クラス会
2009年9月27日
 七月に小学校のクラス会、九月に高校の同窓会と、たてつづけに昔の友人と語る機会があった。団塊の世代の我々にとって、話題は第一に孫のこと、続いて今後の身の処し方のこと。

 勤めている者は、定年という人生のターンポイントが焦眉の問題となっている。すでにそれを迎えてしまっている者も多い。退職して悠々自適の生活に入っている者もいる。天下り先で第二の勤めに精出している者もいる。もちろん現役組も少なくない。このぼくもまだ一応現役の一人だ。といっても、気持ちの方はすでに第二の人生の方に傾いているのだが。

 「医者に定年はない。だけど、六十できっぱり仕事はやめた。残された人生を目一杯有意義に過ごしたいと思う」と言うのもいた。「俺の人生はおそらく八十までで尽きるだろう。残された二十年をどう生きるかが勝負。そう考えると、聴診器をぶら下げてあくせく働いている気がしなくなり、居ても立ってもいられない気持ちが先立ってきた」というのだ。「残りは二十年」、これをあまり一般化されてはぼくとして少々困惑するのだが、彼の生き方に琴線が震えたのはたしかだ。

 それにしても、「二十年」という数字が咄嗟の思いつきで出たわけはなかろう。患者の生と死に日々関わってきた体験が言わしめた言葉なのだろう。聞きながらふとその迫真の重みに気づいたとき、これまで漠然と「百まで生きるよ」などと呑気なことを言ってきたぼくなど、よほど致命的な誤算を食らわされることになるぞと、顔面蒼白になる思いがした。えらく短い二十年。これが我々にとっての真実の余命なのだ。

 では、残された二十年で何をするか、これはもう人それぞれとしか言いようがない。真の意味での人生観が問われる場がそこである。組織という、桎梏でもありつっかえ棒でもある寄る辺にすがって生きてきた人間が、初めて自立して演ずる大舞台、それが残された二十年なのだ。

 「五十代半ばで前の会社を定年になり、何年かぶらぶら過ごしていた。二年ほど前、ひょんなことで拾ってくれる会社があり、第二の就職をした。定年は六十五なので、それまでは今のところで働こうと思っている」と言うのもいた。

 高級官僚から天下り先に横滑りしている者もいた。今も変わらず、朝な朝な黒塗りの車が門の前で待っているという。「現役時代には味わったことのなかった経営という難しい問題に直面している」などと、さも苦り切った顔で誇らしげに言う。中学高校時代、一緒に草野球を楽しんでいた仲間の一人だ。かつてのスポーツマンらしい活気と張りのある身体つきが、何だか奇妙な酒焼けの赤ら顔とメタボな体型にすり替えられていて、イメージを重ね合わせるのに苦労した。

 親譲りの中堅企業を経営している者もいる。数年前に一度破綻し、会社更生法の適用を受けたらしい。その際社長職は退き、今は現場を離れた名誉職についているという。それに加えて昨年、一過性の脳梗塞で倒れ、今もリハビリを続けているという。

 仕事一本で打ち込んできた者が、その仕事から解き放たれたとき、はたしてその先に、大舞台で舞うべき自立の舞いを用意できているのかどうか。職人なら、職人の芸がそのまま終生自立の舞いとなろう。芸術家もそうだ。一企業人、一官僚であった者が、その組織から切り離されたとき、はたして生を謳歌する舞いを舞えるのか。

 ぼくは、人生の転換点を迎えようとしている多くの旧友の体験を聞きながら、その不安を強くした。それはもちろん翻って自分自身への不安である。

 定年という桎梏からの解放を喜びとせず、その自由を謳歌せず、新たなる寄る辺を求めて「勤め人」を続けようとする人が多いのに驚いた。もちろんそこには、生活のためという経済的必要性があろう。一日何もせずだらだら過ごすよりは、時間の切り売りではあっても、緊張を強いられる仕事をするのが身体にもよい、そういう現実的妥当性もあろう。名誉や地位を求める気持ちもあろう。人との交わりの場なくしては生きられないという人間の根源的土台に関わる面もあるだろう。

 だがぼくは、「残された二十年を精一杯自分の生き方で生きたい」という元医者の生き方に共鳴する。桎梏からの解放を喜びたい。組織という支えを取り払われて倒れるような人間ではないと、自分に強く言い聞かせたい。そうであるはずの自分を信じたい。

 ぼくはそもそも、生きるために人との接触を必要とするタイプの人間ではない。孤独を好む人間だ。だから、組織というつっかえ棒はぼくにはそもそも必要ない。名誉や地位を求める気持ちもさらさらない。よしや気持ちがあったとしても、肝心の名誉や地位がぼくにはないのだからさっぱりしたものである。

 生活のための経済的必要性、これだけがぼくにとっても大きな課題だ。だが、何とかなりそうという予感がある。ある程度の根拠とともにそれはある。「勤め」という時間の切り売りをしなくても何とか食っていけるという保証はありそうに思っている。細々とではあれ、現在すでに第二、第三の収入源がある。夜のネオン町を人が呑み歩いている時間に、一人机に向かってなしてきた仕事の結果なのだから、後ろめたいものではない。それが直ちに途切れるものとも思われない。

 退職して暇になると、一日だらだら過ごしてしまう。耐えきれないほどの長い時間をもてあましてしまう。そう警告する人もあるのだが、ぼくの場合、どう転んでもその心配だけはなさそうである。やることは限りなくある。今は我慢しているが、桎梏から解放された暁には取り組みたいと考えている課題が山のようにある。

 実を言うと、今は定年が待てない気持ちでいっぱいである。居ても立ってもいられない、というのが、先の医者の言葉のみならず、ぼくにとっても真実である。すでに何年も前からこの気持ちはふつふつと湧いていた。その都度押さえ込み、また湧き上がり、また我慢して押さえ込む、そんなこんなの繰り返しであった。それが今、破裂寸前まで来ている。鍋は煮えたぎっている。

 ぼくにとっての自立の舞いは何であろう。それは内緒、内緒。夢は、しゃべってしまったら最後、夢ではなくなる。夢はポケットで暖めている間が夢なのだ。ポケットから取り出すときにはもはや、できあがっているか、つぶれているか、どちらかである。

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