自伝風エッセイ (10) 南京へ、そして台湾へ
2010年9月14日
 ここ半月ほど、専門職と考えている本来の仕事に熱中していたため、自伝風エッセイから遠ざかっていた。

 また、数日後にはアメリカを1週間ほど旅してくる予定なので、その間は書けない。

 ということで、今日は久しぶりに「自伝風エッセイ」を書き継いでおくことにする。

 わが人生を書く前提として、誕生に至るわが家の事情、中でも父の事情を記しておかないことには話が成立しないと考えて、父のことから始めたのだが、当初の想定をはるかに越えて長いものになってしまった。面白みもなくなってきた。

 今後は、やや速度を上げ、エッセイ的要素の強いものとして書きつないでいきたい。ぼくの主観を芯に据えて語っていきたいということだ。

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 昭和12年8月から11月まで続いた上海事変に看護兵として従軍した父は、丸々百日、前線に近い野戦病院で休む間もなく負傷兵の手術に明け暮れた。目の前で死んでいく何百人もの兵士の最後にも立ち会った。

 11月中旬、中国軍が南京方面へ撤退を開始すると、追尾した日本軍に従って、野戦病院部隊も南京近郊まで進んだ。その途中の道々で、父は大量虐殺の痕跡を目にすることになる。おびただしい民間人の死体が累々と道に転がっていたのだ。

 ぼくは子供のころ、父からその話を何度も聞かされた。「南京大虐殺」の真偽が世間で問題となるよりも前のことだ。ぼくの心の中では、すでに大虐殺は疑いようのない事実となっていた。

 ところが、いまだに南京での虐殺はなかったと主張する日本人が少なくない。ネット上で「南京大虐殺」を検索すると、「南京大虐殺はでっち上げ」という論調のページの方が多いのに驚く。

 虐殺がなかったのだとすると、父が見たあの、道を塞がんばかりの死体の山はいったい何だったのか。ぼくはとても「でっち上げ」論を信じる気にはなれない。「でっち上げ」論には、若者が書いたおふざけ調のものが多いのも気になる。あるいは誰かの扇動に乗って、根拠もないまま、面白おかしく書いているとしか思えないものも多い。

 やや真面目な書き方のものに限定してみると、虐殺という事実を否定しない代わりに、「虐殺は中国軍によるもの」と主張されているケースが目につく。日本軍ではなく、中国軍が逃げる道々、同国人を虐殺していったというのだ。

 たしかに当時の中国は国内が一つに統一されておらず、国共合作がなったとはいえ、内部抗争は激しかった。逃げていく八路軍や国民党軍と庶民との間に何らかのいざこざが生じたとしても、おかしくはない。しかも、いかなる戦争においても、敵に背を向けて撤退する間際には、周辺の民家などに火を放つことが昔からよくある。それが庶民感情を中国軍から離反させたという事実もあったのだろう。

 しかし、それらもろもろを考慮したとしても、八路軍や国民党軍が中国人を大量に虐殺したと主張するには、まだまだ論理に飛躍がありすぎる。

 だだ、中国軍が虐殺したというこの主張に対しては、父の証言は、証言としての意味をなさなくなるのもたしかである。彼らは決して虐殺という事実を否定しているわけではないのだから。そして、父が見たものは、虐殺されたあとの死体の山であって、虐殺している現場ではないのだから。

 しかし、日本軍による虐殺を傍証する証しが他にある。追尾した日本軍兵士の気分や感情を示す多くの証言である。

 「一歩も引かない中国軍の頑強な抵抗によって、多くの戦友が無残に倒れていく姿を目の前に見続けていた兵士たちは、突然の中国軍の撤退という状況の変化によって、中国人憎しの感情を一気に爆発させた」

 といった内容の証言である。眼前の敵と対峙して、生きるか死ぬかの必死の戦いの中にあったときには、「憎し」といった感情など抱くゆとりもなかったのである。敵の撤退と追尾という、突如訪れた精神的なゆとりが、「中国人憎し」を一気に沸騰させたというのだ。

 父も、この種の気分が日本軍の中に出現したことを、話の中に何度か差しはさんでいた。ネット上でも、こうした話をいくつも目にすることができる。

 ただし、この種の気分や感情の証言を持ち出すまでもなく、常識的に見て、軍隊が何万人、あるいは何十万人もの同国人を、逃げる道々殺戮するというのは、あまりに不自然すぎる話であろう。

 最大の問題は、虐殺に直接かかわった兵士の証言が少ないことである。彼らの大多数は黙して語らずの態度をとり続けている。そして、語らないまま亡くなった人も多い。

 だが、これは心理的、あるいは法的な自己擁護の立場から考えたとき、当然とも言える現象である。しゃべってしまえば、自らが重大犯罪に手を染めたことを自首するに等しいのだから。「私もやった」とは、とても言えないのが、人間としての最も自然な心理であろう。

 虐殺が上層部の命令によるものなのか、自然発生的暴発に端を発したものなのか、いずれとも判断しがたいのであるが、いずれにしろ、虐殺にかかわった兵士たちは、後に冷静にその瞬間を振り返ったとき、夢遊病者のような、あるいは白日夢を見ていたような、信じがたい自分をそこに見る人が多いのではなかろうか。その心理もよくわかる。夢であったのか現であったのか、判然としないという心境なのだ。虐殺の事実を認めたがらない人がいることに、なんらの不思議もない。

 実際のところは、誰が最初の引き金を引いたのかもわからない怒濤のような激流に呑み込まれて、自己を喪失したまま、彼らは狂気のうちに大量殺人の当事者になっていたのであろう。つい先日前まで、前線で敵と対峙して銃を撃ちまくっていた彼らである。高速道路から一般道に下りた直後のスピード感覚の麻痺に似た現象が、彼らを支配したとしても不思議はない。

 思い起こせばすべては夢のまた夢なのだ。

 当事者による現場の証言が少ないのは、あまりにもおぞましい地獄絵を体験した者として、当然といえば当然のことなのである。

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 虐殺の痕を垣間見るや、父たち野戦病院部隊は直ちに上海に戻るよう命じられた。野戦病院を必要とする戦闘はもはや起こらないとの判断であったろう。来た道をふたたび上海に戻った父たちは、上海上陸以来初めてとなる丸一日の休暇を与えられた。父は上海の街を歩けるかぎり歩いた。この春ぼくが上海を訪れたときに見た、あの人波にあふれかえった黄浦江のほとりを、父も好奇の目で散策したにちがいない。

 翌日には早くも移動命令が出た。黄浦江に沿い、泥のようなぬかるみを呉松まで歩き、船で台湾の高雄に渡った。昭和12年12月末から翌13年3月末までの3ヶ月間を、父は高雄で過ごすことになる。まっすぐ日本に帰還しないで台湾に停留した理由は、ぼくの想像するところでは、中国戦線の様子見であったのだろう。

 戦闘の状況によってはふたたび出動して、病院を開設しなければならない可能性もある。看護兵たちに休息を与えつつ、事態の成り行きを見守っていたのであろう。

 台湾での3ヶ月は、父たち若い看護兵にとって、まるで遠足か修学旅行のような気楽な日々であった。バナナ農園の一角にある民家に分宿した彼らは、ときに農園の手伝いをすることがあったとしても、たいていは仕事もなく、時間をもてあましていた。食事当番、掃除当番、器材の見張り当番など、自主的な規律を作ってはいたが、それでも時間はたっぷりあった。

 父の任務はオート三輪の運転であった。部隊にはただ一台の乗り物として、オート三輪があり、日に一度、隊長(軍医)を乗せて作戦本部まで往復するのが父の仕事であった。オート三輪には運転席の他に座席はなく、隊長は荷台に乗るしかなかった。荷台に縛りつけた不安定なイスが隊長の席であった。舗装などないガタガタ道だから、隊長が荷台から転げ落ちないか気を配るのが大変だったと、父はよくぼくに話していた。

 あまりに暇なものだから、部隊ではしばしば気分転換に高雄周辺の野や山に遠足に出かけた。地元の人と交流することもあった。ときには足を伸ばし、何時間もバスに揺られて砂糖工場の見学に出かけたり、高い山に登ることもあった。

 あるとき、高地の少数民族の村を訪れた。そこでは昔、首狩りが行われていたそうで、その収穫品である頭蓋骨をびっしりと棚に並べた首棚というものを見学した。首狩りの風習をやめさせるために、村の高僧が自分の身を犠牲にして若者を諭した話など、興味深い話を父は村人から聞き、ぼくにも語ってくれたものだ。

 昭和13年3月末、父たちを乗せた船は坂出港に入港した。小旗を手にした市民が「万歳、万歳」と大変な騒ぎで出迎えてくれた。父は面食らってしまった。善通寺の兵営まで、まるで凱旋行列のような人の波であった。

 兵営に着くと、数日後には除隊となった。給料の残りと慰労金をもらい、さらに松山までの汽車の切符を手渡された。

 二十歳での徴兵に続く、父にとっての二度目の出征はこうして終わった。7ヶ月にあまる旅路であった。前半は戦火とどろく中、後半は台湾での眠るがごとき日々。松山に戻る汽車の中で、父はまるで夢見るように半年間を思い起こしていた。

自伝風エッセイ (11) 二度目の赤紙
2010年9月16日
 父は除隊になって松山に戻ると、わずか一、二日の休養ののち、下駄工場に復帰した。

 工場を離れていた7ヶ月という期間は、ぼくのように還暦をすぎた身ならば、「しょせんは一瞬」と割り切ることもできそうだが、26歳という若さの父にとっては、とてつもなく長い断絶であったはずだ。

 だがその切り裂かれたような溝も、仕事を始めてしまえば、たちまち薄れていった。久しぶりに見る工場に変わりはなかった。吉川さんは相変わらず黙々と働いていた。見習い職人や女工も、

 「戦地ではご苦労さんでした。よかったですね、元気に帰ってこられて。またよろしくお願いします」

 と、父のもとに来て簡単な挨拶をすますと、もう7ヶ月前が昨日のことであったように、賑やかにおしゃべりしながらそれぞれの仕事に向かっていった。出征する前と後とに、何らの乖離もあるように見えなかった。父はほっと安堵して工場の内を眺め渡すことができた。

 女工たちは、父の生還を祝う言葉の裏で、父の心を占めているにちがいない悲しみに、それとない心遣いを示していたのであった。それが素っ気ないとも感じられる簡単な挨拶となって現れていた。

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 父の悲しみというのは、幼なじみのSが、上海の戦いで死んだことであった。Sと父は、子供のころから変わらず続いた無二の親友だった。Sが自分よりも10日ばかり遅れて出征したことを、父は兼光からの手紙で知っていた。しかし、上海でSと出会うことはなかった。Sは前線で戦っており、父は野戦病院の看護兵だ。Sが弾を受けて病院に運び込まれてでも来ないかぎりは、二人が面会する機会はあろうはずもなかった。

 Sは前線に出てまだ日も浅い頃、顔面に銃弾を受けて、あえなく戦死した。即死だった。戦死の報が親元に届くと、村ぐるみで葬儀が行われた。だが、父が戦地にいる間、兼光はあえてそのことを父に知らせなかった。

 父は兼光への手紙で、「Sから親元に何か知らせが届いているようなら、聞いてその状況をこちらにも知らせてほしい」と書いたことがあった。だがそれへも兼光は、「わからない」とだけ答えた。

 父がSの死を知ったのは、除隊になる直前、善通寺の兵営に届いた兼光からの手紙によってであった。

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 父の心にぽっかりと穴が空いた。兵士の死には、数え切れないほど真向かってきた父である。だのに、考えてみれば、そのうちのどの一つとして、自分の心の奥に深い悲しみを響かせる死はなかった。丁寧に後始末をし、冥福を祈ってきたつもりではあったが、自らの内側に深い喪失感をもたらす死は一つとしてなかったのだ。

 人の死がもつ意味と度合いは、一般論で測れる範疇にはなく、その人との関わり方で天と地ほどにも隔たりが生じることを、父は自らの体験に重ねて思い知った。南京近郊の道々に放置されていた死体の山に、あらためて思いを寄せないわけにはいかなかった。

 松山に戻るとその足で、父はSの実家を訪ねた。一本の木から生まれたようだと皆から言われるほどに、物心つくかつかないかの頃から親しくしてきたSが、いまや一片の位牌と写真とに成り変わっていた。もはや永遠に、語り合うことも腕を組み合うこともできないのであった。

 父は喪失感に打ちのめされた。立ち直るには、仕事に打ち込むしかなかった。ふたたびがむしゃらに働き始めた。

 兼光の販売網に支えられた下駄工場には不景気の兆しはなく、順調に生産を維持することができた。

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 春が去り、夏が来、夏が去り、秋となった。

 秋も十分深まったころ、父に見合い話が持ち上がった。相手は実家から数キロ南の農家の娘であった。広いミカン畑をもつ農家だという。その頃はまだ近在でミカンを植える農家は少なかったので、陸軍駐屯地の下に広がるミカン畑がそれだろうと察しはついた。

 見合いの前に、娘を一度のぞきに行こうと、話をもってきた叔母から相手の家を聞きただすと、晴れた秋空のもと、父は友人を誘って娘の家まで出かけた。土塀と生け垣に囲まれた家だった。生け垣の隙間から庭を覗き込んだ。弟と思われる子供たちが遊んでいるところに、しばらくして家の内から一人の娘が現れた。はっとするような目の輝きをもった娘だった。

 これにちがいない。一目見て父は「よし、決めた」と心の内で叫んだ。

 母にとっては二度目の見合いであった。一度目は十歳も年の違う相手で、道後の料亭で見合いをしたあと、「ちょっと公園を二人で歩いてみたら?」という仲介人の勧めで道後公園を散策したものの、振り放すような勢いでずんずん足早に先へ行ってしまう相手の背中を追いながら、「この人とは絶対に結婚しない」と決めたという。

 二度目の相手である父には、母も見合いの席で悪い気はしなかった。「この人でいい」という思いが、その場ですでに高まっていた。

 それに、母の心の奥底には、いつまでも相手を選んでいるゆとりのない焦りのようなものもあったのだ。早く結婚して呪縛から逃れたいという事情があった。

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 事の発端は、県立女学校3年生の夏休み、母親が突然、病に倒れたことにあった。倒れると、その夜のうちに帰らぬ人となった。あまりに唐突な死であった。勉強好きで、さらに上の学校に進みたいとまで考えていた母であったが、その人生は母親の死を機に暗転してしまった。周囲の大人はいやおうもなく母を退学させ、小さな弟たちの面倒を見る母親代わりをさせたのであった。

 家には、まだおむつの外れない末弟をはじめ、小さな弟や妹がたくさんいた。勉強を楽しんでいればよかった生活から、いきなり炊事、洗濯、掃除、子供の世話など、一家を切り盛りする主婦の仕事へと、生活が反転したのであった。

 ほどなく父親に再婚話が来たが、それに強硬に反対したのも長女である母であった。新しい母親が来れば、主婦の仕事から解放され、ひょっとしたら好きな勉強に戻れるかもしれない。しかし、そうなれば自分たちを産んでくれた母親の存在は汚され、思い出は壊されてしまうだろう。母は自分の自由のために父親の再婚を許す気にはなれなかった。泣きながら父親に訴え、反対を貫いた。父親もまた母の思いを汲み、生涯を独身ですごすことになる。後に母はそのことを強く悔いるようになるのであったが…。

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 母は、勉強したいという思いを内に深く秘めたまま、幼い弟たちの面倒を見る生活を続け、いつしか娘盛りへと成長していった。

 逃げどころのない悲しみを癒してくれたのは、たまたま近所に設立されたプロテスタント教会の伝道所であった。最初のきっかけは伝道者の側からの誘いかけであった。「幼い弟たちを母親代わりに育てながら、自分を押し殺して暮らしている不幸な娘がいる」とのうわさを伝道者が伝え聞き、訪ねてきたのだった。母は話を聞くと、次の日曜日には、藁をもつかむ思いで出かけてみた。

 そこで聖書を知り、キリストの愛に目覚めた。通ううちに、砂漠に水が染みいるように、母の体内にキリストの愛が浸潤してきた。母の抑圧された苦しみは、キリストにおいて解き放たれた。18歳のときであった。

 破裂寸前の苦しみからは解放されたとはいえ、母の苦しみが根源から解消されたわけではない。母の暮らしは相変わらず一家を支える主婦のそれであった。家事と育児に追い立てられていた。母親が死んだとき2歳だった末弟は、ようやく小学校に上がったばかりだった。

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 もう少しの辛抱、もう少しの辛抱と、自分に言い聞かせながら母は日を重ねていった。いつかはすべてを放擲して外に出たい。今はまだ無理だが、数年の内には。長男である2歳年下の弟が自立して仕事を始めることができれば、そのときには家を出よう。その頃には8歳年下の妹が下の弟の面倒くらいは見ることができるようになっているだろうし。それまでの辛抱だ。

 母は「そのとき」を、20歳から22歳あたりと見越していた。

 そして、父と見合いをしたのが21歳のときだった。時が近づいていた。決めてもいいときだ。決めなければならない。すぐ下の弟は、農業学校を卒業してすでに父親の仕事を引き継ぎつつあった。

 母は父親に「受諾したい」と言い、仲介人を通して父の側にその意向が伝えられた。父ももちろん了承だった。婚約は成立した。

 婚儀は年が明けてからということになり、昭和14年3月、二人は結婚した。母はそのとき22歳になったばかり。父はあとひと月で27歳になるところであった。

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 翌年の9月、ぼくの兄・周平が生まれた。

 周平がようやくよちよち歩きを始めた昭和16年8月、父にふたたび赤紙が届いた。中国では相変わらず戦争が続いていたが、もはや勝利も敗北もない泥沼に落ち込んでおり、人々の意識から戦争は遠い世界の話になっていた頃だ。

 赤紙は新たな戦争への動員ではなかった。大演習のための召集というのが名目であった。すでに7月には、満州の関東軍特殊演習が発表されており、大量動員が始まっていた。

 実はこの関東軍特殊演習は、6月に始まった独ソ戦をにらんだ、演習という名の戦争準備であった。独ソ戦がドイツ軍優勢の状況に進むようなら、日本軍が東からソ連に侵入しようとの計画であった。

 この特殊演習による大動員によって、関東軍の兵力は一挙にふくれあがった。後に終戦間際、日ソ中立条約を破ってソ連軍が満州に攻め入ったことがよく問題になるが、実は昭和16年7月時点において、日本軍は日ソ中立条約を破る計画をすでに持っており、そのための準備を進めていたのであった。

 独ソ戦は双方死力を尽くすものとなり、以後2年にわたり激しい戦いが繰り広げられた。第2次世界大戦中でも最大の死者を出す戦いとなったのであった。もちろん昭和16年7月時点でそれが読めた人はいない。

 少なくとも日本軍から見て、ドイツ軍優勢に進む兆しはまったく見えなかった。結果的には、後にスターリングラード攻防戦を経て、ドイツは大敗北を喫することになる。

 日本の対ソ戦は、関東軍特殊演習による大量動員にもかかわらず、きっかけを得ることができなかった。日本の軍部では間もなく、対ソ戦を断念し、太平洋方面での戦争に切り替える方針を決定することになる。

 このような背景に根ざした父への二度目の赤紙であった。もちろん軍部最上層部の計画が末端の一兵士にわかるはずはない。父はただ右へ左へと、軍部の方針転換に翻弄されるばかりであった。はじめ満州の奥深くに送られた後、きびすを返すように南方にやられ、そこで12月8日の宣戦布告を迎えたのである。

シアトルでイチローを観戦
2010年9月25日
9月17日から約1週間、シアトルの町を楽しんできました。

今回の旅で、驚くほど安い「格安航空券」の存在を知りました。松山→羽田、成田→シアトルの片道合計金額が5万円。つまり、松山・シアトル間の往復旅費が全部で10万円ということです。この安さは、ぼくには本当に驚きでした。

娘は何度も長期間の海外一人旅を経験しているので、昔からこういうのを使っていたのでしょうが、今回娘から教わるまでぼくは、「安いのは団体のパック旅行」と信じ込んでいたのでした。

ホテルも、部屋で自炊できるところを頼み、ヒルトン系の高級ホテルにもかかわらず、結構安く滞在できました。

収入源に制約のあるリタイア組のぼくたちにとって、こういう格安の費用で海外を楽しむことができるのはありがたいことです。
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シアトルでは、イチローの試合を2試合観戦しました。1試合目は200本安打まであと9本の時点で、ぼてぼての内野安打が2本。それなりのイチローらしさでした。守備では、右中間のホームラン性の大きな飛球を、フェンスに体をぶつけながらジャンピングキャッチし、でかい体のヤンキーたちが総立ちになって騒ぐのに合わせて、ぼくも思わず興奮してしまいました。結果はマリナーズの負け。

2試合目は、イチロー、ノーヒット。守備でも大した見せ場はなく、平凡な当たりを数回キャッチした程度。そして試合はマリナーズの勝ち。

イチローが打つと負け、打たないと勝ち。どうやらこんなジンクスがあるようです。

イチローが200本目を打ったのは、帰りの飛行機の中だったと思います。

シアトルは本当にいい町で、ダウンタウンや山の手を毎日歩き回って楽しみました。2両連結のトロリーバスが市内をくまなく走り回っていて、ダウンタウン(町の中心部)を移動するかぎりは、どの路線をどのように乗っても無料です。料金を払わないでそのまま乗り降りできる気安さは、まさに市民の足という感じでした。
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海沿いにあるパイク・プレース・マーケット(巨大な市場です)は大変な賑わいで、観光客だけでなく、昼時などにはサラリーマンやOLも大勢やって来て、シーフードやハンバーガーを買っては、海辺のベンチやテーブルで黙々と昼を食べています。連れだってやって来るのではなく、昼を食べるときは一人一人ばらばらに黙々と食べるものだなと、小一時間も座って様子を眺めていて、つくづく思いました。

貴重な昼の休憩時間を自分の好きなスタイルで孤独に楽しみたい。そんな意識が、特に突出することもなく淡々と当たり前に表出されているのを、彼らの様子からぼくは強く感じました。日本人によくある、誰かと連れだって行動しないと落ち着かない集団依存症からこの人たちは解放されているのだなと、感心してしまいました。これがアメリカンスタイルの個人主義というものでしょうか。

集まってくるハトにポップコーンをやったり、読書を楽しんだり、ただじっと沖を行く船を眺めていたり、小型のモバイルコンピュータで何か書き物をしていたり、ノートを取り出して読み返していたり、時間の過ごし方はそれぞれです。

また、見ていて、食事量の多さにはあきれかえりました。ハンバーガーにしろ、さまざまなシーフードにしろ、サラダにしろ、一人前が日本の基準だと2,3人分に相当しそうな巨大なものなのです。それを、女の人でも一人でぺろりと食べてしまうのです。ぼくなど、家内と二人で一人前を食べるのにフーフーという感じでした。

あの栄養量にして、あの巨体なのかと、納得、納得。とにかくヤンキーの巨体は驚きです。
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静閑とした木立に囲まれたワシントン大学が、この旅でぼくが一番気に入ったところでした。丘の上の広大な敷地は、全体が一つの大学町といった雰囲気を作り出しています。大学を囲む柵や塀はありません。どこからが大学で、どこからが周辺の町なのか、見境がつかないのです。

とにかく全体としてすごくいい雰囲気です。深い緑の古木の並木が森の中を思わせ、人の話し声は樹々に吸い取られて、いつでもしーんと静まりかえっています。そして、風が芯から心地よいのです。こんなにもさわやかで心地よい風をぼくは生まれてこの方味わったことがない。これは決して誇張して言っているのではありません。風に生気をもらいながら、ぼくはただずっと幸福にひたりきっていました。

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