2008年9月12日 |
先日,気になる新聞記事を見た。大阪の橋下知事が,全国一斉学力テストの結果を,大阪府下の各市町村教育委員会は公表すべきだと言ったというのだ。もちろん,私的意見としてだけなら,何を言おうと自由である。問題はそれに続く言葉にある。 「公表するかしないかで,その市町村への交付金の額に差をつける」。 これは大問題であろう。つまり,知事の個人的信念に従う市町村には多くの交付金を出し,それに従わない市町村に対しては交付金を削るというのである。とんでもないことである。 現実には,全数調査的な一斉学力テストそのものの是非が問題になっている。一歩下がって,仮にそれを認めたとしても,その結果をどのように使うか(公表するか)については,意見は大いに分かれるところである。当事者の文部科学省ですら,公表方法を一律に規定できないでいる。実施は強制するが,それをどう使うかは各自治体(の教育委員会)まかせというのである。これは「自主性」という名のもとに従順度を観察する,いかにも官僚の発案らしいずるい方策に見える。 そもそも文科省が必要としたのは,現在の小中学生の学力水準とその動向であろう。自らが大々的に推進してきた「ゆとり教育」や「総合的な学習」が,案に相違して学力の低下を引き起こしているのではないかとする懸念が,PISA(国際学力調査)の結果をきっかけに,多くの教育機関や研究機関からわき上がった。文科省自身もそうした意見を追認する方向に向かった。つまり,10年にわたって現場の尻をつつき,ようやく根づきかかってきた「ゆとり」と「総合学習」の方針を一夜にして大転換する必要に迫られ,転換に対する根強い反対論者を説得するためにも,現実の小中学生の学力の実態を把握しないといけなくなったのである。 全国一斉学力テストが数十年ぶりに復活した背景はそのようなものだと私は理解している。 そもそも現状を把握するためだけなら,全数調査でなくても,抽出調査で十分である。それを知らない文科省ではない。それをあえて全数調査(全学校の特定学年生徒の全員参加)にしたのは,単なる現状把握以上の目的があってのことであろう。その目的は見え透いている。地域間,学校間等における成績の優劣をはっきりさせようというのである。場合によれば,クラス間の優劣まではっきりさせ,それを教師一人一人の指導力の差に起因させようというのである。 こうした動きに対して,「無用な競争心をあおる」という論点で対抗することが多いのだが,問題の本質をそこに置くのはあまり正しいことではないのかもしれない。本来「競争」は資本主義の基本的駆動力であって,過去において一定の効力を発揮してきた。今の時代は逆に,それに代わりうる新しい原理が確立しないままに,競争が失せつつある時なのかもしれない。心ある人からは,競争はよき時代の懐かしい「正義」と思われ始めているような気もする。というのは,近年の風潮として,「成功」は,苦労や努力を前提とした正当な競争によって勝ちえるものではなく,狭間を突いたり裏をかいたりする,一種のゲーム的ずるがしこさによって獲得するものという発想が広まっているように思われるからである(ライブドア事件や,大分の教員不正採用などにその先鋭例を見る)。まじめなコツコツ型が隅に押しやられている時代と言ってもよい。 では,地域間,学校間,クラス間等の成績の優劣を公表することになぜ問題があるのか。 一つには,それが勝者(優者)と敗者(劣者)の色分けにつながり,どこかに必ず悲嘆に苦しむ人を生むからである。 仮にもし,東日本と西日本との成績の差が発表されたとしよう。その結果をもって苦しむ人はおそらくどこにもいない。責任の受け取り手があまりに漠然としていて,それを個人に帰する手だてがないからである。しかし仮に,西日本管轄の教育委員会と東日本管轄の教育委員会があったとすれば,事態はまったく別のものとなる。両者の成績に有意の差が見られたとすれば,まず劣者の側の委員長が大きなプレッシャーを感じるだろう。その人が弱い人なら,責任を一身に負い,辞任ないし,極端なケースだと自殺などというケースにまでつながるかもしれない。少し強い人なら,責任を自分よりも下位の者に押しつけるだろう。そしてこれまで以上の締めつけを計ることになる。 押しつけられた下位の者は,またその人の性格の強弱によって同様の二道をとる。この連鎖はどこかで止まるのだが,下に行くほど該当者の数は増え,結末は必ず,ある特定の個人(一人とは限らない)の悲劇となって終わる。「組織の責任」という漠然とした形で終わることは稀である。一見そう見えたとしても,必ずどこかに劣者と位置づけられて苦しむ人が生み出されている。数年前,広島で校長先生が自殺した事例があったが,あれは下位の者に責任を転嫁できなかった良心的な(弱い)個人の例であろう。 東日本と西日本の例は仮想例にすぎないが,地域間,学校間,クラス間となれば,現実の問題である。いずれの場合もたいていは,最末端の教師が責任の引き受け手となる。そして,その指導力が問われる。名指しまではされなくとも,大きなプレッシャーと苦悩を背負わなければならなくなる。別の見方をすれば,誰かそのような劣者(スケープゴート)を生み出すことで,他の者は精神的な安泰を得るのである。これが勝者と敗者の色分けである。それによって何か大きな前進が計られるという見通しとは別の次元で,勝者と敗者が作られる。 なお,はたして,全国一律の学力テストといった一度きりのペーパーテストの結果が,教育という無辺の裾野をもつ困難な人間活動の実体を正しく反映しうるのか,と問えば,100人中100人までが,「そんなはずはない」と答えるだろう。 劣者と判断された人が,はたして教育者として他の人よりも劣っているのか,無能なのか,指導力不足なのか。これは誰にも分らない。劣者と判断された学校が,他の学校よりもレベルの低い教育しか行っていないのか,これも分らない。正直に現状のままで試験に臨んだ学校と,姑息な手段で成績を上げる工夫をして試験に臨んだ学校の差が,結果の違いを生んでいる可能性だってある。数十年前に今回同様の全国一斉学力テストが行われ,それが自壊したのも,その要因の一つはそうしたところにあった。 教師一人一人の教育成果を短絡的な数字で判断する発想からは,その人が行っている教育の全体像は見えてこない。それに対する正しい評価はできない。根拠の漠とした優越意識や劣等意識を生み出すのが関の山である。もっといけないのは,結果を目先の数字に短絡させて評価する体制の元では,教育方法を改善するための工夫や,長期ビジョンに立った試行錯誤の余地がなくなってしまうことである。 「ある人がある方法をとってうまく結果が出た」 「じゃあそれを制度化して,みんなで実行しよう」 そんな教育になってしまう。 本来,教育は人と人との微妙かつダイナミックな受け答えのもとに成立しているものである。ある教師がある生徒集団を相手に,ある方法をとってうまく結果が出せたとしても,翌年別の生徒集団に同じことをやって同じ結果が出せるかというと,そんな甘いものではない。ましてや,別の教師が同じことをやって同じ結果が出せるなどとは,期待する方が無茶である。 今日成功した方法も,明日は成功しないかもしれないのである。 ところが,管理者の立場に立つと,何か制度を作らないと自分の仕事の成果を残せないものだから,うまくいった事例を,地域全体とか学校全体の制度として定着させたくなる。そういう衝動が管理者の宿命なのかもしれない。しかし,いかに成功事例とはいえ,それがいったん制度として強制されると,とたんにそれは腐ってくる。成功事例が成功事例たりうるのは,それが臨機応変の工夫によって生み出された場面においてのみである。成功事例は一過性なのだ。 臨機応変の工夫や長期的視点に立った工夫がなければ,教育は生きたものとして成長しない。そうではなく,もし教育の世界に,「これがベスト」という方法があるのだとすれば,長い教育の歴史の中でそれが確立していないわけがない。そして全教師がそれに忠実にしたがえば,あらゆる現場で教育はベストなものになるはずである。しかし,現実はそうではない。理由はただ一つ,「ベストな教育方法」と呼べるような手法は存在しないからである。ベストな教育方法は,いつでも,その場その場で流動的なのだ。 教師一人一人が最大限の工夫を発揮するためには,なにはともあれ,それが許される環境がないといけない。「今日の成果を明日の数字に出せ」,といった近視眼的な目でしか物事を見ないところではそれはできない。教師が劣等意識を持つところでも,それは無理である。自分が最大限に生かされ,評価されているという安心感と自信がなければ,思い切った試行錯誤はできない。大きな飛躍はのびのびとした心からしか生まれない。明日の結果を常に心配し,それに怯え,窮々としているような環境のもとでは,のびのびとした教育はできない。 まっとうな自立者同士の,まっとうな競争,しかもその結果を勝敗の帰趨にかかわらず互いにたたえ合うことのできるような競争。負けても,それはある面で負けたのであって,他の面では勝っている。勝ってもそれはある面で勝ったのであって,他の面では負けている。それを互いが謙虚に認め合うことのできる競争。切磋琢磨。これが教育の世界にあれば,教育はもっとのびのびとしたものになると思う。残念ながら,いまの教育界は,縦の指令系統に縛られた世界になっている。現場にはまっとうな自立者は少なく,しかも彼らが自由に動ける体制にはなっていない。 もう一つ考えたいのは,教育に限ったことではないが,多様性の価値についてである。いろいろな考えをする人がいて,いろいろなことをやっている,そのこと自体がすでに大きな価値なのであって,仮に正しいとされる見解であったとしても,全員がその一色に塗りつぶされると,その組織なり社会なりは,瞬く間に窒息して腐ってくる。 全国一斉学力テストの結果をどのように扱うか,それに対していろいろな意見が出て,いろいろに考える人がいる。それがいいのであって,そのうちの一つの見解をトップに立つ人が押しつけることは,すでにその人自身の腐った体質と窒息の実体を証明しているのである。そこからは何も生み出されない。トップが強制力を発揮すれば,へつらう人が出るだろう,反発する人が出るだろう,そして最も多く,苦悩と涙の人が出るだろう。その末に,やがて体制は自壊する。北朝鮮を見てもそうだ。権力があまりに強いから,いまはへつらう人の天下だが,これが長く続くとは思えない。アメリカのブッシュ大統領が全世界を,「対テロ同盟」に参加する国と参加しない国に色分けし,参加しない国を事実上テロ支援国とみなす,と恫喝したのも,同じ発想に立つ。 そもそも,今日の世界的危機は,多様性の価値を本当には認めないところに由来しているように思える。自分と違う考えを容認しない狭量さ,自分と違う見解をもつ人を,直ちに敵対者とみなす短絡性。世界にはさまざまな対立の局面があるが,そのいずれにおいても,当事者は「多様性の価値を認めない」という点ですべては共通している。 地球上に生物が繁茂し,人類が栄えてきたのは,過去において多様性の確保がなされてきたからであろう。一面的な勝ち負けや,一面的な優劣をもとに他者を排除する原理は,勝者が力を持つかぎりにおいて,同調するものを加速度的に増強させる効果がある。かつて,セイタカアワダチソウが繁茂したときのように…。セイタカアワダチソウは他者を押しのけて日本の国土を蹂躙した。だがやがて,多様性のなさ故の嫌地現象によってそれは力を失っていった。 人類の過去の歴史の中でも,同様の現象は多数ある。安定的に栄えた例はない。たいていはシロアリに食われた家のように内部から腐っていき,最後には外部的な一撃で倒れる。 考えていくと,究極のところわれわれに必要なのは「謙虚な他者への愛」,これに尽きるような気がしてくる。自分をも他人をも,一つの価値ある存在として認める精神である。相違点を敵対点と即断しない寛容さである。 橋下知事の発言に欠けているのが,この寛容さであろう。 もっとも知事は,発言の後,日を追ってそのトーンを下げ,最後には「間違いでした。すいませんでした」ですませようとしているようにも見える。イギリスならさしずめ「軽薄懺悔王」の称号をもらうところである。 |