あまりありがたくない新年
2006年1月14日
 冬休みなんて、すんでしまえばあっという間だ。しかも今回は例年より短く、正味2週間ほどだった。「贅沢な」と思われるかもしれないが、教師というストレスの多い仕事で心身をリフレッシュするには、これでは少々短い。

 しかも、休みの始めには将棋の四国大会があった。11月の県大会で、わが部から3人もの生徒が県代表になったため、一泊二日で坂出まで出かけることになったのだ。大会は12月24日と25日。世間の暦ではクリスマスのはず。こんな日に大会を組むなんて、どう考えてもアンビリーバブルだ。

 自分が勝負をするわけではなく、ただ見ているだけ。大会の引率ほど疲れる仕事はない。考えてみると、囲碁や将棋の大会でいったいこれまで何回生徒を引率したことだろう。ざっと計算して、県大会が80回ほど、全国大会が30回ほどになろうか。全国あちこち旅行できていいとも言えるが、あくまで生徒の引率。自分の旅行ではない。楽しみよりも気疲れの方が大きい。

 自分の試合ならともかく、盤のそばで生徒たちの勝負を見つめるだけの引率には、そろそろ忍耐の限界が来つつあることを痛感する。

 正月も、はや2週間が過ぎた。この歳になると、正月なんてありがたくない。不思議なことに、今年は新年を迎えても晴れやかな気持ちにすらならなかった。なんでだろう。老化の端緒かもしれない。

 ずっと本を読んでいた、年越しも、新年もなく、休みの間ずっと本を読んでいた。それが新年の実感を味わいそこねた原因かもしれない。この冬は英語の原書に挑戦し、といっても難しいのはダメなので、LAURA INGALLS の "LITTLE HOUSE IN THE BIG WOODS" とか "LITTLE HOUSE ON THE PRAIRIE" とか "THE FIRST FOUR YEARS" とかの、いわゆる「小さな家シリーズ」を読んだ。慣れるにつれて、辞書を引く回数が減り、1分間に読める行数が増える。達成感があって楽しいものだった。出版されている彼女の作品は9作ある。まだその全部を読んだわけではない(日本語訳としては読んでいるのですが)。

 休みが終ると途端に忙しくなった。実力試験の採点があり、宿題のノートチェックがあり、もちろん授業があり。息つく間もなく働いて、やっと今日、目の前にのしかかっていた当座の重荷からは解放された。

 こんなことの繰り返しでただ歳をとるのはいやだ。その思いを、この新春、さらに新たにした。学生時代の友人が、「学部長になった」、「学会の会長になった」、「長年の研究が実って賞をもらった」と、年賀に書いてくる。ジェラシーを感じないと言えば大嘘になる。僕とはもう住む世界の違ってしまった彼らではあれ、下宿でいつも人生を語り合った間柄のその連中が、こうしていま実りの秋を迎えていることを思うとき、ぼんやりやり過ごした僕の人生を涙で悔いないわけにはいかない。

古巣に戻って…
2006年1月26日
 昨夜、古巣に戻った懐かしさで、市民コンサートを聴きに行く。数年前までは職場に市民コンサートのグループがあった。年に6回のコンサートは欠かさず聴きに行っていた。ところが時は無情。避けようのない高齢化の波がグループを襲い、1人2人と定年でメンバーが去っていく。気づいたときにはグループの維持すら困難な人数になっていた。「そろそろ潮時だな」、そう言ってグループを解散したのが3,4年前。以来、市民コンサートからは足が遠のいていた。

 昨日はたまたま知り合いの会員に急用ができ、「行くのなら貸してあげますよ」とかかってきた電話に一も二もなく食いつき、会員手帳を借りて参加したのだった。

 市民会館中ホール。こじんまりしたコンサートだった。なかなかよかった。渡辺玲子のバイオリン、江口玲のピアノ。二人とも僕にとっては初めての人。普段はアメリカで活躍している人のようだ。

 バイオリンは低音も高音も力強く、繊細で、気持ちよく響く。ピアノの調子もよい。

 プーランクのバイオリン・ソナタ、ファリアのスペイン民謡組曲、バルトークのラプソディー第2番、フランクのバイオリン・ソナタ。これがプログラム全曲。

 緊張感を維持して聴き入った2時間弱だった。終ると、ふっと夢から醒めたように解き放たれる。幻覚の音空間に包まれていた。すばらしかった。

 昨日はその上、お初のものがあった。車を買い換え、届いたばかりの新車を初めて運転して出かけた行き先がコンサート会場だったのだ。燃費の悪い大きな車をやめ、中型車に換えたのだ。たくさん飼っている犬を連れてどこかに行くのに都合がよかろうと大きな車にしたのだが、結局その大きさを活用したのは数回。たいていは一人で乗るだけ。ガソリンばかり食ってもったいない。その上クッションが硬くて乗り心地が悪いし、…。高い買い物だったな。

 10万キロ近く走った。もう買い換えても車は文句を言わないだろう。観念してくれるだろう。でかい車にはおさらばだ。

 そう思って車を見に行った先日、店先に並んでいた中型車に一発で飛びついた。これぞ望んでいた車、そんなテレパシーのようなものを感じた。他のを見もしないで、即、契約してしまった。だいたい僕にはいつもこういうところがある。

 わずかな原稿料で頼まれていた原稿に正月以来取り組んでいた。それをようやく終えたのも昨日。ほっとする瞬間を味わうことができた。1週間ほど寝かせてもう一度読み直し、手直しすれば完成。

 この冬は案外、春の兆しが遅れている。いつもなら梅が芽を出す頃なのに、蕾はしっかりと堅い。12月の寒波が梅のガードを固めさせたのかもしれない。

シリウス
2006年1月29日
 星を見ているとなぜだか落ち着く。星は誰もの所有物であり、誰の所有物でもない。見る人の所有物だ。見る人の気分にしたがい、見る人の内面のありようをそのまま映す鏡だ。

 いまは夕空から金星が消えた。火星はずいぶん小さくなったがまだ健在だ。

 秋が深まった頃、夕方東の空を見るとオリオンが地平に這いつくばっていた。カニが空にへばりついて、必死に落ちないように踏ん張っている、そんな姿だった。ぞっとするほど存在感があった。巨大なカニだった。ある日それに気づいたとき、空の魔法にかかったような気がした。空が生きていると感じた。

 子供の頃よく夢で見た、地平に沸き立つ銀河のように…。それは人の姿であったり、アヒルのようであったり、駆け抜けるジャッカルのようであったり。誰が煌々たる銀河を操ってそれを描いたのか、その力と、美の意志と、それの存在に僕は息を呑んだ。ありえるはずのない宇宙の意志を目の当たりにして、誰にもこれをしゃべってはいけないと僕は自分に誓った。夢から醒めた後も、全身が震えていた。

 一月末、オリオンは東の夕空にすでに高い。その三つ星の下、地平に近いあたりにキラキラ輝く一番星がある。シリウスだ。恒星の中では全天で最も明るい星とされている。金星が消えたいま、僕の夕方の散歩の楽しみは、シリウスに会うこと。

 ああ今日も見えた、キラキラとまたたきながら今日もそこにある。昇ってきたばかりのみずみずしさでそこにある。空を見上げて、その存在をたしかめて、僕にチカッとウインクで応えるようなそのまたたきを僕は見つめる。シリウスに会うと、子供のように安心する。

 シリウスよ、君はいったい幾人の人間を見つめてきたのか。君を見上げて昼間の苦悩を癒した人は幾人いるのだろう。

 太古の太古のその昔から、人はおそらくキラキラ輝くシリウスを知っていた。その輝きに力を見た人は幾万もいる。

 娘が結婚しようとしている相手の父親と今日初めて会った。「娘さんを頂くことになって」と、開口一番向うさんは言う。何? いただく? これは見解の相違だ。差し上げるとは僕は考えたこともなかった。まあいいさ、なるようにしか事は運ばないもの。世間の常識ではこれを差し上げるというらしい。

 こんな事のあった晩、シリウスはやはり煌々と輝いていた。小さな苦悩をシリウスにそっと告げる。シリウスは何も言わずウインクを返した。

 よしもとばななが繰り返し繰り返しテーマとしている、死との同居、死を乗り越えて生きる人のいのちの気高さ、はかなさ、けだるいような哀しいような、雲の上にいるようなふわっとした未来への希望。星はそうした人がもつ生と死を、連綿と続く一つのいのちとしてしっかり見つめている。その一つながりのいのちを一つの瞬きの中に見ている。見ることのできる存在、それが星だ。シリウスの目に僕の小さな苦悩は、やはり小さな苦悩なのだろうか。

 どうってことないさ、ね。僕とシリウスの目が会った。

生きていく日々 メニューへ
坊っちゃんだより トップへ