『パタゴニア探検記』のこと
2009年1月7日
(1)
 半世紀も忘れ去られたまま一度も想起されることのなかった記憶なんて、もはや記憶の体をなしているはずはなく、溶けて流れて無に帰しているはずと、昨日までのぼくなら考えていたかもしれない。だが、人の記憶というのはそうやすやすと風化してしまうものではないらしい。人生におけるある一瞬、ある対象に意識が照射されたなら、その後はただの一度もかえりみられることがなかったとしても、それは決して記憶の棚からこぼれ落ちたりはせず、何十年も後になってそれに意味が与えられた瞬間、突如ふたたび活性化して意識の表層に浮上してくる。そんな例がたしかにあるのである。それを語ろう。

 忘れ去られたぼくの記憶に意味を与えたきっかけは、先日何気なく図書館で書棚から引き抜き、冬の休みに読む本の一冊に加えた『パタゴニア探検記』であった。著者の高木正孝という人物について、何の予備知識も興味の引き金もあったわけではない。というよりも、読んでみようと思ったそのときのぼくは著者名など見てもいなかった。しいて言えば、パタゴニアという地名が数年前に読んだサンテグジュペリの『夜間飛行』の舞台として記憶に残っていて、ちょっと懐かしいなと思った、それが動機であったのかもしれない。

 ある本を書棚から何気なく引き抜いてページをぱらぱら繰ったとき、それを再び書棚に戻すか、読んでみようと思うか、それはコイン投げに等しい偶然の手にゆだねられている。少なくともぼくの場合、必然の糸にたぐられていると感じることは滅多にない。

 高木正孝氏は戦後の日本を代表する登山家の一人である。それはこの本から初めて知ったことであって、彼の名前も、彼が迎えた謎の死についても、ぼくは事前に何の知識も持ち合わせてはいなかった。それはそうなのだが、実はそうでもなかったのである。半世紀もの間、死せるがごとく沈殿したままぼくの記憶の片隅で眠り続けていた人間、それが高木正孝氏なのであった。

(2)
 記憶の発端は1962年7月にさかのぼる。ぼくはそのとき中学3年生の夏休み。毎日午後になると友人と学校のグラウンドに集まり、軟式野球に汗を流していた。指導者はいない。単なる野球好きの集まりであった。10人ほども集まれば、5人ずつに分かれて三角ベースのゲームをした。足りなければ、シートバッティング風に、交代で打ったり、守ったり、投げたり。

 雲一つない炎天下である。じりじりと太陽に焼かれながら、ぼくらは夢中になってボールを追いかけた。目もくらむ真っ青な空と、立ち上る熱気。ぼくら以外に誰もいない森閑とした空間。ときおり上がる叫び声。夏休みという無限の解放感。ぼくらははてしなく愉快だった。

 そんな日々が1週間ほど続いたころ、神戸大学の学生であった7歳も年上の従兄からハガキが来た。

「8月初旬に帰省するから、その前に一度神戸に遊びに来ないか」

 小さいころからよく遊んでもらっていた従兄である。父や母も、行ったらよかろうと言ってくれた。嬉しくて、翌日さっそく学校の事務室で学割をもらった。担任の先生が不在のため、たまたま職員室におられた物理の先生が印鑑を押してくれた。

「どこに行くの?」

「神戸です。従兄がいますから」

「誰かと一緒?」

「いいえ、一人で行きます」

「一人で? 気をつけんといかんよ。子供の一人旅は危ないからね」

「はい」

「まあしかし、なにごとも経験、経験。はい、ハンコ。いろいろたくさん見てくるんだよ」

 気配りのやさしい先生であった。自分の非をわびることはあっても、生徒を叱ることは滅多になかった。ぼくたちをまるで貴公子のように扱ってくれた。その先生にハンコを押してもらったことになんだか心強いものを感じた。

 7月30日早朝、ぼくは松山駅から一人で汽車に乗った。30日という日付は、その翌日撮った記念写真の日付からわかる。神戸までの運賃は800円だった。前日切符を買って帰ったとき、母が

「神戸まで800円で行けるの? 何と安いこと」

 珍しく大きな声で驚いたので、ぼくはこの額をはっきり記憶している。

 一人旅も初めてだが、高松から本州に渡るのも初めてだった。高松までなら小学2年生のとき両親と来たらしい。あまり思い出はないのだが。

 朝日にきらめく瀬戸内海を左に見ながら、菊間、今治と汽車は進んでいく。窓に顔をつけ、移り変わる景色を飽きることなく眺めていた。雑誌や図鑑で見覚えのある地名が現れると、イマジネーションを現実にする興奮に心を躍らせた。

 車内には空席の方が多く、4人掛けのボックスをぼくは一人で占有していた。隣のボックスには幼い女の子を連れた若い夫婦が並んで座っていた。女の子は母親のリボンにさわろうと、膝の上で何度も何度も伸び上がっていた。一度女の子がぼくの方をちらっと見て笑った。ぼくも苦しげに笑顔を返した。2,3列向こうからは、村の知り合いのうわさ話や自慢話に大げさに驚いたり相づちを打ったり笑い転げたりする声が、間断なくあたりにはじけ散っていた。これが老人会の団体旅行? 田舎の親戚で聞き覚えのある言葉をぼくは胸の内で反芻していた。

 車内販売の女の人がやってきた。独特の節をつけた売り声がゆっくりとぼくに近づき、そして遠のいていった。老人グループがミカンや菓子を買ったようだ。何度か往復した中で、売れたのはその一度きりだった。ケースを首からかけた後ろ姿とけだるい売り声が、ぼくにはたまらなく悲しげに映った。

 坂出と聞き、海岸に塩田を見つけようと目をこらした。坂出の塩田は、小学生のころ夢中になって見ていた図鑑にあって、頭に強く焼きついていた。砂浜に、まるで田んぼか畑を作るように塩の田が作られている。それをまるで畑を耕すように熊手のようなものでならしている。そんな写真がぼくの頭にあった。車窓から目をこらしたが見つけることはできなかった。なんだかがっかりした。以来いまだに塩田はぼくにとってノスタルジックなイマジネーションでありつづけている。

 高松に着き、宇高連絡船に乗り換えた。デッキのベンチで暑い日差しと潮風を浴びながら、母が作ってくれた弁当を食う。いよいよ未知の本州に渡るという気負いめいたものがぼくにはあった。

 泡立つ航跡を残しながら、島々を縫って船は突き進んでいく。近づいては遠のく島影を眺めているうちに、1時間ほどで宇野に着いた。宇野で乗り換え、大阪行きの急行に乗る。岡山までの車窓に見える整然とした田畑は、どこまでも平らで、あぜ道がはるか彼方まで一直線に伸びていた。この広大さが本州というものか。ことの本質をここに見たとでもいうように、ぼくは本気で感心した。

 人の背丈ほどに伸びた青草の畑はどうやら畳表のイグサのようだ。岡山がイグサの産地というのも、図鑑で得ていたぼくの知識だった。広大なイグサの畑を目の前にして、ぼくは静かに心を高ぶらせた。

 高度を下げた太陽がぎらぎらと目を射る播州平野を抜け、夕刻6時、三宮駅に着いた。ホームで待っていた従兄に連れられ駅を出る。初めて見る都会だった。駅前の呑まれそうな人の波に仰天した。

(3)
 翌日は従兄の発案で、京都に出かけた。祇園祭の賑わいが果て、大文字の送り火までには間がある、なんだか拍子抜けした時期の、ただただ暑い京都だった。京都盆地の蒸せかえるような暑さは、海風にさらされた瀬戸内の暑さとは異質だった。駅舎を出たときから、もわっとした熱気に目がくらみそうになった。

 従兄も京都は不馴れなようだった。案内所でもらったパンフレットを手に、西本願寺、三十三間堂、清水寺、祇園、知恩院と、おきまりの観光コースを巡り歩いた。途中、知恩院の門前で記念写真屋につかまった。そのときの写真がいま手元にある。従兄もぼくも帽子をまぶかにかぶり、目を細めて顔をしかめている。熱射とけだるさだけが写っているような写真である。足下に置かれた日付板から、その日が1962年7月31日であったことがわかる。

 翌日、従兄は卒論の準備で研究室に行き、ぼくは一人で神戸の町を歩くことにした。下宿は大学に近い坂の上。海に向かって一直線に坂道が下っている。すでに何度か上り下りした坂だから迷う心配はなかった。六甲道駅までまっすぐに下り、切符を買おうと窓口に立ったものの、気が変わって海まで歩くことにした。地図があるのでだいたいの見当はつく。大きな通りを何本か横切り、阪神電鉄の線路も横切っていくうちに、潮の香がしてきた。

 しかし、正面に町工場の塀が立ちふさがっている。海に出る道を探して歩いた。ようやく狭い路地を見つけた。先には防波堤がある。這い上がると、すぐ下は狭い砂浜だった。小さな子供たちが4,5人たわむれていた。男の子も女の子もいる。追いかけっこをし、貝を拾い、打ち寄せる波に足を洗わせ、海の水を手ですくって掛け合う。いっときも休むことのない彼らの動きに、よそ者の疎外感をふと感じた。

 目の先は、圧倒的な青い海だった。高く盛り上がって押しかぶさってきそうな気がした。遠くに貨物船がいくつも浮かんでいた。

 他愛のない小さな子供たちと、圧倒するような海を眺めていると、数日前までボールを追いかけていた自分がずいぶん遠くに去ってしまったように思われた。

 なんだか一人だけ取り残されたような気分だった。小さな子らのはしゃぎ声と打ち寄せる波の音が、孤独感をさらにかき立てた。

 だがそれも一瞬の感覚にすぎなかった。

 しばらく海を眺めた後、ぼくは地図を頼りに西に向かった。三宮まで歩いてみよう。そして、北野の異人館とやらを見てみよう。これは従兄からぜひ行ってみるように言われていたところだ。できればさらに西に足を伸ばしてみよう。電車に乗れば速いのだろうが、知らない町をずんずん一人で歩いてみたい気分になっていた。

 太陽の位置で方角を探り、西へ西へと歩いた。小さな商店街を抜けた。広場があった。幼い子供を連れた母親が井戸端談義をしていた。木陰で老人が将棋を指していた。突然大通りに突き当たり、猛烈なスピードで走りすぎていくトラックに度肝を抜かれた。軒に風鈴が鳴る下町風情の路地もあった。

 いま思うと、初めて訪れる町の歩き方は、そのとき以来ちっとも変わっていないのに驚く。観光スポットを点でつなぐよりは、とにかくへとへとになるまで町を歩いてみるのがぼくの主義である。無駄は多いし、見残しも多いだろうが、名所旧跡を効率よく訪れるよりも、その方がはるかに町を深く知った気分になる。住む人の生活に触れた気がする。

 東京は歩いても歩いても歩き尽くすことのない町だから、かつて郊外の府中に住んでいたころには、都心の路地裏をどれだけ歩き回ったかしれない。いまも仕事で東京を訪れると、わずかでも時間を見つけて裏通りを歩くことにしている。表の顔の大通りから一歩中に入ると、不思議なことに、昔ながらの狭い路地と、板塀に囲まれた庶民的な住宅が軒を並べているところがある。下町はさらにそうである。人情味あふれる町の情景がいたるところで見られる。東京の町は京都のように画然としていないので、歩き回っているうちにはどちらが東やら西やらわからなくなることも多いのだが、それでも興が尽きることがないのが東京の町である。

 東京に限らない。ぼくが放浪者のようにひた歩いた町を思い起こすと、岐阜、静岡、金沢、新潟、小樽、三沢、臼杵、志度、浦添、宜野湾など、次々に浮かんできて、それこそきりがない。

 歩き疲れてぐったりした夕刻、大学で従兄と落ち合った。構内を少し歩く。立て看板や掲示板がぼくの知らない世界のリアリティを提示し、行き違う学生の姿にも、どこか主体的輝きを帯びた自由人の気配が感じられた。初めて見る大学キャンパスの広大さと、どこか知性の湧出を感じさせる緊張感とに、ぼくは軽いめくらみと憧憬の念を抱かざるをえなかった。

 生協食堂で60円の定食を食って下宿に戻った。

 そのころはもうすっかり都会の空気に慣れ、大学という憧れの空間にすら身の置き場所を見出した気分になっていた。

 結局神戸には7泊した。7泊という日数は鮮明に記憶されている。

 その間、従兄は半分は大学に出かけ、半分はぼくにつき合ってくれた。

 大阪を2日歩き、宝塚に行き、六甲山に登り、明石から姫路にも行き、十四のぼくは自由と解放感を堪能した。

 夕食は必ず大学に戻ってとり、仕上げに付近を散策するのが日課となった。ついには大学キャンパスが自分の庭のように身近に感じられる存在となった。

(4)
 7泊した記憶と、京都に行ったのが7月31日であったことから判断すると、従兄とともに神戸港中突堤から関西汽船に乗ったのは8月6日の夜である。夜の10時頃神戸を発ち、翌朝松山に着く。船は続いて別府に向かい、昼前には別府に着く。それが関西汽船の定期便の運行表であった。

 夜中、デッキに出て、手すりにもたれて暗い海を眺めていると、神戸での1週間がまるで夢のように思われてきた。遠くで漁り火が波間に浮き沈みしている。やがてそれも遠のくと、海は静かな闇に沈められてしまう。行き交う船の明かりだけが、真っ暗な海に星のように瞬いている。

 闇の中に明かりを絶やさないのは眼下の白波だけである。船が掻き立てる白波は、ざわざわと絶え間なく生まれ、また絶え間なく消えていく。後方を見やると、生まれたばかりの白波がもうはるか向こうで闇の中に沈んでいく。

 だのに、眼下を見つめていると、生まれては消える白波が、まるで一つの形ある物体ででもあるかのように、騒がしくうごめきつつも形象を維持している。

 これは考えてみれば、「今」という時間が猛然と宇宙を突き進みつつ、瞬時にそれは過去へと捨て去られていくのと同じことだ。ぼくは船とともに「今」の中に住み「今」しか見ていないから、ぼくの時計はいつでも「今」を指している。ぼくが船を飛び降りたら、「今」はいったいどこに行くのか。

 星空がまぶしかった。全天に無数の星がきらめいていた。天の川が豊かに流れ、輝く星々は、これまで見たどの星よりも明るく大きく艶やかだった。

 真っ暗な海と全天の星を眺めながら、ドッドッドッドッと船体を震わせる基調低音に身をゆだねていると、いつの間にか、ここには自分一人しかいないという気持ちになってくる。周囲にいる船客の話し声は背景音の中に遠のき、かき消されてしまう。

 ついには、今ここにいるのはぼくなのか、それともこれは抜け殻で、本当の自分は空の高みを飛び交いながら進行する船を見下ろしているのか、それすら見境がつかなくなる。ぼくは不思議な無重力感に襲われた。

 気がつくとぼくは船室にいた。二等船室に雑魚寝で従兄と並んでいる。毛布をかぶって横になっている。デッキからここまでどうやって戻ってきたのか、どうしてもそれが思い出せなかった。

(5)
 そうなのだ。半世紀もの間眠り続けていた記憶というのはこれなのだ。船室にいる自分を突如発見して、「デッキからここまでどうやって戻ってきたのだろう」、そう思ったときの奇妙な記憶喪失感と言いようのない恐怖の念。自然界に起こりえない異様な体験をしたようで、従兄にすらそれを打ち明けられなかった、その思い。もし誰かに話したら、ぼくという存在は一瞬にして宇宙のどこかに吸い取られてしまう。そんな気がして、震えながら、毛布をかぶって眠ってしまった。そして、朝にはすっかり忘れてしまい、以来半世紀もの間、一度たりとも思い出すことがなかった。おそらくはこのまま思い出されることもなく、ぼくという存在の死とともに消え去る運命にあった記憶のはずである。

 その恐怖の記憶にある種の意味を持たせ、埃をかぶった棚の底から引きずり出したのは、偶然手にした『パタゴニア探検記』であった。

 『パタゴニア探検記』は、高木正孝氏が事実上の隊長(名目上の隊長は後述する田中薫氏)となって1958年になされた「日本・チリ合同パタゴニア・アンデス探検」の、本人による記録である。合同登山隊は、南米の陸氷地帯(氷河地帯)にある未踏峰アレナーレス山の初登頂に成功した。そのときのスリルとロマンにあふれる物語として、『パタゴニア探検記』は実に面白い。

 だが、それだけなら半世紀もの間眠り続けていたぼくの記憶を呼び覚ますきっかけになったりはしない。

 ぼくの記憶に衝撃を与えたのは、その序文と跋文である。序文は高木氏の先輩である神戸大学教授田中薫氏によるもの。田中は神戸大学山岳部の初代部長であり、高木が神戸大学に赴任するとともに部長を高木にバトンタッチした。

 跋文は高木の親友でありアルピニストの田口二郎氏によるもの。

 二人の文章を繋ぎ合わせ、ぼくなりに調べたことも少し付加すると、高木正孝の人生はおおよそ次のようになる。なお、ぼくの記憶を呼び覚したきっかけだけを述べるのなら、人生の最後の瞬間を記せば十分なのだが、回り道のようでもそこに至る過程から書いておきたい。

 生まれは1913年3月12日。蛇足ながらこれは、ぼくの父が彼と同学年ということを意味している。ぼくの父は戦争の荒波をもろにかぶり、満州事変、日華事変、大東亜戦争と、日本の運命を決めた3度の戦争のすべてに動員され、最後の大東亜戦争では4年間にも及ぶ戦地生活を強いられた。農家の末っ子という、命軽き存在であったわけである。

 それと対比したとき、高木は何と恵まれていることか。祖父は慈恵医大創設者。すでにそれだけで戦争の労苦からは解放されているようなものである。事実、高木の20歳は学生故の徴兵猶予となり(ぼくの父は徴兵期間中に満州事変に遭遇)、1936年東大を卒業するや、直ちにドイツに留学した。

 当時、日本の若者が迫り来る戦争の危機から身を避けるのに最も適した地はドイツだったのではなかろうか。アメリカやイギリスだと、敵国人として強制収容、ないしは強制送還された可能性がある。高木は、先を読む眼識によってか、それとも結果としてラッキーだったということなのか、日本の戦争からは完全に足を洗った形となった。

 ベルリン大学で心理学、人類学を修め、戦争中はベルリンで人類学研究所助手、大学付属動物園動物心理学研究員、日本大使館の翻訳官などを務めた。その間しばしばアルプスに登り、登山技術を磨いた。そのころの登山仲間が跋文を書いた田中二郎である。

 日本にしろドイツにしろ、庶民は苦しい戦時生活を強いられていたさなか、高木の生活は戦争から最も遠いユートピア状態にあった。父がなめた辛酸と対比してみるとき、人生にこんな不公平があっていいものかと、腹立たしくもなり、泣きたくもなる。

 高木にとっての戦争の苦労は、「大戦後日本に帰ろうにも適当な船便がなく苦労した」という程度のものであった。ようやく見つけた船便は大西洋まわりで、イタリアから大西洋を渡ってパナマ運河を抜け、太平洋を横断して横浜へ、というものだった。1947年2月、横浜着。スイス人の奥さんを連れていた。

 しばらくは祖父の縁で慈恵医大講師を務め、1948年4月より東邦大学教授に。1952年8月、今西錦司隊長とともにマナスル踏査(本登山のための予備調査)隊員としてヒマラヤに行く。ヒマラヤから帰った1953年1月、神戸大学に助教授として迎えられる。そして、籍を神戸大学に置くやいなや、とって返すように同2月、本格的なマナスル登山に出かける。帰ってきたのは翌1954年4月であった。

 続いて、1957年11月から1958年3月にかけてのパタゴニア探検となる。

 なんだか、大学の研究者といっても、その大半は登山に明け暮れている、そんな印象である。その意味でも、なんと恵まれた人生であろう。

 いよいよ運命の時を迎える。1962年、神戸大学南太平洋諸島学術調査隊というのが組織され、山の専門家であるはずの高木がその一員に選ばれた。同じ自然を相手にするとはいえ、山から海へ、この変化が彼の悲劇の遠因ではないか、とも言われている。

 調査隊は6月に日本を出発した。そして7月には小隊に分かれていくつかの島に分散した。高木は3名の小隊の隊長として、タヒチ島から2000キロほど東にあるマルケサス群島のファッツ・ヒヴァ島で調査を始めた。

 調査を始めてひと月ほど経った8月6日、隣のヒヴァ・オヴァ島に向かう200トンの帆船の中に高木はいた。なぜ隊長が、他の隊員にも知らせず一人で隣の島に出かけたのか、2名の隊員の事情聴取からも判明しなかったようである。持病の痔を治すためにタヒチに向かおうとしていたとも言われているが、定かではない。

 高木の姿が最後に確認されているのは8月6日未明、午前4時半ごろ。甲板に一人で立っている姿が船員によって目撃されているという。それを最後に高木の姿は船から消えた。自殺か事故か他殺か、考えられるのはこの三つだが、いずれも証拠はなくて不明のままである。

 死因不明、遺体未発見のまま、1年後の1963年8月6日、法律により裁判所で死亡が確定された。

(6)
 以上を『パタゴニア探検記』の序文と跋文から知り、1962年8月6日とはぼくにとっていかなる日であったのかと考えたとき、はたと思い当たったのが、上に書いた神戸旅行である。マルケサス群島と日本の時差を考慮すると、現地時間8月6日午前4時半は、日本時間8月6日午後11時半に相当すると思われる。

 京都で撮った写真を見返し、そこに記された日付と7泊したという記憶とをつき合わせると、1962年8月6日午後11時半は、まさしくぼくが関西汽船に乗っていた時間帯である。そう考えて、当時の記憶をまさぐっているうちに、デッキでのあのできごとを思い出したのであった。

 空を飛んでいるような不思議な無重力感、気がついたらいきなり船室にいたこと、デッキから船室までの記憶が消え去っていたこと、そのことを誰かにしゃべったら自分の体が宇宙のどこかに吸い取られてしまいそうな気がしたこと、ふるえながら毛布をかぶって恐怖に耐えていたこと、これらが半世紀の眠りを破って一気に記憶の表層に噴き出してきたのであった。

 間違いなくあのとき、高木正孝も船のデッキにあって、太平洋のはるかなる海を眺めていたはずだ。ぼくが夜の瀬戸内海を眺めていたとき、彼は未明の暗い太平洋を眺めていたのだ。そしておそらく彼は、思わず知らず自然の懐に抱きかかえられるように現実感覚を失い、手足の力が抜けて海に転落したのであろう。真っ黒な海水の塊りを眼前にしたときの悲痛の叫びが、遠い遠い神戸の地まで届いてきたのであろう。

 それがぼくの心に届く謂われはなかろうが、1週間、まるで自分のすみかのように神戸大学に慣れ親しんだぼくにそれが届いたとしても、それもまた不思議とはいえない。

 理性や科学でものを言っているのでないことは、ぼくも重々承知している。だが、戦争中、母が同種の体験をしたこともまた、ぼくはたびたび聞かされて知っている。母が親代わりになって育てた末弟が海軍に入り、乗っていた軍艦が南方で撃沈されて死んだ。そのとき、母の夢枕に弟が立ったというのだ。階段を一歩ずつ下りて水に入っていく姿を見たというのだ。母に敬礼をして別れを告げながら水に入っていったというのだ。後日届いた戦死広報によって、夢とその瞬間とが符合することに気づいたというのだ。

 いかなる伝達媒体が両者をつないでいるのか、ぼくは知らない。しかし、高木正孝氏が突然海に吸い込まれ、助けを求める間もなくサメの餌になったであろうその瞬間、声にならない悲痛の叫びが1万キロもの距離をやすやすと伝搬しえたとしても、それを馬鹿げた絵空事だと断言するのは早計だろう。

 今ぼくは、あのデッキでの出来事があった瞬間、高木正孝氏の叫びがぼくに届いたのだと、確信はないが信じている。のだが、はてさて…。

雪のひとひら
2009年1月12日
 ぼくが勤める学校で入学試験があり、昨日が選考会議、そして今朝はレタックスで合否発表。今ごろはちょうど届いている時分だ。

 選考会議があった昨日、終えて帰宅する途中、松山には珍しく雪が舞った。はじめはどこかのたき火の灰でもが降っているのかと見ていると、そうではなくどんどん舞い落ちてくる。はらはらと落ちる軌跡が一本一本見分けられるほどだから、激しく吹雪いているわけではない。北国なら雪とも呼ばないほどのかすかな雪だ。

 その雪粒が一つフロントガラスに落ちた。適度に湿ってふんわりしている。重さは感じず、かといって粒のように固まってもいない。まさに「ひとひら」という言葉がふさわしい。

 フロントガラスの縁に貼りついたそれをちらっと見ると、ギザギザした細いとげが何本も張り出し、みごとな結晶構造をもっていた。自然の造形の神秘がこのひとひらに集約されている。

 ぼくはその瞬間、思った。世界に充満している普遍的原理の演繹をぼくらは見ているのではないのだと。雪のひとひらという具象的個物を、そのみごとな造形のみをぼくらは見ているのだ。自然がぼくらに提示するのは具象なのだ。いやぼくら自体も具象なのだ。たまたまぼくらの頭脳に構成された思考と名づけられた仕組みが、個物の造形美を帰納的に突き詰め、その先に、ぼくらは普遍的抽象概念を読み取る。幻のように浮かび上がる概念をぼくらは見る。ぼくらはそれを原理と呼ぶ。この原理は蜃気楼にすぎない。蜃気楼をぼくらはときとして実体と見間違う。

 実体は目の前の雪のひとひらだ。それしかない。そこに自然が、宇宙が提示されている。ぼくらもまた自然であり、宇宙であり、その間になんらの境目もない。

 そんなことをふと思った次の瞬間には、雪は早くも溶けてぬめりとした液体に変じてしまった。自然の力が微妙に蓄積された巨大なエントロピーの塊である雪の造形が、あっという間に元の木阿弥、エントロピーゼロゼロの世界に戻ってしまった。フロントガラスに落ちたのが運の尽きだったのだ。そのぬくもりがお前をあっけなく溶かしてしまったのだ。はるかな天空で生まれ、厳しい寒気と寒風に吹き流されながら成長したお前が、いよいよ着地の寸前、ふうーっと吹き抜けた一陣の風に横滑りし、思わず体当たりした先がぼくの車のフロントガラスだった。そこは内側に暖房源をもつ、お前が生きるにはあまりに過酷な死の世界だった。

 昨日の雪が松山の初雪ということはなかろう。だが、ぼく個人にとっては、昨日の雪はこの冬最初の雪体験であった。まったく積もる気配もない短時間のしぐれ雪。これが気象上「雪」と記録されるかどうかも微妙だ。

 昨夜遅くには、激しい雹まで降った。窓を打つ音で、尋常でない激しさがわかった。ひゅーひゅーとうなる風と、ぱらぱらぱらぱらと窓を打つ不気味な音が、窓を、家を包み込んだ。

 庭の小屋にいる犬たちもさぞ不気味で寒いだろうと、不安感をともにするが、犬には犬の自然の力がある。人の感覚で犬の感覚を判断はできない。それに犬小屋にはしっかりと目張りのビニールを貼り付けてある。風が直接吹き込むことはない。ぼくにできることは、じっと丸まって外の激しく吹雪く音に聞き耳を立てている犬の姿を同情の念をもって想像することだけだ。

 今朝は昨夜の荒れ模様の天気が名残を道に残している。家の前の道路が濡れ、ところどころ水たまりがある。

 庭に出てみると、冷たい風がキューンと体を締めつける。でもさわやかだ。澄んだ冷気だ。冷え冷えとした空気が喉に、気管に、肺に心地よくしみこむ。ぼくにとって、冬の原風景はこれだ。懐かしさに胸が熱くなる。手先がしびれるような寒風の中、ぼくらは路地を駆け回り、遊んでいた。あまりの寒さに鼻水が垂れる。つるっと吸い込む子もいれば、垂れ流したまま気づきもしない子もいる。

数学雑感(センター試験)
2009年1月26日
 先日のセンター試験の数学の問題を解いてみて,数学T・Aと数学U・Bとでずいぶん難易が違うのに驚いた。しかしまあ,そういう年はこれまでにも何度もあるからいいとして,数学U・Bの中での選択問題間の難易にかなり開きがあるような気がした。これは受験生の不公平にもつながり,少々問題であろう。

 第1問,第2問が必須で,第3問〜第6問のうちから2問を選択することになっている。選択問題のうち,第4問のベクトルが他の3問から見るとはるかに解きやすい。というよりも,少々愚問のきらいがある。四面体を平面で切った切り口を調べる問題なのだが,幾何的な観点で見れば簡単にわかってしまうことを,無理矢理ベクトルを使って計算させているのが,いかにも愚かしい印象である。幾何的性質が見えた受験生にとっては,出題者が意図するような計算をしなくても,ほとんど一目で設問の答が出てしまう。

 それに比べると,第5問の統計や,第6問のコンピュータは,格段に難しい。第5問では,目がちらちらするような数値計算がたくさんあって,「これを本当に手作業でやらせるの? 電卓がほしいよ」と言いたくなる。その上,相関図のパターンから相関係数を予想するという,一種の直感的パターン認識力が必要になる。

 第6問にも難しい箇所がいくつもある。まず一つは,100 以下の自然数のうち 3m + 7n (ただし,m, n は 0 以上の整数)の形に表現できる数が何個あるか,というところ。結論的には,最初のいくつかを除くと,それ以外のすべての自然数が 3m + 7n の形に表現できるのだが,これは受験生にとってなかなか気づきにくいところだと思う。

 なぜそうなるのかというと,

  3m + 7n = 3(m + 2n) + n

と変形してみるとわかる。この式から,

(1) 3k 型の自然数は,n = 0, m = k とするとことによりすべて 3m + 7n と表現できる。

(2) 3k + 1 型の自然数は,n = 1,m = k - 2 とすることで,すべて 3m + 7n と表現できる。ただし,「m は 0 以上」という制約があるから,k は 2 以上でなければならず,3k + 1型のうちの 7 以上の自然数がすべて 3m + 7n と表現できることになる。

(3) 3k + 2型の自然数は,n = 2,m = k - 4 とすることで,すべて 3m + 7n と表現できる。ただし,m は 0 以上であることから,k は 4 以上でなければならない。したがって,3k + 2 型のうち 14 以上の自然数がすべて 3m + 7n と表現できる。

 以上を考慮すると,3m + 7n (m, n は 0 以上の整数) と表現できない自然数は,1, 2, 4, 5, 8, 11 だけだとわかる。ただ,こういう判断を短時間のうちに受験生に要求するのは無理というものであろう。

 整数論的には,3 と 7 は互いに素だから,「m, n は 0 以上」という制約がなければ,あらゆる整数が 3m + 7n の形に表現できる。これは整数論の基本定理である。だが,単純なその事実ですら高校数学の範囲を超えていて,一般の受験生は知らない。そこへもってきて,「m, n は 0 以上」という制約があるわけだから,この問題は受験生にとって難問だということになる。

 第6問には,最後の部分にもう一つ難しい箇所がある。与えられたプログラムの一部を書きかえて,

  k = mq + nq

となる (m, n) の組が何通りあるかを求めるものにしよう,という箇所である。つまり,元の問題の観点を変えて,今度は1つの値kに対して,(m, n) の組が何通りあるか,という問題を解くように,プログラムを修正しようというのである。

 修正のしかたを選択肢から選ぶわけだから,すべてを自分で作り上げるよりは易しいとはいえ,目的を実現するためのアルゴリズム(処理の流れ)を正確にイメージできていないと,これもなかなか難しいと思われる。

 実は私は長年さまざまなプログラム作りをやってきた人間だから,この種の問題はほとんど一目で解けてしまうが,プログラミングの経験の浅い受験生の場合には,決して易しい問題ではない。

 というわけで,今年のセンター試験の数学U・Bは,全体として高難度であるのに加えて,選択問題間の難易の差は結構大きいのではないかと思われる。不公平といえば言える。しかし,結果的には,大部分の受験生は迷うことなく第3問と第4問を選択する。確率・統計や,コンピュータ・プログラムを選択するケースは稀である。それを思えば,まあ不公平は少ないのかもしれない。

 以上は私の私感であって,大学入試センター側の公式見解がどうなっているのかは知らない。特に,第4問が愚問などというのは,公式見解には決して出てこないことであろう。

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