手帳とケイタイのエントロピー
2009年2月1日
 ケイタイ全盛の今日、手帳を持ち歩く人はもはや少数派なのかもしれない。たいていのケイタイにメモ機能がある。それが手帳の肩代わりをしてくれないわけではない。手帳を手放せないという人ですら、たいていの場合、その使い道はスケジュール帳というのが現状ではなかろうか。思いついたことをメモするための手帳(スケジュール欄のない罫線だけの手帳)は今ではけっこう珍しい存在になった。

 想像するに、圧倒的多数のケイタイ派と、ごく少数の純手帳派とは、集合として重なり合わないのではないか。ケイタイを手放さない人は手帳をもたず、手帳を手放さない人はケイタイなど見向きもしない。互いに排反であり、同時に互いに補集合の関係にもありそうである。つまり、どちらにも属さない人は今となっては稀なのであろう。人間がこれによって二つのタイプに分かたれているような気がする。

 まあこれは、ぼくの勝手な推量なのだが…。

 ぼくの場合、昔はよく手帳を使っていた。特に短歌をやっていた昔は(そう、ほんとうに昔のことになってしまった)、頭にふと浮かんだ歌や言葉の断片を、忘れないうちに書き記しておくことが必要不可欠な仕事であった。紙も鉛筆もなく散歩していて、頭に何かが浮かんだときは悲劇であった。一度きりの偶然の宝物を取り逃がさないようにと、何度もそらんじながら歩くのだが、頭の容量にも仕組みにも限界があり、とても覚えきれるものではない。その上、新たな事象が目に飛び込んでくる。少しでもそちらに思いを寄せていると、最前浮かんでいた言葉はもうどこかに消えている。こうして、せっかくの宝物が家に帰り着いた頃にはぽろぽろとザルからこぼれ落ちているのである。悲しくなる。手帳はやはり手放せない必需品であった。

 推敲する際にも、人はそれを一度は紙に書かないとできるものではない。暗算のようには言葉の推敲はできない。一方で覚える作業をしつつ、他方でそれを推敲するなどできるわけはないのだ。

 人の記憶は、情景をパターンとして(絵画のように)焼きつけることはほとんど際限なく可能なように、ぼくには思える。だが、逐一の文章(あるいは数字)を正確に覚えることはいかにも不得手である。円周率を何万桁も覚える人がいるが、そういう人も結局のところシリアルな数字の羅列で覚えるのではなく、全体をパターン化して(場面として)覚えるのだと聞いたことがある。

 暗算の達人も、常人のように計算を逐次処理でやっているのでない。それはできない相談である。全体を一つのパターンとしてパラレルに処理しているのであろう。囲碁や将棋も同様である。逐次的に手を読んでいくことは、天文学的な枝分かれ数からして不可能である。パターン処理が欠かせない。余談になるが、モンテカルロ方式と呼ばれる最近の囲碁ソフトは、人間に似た茫漠としたパターン認識によって次の着手を探すらしい。そしてそれが逐次的な読みに基づく囲碁ソフトに比べて格段に強いのである。遠からずプロ棋士の域に達するとまで言われている。

 パターン化した記憶は人間の得意分野だが、シリアルな逐次的記憶は苦手である。だから、短歌や俳句といった言葉のシリアルな配列で作品を作る人にとっては、手帳は不可欠な携行品であり、肉体の一部になっているとさえ言える。人の記憶の最も苦手とするところを手帳が補ってくれるのである。

 裏返して言えば、手帳には場面を描写する必要はない。場面は一瞬にして頭に焼きつけられる。場面全体が一幅の絵として記憶され、記憶されると易々とは消えない。もちろん細部をすべて覚えるわけはない。「印象」というフィルターによって場面の構成要素を解釈し,必要なものだけを焼きつけるのである。この印象ほど人にとって重要なものはなく、それがその人にとっての目の前の場面のすべてなのである。印象に残らないものは、その人にとっては不要なもの、場面から欠落しても一向にかまわないものなのである。印象フィルターは初期記憶の際に働くだけではない。記憶を二次的に想起するときにも働く。だから想起するたび、ますます不要物は捨て去られ、必要なものだけが強調して浮かび上がるようになる。

 それを厭うというのなら、手帳というメモ方式すら不完全なものと言わざるをえない。手帳に場面をメモする際、すでに無意識のうちに印象フィルターが働いているのだから。そうなれば写真を撮るしかない。写真なら印象に残らない細部までをも写し取ることができる。しかし、写真は逆に印象フィルターを通さないことによって総花的であり、メモに欠かせない意識の集中点が不鮮明となる。実際、写真を見て現場における生々しい印象を思い起こすのは意外に難しい。臨場感が違うのである。写真の世界はきれい事になってしまっている。第一、写真と現物とでは見たときの視角の大きさがまるで違う。映画を映画館で見るのとテレビで見るのとの違いのようなものである。感銘度は比較にならない。

 さらには、肌が感じた空気、耳から入る音、嗅覚が感じとった匂い、そういった五感を駆使した場のトータルな印象が写真には写しこまれない。写真が現場におけるメモを越えることは不可能であろう。写真はせいぜい人の記憶を引き出すきっかけか、記憶を補佐する程度のものであって、迫真力は記憶そのものの中にしかない。

 写真とは違い、人においては、眼前の場面は非常に主観的なフィルターを通した一枚の絵として記憶に焼きつけられる。同じものを見ても、人によってその記憶が違ってくるのは当然である。しかも、記憶された場面の構成要素間にシリアルな順序関係はない。順序関係がないから一瞬にして焼きつけることが可能なのである。

 文章や数字は、シリアルな順序に従って記憶するものであり、しかも構成要素はどれ一つとして欠けることが許されない。それはパターンとして場面を記憶するのとは決定的に異なった機構に従っているように思える。

 記憶の機構はさておくとして、思いついたことをケイタイやコンピュータにデジタルデータとしてメモするのと、手書きで手帳にメモするのと、中身が同じなら結果や効果も同じではないかと、ややもすると考えられがちだが、それは違う。ケイタイやコンピュータが手帳の代替物になることは、いくらデジタル技術が進んだとしても、ありえないことだとぼくは思う。

 何が違うのか、少し考えてみよう。

 第一は、書くスピード。手帳に走り書きするスピードでケイタイにデータを入力できる人はおそらくいない。ケイタイの達人でも無理だと思う。メモは一瞬の思い、ふと湧いた言葉を書き記すものだから、スピードこそが命である。書くのに手間がかかると、次々に湧いてくる思いを書き記すことができない。手書きなら、速記の技術はなくても、何とか判読できる程度の崩れ字でスピードを上げることができる(机の上でキーボードをたたくのなら、手書きとスピードを競うことは十分できそうだし、実際ぼく自身、手書きよりもキーボード入力の方が速いかもしれないと思っている。しかし、メモすべき場所に起動されたコンピュータがあるなどとは期待できない)。

 第二は、手書きだと推敲の跡が残るが、コンピュータやケイタイだと痕跡が消えてしまうこと。コンピュータ入力の場合、消したり、移動したり、途中に挿入したりといった修正処理が容易である(ケイタイではコンピュータほどスムーズにはいかないと思うが)。ワープロが世の中に出回り始めた頃、その点が手書きに対する最大の利点としてよく喧伝されていた。しかし、逆に言えば、手書きだと消したり書き足したりという推敲の跡が生々しく残るのに対し、コンピュータの場合には、修正するたびに原形がなくなっていくという欠点がある。もちろん、ワープロソフト等の「やり直し」機能を使えば、一歩ずつ修正をさかのぼることはできる。しかしそれでは、推敲の過程を一目で重層的に見ることにはならない。これは、ものを書く際、決して小さくはない違いである。

 現場における単純なメモを想定しても、この違いはやはり大きい。どうせ後で書き直すことになるにしろ、やはり最初の一筆の価値は絶大である。最も直接的に場から湧出した言葉がそれなのだから。

 (注)ワープロソフトによっては、変更履歴をファイルに付随して記録しておき、いつでもそれを現在の文書と並行的に見ることができるものもあるので、ここに書いたことはあらゆるケースに当てはまるとはいえない。

 第三は、手書きの味。近ごろでは、手紙、はがき、会議資料等、身の回りのあらゆる紙媒体がプリンタ出力化されてきて、手書きの味が忘れられつつある。どうせ中身が同じならプリンタ出力で十分だし、その方が見栄えがいい。さまざまなアクセントがつけられるし、部分修正も容易だしと、デジタルデータの利点は数え上げればきりがない。しかし、会議資料などは別として、ふと思いついたことを書き留める自分だけのためのメモの場合、デジタル化してしまっては場の雰囲気がまるでなくなってしまうことがある。

 丁寧にきっちり書いていたり走り書きだったり、余白に後からぎっしり書き足していたり、大きかったり小さかったり、横を向いたり縦を向いたり斜めを向いたり、ときには簡単なスケッチがちりばめられていたり。そうしたものの総体が、生々しい現場における手書きのメモである。そこには、単なるデジタル文字データにはない多くの情報が込められているといえる。

 その意味で、デジタルデータと手書き文字データとの間には、持っている情報量に大きな開きがある。「手書きの味」とは、質的なあったかさだけを指しているのではなく、乱雑な手書き文字が整然としたプリンタ出力文字よりもはるかに大きなエントロピー的情報量を持っているという、量的な側面をも含んだ概念なのである。この点が議論されることは少ないが、ぼくの経験からいってこれは大事なことだと思う。

 手書きメモに雰囲気として込められている情報を再び文字データによって説明しようとすると、その何倍もの言葉が必要になるだろう。それでも十分に表現し尽くせる保証はない。つまり、手帳に書き記された手書きのメモは、単なる意味媒体としての文字の列であることを越えて、それ自体がすでに場を伝えるパターン情報なのである。

 第四として、手書きメモにはないデジタルデータの利点にも触れておかないといけない。プリントアウトすることで、整然とした見た目のきれいな表現が可能になること。修正が容易で、しかも修正しても修正しても清書のための苦労が不要なこと(その裏返しとして、修正過程の痕跡が消えてしまう欠点があることは先に述べた)。そして何よりも大きい利点は、検索が容易なことである。手書きの手帳が何十冊もたまったとして、そこからある特定の言葉や内容が書かれている箇所を探すとなると、それだけで大変な手間となる。デジタル化しておけばその手間がほとんどゼロですむ。

 実はぼくは何を隠そうコンピュータ派である。あらゆる処理をコンピュータにやらせたい派である。そのためにさまざまな処理プログラムを自分で作る。ケイタイももちろん持っている。が、ケイタイ派とはまったく思っていない。

 コンピュータ派だからというのでもないが、もうずいぶん長く手帳を持つ習慣を忘れていた。事実上短歌をやめて久しく、短歌をやっていないと、その場で直ちにメモをとる必要が感じられなくなってきたのだ。書き留めておきたい何かがふっと頭に浮かぶということがなくなってきたようだ。要するに、感性のみずみずしさが衰えてきたということだ。

 しかし、考えてみると、案外そうでもなさそうである。やはり、日常の生活の中で、ふっと思いがよぎり言葉が浮かぶことはあるのである。それをやりすごすことに慣れっこになっていただけなのである。貴重な宝物をザルから落として平気になっていただけなのである。

 そのことに先日気づいた。昔はこんなじゃなかったよなと気づいた。机や書棚の引き出しには昔書きためた手帳がたくさんある。ノートもたくさんある。段ボール箱一箱では納まらないほどある。そのころの緊張感ある日々の暮らしが、今はのっぺらぼうなものになっていたのに気づいた。デジタル化の弊害の中にどっぷりとつかり、呑み込まれていたのだ。

 そう気づいて、2,3日前、再び手帳派に戻ろうと、手帳を買いに行った。文房具店に入ると、スケジュール帳のたぐいはさまざまあるが、罫線だけの純然たる手帳はわずかしかなかった。種類も少なく、置いている冊数も少ない。結局、店の棚に置かれていたもののほとんど(それでも5冊)を買うことになった。

 この手帳が生かされるかどうか、今はまだ不透明だ。

 数年前に死んだ義父は短歌も俳句も、さらには川柳、水彩画、版画、焼き物など、あらゆる芸術に手を染め、多才な人だったが、残された書斎やアトリエを整理していると、手帳だけでもそれこそ段ボール箱いっぱいで足らないほど出てきた。短歌、俳句、川柳などがびっしり書き込まれている。義父の域に達することはとてもできないが、日々、言葉を大切にする習慣を取り戻したいものだと考えている。

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