2008年1月7日 |
新年おめでとうございます。 プライベート面では,夏からずっと一つの仕事に追い立てられ,HPを更新するゆとりなど全くないまま年を越してしまいました。正月をすぎてようやくすべてが一段落し,苦行のような数ヶ月から解放された。これが今の私です。 といっても,判じ物のような言い方で,何のことやら。 それはまあ置いときましょう。 日本語で「いのち」と発音すると,それは個体の生命を指すことが多い。それを漢字でどう書くかは問題でない。「いのちが絶えた」と言えば,個体の活動が死をもって終焉したことを意味する。 それに対し,「生命(せいめい)」というと,個体の死を超えて存在する何らかの連続した流れを指す印象が強い。「地球外生命を探す」などと言うときの「生命」も,決して個体としての生命体に限定してはおらず,複製能力を持って連綿と続く生命現象の意味であろう。もっとも,複製能力を持たず,単純に自己保存のみで生き続ける生命体があれば,それはそれで連綿と続く生命現象と言えようが,代謝や運動能力をそれが持っているものとすれば,「偶然の事故」による死は避けられず,おそらくそれは遠からず死滅する。代謝も運動能力もなく存続する物体は,単なる無生物であり,物質そのものである。 生命現象と呼びうる実体があるとすれば,そこには代謝と複製能力が最低限の条件として備わっていなければならない。なぜなら,環境との接点において生命物質は常に変形や崩壊を受け続ける。それを何らかの方法で修復する手段をもたないといけない。修復は,短期的には代謝を拠り所とし,長期的には複製を拠り所とする。これらの能力がない物体はもはや生命体とは言えず,無機物であり,死そのものである。 基本的には複製によって,生命は長期にわたって途切れることなく持続する。しかも,「一」がその死を迎えるまでには「多」を生むというシステムが必要である。そうでないと,偶然の事故を乗り越えて生命を持続させることはできない。ただし,一度に多を生むか,時間の流れの中で多を生むかは,システム次第である。 ともあれ,このようなシステムが,生命の起源の第一歩においてすでにできあがっていないかぎり,その生命は直ちに絶滅する。生まれてから身につけたのでは遅いのである。 地球の生命の起源は,さかのぼっていくと,その第一歩はすでに40億年に近い過去に始まったと言われる。地球ができて数億年後である。精妙な複製システムがわずか数億年の間に作られ,しかもそのシステムの基本原理はその後40億年間を通じて変わっていない。 私にはどう考えても不思議でならない。数億年で生み出されるものなら,その後の40億年の中で,それとは別システムで成り立つ生命体が生まれていてもおかしくない。そんなことがありえないほどに最初に生まれたシステムが唯一絶対のシステムであったのなら,原子や分子の偶然の離合集散の中からほとんど確率ゼロの現象が生じた(選択された)ことになり,これもまた不思議である。 環境による絶えざる破壊攻撃に代謝という修復手段で対抗し,個体の死に至る前に複製によって真新しさを取り戻す。しかも,環境そのものにとけ込んでしまわないために膜による境界をもつ。このような複雑精緻な仕組みをもつ生命体が,単純な物理・化学的原理だけの死の世界からわずか数億年の間に生み出された事実を,私はどう受け止めればよいのか。 無数に近い多くの偶然の中から,当たりっこない当たりくじをたまたま引き当てたのがこの地球であった,ということかもしれない。その後の40億年の中では,同様の現象が二度とは生じなかった,という事実が,その偶然性を証明しているのかもしれない。「わずか数億年の間に」,というのはほとんど意味のないことなのかもしれない。何億年かけようが,何十億年かけようが,まず絶対に生じえない現象が,たまたまこの地球に生じてしまった。それが地球誕生から数億年後のことであった,ということなのであろうか。 そこに何らかの意志が働いていた,と見ることもできる。目的性を持った意志が,無数の偶然の中から一つの可能性をその意志の力によって釣り上げた。そう見ることも不可能ではない。ただしそれはかなり勇気のいる発想ではある。だがそれ以外に説明のしようがないのも事実かも知れない。 |
2008年1月20日 |
ほとんど半年近く,読書どころではなく過ごしてきた。年明けとともにようやく縛りがゆるみ,何冊か読むことができた。 まずはサン=テグジュペリを読んでみようと思い立ち,みすず書房のサン=テグジュペリ・コレクション(全7巻)を3巻まで読んだ。「南方郵便機」,「夜間飛行」,「人間の大地」。卓抜した文章力に圧倒された。 大空と砂漠,夜と星,友情と殺戮,…。 自然との孤独な闘いに生死をかけた飛行士ならではの,すさまじい洞察力と感受性。 一瞬一瞬を命の限界まで生き抜いた者だけが有する力とロマンが,文章のあらゆるところに沸きたっている。 E.G.ウェルズの「タイム・マシン」もおもしろかった。岩波文庫には,「タイム・マシン」の他に「水晶の卵」,「新加速剤」,「塀についた扉」など10編の短編が収められている。100年あまり昔に書かれたものだが,これらはどれも,まさに「ドラえもん」の世界だ。 時間軸を自由に行き来したり,空間を遠く隔てた世界(たとえば火星)との同時相互作用とか,あるいは時空間の枠をも超えた異次元空間への「扉」(ホーキング氏のワームホールのような)とか,とにかく斬新なアイデアがいっぱい。100年という時の隔てがあるとはとても思えない。 興味深かったのは,ウェルズほどに時代を超越した自由な発想に立つ人にして,なお,自らがどっぷりつかっている19世紀末という文明の大枠からは抜け出せないこと。 例を挙げれば、基本的には未来人も農耕主体という発想。 土と水と緑に囲まれて暮らす社会。さらにいえば,移動手段は馬車という発想。 ウェルズの頭には,今日の都会に見る高速道路網や地下鉄道網は存在しない。もちろんウェルズの時代,すでに汽車や電車や電灯はある。しかし,生活の基盤はどこまでも土と水と緑にあった。その臭いが,彼の描く未来生活には芬々としている。 |