五十代は第二の人生?
2005年11月3日
 夏以来、なんだかすごく勉強意欲が湧き、というか、長い不勉強と怠慢にようやく気づき、学生時代に戻って勉強してみたいと、そんな気持ちで夏から秋へ、気づくと「坊ちゃんだより」からもずいぶん長く御無沙汰であった。

 そうそうこれが自分の持ち場だったと、今日突然、目覚めたように思い出し、再び「坊ちゃんだより」を続けねばと、新たな旅立ちへ。

 思えばこの2ヶ月、試験やらレポートやら、そんなこんなで追い立てられ通しだった。文字通り学生になっていた。何とレポートを10本書いた(よくやったものと自分でもあきれる)。試験を1つ受けた。これから先、何年も、こんな生活が待っている。波の向うに何があるのか、楽しみな日々だと言っておこう。

 勤め先の学校では、生徒達を相手に、楽しくもあり、辛くもあり、苦しくもあり、ときには意欲の漲ることもあり、悄然と落ち込むこともあり、やめたいと思うこともあり、朝が来ればけろりと忘れて忙しさに自分を追い込むこともあり、人なつっこい彼ら・彼女らを見ていると煤けた心が濾過され澄んでいくこともあり、我慢ならず怒りをぎゅっと噛み殺すこともあり、挙げ句に所詮は坦々たる日々、変わらない日々。

 昔ならとおに定年だ。だのに今はまだ残す日々が5年と少々。それをただ坦々とやり過ごしていいのか。そのときをただ待つ日々をおまえは自分に許すのか。五十代は第二の青春、誰かがそんなことを言っていた。折り返し点を過ぎ、人生の新たな出発。

 後悔ばかりの過去にも、希望の風船の一つくらいは破れずに残っている、それを探しておそるおそる息を吹き入れてみよう。朽ちて裂ければそれもよし。膨らんでくれればそれもよし。

 おそる、おそる、息を、吹き、入れる。

 これが希望なのだ。希望ぱ結果ではない、過程だ。

 とまあこう言いたいのだ。が、気張るのはやめにしよう。気張っていいことは一つもない。

 今日は曇り空。朝のうち少し雨が降った。庭のキンモクセイは、10月初旬に一度咲き、いい香りを放ち、そして散り、10月下旬、再び咲いた、もっともっといい香りで。それも今は散りはじめている。時はこうして移ろうのか。昨日は、数年来お世話になり続けた人が亡くなった。多くのことを教えてもらった。その人から学んだことを、今朝、思い出すまま書き挙げてみた。あまりに多くて、とても思い出せない、書き尽くせない。次から次へ、たちまちノートは一杯になる。それでも足りない。

 毎日、日が沈むのが楽しみだ。日没直後、6時から7時、空には壮大なパノラマが展開される。西には巨大な金星が涙に潤んだ光を放ち、東には燃える火星があかあかと炎を上げる。こんな贅沢な宵はない。いやでも僕を外に連れ出す犬どもに感謝だ。たっぷり1時間、毎夕僕は空を見上げて、犬と一緒に幸せにひたる。

重い荷物
2005年11月4日
 昨日亡くなったT氏。僕にとっては最晩年の6,7年をおつきあい願ったにすぎない。わずかな歳月だったが、実に多くを学ばせてもらった。それまでまったく無縁だった演劇の世界を垣間見させてくれたのもT氏だった。あるクリスマス・ページェントで何を思ったか端役をやらされ、その演出がT氏だった。演劇という、作り上げていく虚構の世界のあやしげな魅力のほんのホンノほんの一部を体験させられた。T氏からの大切な贈り物だ。

 裏方での照明や音響の技術も教えられた。床へのコードの張り方から、マイクのセッティング、照明器具の操作。さらにはマスコミ回りの宣伝、何から何まですべてを教えられた。

 今日の葬儀の弔辞を聞き、T氏のかつての活躍ぶりを知った。僕が接したT氏は、人生に達観し、枯れた優美さを示し始めてからのT氏であった。どろどろした闘いの中に輝くT氏はもうそこにはなかった。その頃の姿を、今日初めて知った。

 愛媛に劇団を立ち上げる、それがT氏の若き日の夢であった。いくつもの脚本を書き、それを演出し、若者を指導し、全国レベルの大会で上位入賞を果たす。T氏の夢は苦闘の末に実ったのだ。

 劇団は今も次世代に引き継がれ、続いている。

 今日はまた、別の一人が亡くなった。「口だけ達者なお喋りおばあちゃんよ」と言いながら、僕とよく長話をした女性。その人とのつきあいも5年ほど。主流には決して身を置かず、常に野にあって自由にもの言う、そんなおばあちゃんだった。それが僕と気の合う所以でもあった。

 いつもにこやかで、それでいて言うことは結構きつい。痛烈な社会批判、聞いていてこれくらい愉快なことはない。権力や金銭関係のしがらみから解き放たれているから、あらゆることに自由なのだ。憲法、靖国、イラク、…。滔々としゃべるおばあちゃんだった。たいていは僕もそのまま同感できる、若々しいおばあちゃんだった。

 最後にしゃべりあったのは40日前。あれが最後になった。まだまだ元気に見えたのに、体はすっかりガンにむしばまれていた。そう言えば自分でも「私って、しゃべっていると元気になるのよね。意外に若く見えるでしょう。だけどもうすっかりガンにやられているの。ガンにおかされたお喋りおばあちゃんよ」そんなことを言っていた。「冗談でしょう」僕が言うと、にたっと笑って話題を変えた。

 みんな最後は、物言わず僕から去っていった。重い重い記憶という荷物を僕の首に引っ掛けて、彼らはあっけらかんと彼の国に去っていった。

散策
2005年11月6日
 昨日、ほかほかと暖かな秋の日差しを楽しみながら、松山・城北方面の史跡巡り。一行は、生徒数名、案内をお願いした先生、それと僕を含めた二人の付きそい教師。

 コースは懐かしの我が家の近く、上一万界隈の辺縁部だ。子供のころの遊びの圏内だ。このあたり、今も時たま車で走り抜けることはあるが、ゆっくり歩くことなど、もう何十年ぶりだろう。

 日赤前で市電を降り、北に向けて歩く。左に愛媛大、右に日赤病院。病院の北隣が東雲小学校。六年間通ったわが母校だ。門から見るグラウンド、体育館、校舎。塗りかえられてはいても、昔のままだ。当時としては珍しい鉄筋三階建ての校舎が向かい合って二棟あった。あるある、そのままある。四十数年の昔とちっとも変わらない。

 変わったのは僕だ。そこで暮らし、泣き、笑い、遊び回ったかつての僕はもういない。客体として「見る」僕が校門を外から覗き込んでいる。茫漠とした時間の霞の奥に、ロクボクにぶら下がる僕がいそうに思えて、…。

 一本道が北に突き当たると護国神社。境内左手に、万葉苑がある。万葉集に出てくる草花が出典の歌とともに並んでいる。昭和42年にできたもの。道理で子供時代の記憶にないはず。

 万葉苑の奥まった所に、「熟田津爾船乗世武登月待者潮毛加奈比沼今者許芸乞菜」(熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな)という、額田王の歌碑がある。万葉集元暦校本(1184)の文字をそのまま刻んだ歌碑とのこと。

 661年、新羅との戦いで九州に向かった斉明天皇が、途中しばらく道後温泉に遊んだ。何日かして、ふたたび船で出立しようとしたとき、額田王がこの歌を詠んだのだ。

 案内の先生から歌の読み方など講釈を受け、次の目的地、一草庵へ。

 一草庵は、漂泊の俳人・種田山頭火が晩年住んだ庵だ。昭和14年、57歳になった山頭火は、長い長い旅路の果てにここを終の住処に定めたという。「濁れる水のなかれつゝ澄む」という句碑が立っている。

 続いてロシア人墓地へ。途中、千秋寺など、いくつかのお寺の歌碑・句碑を見つつ、情趣たっぷりの樋又川沿いに歩く。僕にとって思い出の多い川だ。このあたり、子供時代にはまわりはすべて田んぼだった。

 晩春のある日曜日、友達数人と魚採りに来た僕が川のそばに立っていると、一人の友人が麦畑の畦を分け入った。何気なく見つめていた僕の視界の先で、その友人は突如姿を消した。すっと消えたのだ。「あれっ」と見るうち、やがて頭が現われ、体が出てきた。そして「うわあーっ」と泣き出した。野壺に落ちたのだった。

 ロシア人墓地は見事に清掃されていた。塵一つ、砂粒一つない。近くの小学生が、当番で掃除しているらしい。

 百年前、ロシア戦争の捕虜が松山に集められた。数千名のロシア兵がお寺や公民館に収容された。自分たちの肉親を殺したかもしれない敵兵であるにもかかわらず、松山の人は、彼らを手厚くもてなした。捕虜というよりは、お客さんであった。収容中、病気や戦傷で死んだ兵士がこの墓に埋められた。後にロシア人墓地と呼ばれるようになった。

 再び市電に乗り、古町で降りる。阿沼美(あぬみ)神社と庚申庵へ。庚申庵は、栗田樗堂(ちょどう)という江戸中期の松山の俳人が建てた庵だ。空襲からも地震からも火事からも不思議に守られ、当時の姿を今に残している。建てられたのは樗堂52歳の時(1800年)。荒れ果てていたのを松山市が数年前に解体・修理し、当時の姿を再現した。使われている木材などは、当時のままである。

 樗堂たちが俳諧に興じた座敷でお茶をいただき、樗堂の視線で庭を眺めてお開きとなる。

 2時間余りの散策だった。付きそいの僕にはとても興味深い内容だった。が、一緒に歩いた高校生には果たしてどうだったか。今ひとつ興味薄か。ノリが悪かった。冷めた気持ちで後ろをぞろぞろついてきた彼ら・彼女ら。旧跡巡りなんて、そもそもはじめから高校生には縁遠く、興の乗らないものであったのかもしれない。

 昨日の好天はどこへやら、今日は一転朝から雨。しとしとと暖かな雨。

職人芸
2005年11月12日
 昨日、鍛冶師・白鷹幸伯さんの話を聞く。白鷹さんは、「千年の釘」で、薬師寺の修復・再興に貢献した人だ。再興した建物は、次には千年後に解体修理されるという。その日まで錆びずに残る釘、それが「千年の釘」だ。

 この業績によって、吉川英治文化賞や建築学会文化賞を受賞した。

 伺えば伺うほど、白鷹さんがただの鍛冶師でないことが見えてくる。情熱的な職人であり、鉄の研究家であり、古代史のプロであり、古代の風を腕と肌で感じとることのできる超越人であり、文明批評家であり、ロマンの人であり、平和を愛する人であり、…。

 白鷹さんが職人の腕を発揮する場は、学者の机上の計算からは「不可能」という結論しか出ない世界である。錆びない、衝撃で折れない、堅い材木に打ち込んでも変形しない、中心軸の狂いのなさ、これらをすべてクリアーする釘を試行錯誤で作り上げるのに二十年を要した。素人目には、単純に硬ければ硬いほどいいのではと思われるのだが、硬すぎると衝撃でぱりっと折れる。粘りが出すぎると、変形する。二律背反の間隙を縫う綱渡りのような職人芸。その上、至上命題たる決して錆びない工夫。

 話の最後に、時代物の木のふいごを見せてくれた。

 「鍛冶師の命なんです。火事になれば真っ先に抱えて逃げないといけない。だから、両手で抱えられる大きさに作られている。」

 見かけはただの木箱だ。

 「これが、改良に改良を重ねた末に最後に行き着いた最高傑作なんです。これ以上のものは作れない。箱はいっけん直方体に見えるでしょう。ところが、部位ごとに微妙に幅が違う。それが使うときの力の入れように影響する。使った人でないと何を言ってるのかわからないでしょうが、これは二つとない最高のふいごです。」

 「技術は計算ではない。職人芸は計算をはるかにしのぐものです。」

 生徒達と一緒に話を伺い、目から鱗が落ちるのを感じる。

根岸の子規庵へ
2005年11月14日
 昨日は朝一の飛行機で羽田へ。そしてリムジンバスで幕張まで。私用ではあるが、自分にとっては将来を左右しかねない大事な会に出席。結果は大満足。成功といえる。一つの道が開けてくるのか。
(子規庵玄関)
(幕張のフリーマーケット)

 帰りの最終便まで間があったので、根岸の子規庵を訪れる。鶯谷で降りれば近かったようだが、それを知らず、上野から歩く。地図を片手に2,30分歩くうち、ピンク色のあやしげな看板が立ち並ぶ一角に、子規庵は古色蒼然と鎮座していた。狭い路地の曲がりくねった奥だ。

 着いたのは3時40分。受付の女性に聞くと、4時に閉めますとのこと。門前払いを食らう寸前だった。

 「病床六尺」その他で、子規の家は僕の頭の中に、見てきたようにイメージされてはいた。子規が縁側に座っている写真とか、子規の死後、母親や妹の律さんが縁側で庭を見つめている写真とか、そんなのもたびたび目にしていた。

 だけどやはり、百聞は一見にしかずとはよく言ったものだ。この部屋が、子規が病床にあって物を食い、眠り、仰向けになって新聞を読み、横になってものを書き、肘をついて庭を眺めた、その部屋かと思うと、何とも言えず懐かしく、目が涙で曇ってくる。

 庭の売店で本と絵はがきを買い、裏口から出る。わずか20分ほどの子規との邂逅、100年を隔てた子規との邂逅。前世に戻ったような懐かしい邂逅。

 昨日という日は、僕にとって私的に重大な一日だったようだ。

おぼろ月
2005年11月17日
 いつもなら煌々と空に異彩を放つ火星と金星、今宵はすっかり影をひそめ、雲の奥に潜んでいる。ちょっと寂しい夜だ。

 とはいえ今夜は十六夜。厚い雲をかすかに透かして、まん丸な月がかすかに在処を証している。横縞が何層にもにじみ、磨りガラスを重ねた先から届く輪郭のない光のように、ただ薄ぼんやりとそこに何かがあることを予感させる明り。それを月だと信じることをためらい、疑いつつ、空に浮遊するかすかな明かりの移ろいを見守る。

 徐々にそれは明るみの輪を広げ、ほの青く、いまだその真円の形態を顕わにはせず、にじむように縞を作り、幾重にも明暗を重ね、空の一点をゆるやかな時の流れとともにかすかに押し広げ、何ものかのそこに在ることを、感性が注視しうる極限の変化率をもって、証ししていく。

 飽きず眺める目の先で、フォルムを現すことはついになく、それはにじんだ薄紫のまま天空を昇り、淡い微光を刻々と白熱させる。

 濃縮した緊張感。沸々とたぎる何か。一点に漲るエネルギー。

 7時を少し回った宵の口。人のせわしないうごめきの彼方で、時と光と真円の実在が、悠久の真理を背負い、悠久の時を翔る。変化と動きは一つの真理を背負うとき、無限の静と寂しさに帰一する。

 いや、心は何となく嬉しい、ここ数日。つまりかかった血管が開き、景色は銀杏の金色。

 忙しい一日だった。会議が1時間、授業を4時間、その上、補習が1時間半。働きづめの一日から解き放たれたときには、外はもう薄暗い。

 だが、僕の心のうちには濃縮した緊張感。沸々とたぎる何か。一点に漲るエネルギー。

 ああ、そんなふうでありたい。

五十年も生きていれば
2005年11月21日
 もう早や二十年近い歳月が流れただろうか、毎年この季節、11月の下旬になると愛媛県高校総合文化祭囲碁・将棋大会がある。会場は県民文化会館。いつも変わらぬ紅葉の盛り。不思議なことにこの日が雨になることはない。秋晴れの青空と、欅だろうか色づいた大樹の葉が、ときにはあたりに舞い散り、ときにはたっぷりと枝々を埋め尽くし、今年もよく来たねと、僕を迎えてくれる。ああ、また一年が巡ったかと、二階ロビーの大きなガラス窓越しに大樹と向き合う僕。

 一昨日、再びその日となる。一年の時の流れを一瞬に濃縮したように窓から外を眺める。ああ、 すべては変わりない。一年前も、二年前も、三年前も、十年前も、十五年前も、この日この時、窓から見える風景に変わりはない。木々の葉が色づき、空は青く晴れ、高校生が群れあふれ、僕は審判長などと呼ばれて立ちっぱなしで囲碁会場の碁盤を巡る。すべてが十年一日のごとし。

 変わったのは人だ。数年前まで高校文化連盟囲碁部会で苦楽をともにしてきた各校の囲碁部顧問の先生は、一人抜け、二人抜けして、今や一人もいなくなった。仲間意識の強い集団だったが、気がつくと現役で残っているのは僕一人。すっかり人は一新され、僕が最ベテランになってしまった。

 窓から外を眺める僕は、紛れようもなく老いてきた。僕が抜ける日も遠くない。内面意識はまだまだ未来に向かう火を絶やしていないつもりでも、外から見ればもうすっかり、なすことを終えて終焉に向かう老人だろう。

 「人間五十年も生きていれば、誰でも自分の顔に満足と自信めいたものを感じるようななるもの」、誰かがそう言うのを聞いた覚えがある。信じられない。戦い終えた安堵の満足ということだろうか。僕にはとてもそんなこと信じられない。見苦しくて、僕は鏡で自分の顔など見ていられない。なすことをなさずにここまで来た後悔が、僕に満足など与えない。

 参加した生徒達は真剣だ。残念ながら今大会では、来年の全国大会出場枠である上位2名には誰も入れなかった。が、一人があと一歩の3位となり、四国大会出場枠の上位7名には、わが校から3名入った。顧問が何もなしえなくても、生徒達は入れ替わり立ち替わり、毎年よく頑張ってくれる。教育というのは、教師が何かをなして成立するものではない。近ごろますますそれを強く思うようになってきた。

 午後七時、今日もまた金星と火星のすばらしい競演に見とれる。昨日は金星は厚い雲にはばまれ、火星はおぼろだった。

金星のこと、突然の発熱のこと
2005年11月23日
 このところずっと夕空の西と東に金星と火星を「両手に花」で楽しんでいる。この金星、12月9日には最大光度を迎える。今でも金星は十分明るい。少々の薄雲なら透けて見えてしまう。最大光度になれば、昼間でも見えることがあるという。

 とはいえ、金星が夕空に見えるのはあとひと月ほどだ。1月には内合点を通過していったん姿を隠し、やがて明けの明星となる。宵の明星がふたたび楽しめるようになるのは来年秋のこと。私は朝は苦手なので、明けの明星は楽しめないのだ。

 金星は肉眼では丸く感じられるのだが、望遠鏡で見ればたいていは欠けている。最大光度時の金星は三日月形だ。三日月形のときに最も明るくなるというのは不思議な気もする。地球から金星までの距離の違いがそうさせるのだ。最大光度時には三日月形になるといっても、照っている部分の見かけの大きさは、たとえば外合点にある満月状のときよりも大きいのだ(地球からの距離が違うから)。

 見かけの面積が大きいほど、それに比例して金星は明るく見える。その理由を考えてみた。金星の公転軌道はほぼ完全な円である(離心率はほとんどゼロ)。従って、太陽との距離は不変となり、金星から反射される光の強さは金星の位置にかかわらず一定である。だとすると、金星の見かけの明るさは地球と金星の距離の2乗に反比例し、照っている部分の割合(輝面比という)に比例する。一方、金星の見かけの直径は距離に反比例するから、欠けていない円としての見かけの面積は距離の2乗に反比例する。以上をすべて考慮すると、金星の明るさは照っている部分の見かけの面積に比例することがわかる。そんな理屈を用いて計算した結果、12月9日に最大光度となることがわかるのだ。

 とはいえ、最大光度になったときには今よりも日没時の高度が低いため、目には今ほど明るく感じられない可能性がある。いかにも金星らしいキラキラ、ヌメヌメした輝きは今が一番の楽しみ時なのかもしれない。

 それはそうと昨日4時前のこと、図書館のいつも仕事に使っている部屋で、仕事をしようとイスに座ると、なんだか突然体が震えだし、ぎゅっと力を入れて歯を食いしばっていないと体が崩れてしまいそうになる。腕とか腹とか背中とか、全身の皮膚がひりひり痛んで小刻みに震える。こんなことは今までにない。ただじっと力を入れて身を縮め、耐えているのみ。

 心臓もどきどき脈打っている。どこと特定はできないが、体のあちこちから不快感がこみ上げてくる。このままどうにかなってしまうのではないか。意識を失って倒れている自分が恐怖のうちに何度も頭に浮かぶ。額に手を当ててみるが、熱はさほどに感じない。でもこれはきっと高熱だ。掌も一緒に熱くなっているから感じないだけだ。体の震えが止まらない。唇もぷるぷる震えている。

 治まるのを待ってしばらくじっと身を震わせていたが、一向に治まる気配がない。

 数学科の会議が予定されていた。でも、これではとても出られない。出られないことを言っておかねばと、数学研究室まで歩くが、途中、足が震え、唇が震え、前に進めない。ようやくたどり着いて事情を話して帰路につく。

 車が運転できるか心配だったが、なんとか帰り着く。家内はおらず、布団に潜り込む。しばらくして家内が帰り、かかりつけの近くの病院に診てもらいに行く。受付で熱を測ると38.5度。そのときにはすでに学校にいるときほどの震えは感じなくなっていたから、学校ではおそらく40度近い高熱になっていたはず。

 診てもらったのは内科の若い医師だった。いつもの先生ではない。当てにならない不安もあるが、仕方ない。「症状だけだとインフルエンザを疑いたくなります。でもまだ流行るには早い時期なので、検査してみましょう」と、わずか15分で結果が出るという鼻汁検査をする。検査結果は陰性。普通の風邪薬をもらって帰る。

 帰って布団に入っていると、徐々に楽になってきた。かゆを食べて薬を飲み、今朝を迎える。もうほとんど正常。念のため朝食後にもう一度薬を飲む。熱は全くないので、朝風呂に入る。爽快な気分。

 それにしてもあの突然の発熱と震えは何だったのだろう。不思議だ。唐突に襲ってきて、わずか半日で去ってしまった。印象としては、熱をもたらす虫でもが口から飛び込んできて、一瞬にして発熱し、それが飛び出すや否や、たちまち熱は治まった。そんな感じだ。不思議なことがあるものだ。

松山の古地図を見て
2005年11月25日
先日から、松山市の古地図に興味を持ち、少し調べてみている。

 江戸初期から中期の地図を見ていると、旧市街の南辺を東から西に流れている中の川が、当時は経済的にも軍事的にも非常に大きな役目を果たしていたことがわかる。加藤義明が松山城を築いたとき、石手川の水路は少し移動させられたらしいが、そのとき、湯渡橋のあたりから分水路がとられ、中の川となった。

 地図を見ると、中の川の水路は当時も今もほとんど変わっていない。違うのはその役目だ。

 当時は、今の勝山町の通りにほぼ重なって、南北に長く伸びた幅広い外堀があった(この事実を僕は古地図を見るまで知らなかった)。中の川は外堀に水を注ぐための水路であった。

 外堀の南の端は中の川と勝山町の通りが交差したあたり(今の永木町)。そこから北にまっすぐ進み、現在六時屋があるあたりで西に折れ、東雲通りにぶつかった所で行き止まりとなる。ずいぶんと長い堀だ。しかもこの堀は、南の端で中の川と自然につながっているから、東西に流れる中の川ともども、全体として城の東と南を守る外堀になっていたと言える(内堀はもちろん、今も残る堀之内周辺の堀である)。

 この昔の外堀を見て、はたと思い当たることがある。子供の頃、六時屋の西に池があったのだ。池を囲む一帯の地形は周囲の道路や家よりも一段低くなっていて、底の方の深いところに池があった。池を囲む低い土地は子供の遊び場で、シーソーやジャングルジムがあった。

 今思い起こすと、周囲より一段低くなったこの地形は、間違いなく東西に長い長方形であった。堀だと思えばすべて合点がいく。堀を囲む石垣すらわずかに残されていたような気がしてくる。当時の僕には、それが大昔の堀の一部だったなどとは想像もできなかった。

 江戸のはじめに作られ、いつの頃にか大部分は埋められてしまい、そこにかつては長く延びた堀があったことすら人々の記憶から消え失せてしまい、わずかに端っこの100メートルほどだけが辛うじて残されていた。それが僕の知る池だったのだ。その池ももちろん今はない。池だけではない。堀であったはずの窪地そのものがとっくに埋め立てられ、思い出すよすがすらなくビルや家々が建ち並んでいる。

 当時、池には名前がついていた。だが、どうしても思い出せない。何とかして思い出したいのだが、…。

 中の川及びそれにつながる外堀は、軍事的防衛ラインであると同時に、戦のない江戸時代にあってはもっぱら物流のための重要な水路であったと思われる。三津浜から宮前川、そして中の川、さらに外堀へと、瀬戸内海から市内中心部まで船で物を運ぶことができたのだ。物流の大動脈だったとも言える。

 地図を見ていると、いろいろなことが想像できて楽しい。

 今日の晴れ渡った夕空の火星と金星のショーはすばらしかった。最接近をすでにひとつきほど過ぎてしまった火星は徐々に明るさを減じているが、金星はますます輝きを増してきた。いつまで見ていても飽きることがない。

日フィルの「四季」を聴く
2005年11月27日
 昔から、試験の直前とか、その最中とか、自分の意に反して何かをせねばならない場面に直面すると、不思議に自分の中にいるもう一人の自分が目を覚まして、彼が「よし」と言うまでは決してそれをしないのが僕だった。たいていはその間、読書が空白を埋めることになる。

 今がそのときだ。といっても、試験は試験でも、やることを強制されているのはその採点。昨夜は答案用紙を横目で睨みながら、結局は鼠骨の「正岡子規の世界」で時間をつぶしてしまった。そして今朝、濃いコーヒーをいれて眠気を覚まし、大好きな小山実稚恵のショパンを聴きながら意を決して採点にかかり、昼になる。

 がんばれたのには理由がある。午後から日ヒィルを聴きに行くことにしていたから。その楽しみが、起きっぱなから仕事にかかることを自分に許したのだった。

 さてその日フィル、フルオーケストラではなく、十数名の弦楽アンサンブルだった。メインはヴィヴァルディの「四季」。ソロを弾いた若手の女性バイオリニストが初々しい。一見ステージ慣れしていない印象だったが、テクニックはなかなかのもの。プログラムを見ると国際コンクールの上位入賞経験もある実力者らしい。

 チェンバロもよかった。バイオリンやチェロに負けてしまってほとんど聴きとれないのだが、ときおり弦が静かになった隙間に、か細くジャンジャンという独特のチェンバロの音色がリズミカルに聞こえてくる。それが何とも言えずけなげで、野に咲くアザミのよう。

 帰り、遠回りをして平和通りのイチョウを見ながら車を走らせた。2キロあまりだろうか、見事なイチョウ並木が続く。先週の日曜日にはこのイチョウ、真っ黄色に色づき、三角錐状にたわわに葉を茂らせていた。葉を落す寸前の、漲りきった荘厳さを感じさせた。

 今日見ると、なんだか自分の髪の毛を見るよう。すかすかしている。すでに半分は散っていた。
 歩道に落ち葉が敷き詰められている。風が吹くとさあっと動く。この風景は見覚えがあって懐かしい。子供時分、イチョウの葉が風に流れるのを追いかけて走り回ったものだ。拾って帰って押し葉にもした。土と風と日光の中でイチョウの葉とたわむれた昔を、車を走らせながら思い出す。

夜明けの風
2005年11月30日
 ローズマリー・サトクリフの「夜明けの風」を読んだ。日本で言えば、ちょうど推古天皇、聖徳太子といったの時代(6世紀末)のブリテン(イギリス)の話だ。衰退したローマ帝国が様々な遺跡を置き土産にブリテンから引き上げ、あとにはローマ化されたケルトが残された。そこへゲルマン人が侵入してケルトを滅ぼし、さらには残存ケルトと和睦する、そんな時代である。

 ローズマリー・サトクリフのケルト物語シリーズは比較的最近読み始めたもの。「ケルトの白馬」、「ケルトとローマの息子」に次ぐ、僕にとってはこれが三作目となる。

 主人公はいずれもケルトの少年だ。滅び行く宿命を背負った民、そして少年。本来、「少年」には未来への希望がつきものだ。ところが彼はいつも、滅びの宿命に結び合わされている。ローズマリー・サトクリフが描くケルト物語には共通して、こうした滅びと希望、生と死という、相反する二様の風が背景を吹き流れている。

 心理描写や情景描写をねちねちやらず、さらっとした筆致によってストーリーがどんどん進展していく。それもローズマリー・サトクリフの魅力の一つのような気がする。心棒として、上の二様の風が吹いている。この心棒が重低音となって、物語は軽薄にならずに進行していく。

 また長編にもかかわらず、巧妙な仕掛けが最後まで維持されている。うまいものだと思う。

 「おまえさんも、わしくらいの年になれば、どんなこともそうたいした問題ではないとわかるだろうて。人生とは若者には酷なものだが、年よりにはもっとやさしいのだよ。もっとも、若いときには、常に希望があるがな。いつか、何かが起きるかもしれない、ある日、小さな風が吹くかもしれないという希望が……」

 僕はこの物語で言えばじゅうぶんな年よりだ。だけど、なかなかこうは達観できない苦しさに悩んでいる。小さな風に舞い上がるかもしれないシャボン玉の割れカスをポケットから捨てきれないでいる。

 こんな僕には、ショパンのピアノソナタ第3番の、繰り返しうち重なって押し寄せてくる波のような旋律がピッタリだ。今も聴いている。煩悩を忘れさせてくれる。

 今日から五日間の期末休暇。働き疲れた体と心を癒すにはちょうどいい。といっても、土曜日には持病の潰瘍性大腸炎の検査がある。大腸ファイバー検査だ。いやな検査だ。避けて通れない宿命の検査だ。痛い検査だ。実存としての我々の体はいつまでも保つものでないことを知りながら、少しでも絶える日を先延ばしにしたい、そんな一心で受ける検査だ。

生きていく日々 メニューへ
坊っちゃんだより トップへ