血圧のこと
2007年4月8日
 昨日職場の健康診断があり、ここ数年ずっと高かった血圧が正常値に戻っていることを知る。

 50歳を越してから、140、150、ときには160と、高血圧の症状を示していた。健康診断は毎年、花冷えの時期の朝。それも、レントゲン検査のあとの薄着のままでしばらく順番を待ち、冷えた体でいきなり測定するから血圧が高くなる。自分でそう決めてかかり、心配もしていなかった。だが、昨年だったか、「放置しておくと、ある日突然いのちの危機を迎える、なんてことがありますよ」、と脅された。「自覚症状がないから大丈夫というのは、自覚症状を待っているだけのこと。危険です。自覚症状は徐々に出るのではなく、出たときにはもうとことんまで進んでいるのです」、そんなことも言われた。

 徹底的に脅されて戦々恐々、近くの内科医を訪れ、血圧と心臓を精密検査してもらった。心臓にかすかな弁膜症の兆候があることもわかった。低い方の血圧が高いと弁膜症には危険なのだという。そんなわけで、血圧を下げる薬を飲むことになる。

 以来、ときに忘れることもあるが、ずっと飲み続けた。そして昨日の検査。126と75だった。朝、例年よりも長く寒い中を待たされた。この分だとずいぶん高い値が出るだろうなと、まな板の鯉の心境で測ってもらった。結果は上々だった。言うことなしだ。

 何とも不思議な心地だった。例年なら、測定する看護師が決まって首をひねり、「おかしいからもう一度測り直しましょう。深呼吸して楽にしておいて下さい」、そんなことを言われて測り直し、「やっぱりですね。じゃあこの数値を書き込んでおきます」。立ち上がろうとすると、「緊張してたんでしょうね。心配ないですよ」、親切な看護師は必ず一言そうつけ足してくれたものだ。

 今年はあっけなくパスしてしまった。自分としては少なくとも10歳若くなった気分であった。もちろん高血圧症状が解消されていることは、かかりつけの内科医で毎月定期検査する中で知っていた。弁膜症の兆候もほとんど消えてしまった。それも知っていた。だけど、職場の検査で現実に今までとまるで違う結果が出たことは、新鮮な喜びだった。あの、寒い中を待たされるという環境下においてすら、結果は正常値。これは大いなる証しだった。

 つい先日、岩国の錦帯橋に行き、満開の桜を堪能した。

団塊の世代?
2007年4月19日
 団塊の世代。私もその一人だが、いやな言葉だ。十把一絡げに括られる世代、いつでも集団で走ってきた世代、醉いも苦いも甘いも辛いもみんなで一緒、そんなイメージの言葉だ。堺屋太一の小説『団塊の世代』に始まる言葉のようで、世に出て30年という。

 一つ思い出がある。20数年前のことだ。朝日新聞の通信講座「文章教室」(だったか?)を一年間受講したときのこと。毎月、原稿用紙数枚の文章を送って添削してもらうのだが、ある月の文章で「団塊の世代」という言葉を使った。それが主テーマというのではなく、何かのはずみにふと使っただけであった。当時のはやり言葉で、新聞や雑誌にたびたび現われるものだから、つい何気なく使ってみた、そんな安直な使い方だった。

 案の定、「流行語を不用意に使うのはよくない」といった意味の朱が入れられて返ってきた。

 流行語には、言葉が本来もつ意味空間や共鳴力とは別の、一種の同時代的共感が付与されていて、読む人を瞬時に特定の了解域に到達させる効果がある。それを使えば易々とイメージが構成され、しかもそのイメージには共感者が多く、ぶれがない。言葉足らずでも意は通じる。

 その場限りの会話にはなかなか適した手法である。

 しかし、ちゃんとした文章を書く際には、各人の内面に沸き立つ固有のイメージを、固有の言葉で照らし出す必要がある。そういう言葉を探し出さねばならない。共感者が多いからといって、既成のイメージを安易にそこへ押し当てるのは危険だ。

 書き入れられた朱筆を見て、強くそれを思った。

 内面に浮かんだ固有のイメージを言い当てる最適の言葉が流行語である確率はほとんどゼロに近い。人が流行語を使う場面を考えてみると、まず間違いなく、流行語の側からする主体への働きかけが先にあり、内面の躍動した思索や概念はそれによってむりやり鋳型にはめられ、薄っぺらなものとされている。それはたしかだと思う。そもそも沸き立つイメージがないまま流行語を羅列することだってある。

 これと似た体験がまだある。もう30年も昔、短歌を始めた頃のことだ。歌会に提出した歌の一つに、「みかんの花の白さ云々」という表現を用いた。すぐさま結社の主宰者が評を加え、「みかんの花は白いに決まっている。あえて白と言わなくても白のイメージは共有できる。冗長な上に、誰もが認めるありきたりの感慨をありきたりに詠んでいるだけ。これでは歌にならない」。手厳しい指導を受けた。

 ここでもやはり、固有の内面と、それを端的に表現する固有の言葉、その両面の大事さを教えられた。

 こうした視点に立つと、決まり文句やことわざを文章の修辞に使うことは、怖くてできないことになる。決まり文句によって概念は固定化され、それが安心と一種の普遍性をもたらしはするものの、現実に心の内部にわき上がっている思念は、ことわざや決まり文句で代表できる定型的なものであるはずはない。決まり文句が適切に使える場面というのは、それがよほど適切な場合なのだろう。

 とまあ話が冗長になったところで、団塊の世代に戻る。

 団塊の世代とは昭和22、23、24年生まれの人たちをさす言葉らしい。戦地からの軍人の引き上げは、早い人だと昭和20年のうちに、遅い人は21、22年頃まで続いた。ちなみに、私の父は南方での1年余りの捕虜生活を経て、21年12月25日、サンタのようなずだ袋を背負って母が待つ家に帰ってきた。クリスチャンの母は突然玄関先に立った父にキリストの似姿を見たという。

 男たちがどっと帰り、子供たちがどっと生まれ、というわけで、22、23、24年あたりがピークになったのである。

 私が生まれたのは23年。そのころの幼なじみのうち、いったい何割の人が今も命を保っているのだろう。ふとそんなことを考えてみた。一つ年上の隣の女の子は、子供を一人か二人産んだ後、30の声を聞かずに死んだ。やはり一つ年上で、毎日一緒に遊んだ筋向かいの大工の子供も二十歳すぎで死んだ。三軒東向こうの三つ年上のTさんは、すでに私が中一のとき死んだ。三軒西向こうの一つ年下の女の子は大変な不幸に遭遇したあげく、やはり二十歳代半ばで死んだ。

 団塊の世代だけに、同年代の子供はまだまだ大勢いたが、年を食ってからの人生は互いのやりとりの手段を失ったため、知りようがない。が、たぶんすでに3分の1はいなくなっているような気がする。

 いつも不思議に思うのは、僕らが子供だった頃の大人だ。近所の家はほとんどが職人か商売人だったため、彼らは日中も家にいて、常に僕たちの視野の中で僕たちに影響を与え続けて暮らしていた。彼らが僕らの全生活を支えていた。

 今は道路拡張で町は跡形もなくなったが、頭の中には鮮明に当時の町並みが焼きついている。 八百屋、荒物屋、うどん屋、ブリキ屋、大工、左官屋、貸本屋、米屋、薪屋(薪だけを売っていたわけではない)、豆腐屋、油揚げ屋(これが私の家)、クリーニング屋、駄菓子屋、自転車屋、植木屋、魚屋、定食屋、ラジオ屋(電気店などとは言わなかった)、ダンスホール、新聞配達所、たばこ屋、開業医、法律事務所…と、私の家があったせいぜい百メートルほどの町筋には、何種類もの小店があふれ、サラリーマン家庭はせいぜい数軒だった。

 どの家の大人もみな元気で活気にあふれ、家には年寄りもいた。

 こうした大人達が小川をさらえ、道路に水たまりができると砂利を入れ、ときには僕らのキャッチボールの相手もし、毎日生き生きと働いていた。

 その彼らが、今はもうどこにもいない。この世から消えた。これが不思議だ。「何が不思議なんだ」と問われそうだが、私には不思議でならない。あの活気ある世界が消えてしまったことが不思議だ。

 記憶とわずかな痕跡だけを残して、彼らはどこに行ったのか。

 130数億年前の、世の中が物質のない光だけであった頃の痕跡すら、我々は背景放射として見ることができる。100億年前の誕生間もない初々しい銀河すらも100億光年彼方に我々は見ることができる。わずか数十年前の姿をどうして我々は見ることができないのか。不思議だ。

 今ここに僕はいる。連続した時間を走り抜き、幼い日々の記憶を鮮明に保ち、僕は今ここにいる。

 これもまた不思議なことだ。夢のようだ。今が夢なのか、かつてが夢なのか。それすら定かでない。

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