トイレ文化考
2010年5月30日
 一昔前までは、公園の公衆トイレというと、入るのをためらうような薄汚さと悪臭が通り相場になっていた。トイレットペーパーなど、もちろんあるはずもなかった。しかも、汲み取り式だから、大便のときには、ぽちゃっという音とともにおつりが跳ね返ってくるのを覚悟しないといけなかった。

 今ももちろんその手のトイレは探せばある。だが、私の見るところ、この十年、公衆トイレの整備は急ピッチで進み、少なくとも公園と名づけられた場所における公衆トイレは、例外なくこざっぱりした水洗式に切り替えられた。便器のつけ替えだけでなく、建物ごと新設されることが多く、しゃれたヒュッテ風のログハウスなど、外見だけではトイレと思えぬものまで現れてきた。必然、掃除やメンテナンスも定期的にきちんとなされていて、ホテルのトイレと変わらぬ清潔感にあふれている。

 中には、男女別トイレとは別に、多目的トイレというのがしつらえられているところもある。入ると畳六畳ほどもありそうな広さで、車いすで楽に利用でき、赤ちゃんや幼児を連れた女性にも便利である。鏡やおむつ換え用の台も用意されている。

 かつてのあの薄汚さは、最新の公衆トイレからはイメージできない。

 今思うと、昔の公衆トイレがどうしてあんなにも薄汚く放置されていたのか、それが不思議である。おそらく、定期的に掃除するシステムが確立されておらず、汲み取り業者が年に何度か汲み取る以外には、手当はほとんどなされていなかったのではあるまいか。また、当たり前のようにおつりが跳ね返ってくるものだから、その跳ね汁であたりが汚れるということもありえたろう。あるいは、紙が用意されていないために、最悪のケース、自分の指で直接処理せざるをえず、それをさらに壁になすりつけるという究極の選択者まで現れたかもしれない。実際、そうとしか思えない汚物の擦り跡がたくさんあった。

 学生時代、あるトイレで見た落書きを思い出す。「神に見放されたなら、運は自らの手でつかめ」。

 トイレは汚れていて当たり前、だから、さらに汚すことにも躊躇は覚えない、そんな潜在意識が大したハードルを越えるでもなく生み出される温床が、かつての公衆トイレにはたしかにあったのだ。今のようにトイレが清潔になると、罪悪感なく平気で汚すことはもはやできない。

 ことのついでに、これまでに体験したさまざまな公衆トイレを思い起こしてみたい。そこから微妙な文化の香りが漂ってくるように思われる。

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 まずは、ソ連邦時代のレニングラード(今のサンクトペテルブルク)。びっくりしたのは扉のないトイレだった。

 レニングラードにしろモスクワにしろ、ロシアの大都市には一戸建ての個人住宅はほとんどなく、五,六階建ての大きなアパートが通りに面してずらりと並んでいる。それも、日本人の目に慣れ親しんだアメリカンスタイルのスマートなアパートではなく、壮麗な飾りや彫刻が全面に施された威風堂々としたアパートである。二,三百年の歴史を持つ建物も少なくない。

 また、町の構造は一種の張りぼて状である。大通りで仕切られた正方形の各区画ごとに、その四囲をアパートが取り囲み、内側は空っぽなのだ。空っぽの部分は、中庭というにはあまりに広大な公園である。いや、鬱蒼と木々の茂った森というべきか。森の中には細い小道がくねくねと通じている。昼なお暗い小道は、私などにはちょっとした恐怖であった。

 森の小道を歩いていると、突然開けた空間に出て、子供の遊具が置かれていたりする。人の気配の全くない遊び場は、何だか幻想の世界を見るようで薄気味悪いものだ。

 またときには、ぽつんと一、二棟、離れ小島のようにアパートが建っていることもある。そんなアパートからピアノの音が聞こえてきたりすると、「あっ人がいる」と、ほっと安らぎを覚えたりするから不思議だ。

 概して、レニングラードやモスクワの町の構造はこうだ。だから町は、表通りから見ると大きなビルが隙間なく並んだ都会であり、一歩内側に入ると、鬱蒼とした森なのだ。

 さてそれでレニングラードのトイレの話に戻ろう。表通りから裏の森へは、アパートの中央付近にくりぬかれたアーチ状の通路をくぐって出入りできる。その通路は、もちろん万人に開かれているのだが、原則はおそらくそのアパートの住人用ということだと思う。だから、通路の壁の中に埋め込まれている公衆トイレも、おそらくそのアパートの住人用なのだ。公衆トイレという言い方は正しくなく、住人の共有トイレというのが当たっているのかもしれない。

 そのような半私的なトイレだからではあろう、そのトイレには何と扉がないのである。中で用を足している人が、通路から丸見えなのだ。私が通ったかぎり、たいていはいつも空っぽだったが、一度だけ、丸々とした初老のご婦人が用を足しているのを目にしたことがある。通路側を向いて便器に腰掛けていた。

 壁の中に埋め込まれたトイレだから、その前を通過するまでは、そこにトイレがあることにすら気づかない。前を通った瞬間、それが見えるのだ。一瞬視線を向けた私は、はっとして目をそらせた。薄暗くてよくは見えなかったと言っておこう。だが、たしかにそこにご婦人がいた。用を足すスタイルで腰掛けていた。あらゆることにあっけらかんとした中世ののどかな庶民生活を覗き込んだような気分がした。

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 次はアラスカのアンカレッジ空港。国際ハブ空港だけあって、トイレもずらっと奥行き深く並んでいる。どの個室にもさすがに扉はある。だが入ろうとして驚いた。扉の下三分の一がカットされているのだ。つまり、用を足している人の足許が見えるのだ。

 これは何のためだろう。用を足しながらわかってきた。要は、空室かどうかが、扉をノックするまでもなくわかるシステムなのだ。人がいれば、足許が覗いて見える。足のないところに入ればよい。実に合理的である。

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 今度は中国。上海でのこと。町は人であふれているから、公衆トイレもやたら広い。個室が百個ほども並んでいる巨大なトイレに入った。監視員が数名立っている。そのそばをすり抜けて空室を探した。どのドアも閉まっていて、押しても引いても開かない。空室はなさそうに思えた。

 そこへそっと監視員が近づいてきた。ここへどうぞと、手振りで示す。ドアを押すと、たしかに開いた。中に入る。

 さてそこで、ドアに鍵をかけようとすると、鍵の相方が壊れていて、引っかからない。何度やってもうまくいかない。これでは、いつ誰がドアを開けるかわからない不安の中で用を足さないといけなくなる。困ったなと、ちょっとドアを開けて外を覗くと、目の前に先ほどの監視員が立っていた。目でうなずく。どうやら、「私が立っていてあげるから、心配せずに用を足しなさい」ということらしい。

 こんなトイレもあるのかと、まあ一応は安心してしゃがみ込んだ。日本式のしゃがみ込みトイレだった。水洗で、トイレットペーパーもちゃんとある。清掃も行き届いている。

 だが、気になるものが一つあった。目の前に箱が据えられていて、見ると中には、どう見ても使用済みのペーパーとしか思えない紙が詰め込まれている。茶色いものがこびりついているのだ。それも目と鼻の先に。ペーパーは水に流さず、この箱に入れろ、ということかと理解した。とはいえ、さすがに習慣上、私は、最後に使ったペーパーをその箱に入れる気にはなれなかった。水に流してしまった。

 私が出たあと、監視員が直ちにチェックして、「お前、水に流したな」と追いかけて来はせぬかと、心なしか急ぎ足でその場を立ち去ったのであった。

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 続いて、あれはたしか新宿駅でのこと。松山から新宿まで夜行の長距離バスに乗ったときのことだ。早朝七時ころ、バスは駅にほど近い専用降車場に着く。すがすがしい朝の空気を吸いながら駅まで歩くと、ちょうど便意を催してきた。さっそくトイレを探して入ったのだが、大便所用にはずらっと長い行列ができていた。あまりに長い行列だから、中の様子がわからない。ときおり人が出てくるたびに一歩ずつ進んでいく。はたして我慢しきれるだろうかと、心配になるような遅々たる歩みであった。

 我慢の時間は実時間よりも長いから、定かにはわからないものの、おそらく十五分は待たされた。それで行列の先頭に来たのかというと、そうではない。中の様子が伺えるところまで来たのだ。見て驚いた。おぞましい光景があった。

 一つの個室のドアが半開きになっていて、そこから足がにょきっと突き出している。大きなスニーカーの裏側がこちらを向いている。もう片方の足がドアを内側から押しつけていて、突き出た足をドアに挟み込んだ恰好である。いっこう動かないが、まさか死んでいるとも思えない。寝ているのだ。スニーカーのデザインや大きさから見て、おそらく二十歳代前半の若者だろう。

 深夜の深酒がたたって、明け方にか、深夜のうちにか、トイレで嘔吐でもしようと思ってしゃがみ込んだままくずおれてしまったのだろう。ドアが施錠されていないところを見ると、入るや否や倒れ込んだのか、出ようとしてくずおれたのか。狭いトイレの中を思うと、便器を背中にして寝込み、胸から上を壁にもたせかけているのであろうか。あるいは便器の上に上体を丸まらせて寝込んでいるのか。いずれにしても心地よい眠りではなかろう。自らの嘔吐物や排泄物が残っていたりしたらなおさらである。

 並んでいる人はみな目をそらせている。わずかしかない個室の一つが不法にも長期占有されていることに苛立ちながら。

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 次は子供のころ、父親から聞かされた話だ。

 戦争中、父は野戦病院に配属された衛生兵(今でいえば看護師)だった。病院の拠点はジャワのバタヴィアにあったのだが、時に応じてインドシナ半島、ビルマ、ボルネオなどを転々としていた。あるとき、ビルマの奥地の村に駐留することになった。ゆとりのありそうな民家を探し、一軒に五、六名ずつ、空き部屋を提供してもらって生活した。

 衛生兵は銃を持たない非戦闘員だから、村人は恐れることなく近寄ってきた。近くで激しい戦闘がないかぎり、駐留先の村では必ず臨時の診療所を開設し、村人を無料で診察するのが常であったから、村人との宥和はなおさら容易であった。

 父が住まわせてもらった農家のトイレは庭の隅の池だった。池の上に二枚の板が渡されていて、そこにしゃがんで用を足すのだ。落とし紙は使えず、板の上に置かれたへらで最後の始末をすることになっていた。それにしても、他人が使ったへらを使い回すのは気持ちのいいものではない。父は竹を削って自分用のへらを用意していた。

 排泄物は必然、池に落ちる。落ちると、何やら尻の下が騒がしくなる。魚がぴちぴち跳ねて食べにくるのだ。押しのけあいながら群がって跳ね、盛んに口をぱくぱくさせる。魚は天然の汚物浄化装置なのであった。

 ある日、家の主人が父たちに、「今夜は祝い事があるので、兵隊さんたちにもごちそうします」と言ってきた。父らは夜になるのが待ち遠しく、うながされるままに宴の席に連なった。さまざまな料理が出たが、その一つに魚の煮物があった。

 よく見ると、どうも姿形に見覚えがある。間違いない。あの魚だ。排泄物で育った池の魚だ。

 これには父も参った。せっかくのもてなしではあるが、結局、魚にだけは箸をつける気になれなかったという。

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 最後の話は野グソ。当然のことながら、太古の昔から人々にとって野グソは日常茶飯事であった。庶民の住居にトイレ設備が組み込まれたのは、長い人類史の中ではつい最近のことであろう。平安京でも、庶民のトイレは道ばたであった。

 餓鬼草子という平安末期の絵草子がある。その中の一葉に、京の庶民が道ばたに並んでしゃがみ込んでいる絵がある。男も女も子供も老人も、まさに老若男女が尻をまくってしゃがみ込んでいる。今まさに放尿中の人もいれば、尻の下に排泄物を積み上げている人もいる。みな例外なく高下駄を履いている。積み上がった排泄物に尻を直撃されないためであろう。

 何ともリアルな絵なのだが、これで見るかぎり、少なくともトイレの場所だけは定められていたように思える。どこにでも垂れ流しというわけではなかったようだ。それにしても、往来激しい道ばたである。しかも、それらしき構造物はなく、地べたに直接なのだ。生理現象を満たすのに他人の視線を気にするような現代的個人主義は、当時の日本には片鱗もなかったということだ。

 さて、現代人の場合、野グソの経験者はどれくらいいるのであろうか。登山や野外キャンプを趣味にしている人ならいざ知らず、普通に町の暮らしをしている人が野グソの必要に迫られるケースはまずないだろう。

 実は私は、恥ずかしながら、野グソの経験おびただしきものをもっている。

 三十代半ばで潰瘍性大腸炎という難病に冒された私は、病名を最初に告げられた医師から「これは一度かかったが最後、生涯つきあい続けないといけない不治の病ですよ」と宣告された。この病の最大の特徴は、緩解期と呼ばれる山と、激甚期と呼ばれる谷を周期的に繰り返すことである。できるだけ緩解期の期間を長く持続させ、激甚期の谷を可能な限り浅くする。これが私と主治医と薬剤とにできる精一杯の対処なのだ。根本的な治療法はいまだに発見されていない。

 この病に冒される前から、私の大きな楽しみはジョギングだった。病にかかってからは、激甚期の兆候が現れると走るのをやめ、緩解期が来たなと思われると、再び走り始めるということを繰り返してきた。ところが、緩解期とはいえ、完治しているわけではないから、腸はややゆるみがちである。

 と、ここまで書けば、もう説明は要らないだろう。ジョギングの最中に便意を催したことは何度もある。だから、いつでもティッシュペーパーは必須の携行品であった。もちろん、本当に調子がいいと自覚できる時期にはその必要はないし、そういうときには走るコースに気を遣う必要もない。

 やや下り坂に入ったかなと思われると、緊急の野グソの欲求に迫られることを考慮して、コース取りを事前に考えておかないといけない。人通りの多い大通りなどは禁物で、人気が少なく、木陰や藪陰が豊富にあるコースを選択することになる。

 そういうコースはどこにでもあるわけではないから、必然、野グソの場所はかぎられてくる。というわけで、私にとって野グソの思い出が最も多いのは重信川の河原である。河原には人目を遮断する茂みがたくさんあり、そばには直径二、三十センチの丸石がゴロゴロしている。適当な場所に潜み、深めに埋まった丸石を一つ押しのけると、為さんとする仕事にピッタリの穴が開くのである。その穴にすべてを始末し、あとで再び丸石をかぶせておく。これで完全犯罪成立となる。

 そんな私だけの石、私のDNAが擦り込まれた石が、重信川の河原には少なくとも十個はあるはずである。碧空の下の野グソは喩えようもなく爽快なのだ。

義弟よ
2010年5月31日
 義弟よ。君が逝ったのは、昨日の朝3時28分。ベッドのそばで最期を看取った妻から電話があったのは6時。静寂の中に鳴り響いた電話のベルに、受話器を取らぬうちからぼくには事態が察せられた。ついにその時が来たようだ。早打つ鼓動を押さえつつ、受話器を取った。君の死を告げる妻の声は静かだった。

 ぼくが君を最後に見舞ったのは4月半ばだったね。

 「あと数日で還暦だよ。来年の春には定年。定年になれば松山に帰ってのんびりするよ。」

 そう言って、刻一刻と近づく死の恐怖を紛らしていた。

 末期ガンと診断され、家族に余命数ヶ月と告げられたのは一昨年の秋だった。ずいぶん昔に思えるよ。以来妻は幾度となく君の元に通った。妻はすっかり長距離バスの常連になってしまったね。

 君は就職してからずっと、松山を離れて暮らし、盆と正月と5月の連休には決まって松山に帰ってきた。それが君の決まり事だったよね。

 夏の帰省は、先祖を弔う施餓鬼の日に重なった。君の両親が生きていたころも、母だけとなってからも、その母がいなくなってからも、君は律儀に帰ってきた。長男たる責任を果たし、先祖の霊を弔い続けた。寺に出かけ、布施をし、先祖の霊を弔い、なじみの住職と語らう。そして、町を挙げての施餓鬼の祭りを楽しんだ。

 欠かさぬ君のならいであった。

 君はまた、不自由な足で四国遍路を二回りした。松山の実家が四国遍路の基地だった。三回り目が成就せぬうち、君は逝ってしまったのだ。

 元気な君と最後に語らったのは一昨年の6月だった。そう、君の母の七回忌の日だった。ぼくの娘夫婦や孫と一緒に写真を撮ったね。その写真が、ぼくの手元にある君の入院前の最後の写真だ。にこやかな笑顔で写っているよ。

 そのとき将棋を指したね。それが君との最後の将棋になった。

 君は松山に帰ると決まって、ぼくと将棋を指した。ぼくを負かすことに命をかけているとでもいうように。いつだったか、将棋盤とコマを抱えて鬼気迫る勢いでぼくの家にやってきたことがあったね。思い出すと涙が出るよ。病気の兆候もなかったころの君だ。ずいぶん負けず嫌いだったね。さまざまな戦法を勉強してきては、それをぼくにぶつけた。勝負はまあ五分五分だったのかね。

 思えば一昨年のあの七回忌の日、すでに君の肺はガンにひどく侵されていたのだ。言いようのない苦しげな咳を繰り返していたのを思い出す。それでもなお、ヘビースモーカーの君は煙草を捨てなかった。咳き込む苦しさを煙草の煙で紛らそうとでもするように、君は吸い続けた。ぼくの忠告に耳を貸すような君ではなかった。それがいかにも君の君らしいところだったんだ。

 その年の施餓鬼にも君は帰ってきた。ずいぶん体に負担をかけて帰ってきたらしいね。だのに、ぼくは君に会えなかった。君は実家にわずか一泊しただけで、あわただしく戻っていってしまったんだから。将棋を指す体力はもうなかったのかね。

 君に運命の時が来たのは、その年の秋10月。胸の苦しさに耐えきれなくて病院に行った君に、突きつけられた診断結果は肺ガンだった。家族には余命数ヶ月と告げられた。肺のみならず、脳にも転移していた。すでに手の施しようのない末期ガンだった。

 君は結婚生活において、幸せ薄き人だった。孤独を好む性向ゆえか、おのれを曲げぬ頑固さゆえか、そもそも二人の相性が合わなかったのか、つぶさにぼくは知らないものの、とうに妻子と別れて暮らしていると聞かされたのは、もう10年も前だった。かぎりなく離婚に近い別居だった。

 ガンの告知には、主治医も戸惑ったようだ。君は主治医になんと、「妻はいない」と言ってしまったのだから。「独り身だから、すべてを私に話して下さい」と。

 だが、妻や子がいることはおのずと知れた。君にはガンとだけ告げられ、家族には余命数ヶ月と告げられた。

 それからも君は、奥さんが病室に付き添うことを頑なに拒んだと聞くよ。見舞ってくれても無言のまま。10分も経てば、いたたまれなくなって奥さんは帰って行く。どこまでも頑なで、こじれを戻す微塵の気配も見せない。そしてどこまでも孤独を楽しんだのだ。ぼくならとても耐えられない。でも、それが君だったのだ。

 ぼくが君の病室を最初に見舞ったのは、入院して2ヶ月後の12月だった。妻と二人で長距離バスに乗った。妻にとってはもうすっかりなじみになったバスだ。

 バスを降り、電車に乗り、さらに乗り換え、降りた駅は、大きな女子大のそばらしく、女子大生の賑やかな声がこだましていた。改札口を出て、商店街をしばらく歩くと、君の白亜の病院が見えてきた。

 ベッドは南側の窓ぎわだった。12月とも思えぬ強い日射しに、伸び放題の無精髭が光っていた。内心予期していたほどの衰弱は見られず、意識も言葉もしっかりしていた。放射線治療が功を奏しているらしく見えた。

 この部屋はみんなガン患者だと、君は言った。昨日一人いなくなったとも言った。寂しいよ、と言った。

 だが、自分にはまだ生きる力があると、言葉の裏で君はぼくに伝えようとしていた。そうありたい。強く願う。でも確信はない。怖い。だから、命のことを言葉には出せない。しゃべってしまうと、未来が定まり、逃げ途を失う。知りたくない、この先のことは。

 君の気持ちはぼくには手に取るようにわかった。

 君にはまだ深刻なガンの転移は知らされていなかったのだ。希望を抱く理由はあったのだ。だけど、体の奥底の感覚が、遠い未来のないことを確実に君に知らせていた。不安の影は次第に色濃くなっていた。

 それをあえて知らぬげに、窓から見える町並みのこと、その先にある海のこと、四国遍路のこと、楽しかった将棋のことなど、とりとめもない話で、真の話題を遠巻きにしていた。

 大丈夫、気をおおらかにもって。今の瞬間を精一杯生きればいいんだよ。この瞬間の命に充実があれば、君の命は大切に守られ、輝いているのだから。いつの日かそれが果てるのは、人たるもの誰もの宿命ではないか。長い、短いは絶対的尺度で測れるものではないよ。内面に充実があれば、その尺度は外部的尺度を超然と凌ぐのだ。

 ぼくはそう強く念じ、命という言葉には触れず、君に伝えた。言葉の外でそれを伝えた。

 ベッドの周囲に家族の香りがないのが哀れだった。

 病院を出て、妻と町を歩いた。何年ぶりだろう、この町を歩くのは。大震災を機にできたイルミネーションが、町の通りをきらびやかに彩っていた。そう言えばクリスマスが近いのだ。君への思いを深く心に納めながら、ぼくは町の華やかな色彩に酔っていた。

 あのクリスマスのイルミネーションが今もぼくの脳裏から離れない。ガンに侵されつつも、まだ気持ちが萎えてはいなかった君の姿と重ねて、ぼくにとっては忘れがたいあの一日。それを象徴するきらめきの残像。

 あれから一年数ヶ月、君はよく頑張り通したよ。余命の宣告なんて当てにはならないことをぼくは知った。医師はきっと、宣告よりも早い命の途絶を恐れているのだ。見立て違いと非難されるのを恐れているのだ。だから宣告は極力短めに言うのだ。それより伸びたからといって、非難される心配はないのだからね。

 それに、短めに言っておけば、患者は残された命を光らせることに全霊を傾けるだろう。それが萎えようとする気力を奮い立たせ、結果的に余命を引き伸ばす力になるかもしれない。

 君を最後に見舞ったのは、今年の4月半ばだ。すでにガンは全身をむしばんでいた。骨も、内臓も。君は満身創痍だった。やせ細っていた。

 「腸が痛い」と君は言っていた。四六時中、腹を手で押さえ、苦痛にうめいていた。見るに忍びない姿だった。

 ぼくの潰瘍性大腸炎のことをしきりに尋ねた。ぼくの病気も、悪くなると腹がきりきりと刺すように痛む。ときには、鋭いカミソリで切り裂かれたように痛む。だけどぼくのは、プレドニンが症状を抑える特効薬で、ひと月もすればたいていは治まってくる。君のはどうもそれとはちがう。プレドニンはずっと飲んでいると言っていた。でも、いっこうに腹の痛みが取れないのだ。

 それはガンのせいだよ。そんなことをぼくは言いはしないけれど、ぼくの潰瘍性大腸炎の症状を聞きながら、君にもすでに察しはついていたはずだ。一縷の望みをかけていたのだ、ぼくに。ひょっとしたら、この腸の痛みは潰瘍性大腸炎のせいかもしれない。だとしたらガンではない。その一点に君は望みを託していた。それをぼくはすぐさま感じとった。

 ぼくには突き放した物言いはできない。だけどあからさまに嘘をつくこともできない。婉曲に、婉曲に、それはちょっと違うよと、ぼくは知らせてあげた。真実に向き合うためには、厳しいようでもそれが必要だった。

 君の腹痛はついに治まることがなかった。ガンは、腸にも肝臓にも、情け容赦なく転移していたのだ。

 5月半ば、ついに君も覚悟を決めた。もうこれ以上、抗がん治療をしてもらわなくていいです。はっきりとそう主治医に告げたのだ。抗がん治療は激しい治療だ。それでも進行を食い止められないとなれば、ただただ苦痛を増し加えるだけとなる。君はもう耐えることの限界に来ていた。

 もちろん家族の同意の上だが、君の意思表示を契機に、病院の方針は緩和ケアに移行した。痛みを和らげ、最後の時を安らかに迎える。もはやガンを治すための治療はしない。それが緩和ケアだ。

 それから数日して痛みも取れ、一時は、よくなったのではないかと錯覚させるほどになった。だが、痛みを取るにはモルヒネや催眠剤が使われる。必然、意識はもうろうとする。治療をしないから、肺の機能も衰えてきた。酸素マスクをつけた。

 心臓も弱ってきた。そしてついに、脈が微弱になってきたと電話がかかり、一時松山に帰っていた妻が急いで駆けつけた。その半日後であった。君は帰らぬ人となった。

 か細くなったろうそくの、燃え尽くすまでの何とあっけなかったことよ。まだまだと思っていた線香花火が、最後のチカチカを見せないまま、いきなりぽとっと落ちてしまったような、虚ろな気持ちをぼくは味わっている。覚悟していたこととはいえ、あまりにも早く闇がやってきた。本当につらい、寂しい闇だ。

 孤独を愛した君の人生は、いぶし銀のように光っていたよ。天国では君の好きなことを、好きなようにやればいいよ。もう苦しまなくていいんだから。痛みに苦しめられたつらいつらい数ヶ月のことは忘れたらいいよ。苦痛はすべて去ったんだよ。解き放たれたんだよ。笑ってぼくを見つめていておくれ。遠からずぼくもそちらに行くから。また一緒に将棋を指そうよ。

杏夏へ 〜35年目の涙〜
2010年5月31日
 還暦ってわかるかな、杏夏。

 じいちゃんは、日本がアメリカや中国と戦った戦争が止んでしばらくした1948年2月にこの世に生まれてきた。だから、いま還暦を少しすぎたところなんだ。還暦というのは六十歳になることなんだからね。

 じいちゃんのように還暦をすぎると定年というものがあるんだ。

 長い間働いてきてご苦労さん、もう仕事がんばらなくてもいいですよ。あとは若い人が引き受けますから、これからはゆっくり人生を楽しんで下さい。まあそれが定年というものなんだ。

 じいちゃんはある学校で数学の先生をしてたんだが、六十二歳を迎えた今年の春、思い切って退職してしまったんだよ。本当は六十三歳が定年だから、あと1年働いてもよかったんだけどね。

 どうして早くやめたかというと、理由はいくつかあるんだ。

1.
 ひとつには、じいちゃんにはもう何十年も患ってきた大腸の病気があってね。一度かかったら死ぬまで治らない潰瘍性大腸炎という難病なんだ。世界中でたくさんの医学者が研究してくれているらしいんだけど、いまだに原因も治し方もわかっていない。

 じいちゃんの場合は幸いなことに、いつもいつもずっと体調が悪いというわけではない。ときどき、そう、年にだいたい二度かな、病気がむずむず起き上がってきて、大腸の壁が出血し、下痢が続いたり血の混じった便が出たりするんだ。そんなときにはお腹の奥がずきーんと痛んで、何もする気にならなくなる。一度悪くなると、治まるのに早くても一ヶ月、ひどいときには二ヶ月もかかってしまう。

 困ったことに、この病気は時や場所を選ばず、いきなり奇襲攻撃を仕掛けてくるんだ。昨日まで元気だったのに、ある朝突然、腸に痛みが走り、ぞっとするような血の混じった赤い下痢が出る。気分が滅入り、体に力が入らなくなる。

 あっ、来た、と思ったら、もう覚悟を決めるしかない。それから一、二ヶ月は、じっと身を固くして耐え抜くしかないんだ。これは本当に苦しいものだよ。元気な人に話しても誰にもわかってはくれないだろうけどね。

 潰瘍性大腸炎と診断されてから25,6年になるから、ざっと数えてもうすでに50回以上、じいちゃんはこういう体験をしてきたことになる。

 これまでは学校の仕事を続けながら、耐えてきたんだ。腹の奥に違和感や鈍痛を覚え、力が入らず、気が滅入る。休憩時間になるとトイレに駆け込む。その合間に教室で授業をしないといけない。こんな辛い経験はもう数え切れない。

 もちろん元気でいられる期間の方が長いわけだから、治まってしまえば平気で好きなテニスやジョギング、水泳などを楽しんでいたのだけどね。不思議な病気だよ。

 若いころは回復力が強いから、そんな案配で、だましだまし病気とつき合ってきたわけだが、五十歳の峠がきつかったね。五十歳の誕生日を迎えた途端、これまで経験したことのないようなひどい症状に陥り、一年間、長期入院してしまったんだ。一時は死の淵を覗き込むところまで転落し、その頃大学生だった杏夏のママも、「父さん、もういけないかもしれないから、早く帰ってきた方がいい」と言われて、東京から駆けつけたりしたこともあるんだ。

 何とか立ち直って退院はしたんだけど、もう若いころのようにはいかなくなったね。元気な時期でも無理はできないし、いったん悪くなると、回復するのに長い時間がかかるようになった。一年のうちで体調のすぐれない期間の方が長くなった気がするんだ。

 この病気で一番心配なのは、大腸ガンに転化することなんだ。潰瘍性大腸炎そのものは本来、致命的な病気ではないんだけど、ガンに転化すると命の危機にさらされる。大腸ガンや直腸ガンにかかる確率が普通の人よりも高いという潜在的なリスクを負わされているのが、じいちゃんのような潰瘍性大腸炎患者なんだ。

 今のところ、じいちゃんは大丈夫と言われている。年に一度、大腸内視鏡検査と言って、おしりからカメラのついた管を入れて大腸の中を直接見てもらっているんだけど、先日の検査の結果、主治医の先生から「潰瘍は中レベルだけど、ガンはないですね」と言われたんだ。さりげない一言だったけど、その一言がじいちゃんに与えた安堵の深さを杏夏は想像できるかな。

 一年、また一年と、こうして命が与えられているのをじいちゃんは検査のたびに実感しているんだ。

 それにしても、仕事を続けながらこの病気に耐えるのはもう限界かもしれない。そう思うようになったのは五、六年も前からのことだった。

 早く自由な身になって、のんびりした生活がしたい。一日二十四時間が誰からも制約されない自分だけのものになったなら、気づかぬうちにじいちゃんを締めつけていたストレスも消え去って、ひょっとしたら病気もどこかに逃げていってくれるのではなかろうか。そう考えて、いても立ってもいられない気持ちになり始めたのが、5,6年前からなんだね。

 考え続けているうちに、とうとう定年まであと1年の地点まで来てしまったんだけど、最後の1年がもうとても待ちきれなくなった。

2.
 退職を繰り上げた理由はもう一つある。

 杏夏は小さいからまだ意味がよくわからないかもしれないけれど、じいちゃんはね、勉強が大好きなんだ。昔、学生時代の友達が久しぶりに集まったときにね、「今一番楽しいことって何?」って聞かれたから、じいちゃんは即座に「勉強すること」って答えたんだ。社会人になって十年ばかりたったころだったから、みんな目を白黒させて、「それって、いったい何?」って顔をしていたのを覚えているよ。卒業してしまったら、普通、「勉強が趣味」なんて人はいないからね。だけど、じいちゃんにとっては、即座に出てきた答えはそれしかなかったんだ。

 先ほども話したように、体の衰えを感じ始めた五十歳までは、じいちゃんはスポーツに熱中していて、毎日、真っ黒に日焼けしてね、ジョギングしたりテニスボールを追いかけたりしてたんだ。だけど、それは外から見たときの顔でね、じいちゃんが心底生きがいを感じる時間は、一人机に向かって本を読んだり、考え事をしたり、ものを書いたりしているときだった。

 一人で机に向かって考え事をしていると、何か無限の知恵というか、宇宙の真理というか、すべてを支配しているとてつもない意志というか、無と有を超越した実在というか、何かそういう巨大なあるものと向き合っている気がしたものだよ。

 杏夏にこんな話をしてもとてもわかりっこないけど、いつか大きくなって思い当たるときが来るかもしれない。そのときこの話を思い出してくれたらいいよ。

 その得体の知れない何かを突き止めようなどと、大それた考えにじいちゃんはひたっていたわけではないのだけど、本を読んで勉強したり、自分で考えたりすることで、少しでもそれに近づきたい、それを体感したい、そんな気持ちを若いころからずっとじいちゃんは心の底に抱き続けていたんだ。じいちゃんの夢かな、これは。言葉で表すことのできない奥深い夢なんだ。

 まあ、それはさておくとして、勉強することはじいちゃんにとって、何ものにも代え難い生きがいだったんだ。

 実は、じいちゃんが勉強ということに対してもっている深い思いは、今言った夢とは別に、もう少し具体的で現実的、そして主観的なものでもあるんだ。

 こんな言い方をすると、杏夏の頭はこんがらがってしまうだろうが、そのうちきっとじいちゃんの思いが理解できるときも来るから、我慢して聞いておいてね。

 じいちゃんにとって、勉強はね、じいちゃんの人生にとりついている根深い後悔を慰めるための、ただひとつの道なんだ。悔しさを埋め合わせる切ない手段なんだ。

3.
 ここではかいつまんで話をするけれども、じいちゃんは大学に入ったとき、とんでもない考え違いをしてしまったんだ。

 大学に入るための受験勉強を脇目もふらずやって、何とか希望の大学に合格したんだが、大学の門をくぐるやいなや、ぷつっと意欲が切れたんだ。しがみつくような勉強はもうこりごりと思ってしまったんだね。それが勉強一般をじいちゃんから遠ざけたんだ。馬鹿だったよ、じいちゃんは。

 誰一人、その間違いに気づかせてくれる人はいなかった。

 じいちゃんは電子工学を専攻して合格したんだけど、高校時代の延長のような数学やら物理やらをまたやらないといけないことに、耐え難い抵抗を感じたんだ。その上、一般教養としての英語やドイツ語もある。単語を覚えたり、文法や構文を覚えたり。そんな作業が受験を終えた身にまた待っていたことに、じいちゃんは本当にうんざりしてしまった。

 もし今、人生をやり直して、十八歳の当時に戻ることができたなら、じいちゃんは何を出されても、がむしゃらに飛びついて、猛烈な向学心で、すべてを学び尽くすことだろうね。

 当時のじいちゃんにはその意欲が消失していた。出鼻でくじけてしまったじいちゃんは、講義に出席しなくなり、教科書を開いてみることすらしなくなった。真剣に学べば、汲み尽くせない真理が語られている教科書を、じいちゃんは遠い世界の絵空事と感じてしまった。

 講義に出る代わりに、繁華街の映画館で暇をつぶしたり、薄暗い喫茶店で雑誌をめくったり、ときに思い直して講義の後半だけを遅刻して最後尾の席で聞いては、チンプンカンプン理解できない落伍者の悲哀を強くしたり。またときには、追いつこうと教科書を繰ってみることもあったが、大勢から大きく引き離されていて、とても取り返せるものではない。立ちはだかる壁を前にして、畳に仰向けにひっくり返ることしかできなかった。

 ああ、今になると、なんて馬鹿げた学生時代を過ごしてしまったことだろうと思う。

 そんなじいちゃんでも、試験の前になると、一週間ほどは付け焼き刃の勉強をして、単位だけは取ってしまったんだ。大学というのは、真剣に勉強して先端研究者の道に進む人を養成する機関であると同時に、いい加減な一夜漬けの勉強しかしない人にも、はいどうぞと卒業資格を与えてくれる機関でもあるんだね。

4.
 じいちゃんが本当に勉強したいと思うようになったのは、大学を卒業してからだった。NECという、電気通信とコンピュータ関連の会社に入ったんだよ、じいちゃんは。そこでコンピュータの方式計画という部門に配属された。

 一から学んで、何とか仕事はできるようになったんだが、コンピュータに心底意欲を感じることはなく、土日の休日を利用して図書館に通い始めた。そのころじいちゃんが住んでいたのは東京郊外の府中市で、その市立図書館にじいちゃんは通ったんだ。

 府中市立図書館には本当に感謝している。思い出すと涙が出るくらいだ。じいちゃんが学問の喜びに気づかされたのは、ひとえに市立図書館のおかげだったんだから。京王線府中駅の南側に大国魂神社という古い神社があってね、その境内の薄暗い樹林の中に府中市立図書館は建っていた。今もあるのだろうか。二階の閲覧室がじいちゃんお気に入りの勉強の場になった。窓からは鬱蒼とした大木の枝しか見えず、落ち着いて勉強できる静かな閲覧室だった。

 じいちゃんはあらゆる書物に手を出した。中でも、歴史書や哲学書に興味を覚え、借りて帰って平日の夜も読みふけった。

 そうして何年かが過ぎ、そのころすでにばあちゃんと結婚してたんだが、じいちゃんは突然、大学に入り直して哲学か歴史を勉強したいと考えるようになったんだ。大学三年生から入ることを学士入学と言うんだが、じいちゃんが出た大学では、卒業生であっても、自分の入試時の成績が一定のラインを越えていれば、別の学部に再度学士入学できるという制度があり、事務局に問い合わせてみたんだ。すると、あっけないくらいあっさりとOKの返事が届き、書類を出せば翌年度から受け入れますということだった。

 この夢のような話に躍り上がったじいちゃんは、さっそくばあちゃんに打ち明けたんだよ。当然賛成してくれるものと思っていた。

 ところが意外なことに、ばあちゃんは顔をしかめ、「今のまま会社にいれば将来に何の心配もないのに、学生に戻ったら生活はどうするのよ」と、現実的な問題で反対したんだ。勉強したい、研究したいというじいちゃんの願いは、ばあちゃんには夢の絵空事にしか見えなかったんだね。夢こそが現実を動かすエネルギーだと、じいちゃんは信じていたんだが、ばあちゃんの現実はそんなものではなかった。眼前の安定した現実、それだけがばあちゃんの現実だったんだ。

 ばあちゃんの両親も反対で、結婚詐欺だとまで言われてしまった。NECという大企業に勤めているからこそ、娘を嫁にやったんだ、だのに会社を辞めるなんて、という論理だった。じいちゃんからすれば、それは論理の顔をした見栄や外聞にすぎないように見えたけどね。

 ついに、じいちゃんの両親も含めて、親族会議なるものが開かれることになった。じいちゃんとばあちゃん、それと、じいちゃん側の両親、ばあちゃん側の両親、合わせて六人だ。ばあちゃんの実家に集まった。

 じいちゃんの両親には大学という学歴はなかったけれど、じいちゃんの強い思いに対して同情を示していた。そこまでいうのなら少々の仕送りはしてやってもいい、そんな気持ちもあったと思う。だけど、じいちゃんの家は零細な自営業で、経済的なゆとりがあったわけではないから、生活を保障すると、はっきり言うことはできなかったんだ。

 ばあちゃんの両親は二人とも大学卒業の学歴をもつ人だった。だから、本当なら、勉強したいというじいちゃんの気持ちをわかってくれてもよさそうなものだった。ところが二人とも頑固でね。言い出したことは曲げないという人だった。

 娘が収入もない学生と結婚して、安アパートに住み、手内職かパートで細々と無収入の夫を支える。そんな姿を想像したんだね。みじめでとても我慢ならなかった。しかも、いま現在、経済的に何の心配もない生活があるというのに。わざわざそれを捨てて、娘をみじめな生活に引きずり込もうとしているじいちゃんを、二人はとても許せないというのだった。

 たしかにそのように見れば、結婚詐欺と言われてもしかたのない事態だったのかもしれない。

 話はまったくすれ違いだった。かみ合う歯車がなかった。

 じいちゃんは当面の暮らしよりも、夢を大事にしていた。夢こそが人生であって、現実の生活や経済的安定などは、じいちゃんにとって派生的問題にすぎなかったんだ。夢をかなえることに命をかけない人生なんて、中身のない張り子の虎ではないか。経済的安定などという張り子にしがみついて何になるのだ。

 もちろん張り子あってこその中身だ。それはじいちゃんも知っていた。だけど、張り子はじいちゃんからすれば、ぼろぼろだっていい。ぐしゃぐしゃだっていい。ぎりぎり生活さえしていければ、何も高給取りになる必要などないではないか。発想が若かったと言えば若かったのだが、じいちゃんはそう考えていた。

 夢を求めてこそ、真の人生の充実があるはず。

 しかも、その夢はじいちゃんにとって、実体のない空虚ではなかったんだ。当たりもしない宝くじに大金を注ぎ込もうというのではなかったんだ。

 つまり、運を目当ての賭けではなかったんだ。確実に実りを得ることのできる夢だった。今はまだ早苗で、何の収穫ももたらすことはできないけれど、努力の末にはきっと実りのときが来る。じいちゃんは確信していた。

 じいちゃんの夢とは、学問をすることだった。学生時代の失敗に歯ぎしりしていたんだ。取り返しのつかない後悔に悩み続けていたんだ。

 今ようやく、学問の世界に足を踏み入れる道が見えてきた。向学心がそれを背後から燃え立たせていた。この機会を無にしたら、もうじいちゃんは生きていく甲斐をなくしてしまう。学問で身を立てよう。研究者としての新たな道に突き進もう。

 もしじいちゃんが、学者の道に進みたいとはっきり言ったなら、体面を重視するばあちゃん側の両親もひょっとすると心を動かされたかもしれない。やがて大学教授夫人と呼ばれるようになれば、体面も立つだろうから。

 だが、じいちゃんはそうは言わなかった。じいちゃんにとっては、体面に関わるものはすべて張り子だった。じいちゃんの夢は張り子を目指すものではなかった。ただひたすら学問に没頭したかった。結果として対面が立つのなら、それも悪くはなかろうが、あくまでそれは張り子だった。

 今はとにかく、やり損なった勉強をもう一度、最高度に燃え上がった意欲で取り返したい。その気持ちで一杯だったんだ。

 じいちゃんは、今もそうだが、昔から口べたでね。自分の思いを滔々と述べることなんてできないんだ。口から出るのは考えていることのほんの一部。断片を引きちぎって話すものだから、自分の思っているようには、描いている構図が相手に伝わらないことが多い。

 親族会議で実際のところ、じいちゃんはほとんどしゃべらなかった。しゃべったのはばあちゃんの母親だった。体面に関わることばかりだった。じいちゃんの思いを理解する言葉は一言も出なかった。じいちゃんはもうやけっぱちだった。自分を擁護する気にもなれなかった。

 そしてついに、じいちゃんは、トイレに行く振りをして飛び出してしまったんだ。家を抜け出して、外に出た。何時間も町を歩いた。残されたみんなは心配して探したことと思うが、じいちゃんはただ悲しさと悔しさだけをかみしめて、あてもなく歩き回った。

 口を真一文字に結び、悲痛な表情で脇目もふらずに歩くじいちゃんの姿は、おそらく行き交う人から異様に見えたはずだ。振り返る人も一人や二人ではなかっただろう。

 だけどじいちゃんには自分の異様さに気づくゆとりはかった。悲しさと悔しさのかたまりだったんだ。

 今もじいちゃんは、そのとき自分がどこをどう歩いたのか、思い出すことができないんだよ。心の中の張り裂けるようなものと、肉体としての足の機能とがばらばらになって、足は勝手に心とは別のところを歩いていたのではないかと思う。

 はっきりしているのはただ、何時間も歩いているうちに涙も乾ききり、これではいけないと思い直して、夕方遅くじいちゃんの実家に帰ったことだ。

 じいちゃんの父さんと母さんも帰っていた。ばあちゃんもいた。三人で心配顔にテーブルを囲んでいたらしい。

 じいちゃんが玄関を開けた音で、「ああ、お帰り」と母さんが出てきた。家を飛び出したことには一言も触れなかった。続いて出てきたばあちゃんの顔には、涙が光っていた。ピンクのスーツを着たあのときのばあちゃんの、涙でつぶれかかった顔をじいちゃんはいまでも忘れることができない。

 思えばあのとき、じいちゃんとばあちゃんは二十七歳。人生をやり直すには十分な若さだったと、いまになってみると本当に思うね。杏夏には二十七歳の意味などわかりっこないけど、やり直せる歳なんだよ。勉強し直せる歳なんだよ、二十七というのは。

 だけど、あのころのばあちゃんには、せっかく未来に向けて船出したばかりなのに、いきなりじいちゃんが港に引き返そうと言い出し、ましてや、来た道を逆戻りして、また何年もの苦労をしようというんだから、とてつもない回り道に見えたんだろうね。人生の華やいだ盛りの時間を、薄汚れた墨で塗りつぶされるような気がしたんだろうね。

 その気持ちも、いまになるとじいちゃんにはよくわかる。

 親族会議のことには、もう触れなかった。どういう結果になったのかも、じいちゃんは聞かなかった。たぶん結果など出なかったと思う。

 このことについてはいっさい話さないことにして、じいちゃんとばあちゃんは翌日府中に戻ったんだ。もちろん会社にはちゃんと出勤した。じいちゃんは今までと変わらず、昼間は会社で働き、夜になると家で好きな勉強に熱中したんだ。

5.
 それからひと月くらいしたころかな、じいちゃんの母さんから電話があってね。じいちゃんが出た高校の校長先生が会いたいと言っているというんだ。じいちゃんの思いを無為にはしたくないと考えた母さんが、少しばかり縁のあった校長先生にじいちゃんの気持ちを伝えたんだと思う。

 日取りを決めて、じいちゃんとばあちゃんはまた休日を利用して松山に帰ることにしたんだ。

 何か新しい道が開けてくるのではないかというかすかな期待がじいちゃんにはあった。ばあちゃんもまた、同じような気持ちでいたのかもしれない。だが、二人はそのことについては口をつむったまま、東京から松山までの半日の旅行を楽しんだ。

 あの旅は本当に楽しかった。なんだか、二度目の新婚旅行のようでね。新幹線の中でも、瀬戸内海を渡る連絡船の中でも、高松から松山までの列車の中でも、二人の目は、何か新しい光に満たされているように澄んでいたと思う。

 翌日さっそく校長先生のお宅に伺ったんだ。ばあちゃんと一緒にね。表向きは、高校時代に世話になったじいちゃんが、結婚の報告に伺う、そういう設定だった。懐かしい校長先生の笑顔は、しわの数こそ増えてはいたものの、昔のままだったよ。

 じいちゃんは昔、一度だけ、校長室に呼ばれてほめられたことがあったんだ。全国の受験生を対象にした模擬試験で、数学が満点だったんだよ。だから当然全国一だよね。といっても、同点一位はおそらく他にもいたんだと思う。

 校長室に呼ばれて、「おめでとう、がんばったね」と言われ、握手をしてもらった。特段、賞状をもらったり、表彰されたりしたわけではなかったけれど、そんな風にほめられたのはじいちゃん、生まれて初めてのことだったから、普段は見せたことのない歯を見せて頭を下げた気がするんだ。誇らしさを表す手段として、じいちゃんには、呆けたように口を開けて、笑顔のつもりの歯を見せることしかできなかったんだね。

 久しぶりにお会いしたその日、じいちゃんはそのことをすっかり忘れていたんだけど、校長先生の方が覚えておられた。

 「あのときの問題はなかなか難しくてね。優秀な生徒でもせいぜい八割くらいの得点しか取れなかった。だのに、あなた一人が満点。全国トップだった。先生らみんなびっくりして、これは是非校長からほめてあげて下さい、ということになったんですよ。」

 NECに勤めていること、コンピュータを生涯の仕事にする気にはなれないこと、自分に向いた道を探していること、などを口べたながらもぽつりぽつり話していると、校長先生から、

 「是非うちに来て下さい。科目はやはり数学でしょう。数学の教師として採用しますよ。」

 という言葉が飛び出した。じいちゃんもついつい飛びついてしまったんだ。うすうす抱いていた期待というのも、実を言うと、そのことではあったんだ。じいちゃんが応諾の返事をすると、

 ばあちゃんも一緒に、「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 事態はとんとん拍子に進んでいき、半月も経たないうちに、理事会で承認を得たという知らせが届いたんだ。

 親族会議のショックから立ち直るいとまもないほどの、あっという間のどんでん返しで、じいちゃんの前に教師という道が開かれたんだね。

6.
 会社にいては真にやりたい勉強ができないけれど、教師になれば事情が違うのではないかと、じいちゃんはかすかな期待を抱いていたわけだった。教師とは、学ぶことに限りなく近い地点にいる職業だろうからね。

 大学に入り直して研究に打ち込むという夢はつぶれてしまったけれど、教師という仕事は、幾分なりともその肩代わりをしてくれるのではないかと、じいちゃんはそのとき信じていた。

 大学とか、研究者とかといった肩書きは、本当にやりたい勉強や研究にとって、必要不可欠な要素であろうはずはなかろう。自分が好きなだけ学び、好きなだけ研究すれば、その内実に肩書きは無意味だろう。

 じいちゃんは、いま思うと、学問の枠組みについて何も知らなかったんだね。学問で身を立てるには、一種の徒弟制度のようなものに身を置かなくてはならない。窮屈でも、一度はそれを経験しないといけない。そのことをじいちゃんはまったく知らなかった。

 自由気ままな勉強や研究は、所詮は素人芸、ディレッタントにすぎない。そのことに、じいちゃんはまだ気づいていなかったんだ。

 ああ、ああ、杏夏にあらましだけを話そうとしたのに、ずいぶん長くなってしまったね。

 じいちゃんの学びたいという気持ちに潜む、深い後悔と無念の思いが、杏夏にも少しはわかってもらえただろうか。それは二重構造をした後悔なんだ。

 35年前のあの日、じいちゃんはボタンを一つ掛け違えた人生に足を踏み出してしまった。だが、そのときは掛け違いに気づいていなかった。学びたい気持ちが満たされると信じていた。

 「ディレッタント」の一語に打ちのめされるのは、まだ少し先のことになる。そこから新たな後悔が始まるのだ。ボタンの掛け違いにようやく気づくのだ。

 ともあれ、じいちゃんが一年早く退職することにしたのは、まだ少しなりとも頭が働くうちに、この掛け違いの人生の悔しさを何とか実体あるものに転化させ、燃焼させたいという、じいちゃんの精一杯の思いによるものだったのだ。もうこれ以上は待てないという切羽詰まった思いだった。

 ばあちゃんもようやく去年の夏になって、

 「あなたの気持ちがそこまで固いのなら、それに従うのが一番いいことだと思う。もうずいぶん長く働いてきたんだから、そろそろ気ままに夢を追い求めてもいいときよね。長い間、ご苦労さんでした。これからの人生、何ものにも縛られないで、思いきり楽しむことにしましょう。」

と言ってくれたんだ。

 これまで何年にもわたって、じいちゃんの心の底の思いをほのめかすたびにばあちゃんは顔を曇らせてきていたから、この一言は本当に嬉しかったよ。その瞬間、じいちゃんは夢じゃないかと思ったくらいだ。泣けたね。

 考えてみれば、長い長い苦悩の恩賞として、ようやくじいちゃんにも自由が与えられるときが来たんだ。時すでに遅しとはいえ、これは夢の瞬間だった。体がすっと軽くなる思いがしたよ。

 とはいえ、今さら35年を逆戻りして、当時の夢をそのままの形でかなえるのはもう無理だ。悲しいけど、できない相談だ。別の形でいい。別の道でいい。噴火寸前のエネルギーを爆発させたい。思いっきり燃焼させたい。それが今のじいちゃんの心底からの思いだよ。

 実は、ディレッタントに苦しめられたひとつの大きな理由は、じいちゃんが大学院を出ていないことだった。修士号すらとっていないことだった。そのために、学んでも、研究しても、それが成果として認められない悲哀を何度も味わった。じいちゃんの仕事にはいつでも素人芸、ディレッタントの言葉がつきまとった。

 だから、せめてその障壁だけは突き崩しておこうと、還暦も近くなってから、じいちゃんは放送大学の大学院に入ったんだ。2年間学んで、修士論文を書き、修士号をとったよ。

 楽しい2年間だった。学ぶ喜びとともに、結果としての満足も得られたからね。いい先生にも出会えた。だがしょせんは、時すでに遅しということだ。

 本来ならとうの昔に越えていたはずの峠を、今ようやく越えたわけなんだから。研究者として先に進む道は、じいちゃんは今は半ばあきらめている。

 それに代わる場を探しているのだ。悔いのない人生だったと、最後のときに言えるようにね。

 還暦よりの新たな旅立ちさ。

 今からでもできる仕事に向けて、じいちゃんは旅立とうとしている。構想はすでにいくつかある。

 杏夏が大きくなったとき、そのうちの一つでも実を結んでいるものがあれば、幸せなんだけどな。

 さあ、今から杏夏と競争だ。杏夏はまだ二歳と十ヶ月。じいちゃんにとってたっぷり時間はあるからね。負けないよ。

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