湯船にて
2009年11月23日
 昨日の鬱陶しい底冷えのする雨から一夜明け、今朝はまぶしい日射しとおだやかな肌触りの空気。青空がまぶしい。それでも外に出ると季節めいた冷やっとした風が頬をかすめていくこともある。

 休日の朝は温泉。ぼくのこの頃のスタイルだ。犬や猫の世話をした後、今朝も近くの温泉に出かけた。

 湯船につかっていると、歳月の経過を忘れる。湯船の中ではぼくはいつまでも青年だ。二十歳代、三十代の頃と変わらぬ気分になる。周りがみんな年寄りに見える。何だか不思議な気分だ。自分だけは歳をとらない。

 子供に戻るとまでは言わない。子供のころの温泉と言えば、道後温泉だった。本館や新温泉は歩いてすぐの所だったから、親に連れられてちょくちょく行った。しかし、その頃まで戻ってしまうことはない。

 温泉にちょっとした娯楽施設が併設したような、町のお風呂屋さんとはひと味違う「温泉」というものがぽつりぽつりとできるようになったのがぼくの二十歳代の頃だったように思う。実際、その種の温泉に初めて行ってみたのが二十歳代の終わり方だった。

 真ん中にプールのような浴槽があり、その周囲にはバブル湯だの、水湯だの、薬湯だのがあり、さらにミスト室やサウナ室、そして露天風呂までついている。そんな所だった。

 まわりはみんな年寄りばかりで、自分一人が若かった。近視だからそう見えたのか。しょぼくれてやせた爺さんばっかりだな、そう思えた。骨と皮ばかりの爺さんが多かった。

 はつらつとしているのは自分ばかり、なんかだそんな思いがした。ゆったり湯につかり、バブルも水も薬もミストもサウナも、みんな体験してみた。そしてまた湯につかる。やっぱり周囲と年の差を感じてしまう。

 人間は何であれ、初めて体験した時に染みついた気分は、以後それを体験するたびに必ずよみがえってくるものだ。

 今朝もまた、湯につかっていると、気分はいつまでも青年のままなのだ。周りはやはり年寄りばかり。昔と違うのは、メタボな人が多くなったこと。腹の周りに脂肪をだらっと垂らした爺さんが多くなった。骸骨みたいな爺さんにはもはやお目にかかれない。

 人から見れば自分もまた隠しようのない老人なのだ。それは知っている。しかし大事なのは自分の気分。ぼくの気分はいつまでも青年だ。湯船に身をひたしているひとときは青年なのだ。不思議なことだが、二十歳代のあのときに戻っているのだ。

 湯船から外の桜の紅葉がひときわ際立って見えた。朝のまぶしい太陽の逆光を受け、赤銅色の葉っぱの一枚一枚が黒く縁取られて見える。近視の目にしか見えない現象なのか。

 いつか聞いたことがある。近視には近視の効用があるのだと。視力のいい人には見えない現象が見えるのだと。焦点が合わずぼやけていることで、真実の世界の背景が見えることがあるのだと。

 今朝のあの桜はそうだった。一枚一枚が本当にくっきりと黒い縁取りを持っていた。画家の筆によるデフォルメか。黒と赤銅色との色彩の輪舞がすばらしかった。晴れ渡った空の青と、太陽にきらきらきらめく葉っぱの輪舞。近視の目にはそれらが全て一つに溶け合って不思議な色彩のうごめきが見える。

 この爽やかな秋晴れも明日の午前中までだという。明日の午後からは雨模様になるのだという。それが明後日まで続くのだという。近頃の天気予報はぴたりと当たる。

 昨日の雨も、数日前から予報されていた。激しく降ることはない、細い雨だが長く降り続くのだと。そして冷え冷えとした雨になるのだと。その通りだった。

 ここまで予報が正確になると、何だかちょっと人間はわくわくするような期待とか、夢見る心とか、そんな大事なものを奪い取られる気分にもなる。近視のぼやけた効用が人にはいつでも大事なのだ。ぼやけた予報でいいのではないか。

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