不思議な出会い
2006年9月16日
 世の中に不思議な出会いは多いが、人付き合いの得意でない僕の場合、人との出会いというより、本との出会いに不思議を感じることが多い。自分の意志とは別の、何かある力が僕に、多くの本の中からその本を手に取らせる、そんなことがよくあるのだ。

 数日前にも不思議な経験をした。勤務先の学校の図書館でのこと。二階にキリスト教関係の本が集められている。何気なく手に取った本は「細川ガラシャ夫人」。開くとどうやら戯曲だ。

 偶然目に飛び込んだセリフが実に魅力的だった。
京原か。
はい。
この美しい蓮の花をごらん。朝の陽に輝いて、その気高いこと。かすかに香りまでたてて……。
まあ、花びらが、玉の露を宿して……幾つも幾つも、まるで奥方様のために、きそって咲いているかのようでございます。
けさの花は、また格別。泥水の中から咲きいでる身の、汚れもせずに、美しい色合いで、やがて、しぼまねばならぬ時もあろうに。
 言葉が澄んで魅力的だ。このまま書架に戻す気になれない。大切な本に出会った思いがした。腹の底がぐるぐると動き、一刻も早く落ち着いた場所で読みたい、そんな思いが突き上げてくる。ずいぶん古い本だ。全体が黄色く変色している。出版は1966年。40年前。

 その本を一方の手に握りしめたまま、館内を巡視する暇暇に書架の本をさらに物色していた。そして別の書架から、「人生の秋に」という随筆集を取り出した。なんだかこれも心惹かれる本だった。読もう。「ガラシャ夫人」と重ねて手にかかえる。

 こうしてその晩は、まず「細川ガラシャ夫人」を読んだ。読み始めて気づいた。著者はヘルマン・ホイヴェルス、日本人ではない。だのにどこにも、訳者が載っていない。どうしてだろう。裏も表も、あちこちひっくり返すが、訳者がない。そしてハッとした。これはヘルマン・ホイヴェルスが日本語で書いた戯曲なのだ。翻訳物ではないのだ。この驚くばかりにみごとな日本語が、外国人の手になるものなのだ。ガツンと頭を叩かれる思いがした。

 本体の戯曲部分は全体の半分、百ページ足らず。すぐに終わった。強い余韻が残る。翌晩、後半に付加されている当時のパードレ(神父)たちの書簡を読む。

 腰元の姿で屋敷を抜け出し、教会に駆け込んで教えを請うガラシャ夫人(細川玉子)に直接面会したパードレをはじめ、同時代のパードレたちがガラシャ夫人に関して記した書簡は、資料としても一級品だし、実に興味深い。

 ガラシャ夫人の末期の姿も、まるで新聞記事を読むようによくわかる。

 少し紹介しておこう。ガラシャ夫人が死んで間もなく出された「イエズス会年報」である。ガラシャ夫人が死んだのは関ヶ原の合戦前夜、年報は合戦直後。

 石田三成が大阪に残った諸大名の奥方を人質にとるべく細川ガラシャにも出頭を求めた。それをガラシャ夫人が断ったことで、主君のいない細川家に三成勢が攻め寄せた。その日のことだ。

 次のように記されている。
 ガラシャ夫人は真に召使いたちから慕われていたので、召使いたちが死の供をしたいと望んだのであったが、奥方は無理に命じて邸の外に逃げさせた。その間に家老小笠原殿は家来共と一緒に全部の室に火薬をまき散らした。侍女たちが邸を出てから、ガラシャ夫人は跪いて幾度もイエズスとマリアの御名を繰り返してとなえながら、手づから髪をかき上げ、頸をあらわにした。その時、一刀のもとに首は切り落とされた。家来たちは遺骸に絹の着物を掛け、その上にさらに多くの火薬をまき散らし、奥方と同じ室で死んだと思われる無礼のないように、本館の方に去った。そこで全部切腹したが、それと時を同じくして火薬には火がつけられ、これらの人々とともにさしもの豪華な邸も灰燼に帰したのである。
 ガラシャ夫人の命令によって邸の外に逃された侍女のほかは、誰一人として逃れようとした者はなかった。これらの女たちは泣きながら、パードレ・オルガンチノのもとに行って、この事件のいっさいを知らせた。その報知を得てわれわれは非常に悲しみ、かくも人の鑑として、とくに改宗してからはまれに見る徳の高い、高貴な夫人を失ったことを非常に悲しんだ。
 また、次のような記述もある。
 翌早朝、オルガンチノ神父は、愛する奥方の遺骸を探しに出かけた侍女たちに加わって、まだくすぶっている廃墟へと赴いた。彼らは遺骨を壺の中へ恭しく集め、これを教会へ携えて弔う準備をした。
 瞬くロウソクの真ん中には、ローマ字で鮮やかに「ガラシャ」と描き出され、花で縁取られた額が飾られていた。遺骸はオルガンチノ神父が荘厳な鎮魂曲を奏でる中に安置された。葬儀の翌日、埋葬に際して捧げられた「天に向かって」の聖歌は、悲しみに閉ざされたガラシャの生涯の伴侶たち(侍女たち)の心にかつてなきまでに美しい響きを与えた。
 ガラシャ夫人について長々と述べたが、「本との不思議な出会い」にまだ触れていない。

 「ガラシャ夫人」を読み終え、続いて、それと一緒に借りた「人生の秋に」に取りかかったとき、僕は驚いてしまった。背筋がぞくっと凍りついた。

 「人生の秋に」の著者が、なんとヘルマン・ホイヴェルスだったのだ。その瞬間まで、同じ著者の本だとは、よもや思わなかった。まったく別の書架から偶然引っ張り出し、手にするやいなや、2冊とも、「これは読まねば」と僕を強く突き上げた。誰かが僕にささやいた。そんな気がする。不思議なことだ。

 ヘルマン・ホイヴェルスは、1890年ドイツに生まれ、1923年来日、上智大学で教鞭を執る。日本に来てちょうど1週間後、関東大震災に遭う。その後、1977年までの54年間、日本で宣教し、文筆面でも活躍した。こういう人だ。

自然のいのち
2006年9月18日
 台風一過のさわやかな秋晴れ。と言うとあまりに平凡だが、その平凡さがピタリとあてはまる平凡な秋晴れだった。

 地平線には台風の名残の雲。頭上の空は紺碧。染み通るように澄んだ空から、秋とはいえまだまだ力ある光が降ってくる。

 重信川に出かけてみた。ジョギングを日課にしていた頃、この土手はわが庭であり、雄大な緑の光景は日常の暮らしの一コマであった。いまは、出かけると、「やあ久しぶり」という感覚で迎えられる。

 トンボと蝶が群れ飛んでいる。蝶は、黄色いのからアゲハまで、いろいろ。トンボは夕日が似合う赤とんぼ。人の気配を気にかける様子もなく、すいすい飛んでそれぞれの仕事にいそがしい。

 足元を見ると、バッタ。緑ではなく、茶色。ショウリョウバッタというのか。思わず踏みつぶしそうになる。

 桜の若木ではツクツクボウシが激しく鳴く。右からも左からも…。真夏のミンミンゼミのように空間に充満した傲慢な音量ではない。こちらで一匹、あちらで一匹、そんな感じで心地よく、しかし精一杯の力で、彼らは鳴く。

 久しぶりに生き物の命を感じた一日だった。

 水も生きている。重信川は天井川で、水はたいてい伏流し、滅多に表面を流れない。少なくとも僕の住む中流域ではそうだ。台風の雨(といってもわずかなものだった)が、珍しく水をきらきら光らせていた。泥色になるほど降ったわけではない。伏流水が地下から湧き出した、そんな印象の澄んだ流れだ。

 人もいる。虫採りアミをもった小さな子供連れの家族が一組。ローラースケートの若者が一人。散歩の老人が一人。自転車ですれ違ったのが二人。まあ閑散とした自然だけの世界ではある。

風を切る快感
2006年9月24日
 何年ぶりだろう、先日から軽いジョギングを始めた。今日が三日目だ。風を切る感触が懐かしく、本当に涙が出そうに嬉しい。

 思い起こせば、ジョギングは25歳のとき始め、25年間走り続けたことになる。テニスは30歳で始めて20年。水泳は40歳から始めて10年間。それらすべてを50歳で捨てた。捨てざるを得なかったのだ。50歳の声を聞いてほどなく、持病であった腸の病気が悪化して瀕死の重症となり、その後2年間は、入退院を繰り返す羽目になった。最後の3度目が最も危ない状態だった。

 病状が悪化していた2年間のうち、勤務したのは1年目の年度初めの10日間と、9月から12月までの4ヶ月だけだった。年が明けた1月には最悪の状態になり、3度目の入院となった。それから春が来るまでは、文字通り生死の境をさまよい続け、その後持ち直したものの、2年目は丸々一年間休職した。

 元気になってからも無理はできず、運動は散歩だけとなった。元気というのは表の一面で、微妙な周期ですぐ悪くなる。いつなんどきも体の具合に気を遣わないことはなく、油断するとあっという間にぶり返す。油断も隙もならない執念深い病気である。原因も治療法もいまだに不明の難病なのだ。

 仕事に復帰して6年半、このところようやく少し体に自信が出てきた。1週間ほど前の台風一過の秋晴れの心地よい日、重信川の土手を歩いた。かつてよく走った道だ。土手の芝草を踏む感触が懐かしい。

 その懐かしさが突如、走ってみたいという気持ちに変わり、秋晴れが続く中でそれはどんどん成長していった。ついに3日前、思い切って走ってみた。すっかり忘れていた風を切る感触。「ゆっくりゆっくり」と自分に言い聞かせつつ走る。

 初日はせいぜい7、8百メートル。二日目と今日は1キロ半ほど。ジョギングと呼べる距離ではない。途中で倒れたらどうしよう、心配しながら走る。でも走っていると、みるみる心肺機能が復活するのがわかる。つまっていた栓が開き、心地よく何かが流れ出す。そんな感覚である。

 これからも体調が許す限り、週に1、2度、休日ジョギングを楽しむことにしよう。ゆっくりと、短い距離を。かつてのようにタイムを気にしたり、距離をみずからに課したりすることは、もちろん禁物だ。

 吉川弘文館人物叢書の中から、「シーボルト」と「ヘボン」を読んだ。どちらも幕末の日本に多大な影響を残した人物だ。特にヘボンの、名誉も金も求めないひたむきな働きに頭が下がる思いがした。シーボルトには名誉欲や金銭欲がないとはいえない(事実、日本においても故国ドイツにおいても、それらすべてをあり余るほど手にした)。それに引き替え、ヘボンは私財をなげうって日本宣教のレール敷きに専念した、そんな印象だ。

 二人から、目的を明瞭に見据えたひたむきな研究者の姿勢を学んだ。

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