自伝風エッセイ (12) 父の太平洋戦争(開戦まで)
2010年10月1日
 昭和16年8月、父に二度目の赤紙が届いた。名目は大演習、つまり関東軍特殊演習への動員である。ただし、前回も記したとおり、この演習は名ばかりで、現実は独ソ戦の成り行きをにらんだソ連への侵攻準備であった。

 したがって、満州の荒野で大規模な軍事演習が行われたというイメージは虚構であって、その実は、ソ満国境地帯への兵力の大量集結であった。

 父は、赤紙の指示に従い、加古川の聨隊に入隊した。3日後には列車で宇品へ。さらに船で釜山へ。釜山からはふたたび列車で朝鮮半島を縦断し、奉天へ。奉天 から満鉄に乗り換え、新京、さらにハルビンへ。なおも列車を乗り継ぎ北上し、着いたところは竜鎮という小さな村であった。

 気が遠くなるような長旅であった。

 竜鎮は、黒竜江沿いの国境の町・黒河(ヘイホウ)にほど近い、満州の北の外れの村である。

 駅に降り立っても、人の気配がない。四方八方、ただどこまでも地平線がぐるっと取り囲んでいるだけだ。町は? 村は? 人はどこに住んでいるのか? 父は戸惑うばかりであった。

 しばらく目をこらしているうちに、平原の中にぽつりぽつりと小さな土饅頭のような家が見えてきた。あまりに遠いものだから、蟻塚かワラ黒のようにしか見えない。満州北辺の農家は、お椀を伏せたような土の家だった。

 駅から5キロばかり歩くと、飛行場があった。竜鎮飛行場である。ここが父の配属先であった。父の仕事は第24飛行大隊つきの衛生兵。上海事変までは看護兵と呼ばれていたが、いつしか呼び名は衛生兵と変わっていた。

 飛行場とはいえ、飛行機は一機もない。軍事施設と呼べる代物ではない。兵士たちにただの一度の軍事訓練も行われなかった。飛行機なしに飛行大隊の訓練など、考えられもしないのであった。

 軍隊がやってきて、一帯を占拠し、駐留した。事実はこれのみであった。

 父たちは以来、11月初旬までの3ヶ月間、何をすることもなく、ただ食っては寝てすごすばかりであった。

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 関東軍特殊演習による動員で、満州における関東軍の兵力は一気に70万人に増強されたと言われている。だが、その内実は上記のようなものであった。質をともなわない、量だけの70万であった。

 竜鎮飛行場は北辺とはいえ、夏の間は蒸せかえるように暑かった。やがて秋が来て、冷気が肌を刺すようになった11月初旬、移動命令が出た。

 竜鎮から南に数百キロのところにある白城子が、次の移動先であった。そこには白城子飛行場があった。

 白城子飛行場は竜鎮飛行場とはまるで違い、広大で規模も大きく、飛べる飛行機がいくらか揃っていた。ようやく隊員に飛行訓練が行われるようになった。

 だが衛生兵の父に仕事はなかった。けが人が出ないのである。開店休業の衛生班に、ときおり発熱や腹痛を訴える兵士がやってくると、半分居眠りをしていた父たちに束の間の生気がよみがえるのであった。

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 このころすでに日本軍の中枢部は、独ソ戦がドイツに有利に進展する見通しのないことを見定め、ソ連への侵攻計画を断念していた。日本軍の進展先は太平洋と決定された。そのため、満州の関東軍の一部を南方方面に移動させる計画が練られ、実行に移されようとしていた。

 そんなこととは露知らぬ父たちに、寝耳に水のような移動命令が出た。白城子に来て半月ほどたった11月20日のことである。満州を引き払うという。移動先は知らされない。

 大急ぎで荷物をまとめると、満鉄で大連に出た。11月下旬の大連は零下10度を下回っている。その寒さの中、

 「いまから夏服を支給するから、冬服を返納せよ」

 という。これで南に行くことだけはわかった。

 冬の大連にはまるでそぐわない夏服で、父たちは汽車から船へと荷物の積み替え作業を行った。大連駅から桟橋までは、広々とした駅前広場を横切るだけであ る。肩に荷物を担いでは、寒いものだから広場を走って桟橋に向かう。一往復すると、倉庫の中のたき火に当たって体を温め、ふたたび汽車から荷物を取り出し て運ぶ。

 これを何度か繰り返しているうちに、一緒に走っていた戦友が突如いなくなった。すでに夜になっていて、あたりは暗い。倉庫を探してもいない。

 下が凍ってつるつるしているので、ひょっとして滑って海に落ちたのではと思い、岸壁から下を覗いてみると、案の定おぼれかかっている戦友がいた。「助けてくれ」と叫んではいるが、荷積みの騒音にかき消されて聞こえないのだ。

 皆を集めて綱を下ろし、ようやく助け上げた。全身ずぶ濡れで、発見があと5分も遅れれば、凍死しているところだった。たき火に当たらせ、濡れた服を乾かす。戦友はようやく元気を取り戻し、危機一髪、死地を脱することができた。

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 こんな刹那のエピソードを残し、あわただしく船は大連を出港した。

 本当にあわただしく。定められた12月8日というその日に向けて、事は隠密裏に、急ピッチに進められていたのであった。

 南に向かう船の中は日一日と暖かくなった。夏服でもいっこう寒くなくなってきた。

 数日後、寄港したところは台湾の高雄であった。父にとっては3年あまり前、上海事変からの帰途、夢のような3ヶ月をすごした懐かしい地である。

 高雄で新たに荷物を積み込み、3日後ふたたび出港。台湾の西にある澎湖島沖に停泊した。見る間に多数の艦船や輸送船が集結してきた。隠密裏の作戦がいよいよ姿を現したのであった。

 艦隊が整ったところで、12月6日、南に向けて移動を開始した。

 父たちの目的地はフィリピン。他に、マレー半島をめざす大艦隊があった。

 12月7日、上陸地点はフィリピンのビガンであることを知らされた。

 「上陸地で敵が抵抗すれば、撃ち殺すべし」

 との命令が出る。戦争になっているわけでもないし、いったい何ごとだと、船の中の兵士たちは皆いぶかった。

 そして、12月8日が来た。朝、大本営発表を船の中で聞いた。米英に対する宣戦布告であった。

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 戦争は遠いハワイだけの話ではない。宣戦布告を聞くや間もなく、上陸地点手前の沖合で、船団は激しい空爆を受け始めた。それが一日中続いた。

 父の目の前で一隻が沈められた。乗っていた兵士たちが次々に飛び込んで、陸をめざして泳ぐ。しかし、海流に流され、逆に沖へと遠ざかっていくようだ。見か ねた駆逐艦がボートを下ろして助け始めた。助け終わって収容し終えたところで、今度はその駆逐艦が集中爆撃を受け、一瞬にして沈没した。助けられた兵士も ろとも、なすすべもなく全員海の藻屑と化した。

 すべては父の視界の内の出来事であった。気の毒で悲しい出来事だが、呆然と眺める以外、手の下しようもない。

 自分もまた、数分のうちには同じ運命をたどるのかもしれない。上空からは空気を切り裂いて爆弾の雨がひっきりなしに降ってくる。

 恐怖と諦念の入り混じった思いが、父の背中をぐっしょり濡らしていた。

 幸い父の船は無事であった。ようやく午後も3時頃になって、上陸用舟艇で上陸できた。

 しかし、安心するのはまだ早く、砂浜に降り立つと、今度は低空飛行の機銃掃射が待っていた。バリバリバリっと、砂浜に爆裂の跡が走る。

 父は戦友とともに、数十メートル先の椰子林をめざして、ひたすら走った。だが、砂に足を取られてうまく走れない。気ばかり焦って、ちっとも前に進まない。這々の体で逃げ込み、やれやれと束の間の安心に腰がへたり込んでしまった。

 気が抜けたような数分の後、ふたたび海辺へと走る。船から降ろした荷物を運ばないといけないのだ。命を落とすのを覚悟で、父たちは運命に身をまかせて走った。

 何度も何度もこれを繰り返す。夕方になってようやく荷物を運び終え、空爆も終わった。

 紅に染まって光を失っていく西空が、地獄のような12月8日の終焉を告げていた。

自伝風エッセイ (13) 父の太平洋戦争(開戦直後)
2010年10月1日
 12月8日の開戦によって、日本の戦う相手は明瞭になった。

 ハワイ、フィリピンのアメリカ軍、マレー半島、ビルマのイギリス軍、それにジャワ、ボルネオなどのオランダ軍がその相手であった。さらにはアメリカ、イギリスなどが領有していた広大な南洋諸島へも攻め込もうと。

 こうした大計画があまりに無謀であることは、前線に派遣された兵士の目には一目瞭然であった。父は開戦したその日、フィリピンに命からがら上陸したとき、すでに、敵の懐の深さを知らずに猪突猛進しようとしている日本軍の無謀さに感づいていた。

 電撃的な攻撃で一時的には優勢を維持できたとしても、兵器も燃料も船も飛行機も、あるいは食料等の補給も、さらには肝心の兵員も、腰が伸びきった状態で前線に送り続けることはほとんど不可能であろう。そのことは、前線の兵士が一番よく知っていた。

 それでも最初の数ヶ月は、勢いに乗って攻撃を続けることができた。戦果はそれなりに形あるものとなった。

 だが一年も経たないうちに補給路は断たれ、本国からの支援のないまま現地調達で戦い続けることが、日本軍の宿命になっていったのであった。

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 父がマニラ北方のビガンに決死隊のごとく上陸したのが、昭和16年12月8日であった。父が属する第24飛行大隊は一兵の死者も出すことなく椰子林の中に身を潜めることができた。奇蹟としかいいようがなかった。

 朝からずっと雨のような空爆を受けながら、上陸をめざす父の船には一発の被弾もなかった。遠浅に錨を降ろし、上陸用舟艇で上陸を始めてからは低空飛行の機 銃掃射が襲ってきた。さらに、砂浜を走る兵士の上に、機銃掃射の雨は情け容赦なく浴びせかけられた。だが、それらはどれも脇をすり抜けるばかりで当たるこ とがなかった。

 父はとうに死を覚悟し、今にもその瞬間が訪れるであろうことを意識しながら、さえぎるものもない砂浜を何度も何度も走り回ったのであった。

 しかし、日が暮れてみると、我が身は生きながらえていた。戦友の顔もみな揃っていた。

 生きていることを確認すると、途端に、空腹と喉の渇きが狂気のように襲ってきた。火は使えないから、乾パンと付近の小川の水とで飢えをしのいだ。

 その日の目的はビガン飛行場を占拠することであった。椰子林の中で休眠することは許されなかった。一息つくと、早くも次の行動が開始された。

 夜陰に紛れて飛行場に近づいた。さいわい、敵の守備隊はいなかった。飛行機の影もなかった。飛行場のそばの椰子林に身を潜めて朝まで仮眠をとることにした。

 翌日、日本軍の艦載機がビガン飛行場に降り立った。それと同時に、何度も飛来して様子をうかがっていた米軍機は姿を消した。一帯は、空、陸ともに日本軍が制圧したようであった。

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 父にとってひとときの平安が訪れた。父の隊が戦いに巻き込まれることは当分なさそうであった。

 だが、フィリピン各地では、これから約ひと月、米軍との激しい戦いが繰り広げられることになったのである。

 それまでアメリカの統治下にあったフィリピンには、非常に多くの日本人が入植していた。農業を営む人、町で商売をする人など、その数は万を単位に数えるま でになっていた。ルソン島だけでなく、パナイ島、セブ島、レイテ島、ミンダナオ島など、多くの島々に日本人が住んでいた。

 開戦と同時に、それらの日本人は米軍によって収容所に隔離された。営んでいた商売を捨て、農地を捨て、収容所に連行された。

 しかし、やがて日本軍が優勢になり、米軍がフィリピンを放棄するときが来た。収容されていた日本人にとっては、日本軍はまさに解放軍であった。束縛を解か れ、元の地に戻ることを許された。それどころか、日本統治下に入ったフィリピンにおいては、日本人の社会的地位はそれまでとはおのずと違ったものになって いた。

 その頃、米軍のフィリピン統治の責任者はマッカーサーであった。フィリピンを追い出されるという屈辱を受けたマッカーサーは、3年後には、恨みを晴らすべ くフィリピンに再上陸することになる。遠浅の海を歩いて上陸するマッカーサーの有名な写真があるが、その顔には、恨みを晴らした復讐の笑みが浮かんでい る。

 フィリピン上陸作戦の非情さは、マッカーサーの個人的恨みに根ざしているともいえる。

 日本軍は上陸してきた米軍との間で、10万単位の死者を次々に出す壮絶な戦いを強いられたのであった。

 生き残った日本兵は、骨と皮ばかりになって山中に潜んだ。結果は、自刃するか、捕虜となって収容所に収容されるかであった(小野田さんのように、何十年も潜伏し続けた人もいるにはいるが)。あまりの衰弱に、収容所においてすら、バタバタと死者が出る有様だったという。

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 話が先行してしまったが、ビガンを占拠した父たちはフィリピンには長居せず、ジャワに侵攻することになった。

 父が無事に日本に帰ってこられたのは、このジャワ行きのおかげだという気がしてならない。そのままフィリピンにとどまっていたなら、いくら衛生兵とはい え、戦死していた確率は5割を超えていただろう。父が戦死していれば、もちろんぼくという存在は根底からなかったわけである。

 ちなみに、ぼくの母方の叔父は戦争末期に志願兵として海軍に入り、フィリピン戦線にやられた。そして、陸戦隊としてクラーク防衛隊に編入され、壮烈な死を遂げた。昭和20年4月24日のことであった。

 クラーク防衛隊の任務は信じがたいものであった。

 日本軍の主要基地の一つであったマニラ近郊のクラーク飛行場を奪還させまいと、数万の兵士が滑走路を人間の盾となって埋め尽くし、米軍機の進入を阻止する作戦がとられたというのだ。生身の体を武器とする特攻隊と、まったく発想を一にする作戦であった。

 叔父はその盾の一員となって死んだ。

 父の部隊は、「ジャワに転進せよ」との命令を受けていたが、その前提として、シンガポールを陥落させておく必要があった。日本軍は、シンガポール陥落を昭和17年2月11日の紀元節ともくろんでいた。

 それまでは、ベトナムのカムラン湾に集結して、シンガポールの戦況を待った。カムラン湾にはジャワ方面に向かう何十隻もの輸送船や軍艦が集結していた。

 父は当座の主戦場であった、フィリピン戦線(対米)にも、シンガポール戦線(対英・蘭)にも、どちらにも参加していなかったことになる。

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 シンガポール陥落は予定より遅れ、2月15日となった。日本軍によるシンガポール陥落の報は世界を駆け巡り、ある人たちを歓喜させ、ある人たちを震撼させた。
 日本国内では、各地で提灯行列が組織された。母も渋々ながら動員された一人であった。太平洋戦争における最初の大きな戦果であったわけである。

 シンガポール陥落の知らせは、地球の裏側のブラジルで一人の高名な作家の悲劇を招いた。今ではあまり知られることがなくなったが、戦前は全世界で読まれたツヴァイクという作家である。

 ツヴァイクの悲劇はぼくにとってあまりにも衝撃だったので、ぼくが現役の教師のころ(といっても去年のことなのだが)、図書館報にそれについて載せた文章を転載しておく。
図書館の隅っこに21冊の「ツヴァイク全集」があります。館長になって以来ずっと気にかかる存在でした。しかし、手にとることもなく6年が過ぎました。

読むことになったきっかけは,春休みに偶然手にした文庫本の「マリー・アントワネット」でした。上下二冊の分厚い本ですが、あまりのすばらしさに、寝食を 忘れて読みふけりました。構成力,表現の緻密さ (日本語訳にも原文の味は伝わります),展開力,読者を引きつける粘着力。たちまちにして私はツヴァイクのとりこになりました。

読み終えたとき,これはツヴァイクの生涯をかけた奇蹟の労作に違いない,彼の全精力がここに注ぎ込まれている、人の一生がこんな作品を何冊も書かせるはずがない、彼の生涯はこれに始まり,これに終わったに違いない。私はそう信じ込みました。

まだそのとき,図書館の隅にあるツヴァイクと文庫本のツヴァイクとは,私の中で結びあってはいませんでした。

夏休みに入ろうとするころ、ふとツヴァイク全集の中に「マリー・アントワネット」というタイトルを見つけ、ひょっとしたらと思い,目を通すとまさにそれでした。

驚いたのは、彼の作品がこの一冊に限らなかったことです。私は魅せられたように次々に読んでいきました。「マリー・アントワネット」で私をとりこにしたツヴァイク特有の濃密な香りが、どの作品にも知的かつ詩的に漂っています。

しかも,「マリー・アントワネット」が彼の最高傑作というわけでもなさそうです。「メリー・スチュアート」はさらにすばらしい。「人類の星の時間」や「三人の巨匠」も。彼が死の前年に書いた自伝「昨日の世界」は圧巻です。

ツヴァイクは戦前のヨーロッパを代表する文化人であり,作家であり,詩人でした。ヨーロッパのみならず全世界で、最も多くの読者をもつ作家の一人でした。 自由主義者であり、国際主義者でした。そして,ヒトラーににらまれたユダヤ人でした。つまるところ、ヒトラーの民族主義から最も遠い地点にいたオーストリ ア人でした。

彼の著作は、ヒトラーのもとで文字通りの焚書に処されました。書店や図書館だけでなく、個人の書棚からも、ナチの学生たちによってツヴァイクの書物は探索され、没収され、焼かれました。
ツヴァイクはイギリスに逃れ、南米に逃れ、最後は日本軍によるシンガポール陥落のニュースに絶望し、その1週間後、リオデジャネイロで自殺しました。

徹底した焚書に加え、自殺という自己消滅により、彼の作品は戦後の世界から消えました。読まれることもまれになりました。
しかし皆さん、一度手に取ってみて下さい。こんなにすばらしい作品世界がこの世にあるというのは神秘です。


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 シンガポール陥落の知らせが届くと、船団はカムラン湾を出航した。60隻の大船団であった。

 落としたばかりのシンガポール沖を通過し、ジャワに向かった。

 ジャワでは、残存した敵艦隊との激しい海戦が、父の眼前で繰り広げられることになるのだが、それはまた次の号ということにする。

自伝風エッセイ (14) 父の太平洋戦争(敗戦まで)
2010年10月2日
 シンガポール陥落を待って、2月18日、60隻の大輸送船団がカムラン湾を出航した。行き先はジャワである。

 60隻の構成はばらばらで、数万トンの大型客船から、数十トンの漁船まで、種類も大小もさまざまな船の集合体であった。雑居集団のようなこれら60隻の輸送船団を、巡洋艦、駆逐艦、水雷艇、掃海艇など30隻近くの軍艦が護衛していた。

 日本軍が立てていた、シンガポール攻略に続く第二波の大作戦であった。目的はジャワ攻略だが、その勢いでさらに南方に広く軍を展開しようとする、重要な足がかりの作戦でもあった。

 父が乗った船は、船団の中でも最低級と思われる24トンのイワシ船であった。船縁を叩くとぼろぼろと塗料や木くずがこぼれ落ちるような老朽船。間に合わせに借り上げた船であることは明々白々であった。

 だが、この小さなぼろ船に乗っていたことが、結果的には敵艦隊との遭遇において父の身を守る助けとなったのだから、人生の運・不運は不思議なものだと思う。

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 颯爽と進む大型船に、ガタガタと船体を震わせながらエンジン全開で必死についていくイワシ船。一行は、シンガポール沖を通過し、ジャワ海に入った。

 そこで船団は二手に分かれた。30隻は東部のスラバヤに、残る30隻は西部のバタビア(現在のジャカルタ)に。父の船はバタビア行きであった。

 3月1日、バタビア西方にあるバンタム湾に入る。陸地が遠望できるようになったとき、湾の奥からいきなり米艦隊の激しい艦砲射撃が浴びせられてきた。

 情報では、湾内の敵艦はすでに一掃されていて、安全ということだった。そのため、護衛艦ははるか湾外にいて、前方を行く輸送船団は丸腰であった。

 艦砲射撃を浴びて、まず2万トン級の大型客船佐倉丸があっけなく沈没した。この船には兵士だけでなく、従軍記者なども多数乗り込んでいた。

 さらに、父の目の前で、3隻が次々に沈んでいった。

 父の船はあまりに小さかったため、標的にされることもなくすんだ。

 しばらくして日本の護衛艦が到着し、激しい撃ち合いとなった。父はこのとき初めて海戦というものを眼前にした。父の船は砲弾の届かぬところに避けており、壮絶な撃ち合いを、高みの見物で眺めていた。海戦は2時間ばかり続いた。

 結果は数で圧倒する日本軍の勝利であった。米艦船はことごとく沈んでしまった。

 沈められた米艦船の乗員のうち、海に飛び込んで日本艦に助け上げられた数百名が、駆逐艦の甲板に鈴なりになって父たちの前を通過し、湾外に出て行くのを、父は目にした。

 後にいう「バタビア沖海戦」である。

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 この海戦によって、少なくともジャワ北岸からは敵艦隊がいなくなり、父を乗せた小さなイワシ船(龍城という名がついていた)も、安全に上陸することができた。

 父たち24飛行大隊の目的地は、バタビアから50キロほど南にあるボゴールのカリジャチ飛行場であった。

 残存していたオランダ兵を追いながら前進し、大した戦いになることもなく飛行場に到達した。敵はボゴールから100キロほど東にあるバンドンに逃げ去った。

 日本の戦闘部隊はさらにバンドンまで追撃し、オランダ軍はついにバンドンで降伏した。3月8日であった。10日には降伏調印が行われ、24飛行大隊もバンドンに進んだ。こうして、バンドン飛行場が24飛行大隊の恒久的な基地となったのであった。

 父にとっての太平洋戦争で、波瀾万丈はここまでと言ってよい。

 以後、連合軍はもはやジャワ奪還を計画することがなかった。そのため、幸いなことに、後のフィリピンや太平洋諸島のような悲劇を父は味わわなくてすんだ。

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 しかし、それから3年後の敗戦まで、ずっとバンドンで安全にしていたというわけではない。

 途中、1年数ヶ月ほど、シンガポールやラングーン等に移動した。昭和19年春のインパール作戦および、その予備調査のための兵力移動であった。

 そこで、あわや戦死という危険に2度遭遇した。

 父たちの部隊はビルマ奥地の前線に派遣されることはなく、ラングーン止まりであった。とはいえ、ラングーンもその頃すでにイギリス軍の制空範囲内にあり、しばしば空爆を受けた。

 あるとき、父たちが宿舎にしていた小さなビルが被弾した。一瞬猛烈な衝撃が走ってビルがグラグラと揺れ、そのまま崩壊するかと思われた。さいわい一角が崩れ落ちただけですんだ。命拾いであった。

 さらには、3ヶ月をすごしたラングーンからシンガポールに向かう途中、乗っていた輸送船が空爆を受けた。致命的な被弾ではなかったために沈まずにすみ、これもまた命拾いであった。

 ラングーン、シンガポールで1年あまりをすごした後、ふたたびバンドンに戻り、敗戦までの最後の1年数ヶ月はバンドン暮らしであった。

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 バンドン飛行場は長く平和であった。しかし、戦争末期になると敵機が飛来して爆弾を落としていくことがあった。飛び立った日本軍機と空中戦になることもあった。

 父が見上げる空の上で日本軍機が撃ち落とされたこともあった。

 敵機の襲来がなくても、警戒のために戦闘機は毎日飛び立っていた。5機飛び立って4機しか戻ってこないようなこともあった。

 遭遇した敵機との空中戦や、敵戦艦からの対空砲で撃ち落とされたのだ。

 昨日まで仲良くしていた戦友を、亡骸もないまま弔わないといけないときほどつらいことはなかったと、子供のころ、父はしばしば話してくれたものだ。

 敗戦から帰還までの話は次回とする。

自伝風エッセイ (15) 父の太平洋戦争(復員まで)
2010年10月4日
 父はバンドンで敗戦を知らされた。が、すでにその何ヶ月も前から、日本の敗戦は時間の問題であることを、ラジオを通して知っていた。

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 バンドン飛行場で父は、24飛行大隊の衛生材料管理係を担当していた。倉庫の鍵の管理者でもあった。倉庫を開けることは父にしかできなかった。そして、そ の倉庫にひそかにラジオを持ち込んでいたのだ。薬剤、ガーゼ、包帯、毛布などの衛生材料がずらっと並んだ棚の隅に、さりげなく薬剤の空き箱を利用してラジ オを隠し置いていた。

 ラジオは、非番の日にバンドン市内で買ってきたものだった。

 もちろん将校以外の一般兵がラジオを聞くことは厳しく禁じられていた。見つかれば営倉送りになるのは明らかだった。

 父は毎日、人目を忍んで倉庫に入り、箱からラジオを取り出すと、毛布にそれをくるみ、耳をスピーカーに押し当てて、短波放送を聞いた。

 日本語の放送がいくつかあった。日本からの定時ニュースも聞き取れたが、父が好んで聞いたのは、連合軍側が日本人向けに流す日本語放送であった。

 それを通して父は、日本の各都市が次々に空襲に遭い、焼け野が原になっていることを知った。昭和20年3月10日の東京大空襲も、その3日後の大阪大空襲 も、父は全貌を知っていた。もはや日本は、完全な焦土と化すか、敗北を認めて降伏するか、二つに一つしかないと、父ははっきり自覚していた。

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 7月26日深夜には、郷里の松山が空襲に遭い、市街地は焼き尽くされた。それも翌日には父の知るところとなった。妻子は無事だろうか、工場はどうだろうか。知りたくて気がせくが、遠い地にいては、思いを馳せるより他に、打つ手はなかった。

 8月6日には広島に、9日には長崎に、原爆が落とされた。ラジオでは特殊爆弾と呼んでいた。これまでの爆弾とはまったく異質の巨大爆弾であり、ただの一発で都市全体が壊滅したとラジオが告げていた。

 ここで降伏しなければ、日本は跡形もなく消え去ってしまうだろうと、父は一兵士ながらに強い焦燥感を抱いた。悲しみよりも、無念さよりも、一刻の猶予もできない焦燥感が先立った。
 もはや、面子うんぬんの時ではなかった。

 そして1週間後、日本は降伏した。

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 ところがである。南方軍司令官・山下大将が敗戦を認めず、南方軍だけでも戦争を続けると主張した。

 その意向がバンドンにもたらされると、「何ということだ」と、戦争の終結で安堵していた父たちを震撼させた。

 もしわれわれが銃を捨てなければ、ジャワにも近日中に連合軍が侵攻してくるだろう。無意味な戦で、われわれはおそらく全員戦死するだろう。父の脳裏に不吉な予感がよぎった。

 山下大将は政府や軍部の説得にも肯んじず、戦争継続を主張し続けた。

 ついに天皇の弟である高松宮が急遽シンガポールに飛び、山下大将と会談し、ようやく大将は無条件降伏を認めることとなった。(父の手記をもとにしているが、この部分の史実性は疑わしい。たぶん父は別の出来事と勘違いしている。)

 これでようやく平和が訪れ、内地に戻れると、父たちは小躍りしたのであった。

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 日本の敗戦が決まると、インドネシア軍とオランダ軍の間に小競り合いが始まった。支配権を取り戻そうとするオランダ軍と、独立しようとするインドネシア軍との戦いであった。

 その影は父の身近にまで差し込んできた。いつも父とベッドを隣り合わせにしていた戦友が、ある朝、目が醒めてみるといなくなっていたのだ。「脱走したな」と、父にはとっさに察しがついた。

 何日も前からしきりに、

 「脱走してインドネシア軍に参加すれば、高給を支払い、厚遇する」

 と、日本兵の中に口コミで宣伝が駆けめぐっていたのであった。

 それから数日したある晩、寝ている父をベッドの脇で誰かが揺り起こした。ハッと驚いて、見上げると、あの戦友の深刻な顔がかぶさっていた。

 脱走したことにも、インドネシア軍のことにも、いっさい触れることなく、ただ一言、

 「負傷者が出たので、薬と包帯をくれ」

 と、押し殺しすような声でささやいた。

 状況を察した父は急いで倉庫の鍵を開け、戦友が持てるかぎりの薬や包帯を持たせて帰した。もはや父の部隊に、それらは不要品であった。

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 しばらくして、バンドン飛行場を去る日が来た。バンドンに来てすでに3年半が経っていた。ビルマ方面に遠征した1年あまりを除いても、2年にあまる思い出の詰まったバンドンであった。

 「さようなら、バンドン」

 誰かが即興の別れの歌を作り、披露した。皆でそれを大声で歌い、バンドンをあとにした。

 バンドンからボゴールへ。そこにしばらく滞在した後、さらにバタビア(今のジャカルタ)へ。開戦直後に侵攻してきた経路の逆順であった。

 あのときはオランダ軍を追尾しながらの快進撃であっが、今は武装解除された敗残兵として、逆にオランダ兵士に監視されながらの行軍であった。

 バタビアの港に着けば、日本に帰れる。それを楽しみに父は歩いた。バタビアが近くなると、父の思いは故郷へと一足ごとに強まっていった。

 すでに妻(ぼくの母)からの便りで、妻も子も松山空襲で生き残ったこと、工場も危機一髪焼けずにすんだこと、しかし兄の兼光の店は、本店も支店も焼けてしまったこと、などが知らされていた。

 早く帰って会いたかった。妻にも子にも、そして兄にも、兄嫁にも。その日がもう目の前である。

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 ところが、バタビアに着いてみると、父の期待は一瞬にして色あせてしまった。

 西部ジャワに展開していた3万人の日本軍をバタビアに集結させ、輸送船に乗せて帰すという。そして父の部隊には

 「引き上げの事務、および世話係をせよ」

 との命令が下されたのだ。つまり、3万人が全員帰還した後でなければ、父の部隊は日本に引き揚げられないというのだ。

 輸送船の頻度や乗船人員などを想定すると、自分たちの引き上げまでには2年はかかりそうな計算になった。父はうんざりしてしまった。

 しかし、もはやどうにもならないことだった。父は仕事に精を出した。

 甲板から笑顔で手を振り復員していく兵士たちを、父は幾度となく桟橋から見送った。彼らの笑顔に答えるべく手を振り返す父の心の内は、取り残されたむなしさで張り裂けんばかりであった。

 船が水平線の彼方に消えていくまで、父は岸壁を離れることができなかった。船影が小さくなるとともに、望郷の思いは極限まで膨らみ、そしてしぼんでいった。

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 こうして1年が過ぎた。

 ある日、父は激しい下痢に襲われた。これ幸いという思いが頭をよぎった。

 軍医に

 「伝染病かもしれないから、病院に入院させてほしい」

 と申し出た。軍医は首を縦に振らなかった。しかし、軍医の印鑑はいつも父が持っていたし、病床日誌も自分で書けるので、書類を勝手に作成してもう一度軍医に頼んでみた。

 軍医も、「しかたなかろう」と折れてくれて、バタビアの陸軍病院に入院することになった。

 父の作戦勝ちであった。父は、間もなく病院船がくることを知っており、入院していれば病院船で帰れることも知っていたのだ。

 ところが、父の思惑に反して、下痢は早く治ってしまった。病院船が来ないうちに退院しなければならなくなりそうだった。そんなとき、担当医から

 「退院して部隊に帰ったら、ふたたび過酷な仕事が待っているだろう。しばらくは病院で静養していたらよい」

 との話があった。その一言に助けられ、父は病院船に乗ることができた。

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 途中、シンガポール、マニラ、高雄などに寄港して病人を乗せ、ついに日本に帰ることとなった。着いたところは鹿児島だった。

 鹿児島から汽車や船を乗り継ぎ、ようやく郷里の松山へ。

 妻子が待つ工場の玄関先に立ったのは、昭和21年12月25日。クリスマスの日であった。

 母が何度も話してくれたものだ。

 「父ちゃんはね、クリスマスに帰ってきたのよ。夜遅く玄関をとんとん叩くものだから、出てみたら、サンタさんがいたのよ。背中に大きなリュックを背負って ね。しかも、髭もじゃで。本当にサンタさんそっくりだった。生きて帰ってきてくれたという、何より大きな贈り物まで持ってね」

 母にとっては、5年5ヶ月ぶりに見る父の顔であった。

ボロロ族のように
2010年10月6日
 明日は松山の秋祭り。

 3才の孫も、今夜は町内の子供会の提灯行列に参加するという。(いや、この時間にはすでに過去形で書くのが正しい)

 昔、公園デビューなどという言葉が流行ったことがある。

 まさに、孫の町内会デビューだ。

 自分の幼いころを思い出す。

 秋祭りの前夜は子供にとって楽しみだった。

 子供たちが集まって、暗くなった町内を提灯を下げて練り歩いたものだ。

 今もそんな行事が残っているとは考えてもいなかった。

 そう言えばそうだよ。

 娘一家が住んでいるところは、子供のぼくが住んでいた地域のすぐそばなのだ。

 道後の近く。お祭りが盛んなところなのだ。

 ボロロ族のように、人は時の流れに逆らって、不変を全身に塗りたくりたがるものなのだ。
世代と世代が幾重にも
重なり、
かさぶたのように悠久を
つくる
彼ら、ぼくたち

願望。
ほんとうは、それが。

自伝風エッセイ (16) 母の空襲・終戦
2010年10月11日
 父が見た下駄工場は、5年前の出征時とは、まるで様子が違っていた。

 かつての工場は、夜になれば昼間の喧噪が嘘のように静まり、一家水入らずの生活がそこにあった。

 共同経営者の兼光は、一日に一度、様子見と打ち合わせのために必ず工場に顔を出していたが、プライベートな生活は父とは別であった。

 職人や女工たちももちろん皆、通いであり、夕方には引き上げていった。

 工場と一体になった三軒長屋の北の端にある父の私宅は、所有権こそ兼光にあったが、当初からの約束で、工場長兼管理人として父に居住権が与えられていた。

 朝鮮で手にしようとしていた夢を反故にしてまで、兼光の言葉に従い工場を始めたときの、それが最低限の条件であった。

 私宅が人であふれるのは、年に一度、秋祭りの日と決まっていた。

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 毎年、10月7日の秋祭りの日、親戚一同こぞって工場に集まり、父の私宅の座敷で宴を張るのが習いだった。

 兼光夫婦はもちろん、田舎の両親、分家している兄夫婦、結婚して間もない妹夫婦、まだ独身であった末弟など、兄弟一同が工場に集ってきた。

 幼いころから、秋祭りは父たち兄弟の心をそぞろ騒がせるものであったらしく、その思いが、工場の順調な立ち上がりの様子を見てみたいという好奇の心と折り重なって、いつしか年に一度、秋祭りの日に工場に集まる恒例行事ができあがっていったのであった。

 遠く近く響いてくる勇壮なミコシのかけ声。獅子舞のリズミカルな太鼓の音。

 心を浮き立たせる祭りの響きに酔いながら、久しぶりに集った兄弟たちは、酒を酌み交わし、日ごろの疎遠をこの日ばかりは忘れてしまうのであった。

 男たちが座敷で気炎を上げているころ、女たちも茶の間でちゃぶ台を囲み、うわさ話や子供の話に花を咲かせていた。

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 母は、しかし、この日のために前夜遅くまで料理の支度をし、朝もまた早く起きて客を迎える準備をしていたものだから、皆が集まってきたころには身も心も疲れ切っていた。

 その上、母は、ころころと笑い転げる雑談の輪に気軽に割る込むことのできない質で、ともにちゃぶ台を囲んでいながらも、話題の旋風はスウスウと母の脇をす り抜けていった。聞き役といえば聞こえはよい。ときたま口をはさむといえば、それはそれで間違いではなかろう。だが、このような女同士のおしゃべりの会で は、母の心はいつでも空虚だった。

 人生のさして重要でもない、はっきり言えばどうでもよい話題で、人はどうしてこんなにも興奮し、笑い転げることができるのだろう。母は矢継ぎ早に飛び出す軽薄な話題の渦に、ちっとも感興を覚えることがなかった。一人、軌道の外にいた。空虚だった。

 その空虚を取り繕うべく、用事ありげに台所に下り立ち、酒に燗をつけ、たくあんを刻み、かまぼこを皿に盛っては座敷に運んだ。

 走り回っている子供たちを呼び集め、「お獅子が来たよ」と外に連れ出すこともあった。

 空疎な空気を逃れ、獅子の軽妙な動きに見とれていると、母の心はようやく真実の喜びを取り戻し、落ち着いてくるのであった。

 やがて外が薄暗くなるころ、一同がざわざわと挨拶を交わして立ち上がる。

 最後の一人を見送って、父も、「疲れたのう」と畳の真ん中にあぐらをかく。

 これでまた、いつもの静謐がよみがえるのであった。

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 やがて父が出征し、しばらくすると末弟の弘司も出征した。もはや、秋祭りだからと、心を騒がせる時局ではなくなってきた。

 弘司は応召と同時にフィリピンに送られ、昭和17年春のコレヒドール島の戦い(そこでマッカーサーが降伏した)に参加した。その後、太平洋マーシャル諸島 に移動し、しばらくは戦いもなくすごしていたが、昭和19年2月9日、上陸してきたアメリカ軍との戦闘で戦死したのだった。

 父たち兄弟の中では異色の芸術家肌。画家を夢見た青年だった。

 出征する直前に撮った一枚の写真がある。ダンディーに背広を着こなし、ベレー帽が似合っている。土臭い父たち兄弟の一員であるとはとても信じがたい、都会風の容貌である。

 工場は戦争中も操業を続けていた。しかし、資材は目に見えて調達困難となり、生産量は減る一方だった。兼光の判断で、戦争末期には操業を午前中だけで切り上げるまでになっていた。

 兼光の店もまた、需要の低下で売り上げは半減していた。

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 閉塞感が漂う中、昭和20年7月26日、松山を空襲が襲った。すでに数日前から上空に米軍機が飛来し始めていた。市民は空襲の間近いことを予感し、覚悟を固めていた。

 26日の深夜11時半、空襲警報が鳴り響き、ついにそのときがやってきた。満月が煌々と照る、晴れわたった夜であった。

 「いよいよ来たか」

 人々は跳ね起きるや、覚悟のほぞを固めて夜空を見上げた。第一弾は、市の北西部に落ちた。焼夷弾がまるで巨大な花火のように上空ではじけ、シュルシュルと音を立てながら一帯に降りかかった。

 落ちた先から火の手が上がった。

 「ああ、きれい」

 深刻な事態を一瞬忘れて、思わず声を上げる人すらいたほどであった。

 爆撃機は後から後から、怒濤のように押し寄せてきた。市内を旋回し、次々に焼夷弾を落としていった。

 当初は迎え撃つ日本軍機と空中戦を交える場面もあったが、やがて日本軍機の姿は消えた。

 遠くで空を射ていた高射砲の音も止んだ。

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 人々は石手川を越えて南へ、あるいは御幸寺山の北側へと、燃える市街地を逃れて無数の蟻のように逃げ走った。

 中には踏みとどまり、火の手を消そうと、屋根に上がって奮闘する姿もあった。しかし、焼夷弾は着弾すると、燃える油脂をあたりに飛散させ、水をかけようが、叩こうが、踏もうが、消えるものではなかった。涙ながらに家と家財を放置して、命からがら逃げ去るしかなかった。

 背後の恐怖におびえて逃げのびるうち、体力も尽きてふと振り返ったとき、市の中心部にそびえる城山に焼夷弾が落ちるのが見えた。パチパチと木々がはじけて燃え上がる。周囲の市街は火の海である。

 上空を見上げると、地上の地獄絵をあざ笑うように、満月が煌々と照っている。

 空襲体験記を残している2人に1人が、逃げ延びて振り返ったときに見た光景を、「きれいだった」と表現している。

 後ろを振り返るゆとりもなく、死の恐怖からひたすら逃れ走った末、もはや走る力もなくして地面にしゃがみ込んだとき、振り返った彼らの目に映ったものは、地獄絵のすさまじさ、そして、その美しさだった。

 空襲は2時間あまり続いた。焼けただれた上になおも執拗に追い打ちをかける焼夷弾の雨であった。

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 爆撃範囲が綿密に計画されていたことは、燃えずに残った地域を検証すればわかる。

 執拗な爆撃にもかかわらず、勝山通りを境に、東の持田・道後方面は焼けていない。勝山通りに東側から接した松山東警察署も焼けずに残った。

 石手川より南も焼けなかった。土佐街道(いまの国道33号線)でいえば、石手川にかかる立花橋が境で、その南にある人口密集地・立花方面は無事であった。

 西と北は、市電の城北線が爆撃範囲の境界線になっていたと思える。城北線に接する国鉄松山駅が、焼けた地域の西端である。城北線はぐっと北に膨らんでいるため、その内側にある高砂町方面も焼けた。

 市の中心にある城山は爆撃範囲からはずされていたようだ。ただし、誤爆と思える焼夷弾が何発か山腹に落ちたのはたしかである。東雲学園など、麓の建物は焼けた。天守閣は無事であった。

 なお、明らかに爆撃範囲外にありながら、まとまって焼けた地域として、今は松山市総合公園になっている大峰ヶ台の東側一帯がある。これはおそらく誤爆が延焼したものであろう。

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 父の工場は爆撃範囲から5,6百メートル南にあった。だから無事であった。と言ってしまえばそれまでだが、実は、誤爆と思われる焼夷弾の直撃を受けたのである。

 焼夷弾というのは、一発の親爆弾から空中で数十発(最もよく使われたタイプだと38発)の子爆弾が分裂するように設計されていて、それらが傘を広げたような形で落ちてくる。その子爆弾の一つが父の工場を直撃したのである。

 着火すれば、当然工場は跡形もなく燃えていたはずである。ところが、偶然にもその子爆弾は不発弾となった。住居棟の二階の屋根を突き抜け、畳に突き刺さっただけで、火を噴くことはなかった。

 4才の子を抱いてどぶ川の底に身を潜めていた母が、明け方近く、もう大丈夫だろうと工場に戻り、すっかり夜が明けてから二階に上がってみて不発弾に気づいたのだった。

 油脂がべったりとまとわりついている正六角形の筒が、タケノコのように薄気味悪く畳に刺さっていた。

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 こうして幸運にも工場は焼け残った。しかし、兼光の店は本店、支店とも灰になった。蓄えていた在庫品もろとも、すっかり焼けてしまった。

 27日の午後には、兼光一家が工場にやってきた。手にしていたのは、かろうじて持ち出した手提げ金庫一個だった。当然のごとく、母と同居することになった。夫婦と子供3人の一家だった。

 母が一階に、兼光たちが二階に暮らすことになった。

 不発の焼夷弾は兼光が引き抜き、近所の男手を借りて解体してしまった。

 数日後には、義姉の妹が子供2人を連れてやって来た。焼け出されて行き所がないのを、義姉が呼び寄せたのだった。夫はすでに戦死していた。

 北の端の住居棟にはもはやスペースはないため、倉庫や事務室として使われていた工場棟の二階の一室を片づけ、仮住まいの場とした。

 夜にはネズミの走り回る音しかしなかった工場が、空襲を機に、こうして突然、賑やかになった。

 孤独を好む母にとっては苦痛の環境が、「否」と言い出せないまま、いきなり津波のように押し寄せきたのであった。

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 3所帯同居となったが、台所は一つしかない。まさかこのまま長く居着かれるとは考えてもいなかった母は、

 「いいですよ、台所は私がやりますから」

 と、まるで客をもてなすような気分で、気軽に食事の世話を引き受けてしまった。

 これが大きな間違いであったと、しばらくして母は気づくのだが、後の祭りであった。

 兼光は、秋の気配が濃くなるころには、焼けた本店の跡地に小さな小屋を建て、細々と下駄の商いを再開した。

 それに合わせて、休業状態になっていた工場も操業を始めた。焼け出されて田舎の実家に身を寄せていた吉川さんも、引き続いて来てくれることになった。

 兼光が仕事を始めると、義姉も昼間は一緒に店に出ていった。

 義姉の妹も飲食店に働き口を見つけた。

 その結果、子供たちの世話が一手に母に降りかかってきた。兼光の3人の息子と、義姉の妹の2人の息子。それと自分の息子。男の子ばかり6人を、母が一人で世話することになった。

 その上、三食の支度や皿洗いはすべて母の仕事であった。

 娘時代、突然の母親の死によって、楽しかった女学校を退学させられ、いきなり家事と育児の日々に突き落とされたことがある。

 胸苦しいようなあの出来事が思い起こされた。昭和20年7月の空襲は、母にとって、二度目の悪夢であった。

 事前の相談もなく、ただ「頼むね」の一言で、母に押しつけられた悪夢であった。

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 「できません」と言えば、事態は別の展開を見せたはずだ。義姉も妹も、子供を連れて仕事に出る道を探ったかもしれない。

 だが母は、心の内にいかなる不満を感じているときでも、人の頼みに「否」の返事ができなかい性分だった。

 気の弱さと言ってしまえばそれまでであろう。だが、すべてを許してしまうのが母の持って生まれた性格であった。自分一人の我慢ですむのなら、波風は立てない方がよい。人にいやな気分を味わわせない方がよい。

 母の人生は、その後もずっと、この基本線からそれることがなかった。

 とはいえ、心の底から許し、我慢していたのかというと、それは違う。母の内面は、激しい炎に燃えていた。激しさをあからさまに外に出したりは決してしな かったが、ぼくは大人になってさまざまな人のさまざまな生きざまを見た後、振り返って母を見たとき、母の気性の強さに気づいた。

 それは固い殻で押し込められていた。破裂寸前になることもあっただろう。破裂を押さえることができたのは、キリストへの深い信仰であった。

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 「信仰がなければ、私は生きることができなかったのよ」

 母がこうつぶやいたのは、ぼくがちょうど50歳になったときであった。言葉の重さにぼくは唖然とした。

 その一言は、さまざまな真実を秘めた、母の人生の告白であった。

 抑圧され犠牲になり続けた人生に耐え抜くことができたのは、イエス様の愛のおかげ。表向きはそう言っているように聞こえる。だが、母のこの言葉には、もっともっと根深い罪の意識がかかわっていたように思われる。

 母の真実の人生は、決して耐えてばかりでのそれではなかった。激しい恨みと憎しみをはらんだ人生であった。

 憎しみを押さえるために、信仰が必要であった。

 いや、その言い方は正しくない。悔いても悔いても湧き上がってくる憎しみという罪に、究極の赦しを得るためにこそ、信仰が必要であった。

 母にとっての信仰は、静かな祈りの奥で、生涯激しく燃え続け、泡立っていた。

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 おそらく母を知る誰一人として、母の奥底にある激しい情念と、それへの深い罪の意識に気づく人はいなかったであろう。

 母は、気が弱く、言葉少なで、人に向かって怒りの表情を見せることがなく、いつでもにこやかにしていて、誇らず、自分を主張せず、朝な夕な祈りを絶やさない人。

 これが、母を知る大方の人の印象であったと思われる。

 もう少し私生活を知る人なら、思いのはけ口を短歌に求めていたことに気づいていただろう。

 母の人生と生活環境は、空襲、終戦を経て、突然大きくゆがめられた。

 いつだったか、ぼくがまだ小学生だったころ、

 「母ちゃんは、いったいこれまで何枚のお茶碗やお皿を洗ってきたのでしょうね。戦争が終わったあと、いきなり大勢の人が一緒に住むようになってね。そう、10人くらいいたかしらね。その人たちの食事の世話を、母ちゃんが一人でしないといけなくなったのよ」

 と、恨みとしかとれない口調で話したことがある。本当に恨みっぽく、まるで怒りを爆発させるように枚数まで計算したのだった。

 母がこんなにも心をかき乱されているのを見て、ぼくは子供心にどきっとした。ぼくが知る母ちゃんではないなと、そのときぼくは思った。

 母は大勢の同居人のまかない婦となり、手のかかる小さな子供たちのお守り役となり、さらに、工場の時計係りとなった。

 時計係とは、始業、終業、10時と3時の休憩時間の始まりと終了、昼休みの始まりと終了を、ベルで知らせる係りである。

 母は後に、これが一番つらい仕事だったと言っていた。いつでも時計を気にしていなければならない。まちがいなくベルを鳴らさないといけない。うかうかトイレにも行けず、買い物をしていても気がせく。時間に縛られた毎日だった。

 うっかり3時の休憩時間にベルを鳴らし忘れ、女工に嫌みを言われたこともあった。

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 ここまで何度もぼくは、「恨み」、「憎しみ」と言ってきた。一般的な言葉の使い方にのっとると、これは大いに誤解を招く表現であった。

 母は、決して特定の個人に対して恨みや憎しみの思いを抱いたわけではなかった。

 たしかに、恨み・憎しみを誘発したのは、特定の個人であり、その言葉であり、その行動であった。それは否定できない。だが、母は決してその個人を恨んだわけでも、憎んだわけでもかった。

 そもそも、人に恨みや憎しみの念を吐きかけるまでのどろどろした個人的関係を、母は好まなかった。他人とのやりきれない諍いの中に身を置くくらいなら、耐えて淡泊な関係にいる道を母は選んだ。

 母が憎み、恨んだのは、それによって自らの内に注ぎ込まれた、逃げ場のない状況であった。人の言葉を表だって否定し、抗うことのできない性分である母は、発散の途のないまま状況を受け入れ、その状況故に噴き上げてくる辛さ、悲しさに耐えるしかなかった。

 ずるずると自らを引き込んでいくこうした泥沼の状況そのものを、母は憎み、恨んでいた。もたらされる苦痛を避けようのない宿命と受け止め、やり場のない閉 塞感に一人身もだえするしかない、その状況自体を、そらに言えば、こうして追い込まれていく自分自身を、母は恨んでいたのだ。

 いわばガレー船につながれた奴隷であった。鎖で手足を縛られ、死によって解放される最後の瞬間まで、永遠に櫂をこぎ続ける宿命を背負わされた奴隷。誰を恨 み、誰を憎もうとも、もはや解かれることのない鎖。自らを恨むほかに道のない彼らを和らげるものは、無上の諦念だけであった。母はその諦念を我が身に重ね ていた。

 昭和21年12月25日、父が工場の玄関口に立ったときの母は、このような苦痛にあえぐ日々のただ中にあった。

 リュックを背負ったひげ面の父を見て、サンタだと思い、救われたと感じた。キリストの出現をすら思った。これで何かが変わるかもしれない、事態がよくなるかもしれないと。

 母に一縷の勇気と希望の火が灯った。

若者の悲歌
2010年10月13日
 かわいそうでならない。でも何もしてあげられない。

 朝からもう7,8時間、若者が一人、わが家と道路をはさんだ真向かいの歩道に携帯用のイスを置いて座っている。

 いったいどこから、いつやってきたのか。

 見覚えのない若者。

 気づいたのは、朝起きてトイレに入ったとき。トイレの窓からふと外を見て、彼に気づいた。

 膝には紙ばさみにはさんだペラペラの紙。

 いかにも研究者か事務員といった目つきで、ありもしないそばの書類に目を落としつつ、真剣に何かを書き記している。

 ボールペンだ。

 丁寧に、細かく、一文字一文字力をこめて書く。

 1行書くと、しばらくそのできばえを眺め、次には消しゴムを取り出して消す。
 その1行をすっかり消す。
 消すときも真剣だ。一文字一文字力をこめて消していく。

 消し終わると、ふたたび同じ場所に、新たな1行を書く。そして消す。
 いつ果てるのか、この所作。

 書くのはいつでも紙の最上部。
 彼の中では前に進んでいるのだろう、きっと。

 疲れると、ぼおっと前方を見つめる。
 視線の先はただ一点。そこにはきっと何かが映っている。

 恋人に振られたのか。
 リストラにあったのか。

 理由は知らない。何か巨大な衝撃が彼を襲ったことだけはわかる。

若者の悲歌 その2
2010年10月14日
 「お昼や晩は、隣のコンビニでお弁当を買ってきて食べてるみたいよ」
 
妻が言う。

 若者がひたすら折りたたみイスに座り込んでいるのは、わが家の正面。2車線の、大して広くもない道路をはさんだ向かい側の歩道だ。

 コンビニはわが家の隣。

 車の通過待ちがなければ、ものの10秒で行ける距離だ。

 彼は夜になっても動く気配を示さなかった。

 付近に街灯はあり、コンビニの明かりもある。真っ暗とはいわない。

 だが、わが家の正面はミカン畑。

 彼を包むその小さな空間だけが、ぽっかりと穴の空いたような闇だ。闇の中に彼は座り続けている。

 もはや紙に文字を書くこともできない。書かなければ、消すこともできない。

 彼はひたすら、前方の一点を凝視している。

 朝から、イスの向きは微動だにしない。ピタッと一つの方向に向けられたままだ。

 走り去る車、歩く人、子供のはしゃぎ声、犬の吠え声、ケイタイに向かって笑いころげる人、大きな叫び声を残して自転車で走り去る高校生の群れ、ちらっと不審の目を向けて脇をすり抜ける近隣の人々。

 これらすべてから、彼は超越している。

 ぴくりとも反応しない。

 散歩の犬が突然吠えかかろうが、彼には何も起こらない。視線は微塵も揺らがない。

 このまま夜を明かすのか。

 9時半にはまだそこに影があった。10時、窓から覗くと、消えていた。

 ざっと14時間、彼は身動きもせずイスに座り続けていた。

 書いては消し、消しては書き、結局何も残らなかったあの1枚の紙切れに、彼は長い長い悲歌を書き残したのだろうか。

 じっと凝視する視線の先で、彼はその悲歌を繰り返し歌い続けていたのだろうか。

恩師を悼む歌 〜あなたがくれたカリン〜
2010年10月16日
告別式は簡素だった。
それがいかにもあなたらしく。

口を開けて
眠っているような
あなたの胸に
花を手向け
奥さんに看取られなかった寂しさを思う。

一人暮らしのあなたを訪ねたある日
「ヘルパーに来てはもらっているけどね
ほらこの通り元気
読書三昧だよ」

電話があって、弾む声で
「町内会の囲碁大会で優勝してね」
さっそく訪ねて
碁盤をはさみ、腕だめし
あれはもう10年も前
奥さんがお茶を入れてくれた
昨日のようだけど

シュポルスキーの『原子物理学』を
あなたと輪講で読んだのは30年前
以来、ぼくはちっとも進歩していない

そうそう
あなたがくれたカリン
ぼくが教師になった夏、だから35年前
「二本を並べて植えるものだよ」と
あなたの庭から
実生の細い苗を二本くれた

家を買ったお祝いだった
あるとき
うっかり幹をポッキリ折り
布をぐるぐる巻きつけて接着した
今ではその疵痕もわからないが

引っ越したとき
これだけは運ばねばと
掘り起こして移植した
あのカリン
今ではわが家の玄関先の象徴
来る人、来る人
「みごとなカリンですね」

秋になると
芳しい果実がたわわに実る
書斎の机に置くと
ぼくだけのアロマセラピーだ

カリンが実る
あなたとともに実る
やがてぼくがあなたの国に旅立っても
カリンは
あなたを思って
秋にはきっと真っ黄色な実をつけるだろう

自伝風エッセイ (17) 工場を去る
2010年10月16日
 母と違い、父は人中に身を置くことを厭わなかった。いや、それを心から楽しむのが常であった。

 場のムードに合わせて軽口を叩き、冗談を言い、話題の種を蒔き、人の話題にも素早く応じ、笑いを絶やさず、かといって場の主導権を握ることもなく、話が弾んでいる間は聞き役に徹する、それが父だった。

 父が帰還すると、工場にふたたび活気と笑いが戻ってきた。

 父のいない工場では、女工たちは、こそこそと小声で世間話をしながら緊張の息を抜くしかなかった。話が昂じてクスクス笑いにでもなれば、たちまち吉川さんの鋭い視線が飛んできた。

 もちろん吉川さんの技術には誰もが一目置いていたから、若い職人は吉川さんを見習い、女工も吉川さんの言いつけを守って製品のレベルを維持していた。

 吉川さんが身を以て示す、製品作りへの熱意と注意深さと集中心は、工場の技術水準の柱だった。

 父ももちろんそれを心得ていた。世間話に気を散らすことなく、真剣に仕事に取り組むよう、女工たちには常々注意し、吉川さんの目配りに期待していた。

 しかし同時に、適度な笑いで職場の空気を和らげることが、緊張を強いてばかりよりも、仕事の効率アップに役立つことも、父には自明の事実であった。経営理論うんぬんではなく、持って生まれた本能が父にその道を選ばせた。

 女工の世間話を途中で引き取り、それを笑いの種に変換して、一気に場を盛り上げ、笑いが治まるとふたたび仕事に集中する。これが、巧まずしてなす父の工場経営の技法であった。

 笑いが治まれば、それからしばらくは吉川さんの鋭い視線によって、工場は真剣な仕事モードに突入できた。

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 父の工場復帰は、戦後の復興機運の中で下駄の需要がふたたび上昇してくるタイミングに、ぴたりと重なっていた。

 生産量が増え、父の力が必要となる時期に、父は復員したのであった。

 父が帰ってきたころには、兼光の店も、焼け跡のバラック小屋から、多少は見映えのする店に建て替えられていた。

 工場にも、店にも、新しい息吹がみなぎろうとしていた。

 しかし、兼光一家は相変わらず父たちとの同居を捨てていなかった。父たちが一階に、兼光一家が二階に住んでいた。義姉の妹も、工場を立ち去る気配を示さなかった。

 6人の子供たちの世話と三度の食事の世話は母にゆだねられたままであった。

 工場の時計係も、いまだに母の仕事であった。

 父がそばにいることだけが、母にとって慰めであった。孤軍奮闘の辛さから、多少は解放された気持ちを味わえた。

 やがて母は妊娠した。ぼくの命が体内に宿ったのであった。工場の経営が軌道に乗りかかった喜びと合わせて、一家にささやかな希望が湧いてきた。

 ところが、喜びも束の間、妊娠3ヶ月にさしかかった昭和22年7月、思わぬことが起こった。兼光が腸チフスにかかり、父親が田舎から下げてきた見舞いの梨をうまそうに食べたかと思うと、その翌日には、帰らぬ人になってしまったのであった。

 「あの梨が無茶じゃった。まだ何も食っちゃいかんぞと、あれだけ言うとったのに、わしが目を離した隙に食うてしもうたんじゃ。あれがいけなんだ。それにしても、あっけのう死んでしもうたもんよのう」

 父が母を相手に兼光の最後の場面を語るのを、ぼくは子供のころ、何度聞いたことだろう。

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 思えば、兼光が下駄販売の商売を始めたのは、父がまだ北予中学に通っていたころであった。兼光の店は中学の正門から目と鼻の先にあったため、帰りに立ち寄ることもしばしばだった。

 中学卒業後は、手を広げつつあった兼光の店を手伝うことになった。父が手伝い始めると、兼光は、それまでの店を支店とし、繁華街に本店を出した。

 3年後、父は兵役で店を離れた。朝鮮で看護兵の訓練を受けることになった。看護学校の学生と変わらぬ生活の中で、父は学びの喜びを知り、満了後もそのまま朝鮮にとどまって教師になろうと決意を固めた。

 いよいよ兵役期間の終了が近づいてきたころ、兼光から「一度は故郷に帰って親に顔を見せておけ」と、帰省をうながす手紙が届いた。それならと、ほんの一時帰郷のつもりで故郷に帰った父を待っていたのは、兼光が始めようとしていた下駄工場であった。

 兼光には、父をだますつもりも下心もあったわけではない。すでに吉川さんというベテラン職人を雇っていて、吉川さんの技術で工場を運営していく心づもりであった。

 しかし、兼光と父は、子供のころから兄弟の中でも特別に親しい間柄にあった。父は兼光をまるで父親のように慕い、兼光は父をただ一人の弟のように庇護していた。

 父の朝鮮での決意を知らない兼光は、父に工場で働くように勧めた。そのとき父は、新しく芽生えている夢について語り、兼光の誘いを断ることもできたはずである。だが、父はなぜかそれをしなかった。

 すでに機械も据えつけられ、稼働しかかっている工場という現実を前に、まだ実現するともしれない頼りなげな自分の夢の非現実性が浮き彫りになったのであろ う。大乗に対する小乗であった。兼光という圧倒的な存在に向かって、空想とも見える自分の夢を語る勇気が父から萎えてしまった。

 教員養成学校に入学する手はずも整っていた父にとっては、夢は決して空想ではなかったはずなのだが、兼光を前にして、それを言い出す勇気が父にはなかった。

 結局父は、教師になりたいという夢を心の奥深くに秘めたまま、兼光の誘いに応じたのであった。

 工場長という立場を与えられた父は、販売担当の兼光との二人三脚によって、順風満帆な船出をした。工場も店も、年々売り上げを伸ばしていった。

 戦争、そして敗戦という厳しい現実をもくぐり抜けた。

 戦後、再生の道へと大きく羽ばたこうとしていた、ちょうどそのとき、仕事の要であった兼光が予兆もなく世を去ったのであった。

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 兼光の死後、残された妻である芳子が販売店を引き継いだ。兼光が元気でいたころには、陰から支える存在にすぎなかった芳子だが、芳子には生来、男勝りの独立心があった。

 兼光の死にくじけることなく、芳子はけなげに店を守り通した。

 年が明け、昭和23年2月、ぼくが生まれた。

 春、夏、秋、冬と季節は巡り、やがてぼくが1歳の誕生日を迎えたころ、芳子の様子にどこか変化が現れてきた。店は雇い人にまかせ、工場にとどまることが多くなった。

 最初に芳子の変化に気づいたのは母だった。

 「何かちょっとおかしいわね」

 父に耳打ちすると、

 「そう言えば、そうよのう。たしかに、おかしい」

 父も芳子の様子に注意を払いつつ、同意した。

 父にとっては、兼光と芳子の結婚以来、兼光を慕う気持ちがそのまま芳子にも転移し、「姉さん」と親しく呼びかけ、実の姉のように慕ってきた芳子であった。

 その芳子が、どうも父や母に対してそらぞらしくなってきた気がした。すれ違いざま、目をそらせる気配すらある。

 原因は吉川さんにあるらしい。母は目ざとくそれに気づいた。

 芳子は店に出ないで工場にいることが多くなり、女工の仕事を手伝ったり、いつもは父がやっていた荷造りの仕事を、「私がやりますよ」と買って出て、いつの間にか工場に居所を定めてしまった。

 休憩時間になると、煙草を吸いに外に出る吉川さんを目で追い、ときには偶然を装ってふらっと外に出て、吉川さんと話し込んでいることもあった。

 そのうち、女工たちもひそひそとうわさを立てるようになり、吉川さんと芳子の関係は半ば公然たるものとなった。

 芳子もそれに気づいていて、はじめはひそかに視線を交わす程度であったのが、かえって、これ見よがしに、

 「ねえ、吉川さん。いまかかっている原節子の『晩春』っていう映画、面白いそうよ。行きましょうか」

 などと、仕事中の吉川さんに声をかけるまでになった。

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 それで済んでいる間はまだよかった。

 芳子は父に向かって、工場の所有権は兼光から相続した私のものだと、ことさら権利を主張するようになった。

 三軒長屋の北の端の居住棟は、兼光との約束で、賃貸料なしで父が住むことになっており、工場の管理者も父であった。

 ところが芳子は、それは兼光との口約束にすぎず、兼光が亡くなったいまはその約束も解消されている、と言い張るのだった。

 吉川さんを父の立場に据えたいという、芳子の魂胆が父にはありありと読み取れた。

 吉川さんは淡々と仕事をしていて、おくびにもそのような心情を外に見せることはなかったから、吉川さんの心の内を推し量ることはできない。

 しかし、父がする女工たちとの気慰みの会話や笑いを、吉川さんが快く感じていないことは、父にもわかっていた。

 父の工場における地位は微妙なものになっていった。居住棟に住んでいることにすら、肩身の狭い思いをしなければならなくなった。

 いまでは主客が入れ替わり、父たち一家の方が居候であった。

 下駄作りの仕事に対する熱意も急速に冷めていった。

 昭和24年が暮れ、25年が明けたころには、父の気持ちは固まっていた。

 「工場を出よう」

 母に気持ちを伝え、母は一も二もなく同意した。兼光と始めた15年にあまる下駄工場であったが、もはやそこに父の居場所はなかった。

 母にとっては、3所帯同居という息の詰まる生活から抜け出せることが、何より喜ばしいことであった。続いて生じる窮乏生活は、当座の視野にはなかった。

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 父は家を探し始めた。仕事探しよりも、まず家探しであった。

 いくつかの不動産屋を回るうち、空襲からまぬがれた古い二軒長屋が、手ごろな価格で見つかった。借家作りの安普請ではあったが、特に傷んだ風はなく、借金なしで何とか手に入りそうな価格が魅力であった。

 決断は早く、昭和25年2月、ぼくが2歳の誕生日を迎えたころには、二軒長屋は父の所有になっていた。工場時代に蓄えた貯金は、購入費ですっかり消えてしまった。

 芳子が支払うであろう退職金が、食いつなぐための頼みの綱であった。それが尽きぬうちに新しい仕事を見つければよい。

 もともと、二軒長屋の片側に自分たちが住み、もう片側は人に貸す予定であった。借り人が見つかれば、家賃収入が家計を助けてもくれるだろう。

 二人が立てた生活設計はこのようなものであった。

 小学校に通っていたぼくの兄の転校の都合により、引っ越しは3月末となった。

 いよいよ翌日には工場を去るという日、

 「ごめんね、追い出したみたいで」

 と、父の知るかつてのおだやかな表情の芳子が、父たちの部屋に下りてきた。

 永久の別れになるわけでもないが、兼光の思い出話などで、別れを惜しんだ。

 ひとしきり座が和んだ頃合い、

 「これ少ないんだけど、とっておいて」

 と、芳子が懐から封筒を取りだした。

 「他人でもないのに、退職金というのも何だけど、まああの人の気持ちということで、納めておいてね」

 父の前にすっと押し出された封筒に、父は手をつけることなく、

 「姉さんも苦しいのに、申し訳ない。工場を捨てて行く上に、こういうものまでもらって。本当に申し訳ない」

 父は頭を下げた。母も一緒に頭を下げ、これですべてが終わったと感じた。

 芳子が去ったあと、封筒を開けてみると、入っていたのは予想をはるかに下回る額のお札であった。
 「これで済んだということだな」

 父は言い、

 「そういうことね。姉さんとも縁が切れたということよね。新しい門出は、私達で祝いましょう」

 母は、残っていた熱燗の最後の一滴を、父が差し出す盃に注いだ。

愛らしいネコ
2010年10月17日
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このネコ、噛むんだ、
飼い主を。

腹が減ったと
「ニャゴ、ニャゴ」まとわりつき、
相手をしないと、
「はやくしろ」と言わんばかりに
鳴くのをやめて、足先をがぶり。

ああ、鋭い歯形が、…。
痛いといったら、並みではない。
まあ、彼なりに加減はしてるのだが。

いつもはゴロゴロ寝てばかり。
愛くるしい姿で、なごませてくれる。

だから、飼ってあげてるんだぞ、君。

朝焼け
2010年10月17日
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時間は、
「今」という、ありもしない幻影を脱ぎ捨て、
過去に蓄積する。

ぼくらにとって、
時間とは、
蓄積された過去。

車窓から
「今」が見えたりはしない。
ぼくらの「今」は、もはや残像。

過去、
それだけが真の実在。
ならばなぜ

ぼくらは今を生きるのか。
過去へ、過去へと
流れ去るぼくらが

今を生きるのはなぜ
ただ一本の
アイデンティティという名の

レールに乗って
ひた走るのは、なぜ
レールなんて

本当にあるの?
それはただ
鼻をかんで捨てた

ティッシュペーパーみたいなもの
ぼくらの進む先に
レールなんてない

あったらそれは
必然という名の
まさしく死だ

しーんと静まった
無限の奥へと続く
死だ

ぼくらのアイデンティティは
死を越えて
生きていなけりゃ

どのように?

『悲しき熱帯』
2010年10月19日
 『悲しき熱帯』(レヴィ=ストロース)をかつて読み、途中で放り出していたことを、ひと月ほど前『闘うレヴィ=ストロース』(渡辺公三)を読んで思い出し、書棚から取りだしてもう一度読み始めた。

 一気に読むのはもったいないほど濃密なため、毎日寝る前に少しずつ読んできた。ようやくほぼ終えた。

 中でも興味深かったのは、ナンビクワラ族の話。ブラジルの奥地に住む原始的インディオだ。

 男も女も裸。アダムとイブがイチジクの葉で隠すことを知った以前の段階にある。

 狩猟と採集で生活している。

 男が弓矢をもって狩りに出る。が、うまく獲物がとれることは滅多にない。たいていは、女たちがほっつき歩きながら芋虫の幼虫やコウモリの死骸、トカゲ、木の実などを取ってくるのを食材とするしかない。

 女たちは木の棒をもって歩き、それで地面をつついては、芋虫の幼虫を探し出す。これが彼らの最高のごちそうなのだ。

 女たちが一日ほっつき歩いて竹かごに入れて持ち帰る食べ物は、観察者のレヴィ=ストロースが見るかぎり、西洋人の一人の腹を満たすにも足りない。

 夕方、4,5人の家族がたき火を囲み、女たちの収穫を灰の中に押し込んで焼きながら食べる。芋虫は一人あたりせいぜい3,4匹。

 信じがたいまでに悲しく哀れな粗食の光景だ。

 これを読みながらぼくは、はたして彼らは現代のぼくらより不幸せなのか、言いかえれば、ぼくらは彼らよりも幸せなのか、ということを考えざるを得なかった。

 彼らは、夕方、家族で火を囲んで集まり、わずかとは一日の収穫物を分け合って食べる。その日の出来事や過去の神話を語り、歌い、踊り、そして互いに抱き合って寝る。地面にごろっと横になって寝る。寒くなればたき火の澳や灰をかけて寝る。

 これとぼくら現代人の家族を対比して、ぼくらの方が幸せだと言い切れる人はどれだけいるだろう。
 ぼくらが豊かなのは物質面だけではないか。そんな気になる。

 彼らには階級はない。首長はいる。だが、首長には支配する権力はない。支配・被支配の関係がそもそもないのだから。

 首長はひたすら与える義務をもつ。草木や獣骨や石で作ったわずかばかりの装身具を、ひたすら部族民に分け与える(請求され、あるいはぶんどられる)のだ。レヴィ=ストロースが首長に渡した手土産の布きれなどは、翌日にはみな部族民の遊び道具になっている。そして数日後には、あちこちに捨てられている。

 首長には取り分はないのかというと、一つだけある。それは妻である。一夫多妻が部族民から許されるのは首長だけなのだ。最初の古い妻に加えて、首長になって得た若い妻が2,3人いる。

 それだけのために、部族民を危険から守り、狩りや採集の適地を探して先頭になって移動し、持ち物をすべて部族民に分け与えるという義務を果たさなくてはならない。

 首長の交代は戦いによらない。戦い取るほど価値あるものとは考えられていないのだろう。

 たいていは推薦。というよりも、ほとんど成りゆきに近い。

 いやな場合には辞退する。

 文明の進化とは何だろう。どんな意味があるのだろう。その進む方向は間違っていないと、誰に言い切れるのだろう。唯一絶対の文明進化の道を、人類ははたして歩んできたのだろうか。

 ぼくは真剣に考える。

自伝風エッセイ (18) ぼくの始まり
2010年10月25日
 ぼくの前にあって、ぼくという存在の根源的原因をなす父と母の人生を、駆け足でなぞってきた。その区間は、ぼくが受動的に存在し始めた地点をやや越え、主体的な実在となった地点まで延びている。駆け足とはいえ、長すぎるプレリュードであったのかもしれない。

 ここに至ってようやくぼくは、「自伝風エッセー」本論に移行することができる。つまり、ぼくがぼく自身を語ることができる。

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昭和25年当時の上一万。手前が勝山通り。右端は市電の上一万駅。

 ぼくの記憶は、昭和25年3月、父が下駄工場を去り、新しい家に移り住んだ地点から始まっている。ぼくがぼくを自己認識した地点、すなわち主体的実在が始まった地点は、厳密にそこにある。

 生まれて2年間を暮らしたはずの下駄工場における生活は、ぼくの記憶にはない。闇の中に埋もれている。

 いや、埋もれきっているかというと、そうとも言えない。淡い霞のような残像がかすかに残っている気はしている。

 工場の居住棟と思われる座敷で、数人の大人の女性の視線を受けながら、よちよちとおぼつかない足取りで歩いている場面が、ぼくの遠い遠い記憶の彼方にあるのだ。それは夢ではないと思う。うつつの記憶なのだと思う。

 ぼくの視線の先には縁側があり、その向こうに日を浴びた庭が見えた。ぼくは畳の上を縁側に向かって歩いている。靴下をはいていた。白い靴下だった。それと、少しゆったり目の半ズボン。

 その記憶が始まる一瞬前まで、ぼくは膝の上に抱かれていたように思う。抱く手をふりほどいて立ち上がり、縁側へ、つまり光の射す方向へ、ぼくは歩き始めたのだ。一歩一歩、たしかめるように、ゆっくりと、あぶなっかしげに。

 ぼくの周囲には女の人が何人か座っていた。

 縁側に近づくと、「危ないよ」と、そのうちの一人がぼくを抱きとめた。と思うのだが、記憶はその一瞬手前で切れている。抱きとめられた衝撃で、記憶はふたたび闇の中に閉じ込められたのであろうか。

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 ストーリー性も持続性もない記憶の小断片にすぎない。だが、その場所が下駄工場の座敷あるいは茶の間であったという事実は、ぼくにとって、なぜか確信めいてたしかなことである。不思議なことだが、疑えない確信となっている。なぜだろう。いま冷静に振り返ると、奇妙なことである。

 少なくとも、その場が父と母の新居(すなわち、ぼくの子供時代を通底している住空間)でないことは、家の造りからして明らかである。しかし、だからといって、それが工場であったと結論する論理は成立しない。だのに、ぼくにとっては疑うべくもなく、そこは工場なのである。

 そもそも、「こうば」という言葉をぼくが知ったのは、父や母が繰り返しその言葉をぼくの前で口にしていたからである。「こうば」というものがいかなるもので、父や母がそれといかなる関わりを持っていたのか。幼いぼくに理解できたはずはない。

 「こうば」と呼ぶところに父や母がかつて住んでいたこと、しかもそこを職場にしていたこと。この過去の事実をぼくが知るのは、まだまだ後のことである。

 にもかかわらず、なぜだか、上の記憶と「こうば」とは、ぼくの中で表裏一体、切り離せないものとなっている。父や母が「こうば」を口にするとき、そこには 常に懐かしさの響きがあった。他者を語っているとは思えない、内実そのものの響きがあった。それが遠い霞のようなぼくの記憶と、いつの間にか融合していっ たのであろうか。

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 ぼくは工場を主体的には見た経験がない。父が工場を去ってほどなく、工場は火災にあって消失したのだから。空襲には耐えた工場が、ぼくの主体的体験を経る前に、もろくも崩壊したのである。

 だから、ぼくのかすかな記憶は、工場におけるものでなければならない。そうでないと、ぼくの中で工場は究極の無でしかなくなってしまう。

 奇妙な論理ではあるが、「それは二歳になる前の工場時代の記憶であった気がする」という得体の知れない確信を、ぼくは信じたいのである。

 ひょっとしたら、新しい家に移り住んだ直後、ぼくを連れて父と母が工場を訪れたときの記憶なのかもしれない。そのとき、「ここが母ちゃんたちが住んでいた 工場よ」とでも、母が言ったのかもしれない。だからこそ、その場面は工場なのだと、ぼくは確信めいて断言することができるのかもしれない。

 しかし、もしそれが正しいのなら、二歳をすぎたぼくの、あのあまりに赤ちゃんっぽい足取りは不自然である。やはり、「工場時代の記憶」にちがいない。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

 当否は別として、上の記憶はぼくの主体的実在の始まりを告げるものとはならない。それだけははっきりしている。

 あまりに茫漠としているから、というのがその理由である。もっとはっきり言えば、自分を包んでいる他者と自己との関わりが、記憶の中で識別できていないのである。他者と自己とが未分化なのである。客体の中に主体が混沌と溶けたままになっていて、まだ何も始まっていない。

 ぼくを見つめていた何人かの女性の中に母もいたはずだが、そのことにすら記憶の中でぼくは気づいていない。

 やはり、ぼくの主体的実在は新しい家に引っ越した時点から始まったと言わねばならない。

 その家は、上一万から道後に向かう電車通りの一筋北の通りに面していた。四、五軒おいて東には、農事試験場の広大な敷地と施設が広がっていた。

 上一万は米軍による空襲計画の東辺に位置していて、それより東にあったその家は空襲を免れた。その家の、道路に面した明るく日の射す三畳間で、ぼくの記憶は始まっている。

 引っ越しという出来事と同時に、記憶は始まっている。引っ越しの当日か、あるいはその翌日である。それ以降ではない。なぜそうと断言できるのか。それは次回の話としよう。

自伝風エッセイ (19) 光とともに
2010年10月29日
 ぼくがぼく自身を、取り巻く環境から切り離された一個の主体としてはじめて認識したとき、そこはきらめく光の中にあった。記憶の原点でもあるそこは、南に面した磨りガラス窓から射し込む春の陽光に満たされていた。

 母を母として、父を父として、記憶の襞にその姿を刻み込んだ瞬間、きらきらと輝く光がぼくを包みこんでいた。ぼくの時間はそこから始まった。

 南に面した三畳間だった。荷物箱が積み重ねられ、三面鏡が無造作に放置されたその部屋で、ぼくは混沌から目覚めた。そのとき、ぼくは母の膝にいた。母は小さなハサミでぼくの爪を切っていた。

 母の手元が狂い、深爪になったのかもしれない。爪のそばの表皮が傷つけられたのかもしれない。そのチクリとした痛みが、ぼくを混沌の縁から跳ね上がらせた。

 ぼくは磨りガラスが放つ無数の光彩に目をしばたかせた。きらきらと虹色にきらめく光だった。あたたかな光だった。

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 記憶の中のそのシーンが始まった瞬間、すなわち、ぼくの主体的人生のカチンコが鳴った瞬間、ぼくは母の膝で、母に背を向けて座っていた。母を見てはいな かった。にもかかわらず、ぼくは、背後にいるのが母であり、ぼくの爪を切っている人が母であることを、記憶の中ですでに知っている。

 なぜだろう。視覚としての記憶はカチンコとともにスタートする。だが、それに先行する情景が、すでに背景をおおっているのである。先行する情景の中で、母はぼくを膝に抱き寄せ、爪を切り始めた。

 先行する情景は、視覚的記憶に保持されてはいない。しかし、余韻が背景を満たしている。余韻というキャンバスの上に、視覚的記憶が刻み込まれていくのである。

 こうして、記憶のシーンの開始時には、ぼくはすでに背後に母がいることを知っていた。

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 これはこの記憶にかぎらない。ぼくは自分の記憶をたどるとき、類似の事実にしばしば遭遇する。記憶の場面に現れないものが、つまり先行する情景が、記憶の始まりをほのかに照らしている。そんな追憶体験である。

 ひょっとしてこれは、記憶一般に通じることではないのか。そんな気もしている。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

 ぼくは磨りガラスの輝きにしばらく目を奪われた後、母の方へと身をよじり、膝の上に立ち上がった。母の首に手を回して肩越しに見た部屋には、乱雑に積まれ た荷物箱があった。そして母の斜め後ろに三面鏡が無造作に置かれていた。壁から離され、いかにも不安定に放置された三面鏡であった。

 この記憶が、ぼくに一つの確信を与える。もちろんこの確信は、ずいぶん後に得たものである。父と母がたどった人生をぼくなりに追体験してみることのできる地点に立ちえた後に、ふとこの記憶がよみがえったとき、それがもつ意味の深さに思い当たったのであった。

 あのいかにも無造作に放置された荷物箱と三面鏡。これが引っ越し直後の情景であったと言わずして何と言おう。父も母も、片づけにおいては几帳面な人であった。日常の生活にあの乱雑さが出現するとは考えられない。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

 工場からの引っ越しは、ぼくが2歳になった直後の春3月であった。それは、後に聞かされて知っている。昭和25年3月だ。しかも、小学生であったぼくの兄が3年生を終えて4年生に上がる境目であったことも知っている。ならば、3月も相当に押し詰まっている。

 3月末日に近いその日、東一万町の新居に父と母は引っ越した。

 大きい道具は母の嫁入りダンスくらいのもの。工場の小さなトラックで2,3度往復すればケリがつく。手伝いは、工場の古株の職人である吉川さんが音頭を 取ってくれただろう。若い職人もいたから、荷積みも荷下ろしもあっという間だ。朝から取りかかれば、昼を待つまでもなく完了したはずだ。

 皆が帰ってほっとしたとき、時計を見ると、まだ昼には間があった。昼食には、工場を立つ前に用意しておいた弁当がある。母はふっと力が抜けたように、明るい日の射す三畳間に膝をつき、三面鏡から小さなハサミを取り出した。そして、ぼくを膝に乗せた。

 工場のしがらみからようやく抜け出せた喜びと、行方の知れぬ未来への不安とが複雑に混じり合った、揺れる思いの中で、母はぼくの爪を切り始めた。

 その瞬間だ。ぼくの記憶に火が灯り、主体的人生の時計が刻まれ始めたのは。

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 若いころから何度も思い起こした場面であった。だが、それが2歳になったばかりの3月だったと気づくことはなかった。工場からの引っ越しと結び合わせるこ ともなかった。それ以上はさかのぼれない記憶、つまり自分にとっての記憶の原点であるという自覚だけは、ずいぶん昔から持っていた。

 それが、昭和25年3月30日前後という、特定できる日付をもった記憶であると気づいたときの驚きは大きかった。ぼくにとっての第二の、そして実質的な誕生の瞬間だった。それを知ったことは、さらに感動的だった。

 母の肩越しに次に見たものは、奥の六畳間からのそっと現れた父だった。見上げるような巨人に見えた。しかし、それが父であることは、ぼくにはすでにわかっていた。

 明るさになじんだぼくの目には奥の間は暗かった。その薄暗い空間から、いきなり巨大な姿が出現し、鴨居をくぐってこちらへと歩いてきた。あっと驚いた。

 そこで記憶は途絶えている。

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 爪切りばさみが表皮を削った痛みで記憶に火が灯り、父の巨大な姿に驚いた衝撃でその火は消えた。その間、せいぜい10数秒。だが、短時間とはいえ持続し、 しかもストーリー性をもった記憶であることに意味がある。父と母を識別し、荷物箱と三面鏡を記憶にとどめたことにも意味がある。

 外部の事物の識別を通して、それと対比される自分を意識したことに、さらなる意味がある。

 だからこそ、記憶に火が灯ったのだ。

 さんさんと降る春の日射しに包まれた懐かしい記憶だ。60年もの昔の記憶だ。

ぼくの大事な宝物
2010年10月30日
 昨日、86歳になる叔母を訪ねた。何ヶ月ぶりかで。

 背骨を痛めて寝たきりのときは、ずいぶん年老いて見えた。

 それが、今は車いすに戻っている。

 食事の用意をしてくれるヘルパーさんのそばで、叔母はなんとも若やいでいる。生き生きしている。
 これなら百まで生きられそうだよ。

 86歳と言えば、母が死んだ歳。父が山で遭難した歳でもある。

 父は一人で石鎚山に登り、崖から滑り落ち、三日目に発見され、ヘリコプターで救助された。あれが86歳だった。もう12年にもなる。

 叔母は母のたった一人の妹。

 「姉が死んだとき、何とか姉の歳までは生きたいなと思ったのよ。あと7年はぜひ、とね。気がついたら、今がその歳。不思議なものよね、人生って。」

 「滝壺がすぐ目の前に迫るところまで流されてきたのはわかる。だけどね、それが不思議に無限の先のような気にもなるのよ。いくつになってもわからないものね、人生って」

 とも。

 叔母は文章を書くのが好きで、若いころからさまざまな文芸誌に投稿してきた。思わぬ有名作家と知己になっていて、驚いたこともある。

 その叔母が言った。

 「投稿したものも、しなかったものも。これまで書いたものをごちゃごちゃとため込んでいるのよ。段ボール箱に詰めてどこかにしまった覚えはあるんだけど、今はもうどこにあるのかもわからなくなったわ。探す気力もなくてね。Kちゃんなら大事にしてくれると思うから、いつか探して読んでみてね」

 ぼくはそれを聞いた途端、体が火照ってくるのを感じた。

 「うん、ぜひ読ませてもらうよ。ぼくがもらってしまうわけにはいかないから、借りて全部コピーさせてもらうよ。近いうちにまた来て探すからね」

 ああ、何という幸せだろう。ぼくにとっては何より大事な宝物になる。

 それに加えて、さらに衝撃的な話をしてくれた。

 「姉がね、死ぬ何年か前に言ってたのよ。『ワープロで暇々に自分の人生のことや、これまで考えてきたことを書いているのよ。Kなら読んでくれると思うから、これらは全部Kに渡すつもりよ』ってね。」

 ぼくは驚いた。

 「ええっ? 知らなかった。知ってたら、おふくろが死んだとき、何としてでも探し出していたのに。今はもうなくなっているだろうな」

 父が書き残していた手記だけは、母の死の直後、偶然発見して手元に残した。だが、母にも同様の書き物があるとは全く知らなかった。

 両親の家にあったものはすべて、兄夫婦によって片づけられてしまった。今はもう何も残されていない。残念ながら兄夫婦はこの種のものに関心を持つ人ではないから、きっと紙くずとして処分されたにちがいない。今ごろ、それらの文書は、煙になり、分子にまで解体されて、どこかの空を自由気ままに飛び回っているはずだ。

 ぼくの大事な宝物の一端はこうして、その存在すら知らないうちに消え果てていた。叔母の話を聞かなかったなら、知らないままで済んだことではある。だが、知ってしまった今となると、何とも残念でならない。

 ぼくに読ませたいという母の思いを知っただけに、なおさら残念である。悲痛である。

 しかし一方、叔母の書いたものは、そのコピーをすべてもらえることになった。思ってもいなかった宝物が入手できることになったわけだ。これはもう、ぼくにとっては家宝である。
同窓会
2010年10月31日
昨夜の同窓会がしみじみと、時を忘れて楽しかったのはなぜ?
もう何度となく出席した同窓会。
だのに、昨夜ほどしみじみと語り合えたことはない。

人生をぐんぐん前に進んでいたころ、過去なんて見えなかった。
今の一足を休止して、現在地点を確かめ合うことにすら、
ぼくらは意味を見いださなかった。

過ぎたと思えば、はや後方に遠のく還暦の門。
いま、
ぼくらは息を休めるとき。
走りに走った息を休めるとき。

人生そのものであった仕事を終え、次の道に歩を進めるとき。
自分だけのひそやかな道を探すとき。
人生の真の意味を求めて歩むとき。

ぼくらは、
ようやく、はじめて、
仮面を脱ぎ、
素顔をさらして語り合った、昨夜。

ああ、道はそれぞれ、各人各様。
見いだす価値は、千人万色。  (たぶんこれはぼくの造語)
それが楽しい。

一色に塗られた社会と、
同じ向きに顔をそろえた人、人、人。
そんな画一から、ファッショから、
自由になったぼくら。

儲けるための新たな道に足を踏み入れる者。
それもいいではないか。
時給何百円で、もてあました暇を小遣いに転換する者。
それもいい。
ボランティア、町内の世話役。
いいではないか。
いくつもの名刺と名誉職をひっさげて、会から会へと渡り歩く者。
それもまたいい。

一人机に向かって、数え切れない夢を、数え切れない言葉に変換する者。
それもいいと思うのだが。

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