2007年2月12日 | ||
ゆっくり自分の時間を持つゆとりのないまま、時はすぎ、いつしかもう2月も半ば。いつも何かに追い立てられ通しの生活から早く脱出したいと、毎日そればかり願っている。 今年は異様な暖冬だ。この時期、いつもなら僕はキューンの締めつけられるような寒気の中に早春の兆しを探して歩く。日の落ちたあと、少しでも風が吹けば、手先がかじかみ、耳が引きちぎられそうになる。そして、ぽわっと梅の香が漂ってきたり、ロウバイを見つけて花びらに鼻先をくっつけたり、シーンと静まった池で水鳥の夫婦がねぐらに急ぐのを眺めていたり、水面からいつしか光が消えて、気がつくと十三夜の月が面を照らしていたり、かすかに土臭い菜の花が数本、畦で僕を待っていたり。 寒が極まっているからこそ、それらは早春賦の世界を僕に切り開いてくれる。 今年はすっかりぬるまってしまった。喜びを感じる間もない春の訪れだった。それでも夕刻、西の空を見ると金星がきらきら金色に光っている。 金星はなぜか、遠い子供の頃から僕の友達、いや自分自身であった。地球の温暖化など知らぬ顔に、幾億年、幾十億年変わらない姿でお前はそこに在る。その不思議な存在感が僕をとらえる。肉眼にも、お前の三日月形がわかる。けなげに全天一の明るさでお前はそこに在る。燃えるように照っている。 昨日はよく晴れていて、ことさらきれいに照っていた。地平の薄紅色から天頂の深い青へとみごとなグラデーションを見せる夕刻のわずかな時間、お前は薄紅と青のはざまにただ一つの輝点として浮かび上がる。煌々たる一番星。 振り返ると、ほんの数刻のちには、天頂やや東がかった位置に二番星シリウスが顔を出す。よく見るとかすかにオリオンも浮かんでいる。三つ星とシリウスは、ほぼ一直線。太古の人もそこに同じシリウスとオリオンを見ていたはずだ。 人の時間のいかに儚いものであることか。星々はとどまることなく、激しいカオスの多体運動を繰り返す。それを人は全世代をかけても体感できない。切り取られた一瞬の中で人は生み、生まれ、何かを思い、何かを作り、そして次々に死んでいく。 今年は菜の花が早い。もうすっかり盛りである。水仙は盛りを過ぎた。でもまだいい香りを放っている、庭の水仙も野咲きのも。 歩いていると、僕は花という花に鼻先をくっつける。いい香りを胸一杯吸うと、何やら生まれ変わった気分になる。 清少納言が宮仕えを終え、ひなびた侘び住まいの中で過去の栄光に取りすがり、気位高く老いさらぼえて死んだのが、おそらく今の僕の歳。思うとちょっと悲しい。 |
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2007年2月20日 | ||
昨日の朝、近くのスーパーの横手にピンク色の寒桜が五分咲きになっているのを発見。毎年春を先取りして咲く桜だ。過去の日記を繰ると、いつもは3月10日前後。今年の暖冬の異常ぶりがわかる。 今日の勤め帰り、宮前川に出る手前の細い抜け道を走っていると、ふっと一瞬いい香りが鼻先をかすめる。とっさに、「沈丁花!」と頭の隅が叫ぶ。はたして沈丁花だっのか、確信はない。 そして夜、犬の散歩で近所の小路を歩いているとき、そういえばこの先に沈丁花があり、時期が来るといい香りを発するんだよなと、まるで他人に説明するように突然独り言つ。たぶんまだだろう。が、ひょっとすると、と思いながら、近づく。 そして驚いた。想像がまさに現実だった。近づくにつれ、昨日まではなかった香りがあたりを満たす。角にあるその家の塀は低く、背伸びしなくても沈丁花は目の高さ。いや鼻の高さだ。その時期が来るといつもするように、塀の奥に鼻を差し入れる。薄暗い闇の底に、ぼわっと沈丁花が浮かび出る。目の先、鼻の先。赤紫のぷつっと硬い花弁が闇をはんさで僕に対峙している。 香りがしみいる。肺の奥まで心地よさがしみいる。この沈丁花、例年より20日は早そうだ。 梅は今日が咲き始めというわけではない。しかし今夜、小路の入り口で梅が盛りを迎えていた。あたり一面、甘い香りが漂っている。かつてそこは梅畑だった。今は白梅を数本残すのみ。その白梅が、ふわっと綿の衣を着たように柔らかな白を身にまとい、甘い香りを放散している。みずみずしい純白の綿衣。 梅は長く咲く。だけど、今夜ほどに華やかに甘い香りを解き放つのは、真に勢いある今だけだ。梅の青春真っ盛り。 菜の花もそう。花びらに鼻を近づけるまでもなく芬々と土臭い香りが立ちこめてくる。 春だ。今年の春は何と早いことか。僕に生命の蘇りを知らしめる、僕の大好きな早春。冷え冷えした春。それを今年は味わう間もなく置き捨てた。すでにもうたっぷりの春だ。 二歳のあの、僕の記憶の始まりの春。南に面した磨りガラスに照る春。母の膝に抱かれ、初めて記憶に焼きつけたみずみずしい春の光。たぶん3月の朝。あれに似た光が、3月にはまだ間のある今、はやもう松山平野を満たしている。 月と金星の競演、これは昨晩と今夜。日の沈んだあとの西空は神秘だった。金星のぬめりとした金色は、いつ見てもぞくっとする。 |