義弟よ 〜その後〜
2010年6月2日
 聞いたよ。最後は奥さんに心を許したんだってね。ベッドのそばにたたずむことをすら拒んできた奥さんに、おむつの交換を許したんだってね。奥さんも「お父さん」ってやさしく君に声をかけたんだってね。

 十数年の別居暮らしから、心を通わせるすべすら忘れていた君と奥さんに、ついに再び春が巡ってきたんだね。

 それはわずか一日のことだったかもしれない。君に意識が残されていた最後の数時間のことだったかもしれない。それでいいじゃないか。数時間の心の融合は、過ぎ去った十年を埋め合わせて、あまりあるものだよ。

 君は苦痛と苦悩と孤独とにさいなまれつつ、道なき荒野をさまよい続けた。けれど、最後にはついにカナンの地にたどり着いたわけだ。

 消えようとする意識の果てから、最後の力で「ありがとう」って奥さんの耳元にささやいたと、後にぼくは聞いたよ。ぼくがこの話に涙をこぼさなかったと思うかい。

 君が奥さんに心を許さないままでいた長い長い入院生活を、けなげにも支え続けたのは君の妹だった。姉であるぼくの妻も遠く離れた地から、長距離バスの常連客として君の元に通ったとはいえ、妹が毎日来てくれなかったなら、君の心はとうに萎えてしまっていただろう。

 君にとって、妹は奥さんに代わる心の支えだった。

 その妹に、死期を悟った君は、そっと忍び寄ったというね。死の前夜だ。妹の夢枕に君が立ったと聞いたよ。ぬるっとしたキノコのような形で、君は妹の眼前に現れ、その肩に強く身をもたせかけたという。妹は肩の痛みを、目覚めてからもしばらく感じ続けていたという。

 そして、君が旅立ってしまった朝、妹は激しい腹痛に見舞われた。何の前触れもなく、突然妹のお腹が激しく痛んだという。何度もトイレに駆け込み、しまいには間に合わず、漏らしてしまうという失態すら演じてしまった。そして、小一時間もするうちには、何事もなかったように治まってしまったんだ。

 ぼくはこれをさもありなんと聞いた。

 君は旅立つ前に、長く世話をしてくれた妹の元に立ち寄ったのだ。何ヶ月もこらえ続けてきた腹の痛みを手土産にね。そしてそれを、妹へのしるしとして、そっと置き去って行ったのだ。

 君はこれで、いっさいの苦痛から解き放たれた。平穏にかのよき地に向けて旅立つことができたのだ。

 ぼくは六十年の人生の中で、死者の魂が立ち去り際に残していったしるしのことを、いったい何度聞き、何度読んだことだろう。現にぼく自身、あれはたしか中学一年の春だったが、目の前にそのしるしを疑うべくもない事実として目撃した証言者の一人だ。

 これは不思議でも何でもない。非科学的な神秘主義として排斥するようなものではない。当たり前の事実なのだ。

 君は多くの死者たちと同じく、立ち去る前に妹にしるしを残していったわけだ。君の頑固で一途な心は、あまりありがたくないしるしを君の妹にもらたしたわけだったけどね。

 「へへへ」っと、いたずらっぽい目で振り返って舌を出している君がぼくには見える気がするよ。

自由意志の背景
2010年6月6日
 私がこの春、定年を待たずして退職したのは、ひとえに私個人の内発的自由意志によるものであった。それも、とっさの衝動ではなく、長年にわたり思いを募らせてきた末の自由意志の発動であった。

 その思いがいかなるものであったのか。その萌芽から成長への全過程は、長年にわたって書きためてきた日記を読み返してみればおのずと知れるとは思うのだが、それはあまりに膨大な作業である。とりあえず、今の時点において思い起こされるエポック的出来事を、『杏夏へ 〜35年目の涙〜』に記したのであった。

 ともあれ、決断は内発的な自由意志によるものであった。そこには、いかなる外部的強制も誘導も介在してはいなかった。そのはずであった。少なくとも私はそう信じていた。自分の信念の立脚点を疑う人はあろうはずもなかろうから。

 ところが、退職して2ヶ月を経たいま、この間に私を襲った出来事を振り返ってみると、はたして個としての自由意志がすべてを決定したと言えるのだろうか、ひょっとすると、個の意志を越えた何かある絶対的意志が私を揺り動かしていたのではなかったのだろうか、そんな不思議な必然感に突き当たらざるをえない気がしているのである。

 もし仮に、定年までのあと一年を、つまり今という時点を、これまでと変わらぬ学校勤務ですごしていたとしたなら、この2ヶ月間に我が身に起こったさまざまな出来事は、私の処理容量を確実に破裂させ、生活そのものを破綻させていただろうと、私には断言できる。

 思えば、来るべき何らの予兆も予感もなかった昨年の夏休み、私は最後の決断を下し、秋になってそれを校長に告げ、新しい歩みへの準備を始めたのであった。しかし、その決断はすでに、未来を予知した絶対的意志が無意識下で私に道を示した結果にすぎなかったのだと、今になってみると私は思わざるをえない。

 「この道しかない。いまがそのときだ」と、無意識という作用場を通して、あるものが私に告げ知らせたのであった。

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 この間に起こった出来事の一つは、妻の弟の死であった。

 肺ガンと、その脳への転移が発見されたのは、一年半前。その時点で、すでに末期ガンの段階にあると家族には告げられた。家族とはいえ、妻子とはずいぶん長く別居暮らしをしていた義弟であったため、親身に面倒を見ることができたのは、比較的近い住まいの妹と、遠く離れた姉(つまり私の妻)であった。

 義弟は余命半年と告げられながらも、奇跡的に命を長らえ、一年あまりは小康状態を保つことができた。もちろん体の奥底ではガンはどんどん転移を続け、それに抗して、さまざまな抗がん治療が試みられた。

 いよいよ全身にガンが飛び火し、肉体的苦痛がいや増したのは今年の冬。そして、苦痛にもはや耐えがたくなったのは、この4月からであった。妻は片道4時間の長距離バスで何度も何度も往復するようになった。

 我が家には4匹の犬と1匹の猫がいる。そのうち2匹の犬は老犬で、ペットホテルに預けることもままならない状態にあった。もし私が勤務を続けていたとしたら、妻は弟をとるか犬をとるか、選択に窮するところであった。幸い4月からは私の身が自由であったため、妻は心置きなく弟の看病に尽くすことができた。

 今になってみると、痛みに耐えがたくなった4月からは緩和ケアに移行することができただろうし、そうすべきであったとも思うのだが、義弟のがんばる気力に押された主治医はその決断を下せず、抗ガン治療の方針を貫いたのであった。最終的には5月半ば、「もうこれ以上の治療はけっこうです」と、義弟がすべてを悟った一言を発したのを機に、治すことから痛みを取り去ることへ、つまり緩和ケアへと方針が転換された。そして5月末、義弟は苦しむことなく息を引き取った。

 その間私は犬の番と、あとで記すが、私自身の静養とに、身の自由という特権を使い尽くしたのであった。

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 もう一つの出来事は、リョウという老犬の死であった。私が「坊っちゃんだより」を立ち上げて間もない13年前、坊っちゃんだよりを介して知り合ったメール友達から譲り受けたのが、ラブラドールの子犬リョウであった。
 そのころちょうど、私の娘が獣医大の学生として相模原に住んでいたので、府中市のそのお宅までリョウを引き取りに行くことができた。娘はリョウを引き取ると、その足で羽田に向かい、飛行機で松山まで連れて帰ったのであった。

 以来リョウは、我が家の忠犬として活躍し、しつけ面でも、他の犬の模範生であり続けた。

 ところが大型犬のため、13歳ともなれば、人間でいえば80歳から90歳の老齢であり、今年の冬場から足の衰えが目立つようになってきた。つい先日まではまだまだ元気に走り回っていたと思っていたのが、ある日突然、10センチの段差をすら上り下りできなくなったのである。

 そしてついに、私が退職してしばらくした4月半ば、リョウは自力で立ち上がることができなくなってしまった。

 その前日、リョウにとって最後の散歩となった夕暮れ時のこと。すでに足の衰えが顕著だったため、私は散歩コースをいつもよりもずいぶん短めにした。短いコースを一周して家の前まで帰ってきたところ、リョウはなぜか門を入るのを首を振っていやがり、さらに別の短いコースを一周すべく自分で私を導いて歩き始めたのだった。そんなことは、リョウとの13年間のつきあいの中で、いまだかつて一度もないことだった。

 リョウはつらそうに足を引きずりながら、黙々と歩いた。その時点で、私にはまったく予知も予感もなかったのだが、リョウにはこれが最後の散歩になることがはっきりと自覚されていたのだと思う。これまで何百回、いや何千回と歩いた道の、その嗅ぎなれた匂いをゆっくりと嗅ぎ納めつつ、リョウは苦しい足を引きずって歩いた。

 そして翌日、リョウはついに立てなくなったのであった。

 それでもまだしばらくの間は、人の手で抱き起こすと、ふらふらしながらも立ち上がり、庭を10歩ほどは歩いて、ウンチやシッコをすることができた。

 わずかでも力が残っているかぎりは、寝たきりにさせてしまうのが忍びがたく、リョウのためにできるだけの手助けはしてやりたい気持ちだった。

 とはいえ、大型犬のリョウはとても重く、自分で立とうとしない体を人間一人で抱き起こすのはとても無理な相談だった。ここでまた仮定の話になるが、もし私が勤務を続けていたとしたら、妻一人の手では、リョウの世話はほとんど不可能であったと思われる。私がフリーの身であることが、リョウの寝たきりという状況を乗り越えるために、なくてはならない必須の条件であったのだ。

 それから2週間、妻と力を合わせてリョウの最後の世話をした。

 1週間後には、抱き起こしても立てなくなり、おむつに垂れ流しとなった。食事や水を与えるために上体だけでも起こそうとするのだが、しまいには首もだらっとして、顔を持ち上げることすらできなくなった。

 こうしてリョウは、4月末日、遠い国へと去っていった。夜明け前だった。私がいつもと違う寝息に気づいて、起き出し、リョウの口から水を流し込んでやったその数分後、私の膝の上に頭をもたせかけたまま、リョウは息を引き取った。苦しむ様子はなかった。妻も見つめる前で、リョウは眠るように最後の息を吐き、次の息を吸うことはもはやなかった。

 前日まで何度も押し当てていた娘の使い古しの聴診器を、胸のあたりにもう一度押し当ててみた。聞き慣れた心臓の鼓動も肺の呼吸音もすっかり消えて、聴診器の管は不気味に静まりかえっていた。

 リョウが寝たきりになったころから、妻は義弟の元に通うのを中断していた。リョウはそれを察知していたかのごとく、義弟がいよいよ最後の段階を迎える先に、みずから息を引き取ったのであった。私にはリョウの心遣いが透けるように読み取れる。

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 三つ目の出来事は、私自身の持病の悪化である。

 潰瘍性大腸炎と診断されて、はや26年になるが、私の場合、幸いなことに、繰り返し襲ってくる激甚期といえども、多くは深刻な事態に至らず収束してくれていた。ただし一度だけ、ちょうど50歳になった直後、死に瀕するまでの激烈な症状を経験した。

 そのときの苦しさ、痛さ、つらさはとても言葉では表現できない。40度を超える高熱と激しい腹痛が四六時中、私の肉体に貼りついていて、意識はもうろうとし、身動きはできず、ただひたすら一瞬一瞬の苦痛に耐えているのみだった。いつまで耐えれば治まるのかがわかっていれば、人は苦痛に耐えられもしようが、果ての知れぬ苦痛に耐えねばならぬ辛さは、筆舌に尽くしがたいものである。それも、一瞬の小止みもない、苦痛の連続波なのだ。

 結局、入退院を繰り返しつつ、丸一年に余る長期戦になった。

 以来、用心の生活をしてきたのだが、この4月、再び潰瘍性大腸炎が悪化した。50歳のあのときを除くと、過去最大級の激甚期となった。最初の兆候は4月半ば。リョウの寝たきりとときを同じくしていた。それでも4月のうちは、程度はひどくなく、いつもの激甚期とさして変わりはなかった。リョウが死んだころには、回復の兆しすらあった。

 ところが5月に入って様子が一転し、見る間に黒雲が天を覆ってきた。入院する一歩手前であることは明らかだった。主治医は自宅での安静で対処するようにとのことだった。フリーの身であれば、それは可能との判断だった。

 事実、激甚期用の内服薬と、注腸剤と、安静と、おかゆ中心の軽い食事、これで何とかさらなる悪化は阻止できたのであった。一番の薬は安静であった。必要なだけいくらでも寝てすごすことができる。これこそが、フリーの身の特権であった。そのありがたみが痛感された。

 5月はほぼ丸々、寝てすごした。もう大丈夫という回復点に到達することができたのは、5月も末になってからだった。

 仕事に就いていたころには、激甚期とはいえ、寝てすごすことはできなかった。我慢しながら、だましだましの対処を続け、回復には軽い場合でも1ヶ月、少し重くなれば2ヶ月、3ヶ月を見込まなければならなかった。

 もし今も仕事を続けていたとしたら、おそらく大事な初動的安静の時機を逸して、今回の症状の程度からして、長期入院といった事態に至らなかったともかぎらない。それを思うと、フリーの身のありがたさがつくづく身にしみるのである。

 以上のように、退職を決意した昨年夏の自由意志の背景には、「かくあらねばならない」という必然の導きの手が隠されていたとしか、私には思えないのである。2010年4月には私は退職してフリーの身になっている。それを前提に、あらゆる出来事の生起が予定されていた。私にはそんな気がするのである。

カルチャースクール
2010年6月9日
 退職したら、自由の謳歌のこれ以上ない象徴として、何かいわゆる習い事をやってみたいと考えていた。それも、これまでの生活になじみのなかったものがよい。全くの初心者としてゼロからスタートできるものがよい。

 そう考えて、3月、新聞やタウン情報誌を探し、カルチャースクールの案内を調べてみた。驚いた。講座一覧表がびっしりと紙面を埋め尽している。内容も多種多様。およそ考えられるあらゆるニーズに応えている。

 この供給量の裏には当然、それを支える需要がひかえているはず。見れば、ほとんどが昼間の講座だ。需要を満たしているのは、明らかに定年退職者か子離れした専業主婦。それ以外に考えられない。

 しかし今の時代、暇をもてあました専業主婦が巷にあふれているとは考えにくい。となれば、この膨大な講座に群がるのは定年退職者だろう。高齢化社会という言葉を、そのときほど真に迫って実感させられたことはなかった。ぼくもまたその仲間入りをしようと一覧表をにらんでいるのだから、世話はないのだが…。

 高齢者はいまや、暇をもてあました退役組ではないのだ。人生の残りの日数を数えながらひたすら達観、瞑想している悟りの人でもないのだ。夢を追い、人生を楽しむ能動者なのだ。目先の功や利益を求めず、学びそのものを心から受容する探求者なのだ。そのための行動者なのだ。

 それを思うと嬉しくなった。求める人は多い。ぼくもまた、その一人になろうとしている。

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 興味をそそられる講座がいくつかあった。しかし、自分でやりたい勉強があり、そちらにたっぷりの時間を残さねば。受けられるのは週に一度が限界だろう。欲張ると、きっと挫折する。

 迷った挙げ句、水彩画に決めた。妻もやりたいというので、一緒に習うことにした。

 こうして4月、新生活が始まった。道具を買いそろえて、初回の教室に出かける。受講生は20数名。けっこういるものだ。案の定、見たところ9割方が還暦を少々すぎた人たち。女性も多い。60代が大半か。70代は少なそう。最高齢者は先生で、おそらく80歳代。和気藹々の雰囲気で、楽しめそうだ。

 ところがあいにく、4月、5月は思わぬ災難に見舞われ、せっかくの楽しみも欠席がちになった。

 支障がすっかり消え去ったのは6月。ようやくフリーの身の喜びが本物となり、心置きなく絵が楽しめるようになって、今。

 ぼくにとって絵を習うのは初体験ではない。教師になって半年もたたないころから油絵教室に通い始めた。3人の先生に、合計10年近く習ったことになる。だがなぜか、ここ20年あまりは、絵筆を握ることがなかった。それに、水彩画はまったくの初心者だ。

 最初は水彩の描き方がわからず、まるで油絵調になってしまった。「ゴッホのようね」と、たまたまイーゼルを隣り合わせた先輩の女性に言われてしまう。絵のレベルではない。単に塗り方のことだ。

 それでも、何度かやっているうちには、少しは水彩らしくなってもきた。受講生の大半は、すでに5年も10年も水彩画を続けている人たちである。ベテランの域に達している。うまいものだ。先輩の技術を盗みながらの勉強である。

 1回2時間のレッスンの中で、先生のアドバイスを受けたり、筆を入れてもらうのが1分。うまい人の絵を鑑賞しつつ盗む時間が5分。そして残りはひたすら自分の絵に没頭している。集中しているから、2時間なんてあっという間にすぎてしまう。

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 4月以来、ずっと静物画だった。先日初めて先生から、「次はモデルだよ。お人形さんのような美人だよ」と言われた。

 次の週は、張り切って出かけた。車の中で妻が、「今日はきっとヌードよ」と言う。ぼくはとっさに受講生の顔ぶれを思い浮かべ、「そんなはずはない」と、半ば期待をこめつつも反論する。

 実は油絵をやっていたころ、一度だけ、裸婦をモデルで絵を描いたことがあった。2人目の先生のときだ。そのときも、「次はモデルです」とだけ言われて、裸婦か着衣かは聞かされていなかった。着衣のモデルは何度も体験していたから、ぼくは当然今度もそうだと決め込んでいた。

 教室に行くと、ガウンを着た見なれぬ女性が先生と話し込んでいる。最近の画壇の傾向がどうのこうのと、けっこう専門的な美術の話題だ。ぼくはてっきり新人の女性画家が来ているのかと思った。ぼくらの師範代として、一緒に描いてくれるのかと。

 しばらくして先生が、「じゃあ、やりましょう」と声をかけた。すると、その女性、やおら立ち上がると、するっとガウンを脱ぎ捨てた。目にも止まらぬ早業だった。ぼくは心臓が止まったかと思った。一糸まとわぬ女性が目と鼻の先にいきなり出現したのだ。手を伸ばせば届かんばかりの距離である。心の準備のかけらもなかったぼくは、思わず耳が火照ってくるのをどうにも止めようがなかった。

 裸になったその女性、耳を染めたぼくにいたずらっぽく視線を向けながら、「東京からやってきた……といいます。今日は一生懸命モデルをつとめますのでよろしくお願いします」とか何とか、挨拶するのだ。挨拶なら、脱ぐ前にしてくれと言いたいところだが、ぼくはもうそれどころではなかった。

 ぼくも若かった。30になるかならぬかのころだった。

 その2倍の歳になった今なら、いきなりガバッとガウンを脱ぎ捨てられても、ちっとも耳を染めたりはしないだろう。

 教室に着くと、受講生は早々と集まっていた。すでに半円形の輪ができている。妻は大胆にも隙間に割り込み、ぼくは端っこにそっとイーゼルを立てた。

 モデル台の横で、うつむき加減に腰掛けている女性がモデルであることは一目でわかった。黒のパンタロンスーツと異様に高いハイヒール。ほっそりと長い足に、小振りの顔。これぞまさしく八頭身美人だ。先生の「始めましょう」の合図に立ち上がったが、着ているものを脱ぎ落とす気配はなかった。

 簡単な自己紹介の後、ポーズをとる。まあ当然のことだが、ぼくの予想が当たったわけだ。少しく寄せていた期待は空振りに終わったのであったが。

 とまあこんな調子で、ぼくの新生活は、退化していた脳の活性化とともに始まろうとしている。

年金生活者
2010年6月11日
 退職したことを痛切に実感させられる日がやって来た。年金が振り込まれたのだ。4月、5月の2ヶ月分。これでぼくもいよいよ年金生活者というわけだ。

 「老後」という言葉が頭をよぎり、ちょっと悲しくもなった。だが、何といっても気分は「今から旅立ち」なのだから、年金受給は一つの通過儀礼、励ましの儀礼にすぎない。第二の青春が始まるぞ、という気持ちに微塵の揺らぎもあるはずはない。

 振り込まれた金額は、現に「励まし」程度のものだった。夫婦二人、これで食っていけと言われると、途方に暮れてしまう。ぼくの場合、幸いなことに、在職時から第二の収入源をもっていたので、年金をあてにする気持ちはそもそもなかった。定年を待たずに退職できたのも、それあればこそだった。

 年金は生活の補助としてありがたく使わせていただくことにする。

 とはいえ、年金額が少額なのはまだ歳が満ちていないからで、64歳になると満額になり、さらに65歳からは老齢年金が加わるらしい。それにしても、老齢年金とはいかにも嫌みな名称だ。

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 振り返れば、年金の手続きは、60歳になった時点から具体化していた。でもそのときはまだ、自分の年金額がいくらになるのか、本気で調べる気にはなれなかった。切迫感がなかったのだ。ただ、一度だけ、Web上の解説ページを参考に、自力で計算を試みたことがあった。しかし、計算式が途方もなく複雑で、その上、計算の前提になる個人データ(平均標準月収の査定額)が不明ときては、とても額を割り出すことなどできなかった。年金額の計算は自分ではできないということを知ったのが、そのときの収穫といえば収穫だった。

 いよいよ年金生活者となった今、ようやく本気で64歳以降の年金額を試算してみようと思い立った。

 頼りは私学共済から送られてきたガイドブックだけだ。不確定要素が残るので、正確な計算はできないのだが、概略は判明した。どうやら64歳からは、ひと月あたりに換算して、今回振り込まれた額よりも9万円程度のアップになるらしい。65歳になるともう少し増える。が、妻がもらう老齢年金との差し引き計算があるため、二人分を合算した年金収入は、64歳時より、ひと月あたり1万から2万円程度のアップにとどまるようだ(ぼくの場合、妻と同い年という特殊性がある)。

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 とにもかくにも、年金の計算はあまりに複雑すぎる。自分の年金額を自分で計算することは、はじめからできない仕組みになっている。そう言いたいほどだ。「いくらいくらですよ」と言われて、「はいそうですか」と答える。それしかできないのだ。それが年金なのだ。計算しながらつくづく思った。

 今回、比較的精密に額を計算できたのは、実際に振り込まれたことによって、平均標準月収(勤めていた全期間の平均だとされる額)の査定額を知ることができたからだ。この査定額というのが、実はくせ者で、それは決して自分で計算することの許されないものなのだ。計算はすべて年金支払機関にゆだねられている。さらに元をたどれば、計算の根拠は勤務していた事業主の誠実度にも左右される。つまり、当人に支払った実賃金に見合った額を、年金保険料として正しく年金支払機関に納めたかどうかにかかってくるのである。事業主がそれをサボタージュしたことで、後になってさまざまな問題が生じていることは、周知の通りである。

 このように、年金処理というのは、自分のことでありながら自分ではタッチできないところで、すべての処理がなされていくものなのだ。ただただまわりを信頼するしかないのだ。

 だから、年金は、もらってみないとその額がわからない。もらって初めてわかる。そういうシステムなのだ。不思議なことである。

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 宙に浮いた年金とか、未払い年金とか、年金についての問題は多い。それらは社会保険庁の事務処理のずさんさに原因が帰されることが多いのだが、より根本的には、そうした状況が生みだされる潜在的な必然性と、システムの欠陥に問題があるような気がする。

 つまり、誰にとっても、現役で在勤している間は、年金なんて、まるで現実味のないはるか彼方の問題なのだ。自分の身に引き寄せて考えられる人など、いるわけはないのだ。これは、前途洋々の船旅にある身の必然の心理なのだ。次々に開けてくるパノラマに目を奪われているとき、終着点に思いを馳せる人などいないのが自然なのだ。

 ところが実は、年金の計算根拠となる事務処理は、当人のあずかり知らぬところで日々着々となされているのである。まさに知らぬがホトケなのである。

 そして60歳になると、いきなり年金問題が現実味を帯びて迫ってくる。記憶の薄れてしまったはるか昔の事務処理が問題になることすらある。若さと老いの排反性からくるこの矛盾こそが問題なのである。

 そこで一つの提案だ。事業主から年金支払機関に支払われている月々の実際の年金保険料が、当の本人に何らかの形で毎月知らされるシステムがあるならば、今日問題になっているような年金問題は生じないのではないか。それが当人の目に触れない場で処理されているところに問題があるのである。月々の支払額が当人に通知され、それでもなお当人が年金に無関心でいるのなら、それはもう当人の責任と言ってよい。

 事業主の誠実度を高めることにもつながるこの一石二鳥の通知制度が、年金の不公平を解消するための一つの有効な手段になるように思うのだが、どうだろう。通知された書類を大事に保存しておけば、宙に浮いた年金のような問題が発生したときの、動かぬ証明書としても使えるだろう。

 年金をもらう身になって、ようやくこのことに気づかされたのである。

 ともかく、64歳になったなら、日々の生活費くらいは年金でまかなえそうだとわかって、ちょっと安堵の気分になったのはたしかである。

靴の現象学
2010年6月16日
  紀元前3600年ころと年代測定された皮靴が、腐食もなくほぼ原型のまま見つかった。発見場所はアルメニアの洞窟の中。靴の世界最古記録の更新だという。

 アルメニアと言われても、はてどこにあるのかと、地図を引っ張り出さないとわからない人も多いだろう。実は私は半年ほど前、シベリア抑留者の体験談を何冊か読んだことがあり、その中にアルメニア送りになった人の話があった。そのとき地図を開いたことがあるのだが、アルメニアは、カスピ海と黒海にはさまれた、日本の四国ほどの小国である。

 靴が発見されたのは、洞窟の中の小部屋。調査していた女性研究者が、草の下に小さな穴があいているのに気づいた。その穴を掘り下げると、中が空間になっていて、ヒツジの角や壊れた壺などとともに、ヒツジの糞に埋もれた靴が見つかったというのだ。

 この洞窟は時代を超えて何度も何度も人類に使用された形跡があるそうで、最も新しくは、元帝国の時代にモンゴル人に使用されたという。複合的な遺跡のため、膨大な遺物を時代順に並べることすら困難な作業らしい。

 不思議なことに、靴が見つかった小さな穴は、何千年にもわたる後代の住人によって一度も発見・盗掘された形跡がなく、紀元前3600年当時のままに保存されていた。草におおわれていたのが見つからなかった理由だが、現代の調査隊のような強力な照明器具をもたない人々には、薄暗い洞窟の中の小さな穴は見つけようがなかったというのが真実だろう。

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 発見された靴は右足用で、左足用ははじめから入っていなかった。また、靴には草が詰められていた。今日でも、新しい靴を買うと、中にクッション用の詰め物がなされている。あれである。

 さらに、よく見ると、この靴は新品ではなく、かなり使い古したものであることもわかるという。何度も使ううちに靴ひもを通す穴が裂け、それを補修しながら使い続けた痕跡があるのだ。大切に使われていた靴なのだろう。

 靴が置かれていた状況も特殊である。決して、穴の中に使い古しの靴をゴミとして捨てたという状況ではない。黄色い粘土で線を引き、その線に合わせてきちんと置かれていたというのだ。

 記事によると、何らかの儀式に使われたのだろうという。ヒツジの角や壺なども、儀式の中で靴とともに供えられたのであろう。

 日本なら、天井に近い高い位置に神棚をもうけ、そこに供え物をする風習が古くからある。アルメニアでは、それが逆に地底の穴の中だったということだろうか。ひそやかな秘密の地下の空間に、家族単位か、部族単位か、あるいは個人的にか、大切なものを供え、神と祖先を祀り、自分たちの繁栄を祈ったのであろう。

 儀式がすめば、穴に土をかぶせ、草でおおい、何事もなかったかのように、その上で日常生活が続けられた。そんな当時の暮らしぶりが想像される。

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 靴のサイズは24.5cm。これを欧米の記事では、小さめの男性か少年、あるいは女性と想像し、女性を最有力視している。私の身長は167cmで、靴のサイズはまさに24.5cmである。欧米の基準からすると、私は典型的な「小さめの男性」ということになるのであろう。まあ実際のところ、いまの日本において、私よりも小さな靴を履いている高校生はまずいない。彼らが脱ぎ捨てた靴を見ると、私は思わずガリバーを想起してしまう。

 だが、時はいまから5600年の昔である。はたして当時、24.5cmの足のサイズが「大人の男性にしては小さめ」の部類に属したのかどうか、疑問である。ましてやそれが、女性の標準サイズであったとは思えない。

 私の判断では、靴の履き手はごく普通の大人、しかも男だったのではないかと思う。屈強な男だったと言われても、別に違和感は感じない。というのも、日本人の男性の平均身長が165cmを越えたのは、ようやく昭和も半ばを過ぎてからの話である。明治以前なら、160cmあれば大柄の部類に属していた。中央アジアでも、事情に大差はないであろう。24.5cmの足のサイズから、小男ないしは女性だと想定するのは当たらない。

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 さて、この靴の写真を眺めていると、さまざまな想像が頭に浮かぶ。

 一つは、ひもで結ぶタイプの靴であることからの想像。そもそも履き物には大きく分けて2つのタイプがあり、一つは足の甲を覆うもの、もう一つは足の甲を覆わないもの。前者がいわゆる靴であり、後者はサンダルまたはスリッパと呼ばれる。日本なら下駄、草履である。サンダルの世界最古記録は、今回のものよりも古いそうだ。今回のは、靴の最古記録である。

 そしてこの靴、今日の靴ひも式の皮靴と何とよく似ていることか。ひもの編み方まで、そっくりである。

 アルメニアの靴が、今日の靴の系統的源泉になったとは考えにくい。もちろんその可能性もないわけではないが、直接の系統的つながりはないものと仮定するならば、両者の共通点の背後には、系統を越えた、靴というものの本来的な形質、言いかえれば、こうでないと靴として機能しがたいという靴のイデアとも呼ぶべきものがあると考えたくなる。ある人が真剣に靴を作ろうと考えたとき、必然的にこの形に行き着かざるをえないような、靴の現象学的本質が、両者の共通点の底を流れているような気がするのである。

 もちろん今日、ひもを用いない靴も多種ある。歴史的に見ても、たとえば中国の古代の靴や、それを模倣した日本の天平期の靴(貴族たちが儀式の時だけに履いた靴)も、おそらくひもを用いないタイプであった。ひも型が靴のイデアというのはちょっと極論にすぎると反論されそうである。

 だが、サイズ別の靴を豊富に用意できない状況の下で、誰にでもぴったり合う靴を作ろうとすれば、浮かんでくる靴の形態は、ひもタイプということになるのではなかろうか。それも、靴の中央の裂け目をひもでかがって編んでいくタイプの靴である。

 さらに言えば、靴の素材に動物の皮以外のものを見いだしえなかった時代(靴のルーツの時代)には、ひもなしで、足にしっかりと固定できる靴は作れなかった可能性がある。今日では、皮靴といえども、その保形力は強く、、足を入れなくても形が崩れることはない。しかし、今日のような技術がなかった時代には、皮靴は基本的に布靴と同じで、保形力はゼロに近かったはずである。その場合、足にしっかり固定するには、やはりひもは欠かせないアイテムであったはずである。

 ということで、やはり、5600年前の靴は、靴の現象学的本質を反映した必然の形態を表徴していたと言えそうだ。だからこそ、今日の靴との驚くべき形態的類似性が見いだされるのである。やや強引だが、一応ここではそう結論づけておく。

 上記のことはまた、靴に草が詰められていた事実によっても傍証される。つまり、靴がその本質である靴性を発現できるのは、膨らんだ形を維持しているときにかぎられる。ひしゃげて紙のようになった牛皮は、もはや本質的な靴性をもった靴とは言えないのである。古代人の目にもそれは明白な事実であった。だから、靴を供える行為に付随して、それに詰め物をするのは、靴を靴たらしめるために必然かつ不可欠な要件であったのである。

 一言でまとめておこう。靴ひもと草の詰め物は、靴の現象学的本質を直感させる具象、すなわち指標の役割を果たしていた。しかも、その現象学的本質は、古代からも現代まで、変わるところはないのである。

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 続いて、靴が祀られたことと、片足の意味について。

 そもそも靴を祭儀で祀ること自体は、それほど不自然なこととは思えない。古代の人々が靴に神聖な意味を感じとっていたのは、ヨーロッパでもアジアでも共通であった。というよりも、古代においては、もともと靴は非日常の履き物であり、祭儀の際、神官や王だけに装着が許された特殊な象徴的装身具の一種であったと考えられる。

 アルメニアの洞窟の場合は、神官や王の出現に先立つ時代であろうから、神官や王に代わって族長や家父長を想定すればよい。あるいは遠く旅立つ者や、重要かつ特殊な仕事に従事する者にのみ、靴が許されていたとも考えられる。

 特殊な仕事とは、黒曜石の採掘である。報道記事によると、洞窟の中の装飾類には、黒曜石でできているものが多いという。そして、その黒曜石の産出地は洞窟から100キロほど離れたところにあるという。交易に頼らないと手に入らないわけでもないが、かといって、誰もが簡単に採掘に行ける距離でもない。

 部族の中から元気な若者が何人か選ばれ、数年に一度程度、黒曜石の採掘に出かける習いがあったのではなかろうか。彼らには、代々伝えられてきた靴が手渡され、道中の無事を祈る意味をもこめて、彼らはそれを履いて出かけていったのだ。

 あるとき、採掘場に着くと、他部族からやってきた採掘者と鉢合わせになってしまった。その結果、権益を巡る諍いとなり、若者達はやむにやまれぬいくさに引き込まれてしまった。石つぶてや弓矢が激しく飛び交い、ついに一人の若者が深手を負って、犠牲になった。残された若者達は、死んだ仲間の靴を形見にして、悲しみにうち沈んで部落に逃げ帰った。

 知らせを受けた長老は、報復に向かおうとする若者達の血気をなだめつつ、死者を悼む祭儀を執り行った。左足の靴は、村はずれの墓地に葬り、右足の靴を地下の祠に祀ったのだ。

 深い祈りの後、祠は閉じられ、祠に通じる穴は土と草で覆い尽くされた。片足の靴を置いたのは、死者に帰るべき拠り所を与える意味であり、土と草で覆いをしたのは、日常性の中での死者と生者の峻別の意味であった。使者が帰ってこられるのは、年に一度、祠の穴が開かれたときだけだよと、死者に告げ知らせたのである。

 以上は私の作り話なのだが、実際のところ、シンデレラの話にもあるような片足の靴の話は、ギリシャ神話には数多い。アルメニアの洞窟の片足の靴が、ギリシャ神話に影響を与えたとは思わないが、これもまた靴の現象学的本質に関わる何かを象徴しているのかもしれない。

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 それにしてもこの靴、5600年間もよく腐敗せずに残ったものだ。洞窟の中の、土と草でふたをされた空間。空気の流れはかすかにあるが、水が流れ込むことのない空間。この特殊な環境が、奇跡的な保存を可能にしたのであろう。

 これまでは、アルプスで発見されたアイスマンの靴が最古とされてきた。アルメニアの靴よりも300年ほど新しいという。アイスマンの場合は、氷漬けになっていたことが良好な保存を可能にしていた。

 ちなみに、アイスマンの靴は寒さに耐える長靴だが、やはり、現代の登山靴のような靴ひも構造をもっていた。靴ひも構造には、靴の本質的イデアが潜在していると言えるのであろうか。

流れる雲に乗って
2010年6月20日
 思い起こすと、むなしい。悲しい。
 悲しみの側面をそっと撫でてみる。何と峻厳。何と多面。何と多様。
 基調の一筋も見えてきはしない。
 過ぎ去った35年よ。

 多様の側面の一つ。

 演ずることを死よりも厭うぼくの気質は、教壇をぼくの舞台とさせはしなかった。ぼくはただぼくであった。教師たる自覚に貫かれることもなかった。

 かくあれよ、かく教えよ、かく演ぜよ、かく魅惑せよ、かく威武せよ、かく牽引せよ、かく誇大のヴェールをひっかぶれ、かく糊塗せよ。かくして、自己の立脚点を語らず、無縁な遠き世界を実像のごとく語り、ミドルティーンの心底に自らの虚像を転写せよ。

 どこからか命ずる論理を、ぼくは破棄した。規格の誘惑、内面の順応をぼくは拒否した。演者たることはもとより世界の外だった。

 なかんずく、死の淵を覗いた闘病の後は、つまり最後の10年間は、ぼくはぼくであることを、ぼくに強く強いた。ティーンエージャーの心に自らを押し込む虚構の努力はもう捨てた。ティーンエージャーの心をぼくの設定に引き込む戦いからも撤退した。ぼくの目に彼らの像がぼやけていくのを、そのままぼんやり見つめていた。またぼくが彼らの照準の定まらざる彼方に去るのを、そのまま見すごしていた。

 ぼくの輪郭はおぼろになった。

 求めず、食わず、ただ空腹のみを訴える者の口を押し開くことに、何の喜びがあろう。

 求めずして、こじ開けられた口にたらし込まれる液体に、何の芳しさのあろう。

 だが、人生は逆説だ。むなしき結末を知る者の労苦の果てに、力尽くした満足と、汗の快感はとめどなく湧く。教師の喜びはその一点にある。終え果てた後の、不可思議な充実。

 徒労たるを知れば知るにつけ、立ち上る充実の香りは芳しい。虚空にむなしく立ち上る煙は彩に美しい。

 許されぬもの。それは、泥に咲く一輪の花。万に一つの奇蹟の香を追う純潔は、理想とこそ呼べ、現実とは呼ばれぬ。

 ぼくがそれに気づかぬわけはなかった。口をこじ開け、無理にも液をたらし込む努力を、ぼくがしなかったとはいわない。そのあとに来る倦怠に満ちた快感。まるでそれは、モルヒネのように、教師にとりつく陶酔だ。

 それをぼくが知らなかったわけではない。

 ただぼくは醒めていた。モルヒネがぼくを酔わせ、ぼくの醒めた意識は感性を乗り越える。

 唾棄するごとく、通念を、ぼくは冷ややかな地底に投げ捨てた。快感に貼りつく重い自己への嫌悪。

 自己を欺き、自己の立脚点を模糊とさせ、かくあるべき、安心の、疑念なく納まれば傷つくことない小さな箱に自らを押し込み、虚なる充実のために自らを叱咤する。

 このジェネリックな教義を、ぼくは吐き捨てた。抗わず、従容として静かに、ぼくは唾棄し去った。

 流れる雲に乗り、自然のおもむくままに、ぼくはひたすら、ぼくの充実を求めた。

残照の中に
2010年6月22日
いつしか夏至が来て、夏至が去った。
コーヒー色の朝。
アザミの記憶は生々しく、
生まれたばかりの萩の芽と、池の面と、
植物プランクトンの多彩な気泡と、
紫のその棘とは、
ぼくの過去から焦点を奪い、
ベガのように、
行く雲のように、
定まらぬ光の輪を中天にとどめる。

あの日、
真白な開襟シャツのぼくが
まだぼくにひそむ今を信じ、
円錐曲線の極限形式に思いを寄せ、
2色のチョークの先にそれを描ききり、
世界の虚構のかくもたやすしと、
居並ぶ眼の彼岸に向けて、
語っていたとき、
アザミはぼくの心に浸潤してきた。

蒙古の大軍が博多の岸に群来し、
鎌倉武士の、田舎武士の、
虚妄の戦法を、
一日にして打ち砕いたとき、
竹崎季長は、
郎党4騎を従え、
一番駆けに討ち入り、
馬を射られ、引き倒され、
深手を負い、
敵を討たず、
死せずして帰還した。
夢に酔う季長よ。

アザミの記憶は狂おしく、
父に、母に、いまはなき農園に、
一輪の棘ある花を、
クロガネモチの幹にとまるセミの抜け殻のように、
シリコンを駆ける正孔のように、
太陽の暗い光もろとも、
ぽっかりと、
一輪の、一輪の影を屹立させる。

手に取れば空無。
無なればこそ、形あるアザミよ。
昨日、
夏至のゆうべ、
池の土手に、
草いきれに包まれ、
開襟シャツのぼくと、
アザミの棘とが、
残照の中に、
無を語るのを、
ぼくは見た。

残照の中に、
悲しく、
開襟シャツのぼくと、アザミの棘と、無と。

あれはいつのことか。

生きることの佳境
2010年6月29日
 視点が変われば、世界がまるで違って見えることがある。同じ対象に対して、それまではまったく気づかなかった新しい側面が見えてくることがある。世界の色調が変わってしまうそのような瞬間、人は発見の喜びに興奮してよい。対象に備わる新しいプロパティの発見を、人に喧伝し、触れて回ることもできる。だが、喜びがその域にとどまっているかぎり、印象は平淡で浮薄である。

 繊細な感性においては、たとえ客体内部に由来する変化であろうとも、客体内部への主体による発見行為であろうとも、そこに必ず、主体自身の内的変容、生まれ変わりの体験、言いかえれば、自己の再発見が付随し、客体の変化は主体の変化へと沈み込むように転写されるのが普通である。

 ここ半月ばかりのぼくの些細な体験も、大げさに言うと、まさにその種の体験であった。

 ことの起こりは6月中旬のある午後。もうすぐ3歳になる孫を娘から突然預けられたぼくは、妻も留守だったため、しかたなく、重信川河川敷の公園に連れて行くことにした。まだまだ暮れるには早い時間帯で、さわやかな微風が梢を吹き抜けていた。

 休日なら子供連れやカップルで賑わう公園である。平日でも人の姿が途絶えることはなく、空き地に止められた車の中で、外勤の営業マンがひとときの休息をむさぼっている姿をぼくは、カラスの群れが威嚇的な声とともに河原に降り立つ姿と同じくらい、頻繁に見かける。

 営業マンのひそかな集結地であるところを見ると、心身のリフレッシュにこれ以上の適地はないと、彼らの経験は立証しているのであろう。

 事実、果てなく広がる河原には千変万化の荒涼とした魅力があり、土手の斜面は季節ごとに可憐な色彩を燃え立たせ、河川敷には緑の公園が広がり、野球やサッカーの声がこだまするグラウンドがあり、テニスコートがあり、心地よい芝草の遊歩道がどこまでも続き、サイクリングロードが白く輝いている。河川敷を一段下りれば、伏流水を吹き出す清冽な泉が人々の暮らしの中に点在し、遠景の山々は四国の尾根へと幾重にも折り重なって続いていく。

 緑と光と水とかぐわしい草いきれに包まれた重信川は、ぼくにとってもまた、教師として再出発した30数年前から、変わらぬ心の休めどころであり続けてきた。

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 6月中旬のその日、空き地に車を止めようとすると、どこか様子が違っていた。あたりには一台の車もなく、人の気配がしない。こんなにもしんとした公園をぼくは見たことがなかった。営業マンの姿も、子供たちの声もなかった。ときおり風紋が草の葉先を揺らして音もなく流れ、あとには静寂が薄気味悪く取り残されているばかりだった。

 公園から人影がなくなる時間帯もあるのかと、ぼくは特段不思議に思うこともなく、孫を車から下ろすと、生け垣の破れ目から園内に足を踏み入れた。無人の草原はやはり、いつもとは違う異様さで、あちこちに散在している遊具はどれも、はるかな過去から置き忘れられた文明の遺失物のように、ぼくには思われた。

 だが孫はぼくの思いなどおかまいなしに、足を踏み入れるや、好奇の視線を輝かせ、一瞬のためらいもなく、無人の草の原に駆け出した。真一文字に滑り台に向かうと、何度も何度も上っては滑り下りる。次には、ぼくを相手にシーソーを楽しみ、馬や自転車やウサギの遊具にまたがって、キャッキャと笑いころげた。

 遊具に飽きると、草から伸びるシロツメクサや土手のキンケイギクを、小さな手からこぼれ落ちるほどに摘み取り、「持っててあげる」といっても、強く握りしめて離さない。

 ふたたび公園に戻ると、両手に花を抱えたままウサギにまたがり、耳をつかんで揺するぶることができないことにようやく気づいた孫は、「じいちゃん、もってて」と、花をぼくに手渡した。

 こうして静寂の中のひとときの喜びを、ぼくは心ゆくまで楽しんだ。

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 孫とシーソーを揺すっていたとき、ぼくはすでに気づいていたのだ。どこからか、こちらを伺う視線があることに。振り向くと、視線はさっと地面に落ち、うつむいて気づかぬふりをしている。どうやらそんな陰鬱な影のある視線だ。

 それが公園の隅に置かれた四阿(あずまや)の中に潜んでいるのをぼくは知った。桜の大木の葉陰の下に、深い屋根におおわれた四阿がある。日が当たらず、一帯は黒々とした影に包まれている。その黒い影に溶け入るように、かすかに男の姿がのぞいていた。

 ぼくは孫を遊ばせながら、ときおり四阿に視線をやった。闇の中から、老人の姿が浮かび出た。終戦後の闇市で買ったかと思われる古いハンチングハットが印象的で、どうやら読書にふけっている様子だった。

 ぼくの視線が当たっている間は、老人の視線は本に吸い寄せられたまま動かない。写真のように凝固して、ぴくりとも動かない。ぼくらの存在には気づいていないとでもいうような、頑なな閉鎖性が老人を覆っていた。

 ぼくが孫との遊びに戻っていったのを知ると、老人は視線を、一瞬か二瞬、本から浮かせて宙をさまよわせた。それがぼくの視野の隅にありありと映っている。互いの視線が出くわすことはなかった。

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 ぼくには老人の気持ちが理解できた。ぼくも一度、その同じ四阿で読書を楽しんだことがあるのだ。去年の夏だ。

 心地よい風が木陰を吹き抜けて、のどかで静かだし、どこか隠棲の風情も漂っていて、悪くないのだ。だが、穴蔵の中にいるような印象は、どうも陰鬱だった。その上、公園の隅っこで、公衆トイレのそばである。

 心地よく読書を楽しむ一方で、なんだか我が身に陰気くさい影がとりついている気がして、落ち着かない。それでも、ただ一人、孤独にひたっていられる分にはよい。そばで誰かに好奇の視線を向けられたりでもしたら、とてもやりきれない気分になるだろう。

 去年は、駆け回って遊ぶ子供たちの声がひっきりなしにこだましていたし、それに加えて、散歩の老夫婦が立ち寄り、「ちょっと失礼しますよ」と、四阿の片側のベンチにしばらく腰掛けて行った。だから、陰鬱で孤独な読書姿がことさら浮き上がることはなかった。連れのあるありがたみだった。

 今、目の前の老人は、一人で孤独を楽しんでいた。その現場を、突然の闖入者に押さえられてしまったのだ。決まり悪さを通り越して、羞恥心、いや罪悪感とでもいったものが、老人の薄い心のヴェールを吹き揺るがしているに違いない。気の強い人なら、視線をきゅっとこちらに向けて、自分の存在をあからさまにすることによって、孤独の影を払拭することができる。老人にそれができないことは、行き場をなくして凝固した視線から明瞭である。ひたすら気づかぬふりをして孤独に埋もれておくよりほかに、老人のとる道はなくなってしまったのだ。孤独の影はますます濃さを増すばかりなのだ。

 老人の心の動揺がわかるだけに、闖入者たるぼくもつらい立場に立たされていた。

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 実を言うと、老人の心の動きは一から十まで、ぼく自身の写し絵でもあるのだ。鏡の裏側を覗いているようで、ぼくもまた気恥ずかしくてならないのだ。

 失礼にも老人と呼んだが、おそらく、ぼくから見て10歳までは違わないだろう。同じ退職の身、有閑の身であろう。人生の楽しみを読書に見いだしている夢追い人であろう。

 読書三昧はいいのだが、家の中にばかりいるのは退屈だ。ときには戸外で新鮮な空気を吸いながら読書にふけるのもいい。どこに出かけようか。思い当たるのは、やはりこの公園である。ここなら、木陰に静かな場所があり、好きなだけ読書にひたることができる。

 でも、どうもこの四阿は陰鬱でいけない。人目を忍んでいるような、薄暗い穴蔵の中にいるような、退行的イメージがつきまとう。潜んでいるところを人に見つかったりすれば、羞恥心やら、後ろめたさやらで、気分は滅入ってしまうだろう。

 そうだ、人の気配が絶える時間帯がある。それが今なのだ。その時間帯を見計らって行けばよい。1時間、いや数十分でいい、心ゆくまで読書を楽しめれば、それで甲斐はあったというものだ。

 そんな思いで来たに違いない。ぼくも同じ思いでやってくるだろう。有閑が退屈に転じたときにはきっとそうだろう。そういう日がいつかは来るのだろう。

 それにしてもこの暗さ。このうつむいた視線。「ああ、いやだいやだ」と、ぼくは心の中で叫んでいた。あの陰鬱のイメージに自分の似姿を見ることだけはごめんだ。

 突如孫が叫んだ。「あっ、ワンワンがいる」。

 孫が差す先を見ると、たしかに犬がいた。老人に寄り添うように、暗い地面に大型犬が伏せていた。リードがない。老犬だ。おとなしく伏せったまま、前肢の上にあごを乗せている。

 孫の突然の叫びに、老人はもはや気づかぬふりはできなくなった。それを悟ってぼくははっとした。暗黙の了解が崩れ去ったのだ。そろそろ帰ろうかと、孫をうながす。と、老人も立ち上がった。犬にリードをつけた。

 去り際、二人の視線が出会った。老人はぼくに小さな笑みを見せた。ぼくも軽く頭を下げ、口元をゆるめた。言葉は交わさなかったが、通じ合うものが流れた。

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 その一週間後、ふたたび娘が孫を預けにやってきた。前回の孫のうれしがりようが忘れられず、ぼくはまたも、同じ公園に出かけた。時刻も同じ。その時間帯がやはり、公園から人の気配が失せる時であると、二度の体験でぼくは知った。

 前回は、公園に入るといきなり、孫はぼくの手をふりほどいて駆け出した。あの喜びに満ちた草原が、今日は露を帯びていた。しかも、数日来の雨で草が丈を伸ばし、孫はぼくの手を握ったまま立ちすくんで動かない。

 この前、大喜びで上り下りした滑り台つきのアスレチック遊具もまた、長雨を経て変貌していた。

 丸太を組んだ段の前で、「さあ、のぼろう」と言っても、足を一歩のせたきり、凍りついてしまった。そして、「あそこに、虫がいる」と指さす。

 見るとたしかに、指さす先に小さな若グモの巣があった。草を一本引き抜いて振り払ってやる。

 「もうだいじょうぶ。のぼってみよう」

 「あそこにも」

 まだあった。ふたたび振り払う。

 「まだあそこ」

 孫の敏感な眼は、アスレチック遊具の隅々に10個に余るクモの巣を見つけ出した。その都度、露払いのようにぼくが払いのけると、ようやく登る気になったようで、頂上まで上がり、滑り台を滑り降りた。

 でも、それっきり登ろうとはしなかった。丸太の湿っぽい手触りが、孫にはよほど楽しくなかったのだ。

 シーソーは乾いた金属製で、クモもいず、ぼくが飽きても、なお孫は、「もっと、もっと」と、ギッコンバッタンをせがんだ。

 シロツメクサはスッスッと伸びて、ちょうど摘み頃になっていた。この間のように手からこぼれるまでは摘まず、片手で軽く握れるだけにして、「じいちゃん、帰ったらビンに差しておこうね」と言う。これが一週間の子供の成長だと実感する。

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 孫を遊ばせながら、ぼくはその日も、四阿に視線が潜んでいるのに気づいていた。さりげなく様子をうかがってみた。暗い日陰の奥に人の姿があった。よく見ると犬もいた。前肢の上にあごを乗せたあの犬だ。間違いない。きっとあの老人だ。同じ姿勢で視線を落とし、本の世界に没入している。

 それにしても、なぜ。なぜ、二度までもあの人に出会うのか。そして、鉛直下方に凝固したあの視線に、なぜふたたび遭遇しなければならないのか。できすぎた偶然? それとも必然? 三度この時刻に来てみれば、答えは出るだろう。いや、観察者の介入が対象の行動力学を変質させてしまうこともある。即断はできない。でも、予想はできる。三度目を待つまでもなく、すでにぼくの予想は確定していた。

 それにしても、あの陰鬱の視線。あの視線こそが、陰鬱のイデアの典型的形象ではないかと、ぼくはやりきれなくなった。

 やりきれなさに沈みながら、ぼくは老人に自身の似姿を見ていた。

 うつむいて読書にふけっている姿は、ぼくを見る他者からの客体像そのものではないのか。あの陰鬱で悲しげな前屈みの背骨は、ぼく自身が常々発散している陰鬱と悲しみの代弁ではないのか。固まった視線は、ぼくが同じ状況下で見せる視線そのものではないのか。老人を包むあの全光景は、ぼく自身の明日の姿の鏡像ではないのか。

 木漏れ日の下での読書は、ぼくの永遠の憧憬を最高度に具象化したイメージに違いない。老人に自分の似姿を見るのはその故に違いない。それがしかし、陰鬱な寂寥をともなって目に入るのは、ぼくの時がまだ満ちていないからに違いない。ぼくがまだ孤独の喜びと陰鬱の影との二律背反の世界にとどまっているからに違いない。陰鬱と恥じらいの背反を乗り越え、喜びの世界へと昇華していけば、ぼくもあの老人から陰鬱の影を消し去り、達観の神々しさを見るに違いない。

 来るべきぼくの姿を、老人は眼前に投影してくれているのであろうか。かくあれよと、老人はぼくにみずから演じてくれているのであろうか。

 ああ、それにしても、この暗さ。惨めさ。ぼくはまたも、「いやだ、いやだ」と心の内で叫んだ。

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 そして、ふと気づいた。世界の色合いが変わったことに。世界の一部たるこの光景が、そして、その一部によって表徴される全世界が、突如、色合いを変えたことに、ぼくは気づいた。

 重信川が心の故郷となって35年、ぼくの重信川像は一定不変を保ち続けてきたわけではない。

 関わりの始まりは35年前であった。NECを退社し、教師としての新しい出発を夢見て松山に帰ってきた当初、ぼくは松山のベッドタウンである砥部町に住んだ。NEC時代に覚えたジョギングの味を忘れられず、砥部においても、自然の中を走り続けた。コースを探索するうち、四季折々に姿を変えながら雄大な景色を保っている重信川に惹かれるようになった。足が自然にその土手道に向かうようになった。

 その頃、重信川はぼくにとって活力そのものであった。真夏の昼下がり、炎天の日射しを浴びながら土手を走る苦しさは、何物にも代えがたい至上の悦びを伴った。真冬の寒風を正面に受けて走る苦しさもまた同様だった。

 当時のぼくの重信川像は、ひとえにジョギングの視線に寄りかかって作られていた。その視線にとまらない世界は、ぼくにとっては無か、せいぜい流れ去る背景にすぎなかった。

 思い起こせば、たしかに、土手の斜面で花を摘む親子がいた。河川敷で模型のヘリコプターを飛ばす男たちもいた。広場で少年野球に興じる子供たちも、犬を連れたサンダル履きの少女も、弁当を広げる親子も、ぼんやりと川を見つめてたたずむ若者も、釣り糸を垂れる若いカップルも。川をめぐるさまざまな人間模様がぼくの目をかすめて過ぎた。

 だが、土手を走るぼくには、彼らは突風に吹き上げられる砂塵以上の意味をもつことはなかった。わが身に関わったかと思うと、たちまち過去へと流れ去っていく、意味なき事象の一つにすぎなかった。

 ぼくの目に焼きついて離れないのは、同類のジョガーたちのランニング姿だった。ときには、前を行くジョガーを追い越そうと作戦を立て、あるときは引き離されないように距離を保つことに力を尽くし、またあるときは、ひたひたと近づいてきて風のように抜き去っていく後ろ姿に呆然と目を送った。すれ違うジョガーには目で会釈する。みな、いつしか知り合った顔見知りであった。

 こうしてぼくの目には、雄大な重信川の風景は、ジョガーの行き来する動的な活力の場以外の何ものでもなかった。

 砥部には10年間住み、現在の家に引っ越した。しかし、重信川とぼくとの関係は変わらなかった。左岸側から右岸側に移ったこと、上流に数キロ移動したこと。それが変化のすべてであった。相変わらず、ぼくの足は重信川の土手に向かった。

 病のためにジョギングを捨てざるをえなくなった50歳まで、ぼくの重信川はジョギングの動的視線に依拠し続けていた。走りつつ見る世界が重信川の全世界であった。それが重信川の唯一の世界像であるとすら、ぼくは疑義の念なく信じ切っていたように思う。

 病の後、重信川は散歩の場になった。世界がまるで違ってきた。それまで世界を構成する唯一の存在物であったジョガーは、一瞬にして過ぎゆく、はかない背景の芥にすぎなくなった。それに代わって、散歩する老夫婦や、土手に咲く野草の花々や、本流に流れ込む小川のせせらぎや、川に棲むアオサギの夫婦や、風に揺れる木々の葉裏や、遊歩道に点在する黒曜石のベンチや、取り残された溜まり水にうごめく小魚や、川沿いの製材所から響くノコギリの轟音や、こうした森羅万象の静的光景がぼくの世界を構成するようになった。

 世界は一転した。

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 だが、それは世界の真の変転には、まだ遠かった。客体の変化、客体のもつ一側面の変化がぼくをとらえたにすぎなかった。感性の薄膜を通して内面世界に通じている、豊満な実在世界の変化とは、まだ呼べるものではなかった。

 ぼくは二度までも陰鬱の老人の視線に出くわすことで、重信川に秘められた、ぼくの知らざる真の世界に近づくことができた。それは世界の二重性とその合一性を暗示する、深層の構造体であった。

 高揚した精神生活と、それを支える陰鬱の影。暗を主調とする静まりの中に、重信川をとりまく深層世界が透視されていた。それを求めて、惹かれるようにやってくる人がいる。あの老人である。老人は、静寂を愛する一人の精神生活者であった。

 そこには近寄ることの憚られる世界があった。陰鬱の気に染まることに戸惑いを覚えるような、鬼気迫る世界であった。にもかかわらず、永遠の憧憬につながる世界でもあった。その世界に抵抗なく踏み入るには、一種の生まれ変わり、洗礼の体験が必要であると、ぼくには思われた。

 老人に孤独の哀愁と寂寞の影を感じとってしまうぼくには、洗礼を受ける資格はまだなさそうに思えた。

 至福の世界があることだけは、ぼくにもわかった。それを垣間見る機会が与えられたのは、孫がぼくにくれた偶然であった。

 二度目には孫も、早く帰りたい思いにせかされつつ、シロツメクサを摘み取ると、「じいちゃん、もう帰ろう。ねえ、お水を入れた入れ物にこれ差そうね」と、視界に納めていたはずの犬にはかまうことなく、ぼくの手を引いた。

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 二度の体験はぼくの内面に波紋を広げた。

 自分の似姿ともいえる老人に、「ああ、いやだいやだ」と忌避の念を覚えながらも、じわっと水がしみ出すように、自分もその仲間入りをしてみたいという、逆説的な思いにとらわれ始めるのは、ぼくにとって自然な流れであった。穴蔵のような四阿で蕭々たる孤独を人目にさらす気恥ずかしさには、まだ耐えられそうにないものの、樹陰での読書という憧憬のイメージを求める心は、湖水地方を逍遙する若きワーズワースに寄せる思いにも似て、ひたひたと止めどなくぼくの内部に充満していった。

 願わくは、あの陰鬱の気が漂う四阿だけは避けたいもの。対岸には、より開放的な四阿を備えた公園がある。それを心に描きつつ、読みかけの本と手帳とカメラと、さらにはモバイル型の携帯パソコンまでをリュックに詰め、新しく買ったマウンテンバイクの試乗をかねて、ぼくは重信川の公園をめざした。数日前の昼下がりだ。

 回り道をして、橋を二つ分ほど上流まで行ったのち、土手道を下った。心地よい風と、マウンテンバイクのスピード感と、憧憬のイメージに身を重ねることへの期待感とが、ぼくの足を軽くした。4月からの腸の悪化以来、運動と名のつくものからは遠ざかっていたため、汗の感触が何とも言えず懐かしく、また怖くもあった。

 めざす公園が見えてきた。

 広々とした草原と、枝振りのよい大木の樹陰と、さらさらと流れる人工の小川と、縫うように蛇行する遊歩道と、そしていくつかの四阿。心が晴れ晴れするような明るく開放的な公園である。緑と水と光がきらめいている。

 公園に近づくと、一組の中年夫婦が公園を見下ろす土手道を散策していた。若いカップルが公園のブランコを揺すっているのも見える。空き地には昼寝に来た営業マンの車が数台止まっている。人影はそれだけだった。

 いいよ、いいよ、ちょうどいい案配だよ。

 ぼくがめざすのは四阿だ。鬱蒼とした樹陰に閉ざされている対岸の四阿とは違い、この公園の四阿は期待に違わず、明るい日射しの中にある。すっぽりと覆う屋根の下も決して暗い空間ではない。ちょうどよい照度を保っている。

 四阿は、遊歩道に沿っていくつも点在している。自転車を乗り付けて、ひとつの四阿に近づいた。そして、驚いた。

 誰もいないと思い込んでいたぼくの目に、さりげなく置かれた自転車が飛び込み、屋根の下には先客がいた。どうやらぼくと年格好の違わない人だ。何だ、何だ、同じ思いの人がいたのか。

 陰鬱の影がないのが嬉しかった。気恥ずかしさにも、後ろめたさにも包まれず、好きなだけ読書に没頭している。価値ある発見だった。

 それにしても、先客には参った。次を探そう。

 自転車を走らせて次の四阿に向かった。そこも事態は同じだった。自転車があり、今度は女性の先客がいた。心地よげに読書にふけり、ノートに何かを記している。立ち上がる気配などさらさらない。

 さらに次へ。そこも同じ。

 結局、四阿はどこも満杯だった。ぼくと同類の退職者、有閑の人、戸外で読書を楽しみたい人、自転車で来られる距離の人、……、と条件を数え上げたとき、すべてを満たす人が同一時間帯に5人いたということだ。

 驚きだった。喜ばしいことだ。仲間はこんなにも多いのだ。心強さを覚えた。潜在的にはさらに何倍も、いや、何十倍もの仲間がいるのだろう。

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 こういう世界があるのだ。今の今までぼくの知らなかった世界だ。ジョギングの視線からは決して見えなかった世界だ。散歩の視線からも見えなかった。四阿で本を読もうと、そして思索しようと、その意図を持って自ら接近した人にのみ出現する、豊かで実在感ある世界であった。

 何と心地よく、何と明るく、何と充実した世界だろう。日々を仕事に追われる人間には決して味わうことのできない、自由あふれる世界だ。ぼくの理想郷だ。太陽をはさんで地球の反対側にあると言われる反地球のようなものだ。地球の人間にはぼくらの理想郷は決して見えることはない。その存在すら信じられない世界だ。

 見渡すと、一人ぽつんと、屋根のないベンチで本を読んでいる若者がいた。ぼくと同じく、四阿から閉め出された一人らしい。様になっていた。いい姿だ。まさに、この世界の一員であった。

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 ぼくは対岸に渡り、例の陰鬱の四阿から1キロ半ばかり下流に自転車を走らせた。そこにもぼくの気に入りの公園がある。四阿こそないが、木陰にちょうどいい案配にベンチがいくつも配置されている。

 車を止めた営業マンが車中でうたた寝をしている姿を尻目に、一つのベンチに腰掛けた。頭上に張り出した枝が直射日光をさえぎり、本を読むのにちょうどよい具合である。目の前には、一段低くなって、草野球ほどのグラウンドがある。

 ぼくはリュックから本を取り出し、ようやく理想のイメージに自分を没入させることができた。木のベンチは少々固くて尻が痛むが、しかたない。木陰を吹き抜ける風の何と心地よいことか。風に吹かれて、心ゆくまでページをめくった。

 もはや孤独の影におびえる必要はない。樹陰で一人読書にふけることは、公然とした、人の権利なのだ。許された楽しみなのだ。一つの世界なのだ。それをいまやぼくは知っていた。仮に好奇の視線がぼくに突き刺さったとしても、ぼくは尻込みなどしない。断言できる。あの老人のように視線を凝固させることもないだろう。

 一人、本の世界に没入していると、しばらくして、老人が自転車を乗りつけた。顔つきと頭髪と全体の雰囲気から、70歳を少し過ぎた人か。自転車を止めると、とんとんとんと石段を下り、グラウンドに立った。いかにもいつもの仕草という風で、動きによどみがない。

 グラウンドに下り立つと、バッグから何かを取りだした。見るとコマだ。ひもを巻きつけ、ぱっと投げる。曲ゴマだ。曲ゴマの練習なのだ。最初は、長いひもの先でひょいひょいとコマを回していたが、勢いがつくと、やおらぴょんとコマを空中に跳ね上げ、さらりとひもで受け止める。それを何度も繰り返した後、今度は、背後にコマを投げ上げ、くるっと回転して受け止めた。見事なものだ。

 見物人はぼく一人。でも、ぼくを意識している様子などどこにもない。一人で黙々と練習している。ぼくも熱心な見物人ではない。しばらく技を眺めていたが、自分の世界に戻ってしまった。ページをめくるとき、ちらっと練習姿を見る。そしてまた自分の世界に戻っていく。

 そうこうしているうちに、気がつくとコマのおじさんはいなくなっていた。

 それにしても、いい世界だった。こういう世界があるのだ。知らなかった世界だ。ぼくはますます嬉しくなった。

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 さらにしばらくすると、30代後半とおぼしき夫婦がやってきた。土手の散歩道を歩いてきたらしい。ずいぶん長く散歩してきたようだ。ぼくのそばを抜けると、とんとんとグラウンドに下りていった。そしてグラウンドを横切り、向こう側のベンチに腰掛けた。

 腰を掛けると、寸時の間もなく、奥さんはバッグから何かを取り出した。食べ物らしい。水筒もある。今から昼食か。その手つきの何と素早いこと。躊躇も何もない。まるで役者が演じなれた芝居を演じているように、よどみなく、食べ物をベンチに並べていく。

 そういえば、グラウンドを突っ切ってベンチに座るときも、迷うそぶりはなかった。すべてはあらかじめ演出されているとでもいう風に、二人は息をぴったり合わせて、めざすベンチに腰掛けた。そして、食べ物を並べる隙間をあらかじめ空けて座ったのだ。

 ぼくには何とも不思議な光景に見えた。現在進行形の映像に思えない。撮影済みの映画をあとから眺めているような気分だった。

 食べ物が並ぶと、二人はこちらにまで届きそうな声でしゃべりながら、食事を始めた。といっても聞こえてくるのは奥さんの声だけ。しかも、途切れ途切れに。

 もとよりぼくは、人の話に聞き耳を立てるような好き者ではないので、聞かぬ心づもりで、自分の中に没頭していた。

 ああ、これもいい世界だった。不思議な世界だった。こういう世界があるのだ。知らぬ世界だった。

 気がつくと、二人の姿はもうなかった。狐にだまされたような気分だった。

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 退職し、自由に使える時間が増えるにつれ、仕事に追われているときには気づきもしなかった新しい世界が、次々に現れてくる。そこにそんな世界があるとは、つゆも想像できなかった世界が、現実にはあるものだ。

 それを体験するにつけ、ぼくはぼく自身の変貌をいやが上にも自覚せざるをえなくなった。ぼく自身が変わったことにより、世界は色合いを変えたのだ。世界が色合いを変えたことにより、ぼくもまた変貌していくのだ。  ますます、人生が楽しみになってきた。生きることの佳境を迎えたと自覚するのはいつのことだろう。

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