月のウサギ
2009年8月10日
 ぼくは口べただし、思ったことは言えないし、人の輪の中でもただ聞き役を通しているだけだし、何か自分に向かって悪口がささやかれたとしても、反論する気にもなれず聞き流しているだけだし、「それおかしいだろ」と思うことがあっても、まあ人には人の道があるものだと、追求する気にはなれず、かといって人への門戸を閉ざしているわけでもない。

 ぼくはどこにいてもぼくを見ている。ぼくの中から世界を見ている。ぼくの今が世界を包み、その世界がぼくを包む。ぼくの話し声はくぐもっている。オブラートのように震えている。シャボンの泡の中からぼくはしゃべる。ぼくから出る言葉は断片だ。語り始めると途端にそれはぼくの真実を離れていくから。だからぼくは多くをしゃべらない。

 ぼくは生きている。これは真実だ。なぜならぼくは意志を持つから。その真実を疑わないから。

 だけどぼくにはわからない。ぼくの実体って何だろう。それがわからない。何がぼくというものだろう。ちっともわからない。

 爪を切った。ぼくから離れた。髪の毛を抜いた。ぼくから離れた。この爪は、この髪の毛は、ぼくなのか。ぼくだったのか。

 汗が出た。息を吐いた。ぼくから絶え間なくぼくが出ていく。

 息を吸った。コーヒーを飲んだ。パンを食べた。これは今からぼくに変身するのか。

 生理学者や物理学者の言う実体は、ぼくにはちっともわからない。

 世界はぼくによって開かれている。ぼくの中に開かれている。それをぼくはぼくなりに知る。感じ、感じられ、感じ、感じられ、世界とぼくは今こうして生きている。

 ぼくのイメージとして世界はある。世界の実体というものがぼくにはわからない。ぼくのイメージとしての世界がぼくと互いに感じあっている。それだけ。

 ぼくを包む大宇宙だとぼくが感じているすべての存在が、別の巨大構造体の爪の垢の一構成要素にすぎないのではないか。そんな気のすることがある。逆に、物理学者が物質の根源要素と呼んでいるものも、はるかはるかに小さい根源要素からできた大宇宙なのかもしれない。

 そもそも物理学なんて、世界を見る一つの視座を与えるものに過ぎないのではないか。その視座から見ると世界はきれいにまとまって見えますよと言っているにすぎないのではないか。物理学が言う根源要素を、そのまま真の実在、すなわち実体の根源要素だと言いうる人はどこにもいない。それを一番よく知っているのが物理学者だ。

 根源要素の振る舞いや生成消滅は確率的だという。今どこにどのように存在しているか、それすら不確定で確率的なのだという。要は、実体なるものを物理学者は本気で考えてはいないのだ。

 ものをどこまでも細分し、分析していくと、ある段階まで来たとき我々の認識に限界が訪れる。それはあるマクロレベルに生きている我々の認識限界なのであろう。そのことを極力きれいに数式化して、いかにも最終原理だと際立たせてくれるものが物理学だ。物理学は一つの視座にすぎない。

 物理学的世界とは、世界をある一つの視座から見たときに見える、ある意味では架空の世界なのであろう。真実の実体がそれだと見誤ってはいけない。

 色の三原色だってそうだ。赤、緑、青。これが三つの根源の色だと、いったい誰が決めたのだ。神様が決めたのか。そんなわけはない。他の色を基準に決めても、それを四色にしようが五色にしようが、いっこうにかまわない。それらを適当な配合で混ぜれば自由に色は作れるわけだから。根源なんてものは、人の勝手な想像なのだ。

 物理学の視座を変えれば、またまったく新しい物理的世界が構築できるだろう。百万年後の人類、もしそのときまで人類が生き延びていればの話だが、そのときの人類の物理学は今とはよほど違ったものになっているだろう。今の物理学の延長線上に発展しているなどという思い上がりは捨てた方がいい。根源要素の不確定性原理などと呼ばれているものも、そもそも視座の狂いに起因しているという可能性だってあるだろう。

 ぼくに言わせれば、世界とは一つのレベルなのだ。認知可能なものを寄せ集めたイメージの総合体なのだ。認知のレベルからそれたところには、もはや僕たちにとっての世界はないのだ。世界が本当にないのかどうかは知らない。僕らに知られうる世界がないのだ。別のレベルの認知においてはまた別の世界が開けている、これはありうることである。

 満月の中にウサギを見る。これは認知であり、イメージだ。しかし、仮に月に視点をもつ何ものかがいたとして、彼にとってそのウサギは本来的に見えるはずのないものである。新聞紙の上に活字を読み、その意味を知る。これも認知であり、イメージだ。しかし、新聞紙を電子顕微鏡でのぞいたり、新聞紙の物理的構成要素を分析してみても、そこから活字の形態やその意味を浮かび上がらせることは永久に不可能だ。

 絵画の価値は、精緻さや写実の正確さによって生み出されるものではない。画家が対象に向かったとき、その対象を通して何を見たのか、何をイメージしたのか、そのイメージをいかに自分の内部で咀嚼し、それをキャンバスにいかに納得いく形で吐き出したか。それが絵画の価値を決める。鑑賞する者はまた、その絵画を通して自分のイメージを作り上げればよい。画家のイメージに自分のイメージを重ね合わせる腐心は不要である。

 絵画の良し悪しを物理学的に、科学的に分析するなどというのは愚の骨頂であろう。使われている絵の具の色を分析したり、その分量比を計量したり、描かれた曲線の方程式を解析したり、そういう分析的手法で絵画の価値が計られることはまずもって考えられない。

 総体としてのイメージを体験する、それ以外に絵画の価値を読み取る手立てはない。そのイメージが各人各様であるのは当然である。一つの対象を見る視座は無数にあるのだから。

 人間の精神の輝き、理性の輝き。これを単なる空虚だと、一部の物理学者や生理学者は言い張っている。精神や心は神経細胞の働きに還元できるもので、根源的にはそれは物によって作られた実体のない空虚だと、彼らは主張する。今はまだその完全なマップが作られていないから、精神が物から独立しているように見られてもいようが、精神の気高さが物のレベルに突き落とされるのは時間の問題だと、彼らは言う。

 はたしてそれは正しいのか。ぼくにはその正否を断言する力はないが、少なくもイメージが構成要素に還元できるという考えは妄想だろう。ぼくにはそう思える。新聞紙の分析的研究からは、そこに書かれた思想は読み取れないのだ。

 そもそも物質界の最小構成要素だと物理学者が言う素粒子自体が、すでに実体としての存在の確実性を有しないものであれば、どこに確たる存在があるというのか。イメージこそが存在なのではないのか。さまざまに異なるイメージが互いを我が一部として包含し関連し合いながら重畳的に存在する。それが存在の姿ではないのか。人はそれを自分の視点で我がものとする。すべてをではない。その一部を。そしてまたそれは人それぞれに異なっていてよい。

 精神の働き、心は、それらイメージ群の鏡という側面をもちつつ、それ自体がまた世界を構成するイメージ体である。少なくとも、「物に還元される虚妄」などではありえないだろう。間違いなく、自立した存在である。

 こう言うと「ライプニッツのモナドか」と笑われそうだが、実体とは何か、そしてこのぼく自身の実体とは何か、これを問い詰めていくとそこに現れるのはやはり、世界の中に置かれ、しかも世界から独立したイメージ体たる精神、そこに行き着かざるを得ない。モナドは相当なまでに真実を突いているのだ。

 ぼくが見ている対象にはどれ一つとして実体そのものと言えるものはない。それをいくばくか反映したイメージがあるのみである。また見ているぼく自身が、ぼくという実体を確定することのできない不思議なイメージ体である。月のウサギもまた一つのイメージであり、間違いなく独立した存在なのだ。それと同じ意味で、物理学者が現段階で突き詰めたと言っているクオークやレプトンといった最小構成要素もまたイメージなのであろう。世界をある方向からとらえたときに得られたイメージなのであろう。現段階でわかっている分析的現象を説明するのに都合のよいイメージなのであろう。

 分析的現象と言ったのは、分析的でない我々の精神のようなイメージ現象と対比するためである。物理学は、複合的イメージ現象を説明するにはまったくの役立たずである。イメージ現象は最終的には分析的現象に還元される宿命を負っているという物理学者や生理学者(のうちの一部の人の)の言い分は、この点で決定的な間違いを犯しているように思われる。

 それはさておき、存在について考え始めると、無限の恐怖の深淵に突き落とされる。このぼくが、そしてこのぼくを通してあらゆるものが存在しているというこの事実は、大変な不思議であり、驚異であり、まさに恐怖である。

 実を言うと、この恐怖感はひょっとしたらぼくだけのものであり、ぼくだけに突如として訪れる神秘体験なのかと、長く考えていた時期がある。しかし、そうではないことを知った。古代ギリシャに始まり、いや書き残されない人類の歴史をたどればもっと遠い過去に始まり、現在に至るまで、多くの哲学者が「存在とは」と問うとき、その背景にはぼくが神秘だと感じてきた「存在の恐怖体験」が根底にあることをぼくはようやく近頃知った。

 ただ、彼らが「存在の恐怖」、「存在者が存在するという謎中の謎」などと言うとき、「存在」と相対する「無」が語られないのは不思議である。恐怖、謎と感じつつも、存在そのものを否定する発想は彼らにはなかったのか。そこが不思議である。

 ぼくが存在の恐怖に接するとき、そこには常に「無」がある。存在が「在り続けてき、これからもあり続ける」不思議ではない。存在のない「無」の世界が必ずあったということの恐怖である。ありとあらゆるすべてが存在しない究極の無。空間も時間も、もちろん物質もない。その「無」の状態を心の中に念じきったとき、今たしかにあると確信できるこの「自己存在」は恐怖以外の何ものでもなくなる。「無」が実体なのか、「有」が実体なのか、それすら判然としなくなる。恐怖以外にぼくを包むものはない。

 量子論的ゆらぎ(確率的な現象)によって、約一三七億年前、突如宇宙が誕生し、インフレーション的な膨張とビッグバンによって宇宙は今の大きさにまで広がってきた。というのだが、その前の(時間すらないから「前」という言い方の妥当性もわからないのだが)状態である「絶対的な無」においても、量子論的揺らぎを支配する物理法則だけはあったというのか。それが物理学者の言い分なのか。時間も空間も物もなくても、自然法則だけはあるというのか。

 やはりぼくにはわからない。そして、今ここでこんなことを考えながら書いている僕の存在は、考えてみるとやはりとてつもない恐怖である。

生きていく日々 メニューへ
坊っちゃんだより トップへ