々怪しい。そもそも、すべてを正確に聞き取ることのできた人ははたしていたのだろうか。それすらわからない。芸術性などははじめから度外視だろう。

 機械人間のように、唇が24時間止まることなく動き続けた。確かなのはそれだけだ。

 それにしても、こんなことが天下を湧かせる見せ物になったというのも、呑気と言えば呑気である。

 日本の伝統芸術の中に、このような趣向がかつてあったということが、ぼくには愉快でたまらない。

悲しき地球儀
2010年11月18日
 地球儀。

 たいていの家庭に一個はありそう。小学生の子供に学習用に買ってやる親が多いだろうから。

 でも、買ってはみても、子供も親も、地球儀って、あまり見るものではない。見るというか、使うというか、とにかくあまり利用するものではない。

 部屋の片隅で埃をかぶって忘れられているケースの方が多そうだ。

 なぜそういうことになるのだろう。

【地球儀が忘れ去られる理由】
(1) 学習用といっても、学習に使う機会が限定されていて、永続性がない。
地球儀は、地球の自転や公転の様子、その結果としての日照時間や季節を理解させるのが主要目的であり、そのための仕掛けが、地球儀の基本構造をなしている。
ところが、その目的は、買ってもらった当初の物珍しさで触ったり、回転させたりしているうちに、早くも果たされてしまうのが普通。永続的な利用価値に乏しいのだ。

(2) 地図としての利用価値が希薄。
地球儀上の地図は、国名と主要都市を載せている程度で、地図本来の利用価値をほとんどもたない。だから、人は、地図を調べるとき、平面的な地図帳を開くのであって、地球儀で調べる人はいない。

 こういうことだと、地球儀を一家に一個持つ必要などなくなってしまいそうだ。小学生の子供に地球儀を買ってやるのは、意味のない慣習にすぎないのだろうか。

 実際、そうかもしれない。しかし、地球儀には、考えてみればさまざまな効能がある。次にそれを考えてみよう。

【地球儀の効能】
<地球単体として考えたとき>
(1) 地球が丸いことを実感できる。
いまは人工衛星から撮った写真や映像をいつでも見られる時代だから、地球の丸さを地球儀で体感する必要はないのかもしれない。しかし、歴史的にはこれは重要な効能であったはず。

(2) 日本(自分の国)が、地球上のどこにあるのかを客観的に知ることができる。
地球儀は、平面的な地図で見るのとは決定的に違った視点をわれわれに与えてくれる。これは子供の成長過程で重要な意味をもつだろう。
歴史的にいえば、たとえば幕末の時代、日本人が鎖国性を脱却するために、地球儀が果たした役割は大きかったはず(一部の指導者への刺激剤になったにすぎないのかもしれないが)。

(3) 地球儀(球面地図)は、平面地図では表せない精度をもつ。
地球という球面は、局所的には平面で近似できるから、通常は平面地図で十分である。しかも、近似の精度を上げるために、平面地図にもさまざまな工夫がなされている。
しかし、球面を平面上に正確に表現するのは本質的に不可能な上に、北を上向きにとるという習慣によって、平面地図では、特に高緯度地方の地理的関係が、実際を反映しないものになりがちである。
たとえば、平面地図だけで北欧、ロシア、アラスカ、カナダ、グリーランドなどの位置関係をイメージしている人が、地球儀で北極海地域を見るとあっと驚くことになる。
その意味で、次が言える。

(4) 各国の大局的な位置関係や、国土の大きさなどを知るには、地球儀は不可欠である。

(5) 2地点を結ぶ最短経路を知ることができる。
平面地図上で2地点を直線で結んでも、それはたいていの場合、実際の最短経路にはならない。地球という球面上での最短経路(測地線、あるいは大円経路という)を知るには、地球儀が一番である。
たとえば、東京・シアトル間の飛行経路が、ほとんどアリューシャン列島に沿っていることなど、地球儀を見ないと理解しがたい。

<宇宙の中での地球を考えたとき>
(1) 公転面に対する自転軸の傾きを表現することが、地球儀の本質的構造。
実際に地球儀を手にして、回転させてみながら、太陽との位置関係を想像すれば、季節が生じる理由や、日の出・日の入時刻・太陽の南中高度の変化の仕組みな どが理解できる。部屋を真っ暗にして、仮想的な太陽の位置に電球を置いてみれば、冬至・夏至・春分・秋分などの意味を、実験的に知ることもできる(できる はずだが、本当にやってみる人は滅多にない)。

(2) 宇宙空間における地球存在を実感できる。
その気になって地球儀を眺めていると、まるで幽体離脱のように、自分をも含む地球という存在を、宇宙空間に漂う一個のはかない物体として客観視することができる。
自分を客観視することは、成長の重要な証しとなると思われるが、上のような規模での客観視の体験も悪くはないだろう。
満月を見上げながら、宇宙空間に浮かんでいる月という存在をまざまざと体感していると、その対極にある地球の宇宙空間の中での浮遊性が、怖いほど実感できることがある。まあ、それに似た体験が地球儀によって可能である。

 以上、地球儀の効能をいろいろ考えてきたが、やはり、日常性、永続性という観点から見ると、地球儀はやはり埃をかぶる宿命をもつという気がしてならない。

 年に一度、「地球儀の日」とでもいう日を作って、みんなで地球儀を眺めてわいわい言うというのが、せめてもの地球儀への供養ではなかろうか。

自伝風エッセー (23) 地球儀の歌
2010年11月18日
 地球儀には懐かしい思い出がある。

 小学4年生のとき。

 ぼくが母に「地球儀がほしい」と言ったのだろうか、それとも母が「地球儀を買ってあげよう」と言ったのだろうか。おそらく前者だ。家には経済的なゆとりなどなかったのだから。

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 わが家の近所は、ほとんどが職人の家で、地球儀など置いている家はなかった。しかし、数軒先に、父親が学校の先生をしている家があって、そこにぼくと同級の子供と、2つ上の子供がいた。この家だけは、いかにも子供に手をかけているなと、ぼくらにもありありとわかった。

 二人ともぼくらの遊び仲間で、一緒に鬼ごっこやかくれんぼをしていた。当時、パッチン(東京風に言えばメンコ)というのが流行っていて、その家の前の空き地がちょうどいいパッチンの遊び場所であった。また、空き地に釘で土俵を引き、よく相撲を取ったものだ。

 こうして常々一緒に遊んでいるのだが、ぼくらは二人のことを、「ちょっと違う」と感じずにはいられなかった。

 遊んでいるとき、二人は突然、母親から「さあ、時間よ」と声をかけられることがあり、すると家に飛んで入って、何やら赤い表紙の大きな本を抱えて出てくると、そそくさとぼくらの間を抜けてどこかに駆けていくのだった。

 ピアノを習いに行くのだと、やがてぼくらは知った。抱えていたのは楽譜であった。ぼくらは呆然と見送った。まるで異世界に去っていく二人を見るように。

 また、夏の日、ぼくらがその空き地で遊んでいると、開け放った窓から二人の勉強机が見え、すだれをひょいとめくって覗き見ると、本箱にずらっと図鑑が並んでいた。全巻ぞろいの図鑑であった。

 ぼくは鮮やかな色合いの背表紙の列を見たとき、まるでそこが竜宮城か別天地かと思えた。

 ぼくも母にねだって買ってもらった図鑑を一冊持っていた。「交通図鑑」というものだった。毎日毎日それを開いては、見たことのない電車や汽車や船や飛行機にあこがれ、最後のページについていた、未来の乗り物という絵を、飽きもせず毎日、穴の空くほど眺めていたものだ。

 ぼくにとって、図鑑とはその一冊のことだった。

 ところがすだれの向こうの本箱には、何十冊もの図鑑が整然と並んでいた。彼岸の別天地を見るような心地で、ぼくはすべてを忘れて鮮やかな背表紙の並びに見入っていた。

 いつもすだれの陰から物欲しげに見つめているぼくの姿に気づいたのだろう。子供たちを決して中に上げることのなかったその家の母親が、ある日、「ちょっとおいで」とぼくを手招きして、玄関から中に入れてくれた。

 「図鑑を見たいんでしょう」と、その部屋に案内して、「さあ、どれでも好きなのを見ていいのよ」と、しばらくぼくを一人にしてくれた。ぼくは戸惑いながらも、昆虫図鑑や魚類図鑑を取り出し、ページを繰ってみた。汚さないように気をつけながら、おどおどと。

 そのときぼくは、図鑑よりも、壁際にレコードプレーヤーが収まっているのに目を奪われていた。学校の音楽室で見覚えがあったので、それがレコードをかける装置であることは一目でわかった。しかし、まさか個人の家にそういうものがあるとは思ってもいなかった。

 やはり竜宮城か別天地だ。ぼくは本気でそう思った。

 そしてさらに、ぼくの目に飛び込んできたのが地球儀だった。学校で見たことはあった。だが、学校のは色あせており、くすんでもいて、ちっとも興味を引かなかった。

 いま目の前にある地球儀は、つるつると光沢があり、色鮮やかで、ぼくには神秘の神々しい物体に見えた。

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 図鑑をすべてそろえてほしいとは、母にはとても言えそうになかったが、ぼくは地球儀が無性にほしくなった。そしてたぶん、母にそう言ったのだ。

 「兄ちゃんと買っておいで」

 母は兄にいくらかのお金を渡し、二人は繁華街の文房具店に出かけた。兄はそのとき高校2年生だった。

 夕刻が迫っていた。文房具店のまぶしいほどの照明がいまも思い出される。ショーケースに大きいのと小さいのと、2個の地球儀が並んでいた。店員が取り出してくれ、目の前で見比べた。あの家にあったのは、この大きい方くらいだったな。

 しかし、「これにしよう」とは兄に言えなかった。兄は二つの値札を見て、「もう少し小さいのはないですか」と店員に尋ねたのだ。

 店員は、棚の上から箱を下ろしてきて、中から地球儀を取り出した。

 「これが一番小さいのですか」と兄が言い、「そうです」と店員。

 「これ、もう少し安くならないですか」。兄は値下げ交渉を始めた。「じゃあこれくらいで」と、店員が少し下げてくれた。ついに買うことになった。店で一番小さな地球儀だった。

 ぼくは嬉しさを押さえきれず、包んでくれた箱を胸にしっかり抱いたまま家に帰り着いた。

 さっそく箱を開け、地球儀を取り出し、くるくる回してみた。

 そこへ仕事を終えた父がやって来て、「日本はほら、ここだぞ」と指さし、

 「父ちゃんは昔、戦争で、上海にも、台湾にも、朝鮮にも、満州にも、フィリピンにも、ジャワにも、ビルマにも行ったんじゃ。」

 そう言いながら、順路を指でなぞってくれた。

 「そうじゃ、電球を当てて影を作ってみよう」

 父が言いだし、天井の電球を取り外して、真っ暗になった部屋で横から電球を当てた。

 「ほら、日本は今からだんだん夜が明けてくるぞ。そら、昼になった。ああ夕方じゃ。夜になった。」

 地球儀を回しながら、まるで子供のように楽しげに父がやってみせ、ぼくもやってみた。

 さらに、電球を真ん中にして大きく地球儀を回転させると、

 「こうなったら夏じゃ。こうなったら冬じゃ。」

 と、太陽の当たり方の違いまで父はぼくに講釈した。

 ぼくはそのとき、父がこんなにも夢中になって教えてくれるのが不思議でならなかった。

 ぼくの知らない父の一面を垣間見た瞬間であった。

 いま思うと、朝鮮で理科の先生になる約束をし、夢を膨らませていた父が、ほんのちょっとのつもりで松山に帰郷したばっかりに、夢が潰えてしまった、あの遠い日の無念さが、地球儀を前にした瞬間激しくよみがえってきたのではないか。そんな気がする。

 父がぼくに真剣な顔で勉強を教えてくれたのは、後にも先にもあれ一度きりだったようにも思う。父は陽気な人で、夕食後にはいつも、まるで独演会のようにさまざまな話をぼくらに面白おかしく語ってくれたのだが、こと勉強に関しては、役割はもっぱら母であった。

 あの地球儀、両親の家の本箱の最上部に、いつもずっと変わらず置かれていた。7年前、父と母が相次いで死んだ後、兄夫婦によって家財は処分されてしまった。地球儀は今、空の上から煙になってぼくを見つめているのであろうか。

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【地球儀7首】

遠き日の文具店にて地球儀の二つ三つ兄と見つめしことあり

きらめけるショーケースより地球儀の肌合ひよきが勃興し来ぬ

値を見ては大きをやめて小さきへ なほも小さき地球儀買ひぬ

箱に入れ四角くなりし地球儀の重みを胸にはかりつつ歩む

帰り着きはじめにせしは地球儀に灯火あてて夜を見しこと

地球儀の半ばを占むる太平洋の広き水色を兄に指さす

地球儀を手もて回して十日経ちぬ二十日経ちぬと恐るるもなく

自伝風エッセー (24) 新鮮な体験
2010年11月23日
 先日、好天に恵まれて、ぼくが通う教会でバザーがあった。

 どの年も、たいていぼくはコーヒー係をやってきた。大型のコーヒーメーカーでコーヒーを淹れ、熱湯で温めたカップにコーヒーを注いでは、チケットと交換にコーヒーを差し出す。小さなケーキも添えて。それがぼくの仕事だった。

 一度、ぜんざい係をやったこともある。大きな鍋で小豆を煮、切り餅を網で焼く。注文があると器に小豆汁と切り餅を入れ、塩昆布を添えて出す。これもやはりチケットとの交換だった。

 今回、初めてぼくは売店を経験した。ぼくの担当は、花とミカン。チケット交換ではなく、現金売りだ。

 ビニールポットで育てた葉ボタン、ビオラ、パンジー、シクラメンなどを床に並べ、さらに、前日10個ずつの袋詰めにしておいたミカンを山のように積む。これらを求めに応じてビニール袋や段ボール箱に詰めて手渡し、現金を受け取る。必要ならおつりを返す。

 スーパーやコンビニなどで日々経験するありふれた場面だが、やってみると何とも新鮮で、まさしく初体験だったことに気づいた。

 買い手としての体験なら、それこそ日常茶飯事だ。だけど、その逆の立場というのを、60年の人生を通して経験したことがなかったことに、ぼくは気づいた。それに気づいたこと自体が、初体験だった。それほどに新鮮な体験だった。

 自分に向けてお金が差し出され(もうそれだけで新鮮な驚き)、受け取り、その額を見て、「あっ、そうだそうだ、おつりだ」と気がついて、おつりを計算し、 現金箱から小銭を選び出すと、相手の手のひらにそれを乗せる。わずかこれだけの作業なのだが、それを制御するためには、自分の頭の中にいまだかつて存在し たことのなかった神経回路を必要とする。

 実に新鮮で、刺激的。新しい神経細胞が活性化するのを、我がことでありながら客体視してありありと感じとる。老化防止などと気軽に表現する次元ではない。言葉にはならない驚きだった。

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 子供のころ、我が家は油揚げの製造と卸しの仕事をしていた。販売相手は八百屋といなり寿司屋。

 当時は現在のようにスーパーやコンビニなどというものはなく、個人経営の八百屋がどの町筋にも、信じがたいかもしれないが数十メートルに一軒ほどの濃密さ で存在していた。野菜や果物だけでなく、食料品一般、さらには日用雑貨も扱う。どの店も、一日に数枚から10枚ほどの油揚げを仕入れてくれた。

 父は、取引のある八百屋に油揚げを配達して回るために、配達人を雇っていた。知り合いの時計屋の奥さんだった。男勝りの巨体で、いかにも腕力の強そうなお ばさんだった。自転車に大きな木箱をくくりつけ、油揚げを一杯に詰め込むと、さっそうと出かけていく。途中で品切れになると、戻ってきてふたたび一杯に詰 め込み、また出かけていく。

 戻ってくるたびに、裏の仕事場に顔を出し、煙草を一本吸い、父と「わはは」と大きな声でひとしきり賑やかな話を交わす。父も陽気な人だったが、その何倍も陽気なおばさんだった。

 八百屋相手だけでは商いが小さい。メインの販売先はいなり寿司屋だった。いなり寿司屋というのは、いなり寿司を作って食堂やレストランに卸す家のことである。そう、家なのだ。店とはとても言えない。農家や町屋の薄暗い台所が、いなりずし製造の現場だった。

 ぼくが記憶しているかぎり、4,5軒のいなり寿司屋と父は取引していた。一軒あたり、毎日数百枚を仕入れてくれる。

 いなり寿司屋の場合、配達のおばさんの勤務時間内に製造が間に合わないことがあり、そんなときには、しばしばぼくが狩り出されるのであった。学校から帰っ てくると、どこそこに行ってくれと、父に言いつけられる。嬉しい仕事ではない。が、やらないわけにはいかない。中学生だった。小学生のころには、7歳年上 の兄が、おそらく同じ役回りをしていたのだと思う。

 やり始めた当初は、自転車の荷台に油まみれの木箱を積んで走るのが恥ずかしくてならず、近所の友達に見つからないことをひたすら願って出かけていったものだ。そのうち気にもならなくなってきたが、これはぼくにとって、一種の商売体験だった。

 「届け先では、必ず頭を下げて、『どうもありがとうございました』って言うのよ」

 最初の日、母に教え込まれた。だが、ぼくにはどうしてもこれがうまく言えなかった。一息で言おうとすると、途中でつっかえたり、舌がもつれたり。今度こそはうまく言おうと意識してかかると、よけいにつっかえてしまう。

 いま思えば、「どうも」と「ありがとうございました」の間に、一瞬の間を置けば、すんなりいきそうな気がするが、当時は、ともかく一息で言ってしまわねばと思い、いつもしどろもどろであった。

 ともあれ、あれはたしかにぼくにとっての商売体験だった。しかし、油揚げを届ける際、現金を引き換えにもらうことはなかった。集金は後日まとめて父がやっていた。その意味ではパーフェクトな商売とは言えない。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

 ぼくが高校一年の冬、父は油揚げ屋をやめたから、夕日が西空に沈むのを眺めながらいなりずし屋に自転車を走らせた懐かしい思い出は、せいぜい3年間ほどのものであろう。それ以降、ぼくは商売というものから無縁になった。

 先日のバザーでの売店体験は、品物と引き換えに現金を受け取り、お釣りを渡すという、あまりにもありふれた日常の光景が、それを体験したことのない者にとっては、いかに新鮮で刺激的かということを、身を以て体感させられる出来事であった。

 NHKの大河ドラマ『龍馬伝』で、岩崎弥太郎がいかにも偏屈な金の亡者のように演出されているのだが、商売というものの新鮮で刺激的な味わいを知った者に おいては、これは決して偏屈でも亡者でもなく、ごく自然な思考の方向性なのかもしれないと、今さらのように実感した次第である。

 政治的先見性において時代から突出した龍馬と、経済的先見性において時代から突出した弥太郎。

 龍馬は明治を見ずして凶刃に倒れたが、弥太郎はあの突出性を最大限に生かして、近代資本主義の寵児となり、大財閥をなした。その出発点が長崎にあり、造船 業にあり、軍艦をはじめとする軍需産業にあったことは、その後の三菱財閥の陰と陽の両面を特徴づけているように、ぼくには思われるのだが……。

自伝風エッセー (25) 古時計の話
2010年11月24日
 腕時計、柱時計、置き時計、目覚まし時計。いまわが家にいったいいくつの時計があるのだろう。数えたこともない。数えようとも思わない。動かなくなった時計も数かぎりない。捨てられることもなく、引き出しの奥に眠っている。そして忘れ去られている。

 いつだったか、もう20年以上も前のこと。五月晴れの日曜日、受け持ちのクラスの生徒が大挙してわが家に遊びに来た。

 その前日、職員室のぼくのところに代表の何人かがやってきて、

 「先生、みんなで明日行きます」

 とのこと。もちろん来ることはすでに知っていた。何日も前から誰彼となく告げに来ていたから。予定にも組み入れていた。

 知らせに来た生徒の一人が唐突に、

 「先生の家に時計はいくつありますか」

 と尋ねた。いきなり奇妙なことを聞くものよと、何気なく「たくさんあるよ、数えたこともない」と答えた。

 すると、「ほら、やっぱり」と、その生徒はみんなを振り返ってささやき、互いにうなずき合う様子である。ほんの一瞬のことで、見逃せばそれっきりではあったが、なんだか気まずい空気に触れた気がして、ぼくは自分の言葉を咀嚼し直してみた。

 そして当日、道路に賑やかな声が響き、門がガチャガチャと開けられ、ドアホンが鳴った。玄関を開けると、はち切れそうな声が家の中に飛び込んできた。開け放っていた座敷と応接間はたちまち満杯になった。

 いっときの喧噪が静まり、ぐるっと大きな輪を描いてみなが腰を下ろした頃合い、代表の一人が
「これお土産です。先生の家にはたくさんあるそうですが、すでに買っていたものですから、すみません。どうか大事に使ってください」

 そう言って、下げていた紙袋をそっとぼくに差し出した。「あっ」と、思わずうめきそうになった。昨日の意味はこれだったのか。とんでもない返答をしたものだ。彼らを傷つけた申し訳なさでいっぱいになった。

 その場で開けると、中から砥部焼の皿でしつらえた置き時計が出てきた。

 「うわあ、すごい。これ、みんなの小遣いで買ってくれたのかなあ。高かっただろう。ありがとう。こんな立派な時計、先生見たこともないよ。昨日ね、たくさ んあるなんて言ってしまったんだけどね、あれはウソウソ。壊れて使えない時計がたくさんあるだけなんだ。大事に使わせてもらうからね」

 その時計、今も応接間の棚の上で動いている。切ない涙をとどめているようで、見るたびに、「時計はいくつありますか」という、あの日の声がこだましてくる。

 彼らはもう30代半ばをすぎた。世の中を動かす中核になろうとしている。

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 裏のふたがすぐにぱかっと外れてしまう、使い古した目覚まし時計がある。外れても外れても、修理して使ってきた。たぶん、買って20年にはなる。

 この時計、鳴り始めて止めずにおくと、幾段階にも分かれて音がどんどん大きくなり、最後にはけたたましい騒音になる。布団から手を伸ばして時計の頭をば しっと叩くと、鳴り止む。しかし、5分もすると再び鳴り始める。そこが気に入ったのだ。目覚まし時計は何個もあるが、もっぱらこれを使ってきた。

 音を止めてしまうには、時計の横のスイッチをひねらないといけない。寝過ごし防止のために、ぼくは布団から完全に起き出さない限り、スイッチはひねらないことにしてきた。だから、ときには3度も4度も、時計はけたたましく鳴り騒いでくれる。

 妻は結婚以来、ぼくが起きない限り起きない主義だから、時計を止めるのは大概ぼくの役目である。

 慣れ親しんだその時計、この春からは事実上、引退の身となった。ぼくが仕事をリタイアし、定刻に起きる必要がなくなったから。

 リタイアの現実を最初にまざまざと実感したのは、毎夜習慣のようにセットしていた時計をセットしないで寝てよいことに気づいたときだった。

 今も一応、それがないと落ち着かないという気分で枕元に置いてはいるのだが、使うことは滅多にない。時計にたたき起こされることなく、自然の目覚めのままに起きればよい暮らし。なんと優雅なことか。

 とはいえ、歳は目覚めを早める。勤めがあったころよりも早く起きる日が多い。

 目覚まし時計は、そんなぼくを見て、黙してほくそ笑んでいる。

 ぼくもまた笑い返してやるのだ。君はぼくに毎夜たっぷりの睡眠を与えてくれていたんだねって。

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 遠い日、わが家の六畳間に柱時計がかかっていた。記憶の始まりの日から中学生のころまで。

 チクタクと揺れる振り子。かすかな音だが、子供のぼくは敏感だった。ぼくの時間は振り子とともに動いていた。

 当時ぼくは、リズミカルに揺れる振り子を見て、振り子が時計を動かしているものと信じていた。止まると、父がよく振り子を手で揺らしていた。弾みをつけると、また揺れ始めた。いかにも振り子が時計を動かしているごとく見えた。

 しかし、考えてみれば、振り子が時計の原動力であるはずはない。振り子は時計のペースメーカーにすぎない。たしかに振り子の揺れに連動して歯車が動き、時計は時を刻むのであるが、振り子が永久機関になれるはずはない。

 歯車を動かすことで振り子はエネルギーを失い、それに加えてあちこちに摩擦も生じているだろう。自分で勝手に動き続けるわけがない。

 しかし、見ているかぎり、振り子はいかにも自ら動いているのである。それが実に不思議なことろである。

 振り子を動かしているのは、ゼンマイという駆動機関だ。止まると父がゼンマイを巻いていた。ゼンマイを巻いた後だ、手で弾みをつけていたのは。

 あの柱時計、父が新しい時計を買ってきたとき、ぼくがもらった。もらって分解してしまった。ばらばらに部品を取り外した。といって、その動作原理を極めようとしたわけではない。ばらして、また組み立て始めたのだ。要するにジグソーパズルに似た遊びのつもりであった。

 元に戻せたかというと、それは無理だった。しかし、数日間は熱中し続けた。

 そして、熱中の結果、振り子が歯車を動かす仕掛けを知ることができた。ゼンマイの力がその根本にあることもわかった。さらには、振り子を揺すり続ける仕掛けも発見した。すべては、みごとに単純化された仕組みの中に一体化されていた。

 時を正しく刻まなくなって捨てられた古時計ではあったが、分解してみると、あの古びた木箱の中に驚くばかりの人知が詰め込まれていたのだ。それを眼前にしたぼくの驚きは尋常ではなかった。

付録として、ぼくの好きな寺山修司の歌を一首
売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

愛の道、受難の道
2010年11月26日
山を越え、K市へ車を走らせたのは15年前。
探し当てた病院で
「どうだい、体調は」
驚いた君は、毛糸の帽子を持ち上げ
「これですよ、先生」
例のくりくりした瞳で
髪の抜けた頭をなでた。

「昨日、クラスのみんなで折ったんだ」
カバンから千羽鶴を取り出し
ベッドの隅に掛けると
君はじっと視線を注いだきり
時が止まってしまった。

はじめは肺炎だと
お母さんから知らせがあった。
しばらく休ませます、と。
いつしか一週間がたち、二週間目
リンパ腫とわかり、治療に入っているとの連絡があった。

「水を飲むのが苦しくて」
500ccペットボトルを抱えて君は言った。
「飲まないといけないんです、これ。毎日、何本も」
窓を見ると、イチョウの黄葉が午後の陽にまぶしく揺れていた。

「勉強どうしたらいいんでしょう。どんどん遅れてしまって」
「大丈夫。君ならいつでも取り返せるよ。まず、病気を治そう」
君はぼくの目をまっすぐ見た。
ぼくを貫いて遠い何かを見ていた。

ぼくは、半時間ばかり君といて
勇気と、優しさと、生きる力を
君から放射され
心根の弱さを励まされ
重荷の軽くなった心地で
帰路の山路を越えたのだった。

早春、梅の香がほのかに匂うころ
君は教室に戻ってきた。

見上げる
うれしげな
くりっとした瞳が
ぼくには、まるで
銀河に映える超新星に見えた

そして、初夏
アジサイがとりどりの色合いに染まるころ
君はふたたび病床に沈んだ。

帰ってきたのは秋だった。
「すっかり治りました、先生」
芯から元気を取り戻した
さわやかな若者が
ぼくの前にいた。

その年、
君は猛々しくダッシュした。
天性の向学心、理解力、根気。
すべてが驚異の焦点を結び

君はT大学の門をくぐった。

勇気と力をぼくの目に焼きつけ
大空高くはばたいていった君。

その君が、5年前
ふたたびぼくの前に立った。
「先生、またやられました」

情報工学を専攻し
コンピュータ・メーカーに勤めていた君を
潜伏していたあの病が
ふいに襲った。

かつての治療法はもはや効をなさなかった。
君は会社を辞め
ふるさとに戻った。
日ごと力が失せていくのを自覚した。

残された命で、やれることはないか。
思い当たったのは、幼児への読み聞かせだった。
幼な子たちにわが命を託そう。
近所の幼稚園でボランティアを始めた。

「神様がこの世に命を与えて下さっているかぎり、
子供たちに語り続けたいと思います。」

君はクリスチャンだった。
知らなかった。
高校2年のイースターに
姉とともに洗礼を受けたという。
ぼくが君を見舞ったあの日
君は主に身をゆだねるクリスチャンだったのだ。

折り鶴を見て、呼吸を止めたかと見えた、
あれは君の深い祈りだったのだろうか。

あの日、ぼくは君から、
勇気と安堵を与えられた。
君を見舞ったぼくが、
君に癒されて帰った。

訪ねてきた君に
それを伝えた。
君は笑顔でうなずいた。

その後、二度ばかり
君をK市に見舞った。
やせ細った姿が痛々しかった。

半年後
ついにその日がきた。

受難の道を歩むごとく
最後の力で
園児に愛を物語ったという。

お話のお兄さんは
その夜
容態が急変し
静かに
主のもとに帰っていった。

石手川の秋
2010年11月29日
 4月から通い始めた水彩画教室。

 普段は室内で静物や人物をやっているが、今日は初めて屋外に出た。

 みごとな秋晴れの石手川。松山の中心部を流れている川だ。

 紅葉がすばらしく、初心者のぼくは、ついつい色づいたケヤキの大木をテーマにしてしまう。画面一杯にケヤキを描いた。

 先生から、ゴッホみたい、セザンヌみたいと、一応お世辞の言葉をいただいたのではあるが、うまい人の絵を見て愕然とした。

 うまい人は、「それ自体鮮やかなもの」を主題にしたりはしない。秋のみごとな紅葉の林にいながら、変哲もない堤防や、洪水の見張り台や、遠くのビル、そんなものを描いている。紅葉の林は、茫漠とその一部にまぎれ込んでいるにすぎない。それでいて、まさしく秋だ。色鮮やかな秋だ。

 秋だけを描いたぼくの絵など、「秋!」と叫んでいる理念にすぎない。眼前にある秋の本質をつかんでいない。

 週に一度、水彩画教室に通うたびに、何かを学び、何かを得ている気にはなっているのに、現実にはそれ以上に、未熟さ、足りなさ方が重くのしかかってくる。

 必死に泳いでいるのにいっこうに前に進まないもどかしさ。

 まあでも、週に一度、2時間というこの時空は、ぼくを芯から裸にしてくれる。無になって対象に熱中させてくれる。

自伝風エッセー(26) テニスコートの記憶
2010年11月30日
【テニスに夢中】
 ぼくはある時期、そうだ、今となってはある時期としか言いようのない過去完了のある時期、テニスに夢中になっていた。持病が突如最悪の事態を引き起こし、 倒れ込むように入院してしまうまでの20年間ほどだ。持続したその期間を、今や「人生のある時期」と言わねばならないのは、年を重ねた人間の宿命とはい え、つらい現実にちがいない。

 学校に勤め始めて間もないころ、2人の先輩教師が、いつも2人きりでのどかに楽しんでいたテニスというものを、日々憧れの目で眺めていた記憶が懐かしい。 そこに、いつしか1人、2人と加わる人が現れ始め、しばらくすると、テニスサークルとでも呼べそうな大きなグループになっていた。ぼくもその一人だった。

 毎日1,2時間、コートに立たない日はないまでにのめり込んでしまった。燃え上がった火は尋常ではなかった。暑くとも、寒くとも、ときには少々の小雨をついてでも、狂ったようにぼくらはテニスに熱中した。

 凍てつく真冬、クレイコートはコンクリートのように固かった。それでもぼくらは、かじかんだ手でラケットを握り、寒風に身を震わせながらボールを追った。 しばらく駆け回っていると、足許が何だか不思議に湿ってきた。やがて水が浮き出し、コートの表面がねばねばした粘土状になり、ついには泥田と化してしまっ た。

 かちんかちんのコンクリートと見ていたのは霜柱のせいだった。走り回っているうちに、見えない霜柱が踏みつけられ、圧力で熱を帯び、解け始める。解けた水 は表面にしみ出す。はじめは土の色が少し黒ずんだと感じる程度だが、時間とともにぬかるんできて、すっかり解けきったときには、コートは一面泥の田になる のであった。

 ボールを追う一足ごとに、泥がピチャピチャと跳ね上がる。逆にボールはちっとも弾まない。「これでは、もうやれんな」と誰かが言うのを待って、その日のテニスは終了となった。

 これが二度や三度の経験ではなかったのだから尋常ではない。

 夏のテニスは灼熱の炎天下だ。照りつける太陽は、針のように肌を刺し、じりじりと皮膚を焼く。体内から見る間に水分が蒸散していく。熱射をさえぎるものな ど、どこにもない。陽炎にボールがひずんで見える。そんな中、ぼくらは相変わらずコートを駆け回った。音を上げる者などいなかった。若かった。

 こうして20年間、ぼくはテニスを続けた。

【NEC時代】
 いや、振りかえれば、ぼくのテニス歴はもう少し長い気がする。学校に勤めるよりも前、NEC時代にすでにテニスを始めていた。ラケットでボールを打つという、ただそれだけの行為をテニスと呼ぶのならの話ではあるが。

 最初に始めたのは、妻とだった。結婚してほどなく、ぼくらの新居に近い東京農工大のグラウンドでボールを打ち合った。

 今思うと実に奇妙なテニスだった。ラケットは、一本がスポーツ店で買った軟式ラケット、もう一本は古道具屋の店先につるされていた、ほとんど使い物にならない硬式ラケット。それと、毛をむしり取られた鶏のような、すり切れた硬式ボール。グラウンドの隅に落ちていたものだ。

 ぼくも妻も、世の中に硬式テニスと軟式テニスという、まったくかけ離れた2種類のテニスがあることを知らなかった。ラケットの違いにも、ボールの違いに も、ぼくらは気づいていなかった。ましてや、コートという狭い空間の中で打ち合うが故の、テニスの難しさや楽しさなど、知るはずもなかった。

 ぼくらはひたすら、広いグラウンドを駆け回った。まるで野球のホームラン合戦のように、力の限り遠くに飛ばし、それをまた力の限り遠くに打ち返した。

 ツーバウンドすると負けなどという息苦しいルールは、ぼくらにはなかった。ただただボールを打ち続け、追いかけ続けた。夢中になって遊んだ。

 夕暮れ時が近づいたグラウンドには、子供が数人遊んでいるほかに、人影はなかった。ぼくらは宵闇にボールが吸い取られてしまうまで、グラウンドを走り続けた。関東ローム層の真っ黒い土の上を。

 あのころ、妻もぼくも若かった。二人でいられる喜びを心ゆくまで楽しんだ。

 ラケットでボールを打つ楽しさを知ると、ぼくは会社の昼休み、屋上で一人テニスを始めた。壁を相手にする一人テニスだ。これが結構はやっていた。そもそも、ぼくがテニスに興味を覚えたのは、同じチームの先輩の中に、ラケットを抱えて屋上に上がる人がいたからかもしれない。

 屋上には一人テニスの愛好者が何人も集まっていた。一人テニスのできる壁はかぎられているので、遅く行くと場所がなくなっていることすらあった。

 ぼくが勤めていたのは、NECの府中事業所というところ。今は知らないが、当時、NECのコンピュータ部門は府中事業所に集中していて、ぼくが配属された方式計画部は、8工場と呼ばれる巨大な建物の中にあった。

 事務管理部門が入っている本館は別として、居並ぶ工場は、どれも高さは2階か3階。ぺっちゃりしている。だのに、平面的な広がりは航空母艦並みであった。 屋上に上がると、サッカーコートがすっぽり収まるほどに広々している。昼休みになると、屋上は人であふれかえり、バレーボールの輪がいくつもでき、キャッ チボールをする者や、ぼくらのようにコンクリート壁を相手に一人テニスに興じる者もいた。

 ぼくはろくにテニスのルールも知らず、コートに立ったこともなく、ただラケットでボールを打つのが楽しくて、毎日壁に向かっていた。

 そのうち、同期の友人に誘われ、ジョギングの味を覚えた。屋上での一人テニスをやめて、一周約2キロの会社の周囲を走ることにした。昼休みになるとジョギ ングウエアに着替え、その友人とひたすら走った。ジョギングを始めてみると、そこにもまた同好の士は多く、会社を一周する道路はまるで市民マラソンのよう なごった返しようだった。

 遠泳は大勢で泳ぐと、水の流れに乗って楽だと聞く。ジョギングもまたしかりだ。まるで前の人に引っ張られるように、肥満気味になりかかっていた初日から、早くも2キロを完走できた。

 考えてみると、テニス、ジョギングともに、NEC時代に味を覚え、会社を辞して学校に勤めてからも、長くぼくの趣味であり続けたことになる。その出発点であった府中時代が、今、ことさら懐かしい。泣きたいまでに懐かしい、若かりしあの頃。

【農事試験場】
 さてそのテニスだが、ぼくにはもっと古い思い出がある。テニスの思い出というより、テニスコートの思い出というべきか。ぼくがテニスというものをイメージするとき、いつでも浮かぶ原風景がそれである。

 小学生時代、ということは50年以上も前のことだ。松山市の旧市街北東部、今ではすっかり住宅地になってしまったが、当時は田畑が広がっていたあたりに、愛媛県の農事試験場があった。そしてその北西の一角にテニスコートがあった。たった一面だけのテニスコート。

 当時、テニスを楽しむ職員は少なかったと見え、そこでテニスをしている光景を見かけた覚えがほとんどない。コートにネットが張られているのを見た記憶すらほとんどない。ほとんど、という意味は、皆無ではないということなのだが、……。

 そこはもっぱらぼくたち子供の遊び場であった。中央にポールが2本突き出しているのをぼくらは邪魔に感じたことはなく、三角ベースの一塁と二塁にちょうど 具合がよかった。周囲にたっぷりのスペースをとったコートだったから、小学生が三角ベースを楽しむには十分な広さがあった。

 テニスコートの西側は高さが1メートルほどの杉垣で、ぼくらはその破れ目を専用の出入り口としていた。北側には小川が流れていて、簡単な木の防御柵があった。

 南側も杉垣で、それに接して一段高くなったところに独身寮があった。ぼくらが遊んでいると、杉垣越しに窓から呼びかけ、キャラメルやチョコレートをくれる 人がいた。窓からはまた、ギターの音が聞こえてくることもよくあった。部屋に上がり込んで、間近にギターを聞かせてもらったこともある。独身寮の青年たち は、すっかりぼくらの顔なじみになっていた。

 東側には4,50センチの土盛りがあり、その上は、農事試験場の中ではメインストリートと言える、幅1,2メートルの土の道だった。道をはさんだ向こう側は白壁の建物で、その屋根に当たるか、屋根を越せば、ホームランというのが、ぼくらの三角ベースのルールだった。

 白壁の建物は、反対側に回ればわかるが、馬小屋であった。薄暗くてひっそりしたその中で、数頭の馬がまぐさを食んでいた。

 農事試験場の大部分は今では、県民文化会館(ひめぎんホール)に生まれ変わり、当時の面影はどこにもない。しかし、あのテニスコートの敷地だけは、今も健 在だ。広場の北東すみに海外交流センターが建ち、残りの部分は駐車場になっていはしても、ぼくの目には、明らかにそこはテニスコートである。昔遊んだ、あ のテニスコートである。区画は当時のままだし、東側の土盛りもそのままである。馬小屋があったあたりは、県民文化会館のサブ駐車場だ。

 先日、前を通ると、県民文化会館で県の特産市が催されていた。娘夫婦や孫も一緒に、何か掘り出し物でもないかと、覗いてみて、ついつい両手に抱えきれないほどの買い物をしてしまった。

 あのテニスコート跡も会場の一部になっていた。海外からの留学生がそれぞれのお国自慢の特産品や料理を出していて、ぼくはアラブのコーヒーを飲み、中国の水餃子を食べた。そして、三角ベースを楽しんだ昔のぼくと一人しみじみ対面し、語り合ったのであった。

 「ここが昔じいちゃんの遊び場所だったんだよ」

 3歳の孫はただきょとんとするばかりであった。

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