2004年7月13日 |
田の畦に立ち、北に連なる山を見た。高くはないが奥深い山だ。山懐からは、幾筋もの川が流れ下っている。中でも大きいのは小野川。それに寄り添うように、悪社川が下ってくる。もっと上手からは、内川という川も流れてくる。これらが私の住む町とも田園ともつかない平地を、つかず離れず並行して流れ下ってゆく。 その狭間をさらに、名もない小川が幾筋も走っている。名はなくとも、どれもが人との長いつきあいの歴史をもつ。同じ土地で、生き変わり、死に変わり、連綿と働き続けてきた人達を、じっと見つめ続けてきたこれらの川。 名のない川に限って、不思議に水量は豊かだ。いつでも気ぜわしげな水音を立てながら、急ぎ足で下ってゆく。程なくそれらは内川に落ち込む。悪社川に落ち込む。小野川に落ち込む。轟々と激しい瀧となって落ち込む。その瞬間までのはかない命を、かれらは駆け足で走り抜けてゆく。支流の宿命である。哀れ、哀れ。 名もない小川は、跨いで渡れるほどのものから、思い切り助走をしてもちょっと飛び越す自信の持てないものまで、いろいろある。ところどころに橋が渡されている。今風のコンクリート橋ではない。いつの時代に誰が渡したものか、巨大な岩をごろんと横に転がしただけの石橋がある。何の細工もない。文字通りの一枚岩。 川は地面を2,3メートルうがって流れている。川べりに立つと、水面は見下ろすように低い。長い長い歴史の過程で踏みつけられた小道をとんとんと数歩下って石橋を渡る。そしてまたとんとんと数歩上って向こう岸に到る。 この感触が何とも言えず心地よい。そこに、橋と人との長いつきあいが感じられる。おそらくは百年を単位とする気の遠くなるような人とのかかわりが、この橋には篭められているのだろう。 石橋を渡るたび、私は今生きていることの不思議を思う。なぜ、今なのか。今とは何なのか。この今は、私にとっての今だ。過去から見れば、見通すことのできなかった未来、それが「今」。 かつてここに生きた人達も、「今」を生きつつこの橋を渡ったはず。そしてまた、今を過去とみなす、やがて来る時代を生きる人達もまた、この橋を渡りつつ「今」を感じるだろう。 今とは何なのか。よくわからない。不思議だ。 生きること、それが今なのか。命こそが今を生む源なのか。命ある理性がこの世界から失せれば、「今」も、ともになくなるのではなかろうか。宇宙がもし無生命であれば、いつを「今」と呼べばよいのだろう。 不思議だ。 ぼうっと立って山を見る。山には高圧鉄塔が点々と小さく連なって見える。山の向うにまで続いている。その奥はもはや見通すことができない。あるのかないのか、それすらわからない世界。その世界に向けて、高圧鉄塔の連なりは延びて行き、消えている。 昔、この同じ場所で、同じようにぼうっと立って山を見つめた人がいただろう。そこには鉄塔などありはしなかった。手前には田植えのすんだ田と、伸び出したばかりの青々とした稲の若葉、そして遠くには真夏の日差しに輝く青い山。その稜線。今も昔も変わらないこれら。 数百年経って今、私がまた、こうして山を見上げている。同じ山、同じ大気、同じ季節。そして、同じ「今」。 ふっと私は、時の流れの中に沈没してしまっていた。いや、沈殿し、時の流れを川底からぼんやり見上げるザリガニのようになっていた。 時とは何だろう、今とは何だろう。やっぱりよくわからない。ザリガニには見えてこない。わかるのは、この私という物の存在と、今を今と感じるこの奇妙な感触のみ。 |
2004年7月28日 |
「今」とは何か。前回も考えたことだが、私にとってはいまだに不思議な難問である。 人間という世界理解の主体を仮定しないで、客観的にこの宇宙を、「今」と呼ぶべき時間の先端が波の波頭のように突き進んでいるというイメージは、私にはなかなか湧かない。ものごとを単純化したい衝動に打ち負かされたときには、そう考えたくなることもないわけではないのだが、それは相対性理論を待つまでもなく、無理な発想であろう。 宇宙のあらゆるところで一様に進行している時間の刃先があって、宇宙の全地点において、その刃先たる「今」が共有されている。これはどう考えても無理だ。 物理的・客観的な時間と、主体的な時間との、二つの区別さるべきありようも考えねばならないだろう。しかも、物理的・客観的と言うとき、われわれは認識主体から切り離されたそれを思い描いている。けれど、認識主体のない物理的客観なんて本当にありえるのか、それもまた問題である。 量子力学的な世界では、認識主体と客観的対象とは切り離しえない双対物である。これはよく知られた事実である。見ること、観測することが、見られる対象に影響を及ぼす。両者の絡み合いを切り離すことは絶対にできない。相手に知られず、そっと見る、ということは量子力学の世界では不可能だ。 そもそも、客観的世界というのは、我々が見てそれを知るのである。見ざるところで客観的世界がどうなっているか、それはもはや想像の領域でしかない。見ている客観世界ですら、それがはたして我々が見ている通りのものであるのかどうか、それもまたあやしいものである。我々が外部世界を認識してイメージするパターンは、我々認識主体の認識能力以上のものではありえないだろう。 他者を評価するに当って、自分を越えた他者の内面を正確に知ることなどできないのと同じである。人は自分の高さでしか人を見ないのだ。これは理の当然である。 そこで、たとえばこういう想像をしてみる。かなり大胆な想像ではあるが、反証することも難しいのではなかろうか。 我々は、もはやそれ以上は分割できないと思われる素粒子をいくつか知るようになっている。電子やニュートリノといったレプトンのたぐい、光量子と呼ばれるフォトン、あるいは、ハドロン(陽子・中性子・中間子など)を構成している基礎粒子としてのクォーク。これらである。これらがはたして、もはやそれ以上は分割できない原理的な基礎粒子なのかどうか、最終的な断言はおそらく今の我々にはできないだろう。我々が想像もつかないような巨大なエネルギーを加えれば、あるいはそれらはさらに分割するのかもしれない。 それらの内部構造を知ることも、今の我々にはできない。内部構造などと呼ぶべき構造がその中にあるのかどうか、それもまたわからない。そもそもこれらの基礎粒子が、物質と呼ぶべき実体をなしているのかどうか、それすらわからない。少なくとも、粒子というときに我々が想像する、物の詰まった固まり。こういう物でないことだけはたしかであろう。もしそういう物であるのなら、その「物」を構成するさらに基本の粒子が当然あってしかるべきであろうから。 内部の実体はわからない。内部構造もわからない。粒子でもあり、波動でもある、とよく言われるそれらが外部に示す現象だけで、我々はそのものを判断している。それ以外には判断材料がないのだから。スピンとか質量とかいった、外部から見える性質と、それらが力の場とどのような相互作用をするかという、これも外部から見える性質、こういったもので我々はそのものを想像するしかない。 そこで私の想像である。こういった基礎粒子は、その内部に閉じた時空間をもっているのではないか。外部の時空間からはまったく独立した、内部独自の時空間。もしその中に入り込めば、それはそれで一つの巨大な宇宙空間として見える、そういう時空間を内部に持っているのではないか。我々がこれを宇宙だと思って見ている我々の宇宙空間の中に、それとは独立した小さな宇宙空間が数限りなくある。 こういう構造を私は想像する。ブラックホールもこれと似ている。その内部に潜り込めば、そこには一つの閉じた時空間たる宇宙が存在しているのであろう。 マクロな方向に思いを巡らせば、そこでもまた同様のことが言える。我々が宇宙だと見ているこの我々の宇宙空間も、もっと巨大な宇宙空間を構成する一つの素粒子なのかもしれない。巨大な時空間の中を漂っている独立した閉じた時空間、それが我々の宇宙、そういう想像もできる。 その特徴は、大構造の方からは小構造の場所と時間をある程度特定できるのだが、逆は不可能だということである。もちろん大構造の方からも、いわゆる「不確定性原理」というのがあるから、場所と時間(場所と速度)をそれぞれ独立に特定することは不可能である。 小構造から大構造が見えない、これは当然で、だからこそ閉じた時空間なのである。我々の宇宙も一つの閉じた時空間を構成している。その外部を知ることはできない。少なくとも、同質の宇宙空間が無限に広がっていて、その中を、その一部として、我々の宇宙が漂っている、そういう全体像でないことだけはたしかである。閉じているという歴然たる事実があって、その外部とはもはや同質の連続をなしていない、これが宇宙である。 にもかかわらず、我々の宇宙を包み込む外部構造がある。これは何の不思議でもない。 このような、何層にもわたる(あるいは無限に続いているのかもしれない)時空間のヒエラルキーを想像すると、「今」というものの、なんとも頼りない実態が、私を震撼させる。 ここで我々が(いや私が)「今」と感じているこの時の流れのこの瞬間は、いったい誰と共有している「今」なのだろう。 この私の身体を構成している無数とも言える素粒子の中では、それぞれに独立に時間と空間の構造があって、その中で、この私とはまったく無関係に、「今」を不思議がっている何者かが、今の私同様、コンピュータに向かって思いを綴っているかもしれない。 その彼とは、絶対に「今」を共有することはできない。異なる時空間に住んでいるのだから。 逆に、我々のこの宇宙を一つの素粒子とする巨大な世界において、また、まったく次元を異にした生命体が、「今」を思って不思議がっているかもしれない。何とも奇妙だ。 こうした想像とは別に、たとえば、我々と時空間を共有すると考えてもよい火星にかつて生命体がいたとしよう。雨が降り、水が流れ、海ができ、今の地球とも、あるいは今の火星とも構成の違う大気があった。そういう時代が、何億年か、何十億年かの昔、あったとしよう。そこに何らかのきっかけで生命が生まれ(自力で生まれたものか、飛来した有機物をきっかけに生まれたものか)、何億年か、何十億年かの時間をかけてそれが進化したとしよう。そして、あるとき、自らの存在を自覚し、他を観察する高級生命が生まれたとする。 しかし、その頃地球にはまだ高級生命は存在せず、互いに「今」を共有すべく通信することなど、考えられもしなかった。 彼らはやがて、生命維持すら不可能になる環境変化の時を迎えた。死すべきことを悟った彼らは、全地表から自らの存在痕跡を消し、生命以前の状態に戻し、きれいな火星になったところで、地下深くもぐり死に絶えた。生命の危機を悟ってから、死に絶えるまでの数十万年、ひたすら彼らは、自らの生きた証を消すことに命をかけた。きれいな火星に戻すことに、彼らは全存在をかけた。 今、火星探査機オポチュニティーやスピリットが探査している火星は、彼らが全存在をかけて生命の痕跡を消したその火星である。 馬鹿げた想像ではあるが、彼らがただ一つ、自らの存在証拠を消さずに残しておいた地点があるとしよう。最後の一人が、もはやこれまでと自覚したとき、代々の約束を破り、「私は生きた」と刻んだ石を一つ、死地に向かう穴の縁に埋め込んだのである。 今から何百年か、何千年かの後、人類が火星との間を頻繁に行き来するようになったとき、その石が発見されたとしよう。 すれ違いの「今」をすごした高級生命体の存在をそのとき人類は知ることになる。それを契機に、人類の想像力は一気に爆発するだろう。穴からもぐり、彼らの死地を観察することで、さらに彼らについての情報を得ることができるかもしれない。 かつての彼らの「今」と、我々の「今」がそのとき結びつく。彼らの残した痕跡を通して、二つの「今」が結合する。 まあこれは、地球における考古学的発見とも事情は似ている。ただ、考古学的発見の場合には、予想の範囲内ということもあって驚きが少ないのに反し、火星でのこの発見は、人類の根元に関する衝撃的発見ということになろう。 火星の理性もかつて、今の我々同様、「今」を生き、「今」を死んでいったのである。自己を自覚し、他者を観察する理性にとっては、生きるのは常に「今」なのだ。今しかないのだ。はっきり言えば、「今」とは、理性が生きるそのときなのだ。それこそが「今」なのだ。 「今」は一つではない。無数にある。 一方、理性のないところに「今」はない。これも言える。 認識主体のまったく存在しない世界に「今」はない。時間はたしかにそれぞれの場所でそれぞれに経過しているだろう。でも「今」はない。そこでの時の流れは永遠に虚無である。どこを切り取って「今」と呼ぶか、その切り手がいないのだから。 無数の「今」と、「今」のない虚無と、果てしない時空のヒエラルキーは、様々な時の流れを乗せて、互いに干渉することなく、独立に時を刻み、空間をはぐくんでいる。 |