2004年6月7日 |
わくわくするような瞬間が近づいている。金星の太陽面通過だ。金星はもう半年も前から巨大な星となって、日没後の西空を煌々と照らし続けてきた。夕方散歩することが日課となっている私にとって、この半年、金星はいつでも私の友であった。濃紺の西空に白い金星が一番星となって輝き始めると、私の心はほっと落着き、やがて空から光が消えゆくにつれ、それは涙のようにしっとりとした艶やかな金の色に変っていく。毎夕、私はそれを眺め続けてきた。 さわやかな思いで一日を終えた日には、金星は軽やかに私の歩みに歩調を合わせ、いやなこと、悲しいことのあった日には、金星は金の涙で私を慰めてくれた。 冬空、春空、そして初夏、金星は私とともに歩んできた。近頃は、太陽に近づきすぎてもはや金星を見ることはできなくなっていた。 そしてついにそのときが来るのだ。2004年6月8日午後2時11分、金星は太陽に埋もれる! 太陽に比べれば小さな黒いシミに過ぎない金星。それが太陽の辺縁に接触するのが2時11分。太陽の中に入り込んでしまうのに6分ほどかかる。そのままゆっくりと太陽の中を移動し、約6時間かけて太陽から抜け出る。 私を去っていた金星が、そのときだけ再び姿を見せてくれるのである。白い輝きでもなく、金色の涙でもなく、輝く太陽の前をよぎる黒いシミとなって…。 地球と太陽の間に金星が合(ごう)となって入り込むのは約8年に一度。しかし、金星の公転軌道は地球の公転軌道から傾いているため、合になってもめったに地球・金星・太陽が一直線上に並ぶことはない。たいていは太陽の上か下かにずれていて、金星が太陽面を通過する現象は生じない。 だが、今年のように一度生じると、8年後にもまた生じる。ずれ幅がまだ少ないので、8年後の合にはまだ太陽面を通過してくれるのである。それからはしばらくそれはない。 前回の太陽面通過は、1874年と1882年のペアだった。今回は、今年と2012年のペア。それを逃すとその次は2117年と2125年のペアである。その頃には、地球上の人類はほぼ総入れ替えになっているはずである。 金星の太陽面通過という現象を、一生のうちに二度見る可能性のある私は幸せだと思う。父も母もそれに出会うことがなかった。 辛いとき、悲しいとき、生死の境をさまよっているとき、死に至る病に冒されているとき、堪えがたい苦悩に打ちのめされているとき、いつでもその重荷をともに背負ってそばにいてくれる人がいる。私は5年前、重い病の中で死の淵をさまよっているとき、一瞬の生を保つことにすら耐えられないほどに弱っていたとき、その人がたしかに私の側で、私の苦痛をともに背負って耐えてくれているのを感じた。いや、たしかに見た。ほのかな光の輪として、その人を見た。 今の一瞬にすら耐えられないとき、その人は私の側で、何も言わず、ただひたすら私と同じ苦痛を耐えてくれていた。その人が側にいてくれることで、私は生きる力を取り戻すことができた。 この半年、私は金星にその人の姿を象徴的に重ねて見続けてきたような気がする。元気なとき、自分で何でもやれると思っているときには、その人は私から遠い。本当はいつでも側にいてくれているはずの人を、私は見ることができない。 太陽に近づきすぎた金星、太陽の反対側に回り込んだ金星がそれである。この半年、金星がいつでも私とともに歩んでくれたことには、偶然ではない意味があったのだと私は感じている。私はその人を必要としていたのだ。私の生はそのような時期にあったのだ。 その総決算として、明日、いよいよ金星は太陽面を通過する。 |
2004年6月11日 |
6月8日の金星の太陽面通過、楽しみにしていたのだが、残念、見えなかった。その日、仕事を終えると大急ぎで帰宅し、日没までまだ30分ほどあるからと、夕日のよく見える池の土手まで歩く。家を出るとき、家内を誘うが、家内はそんなことには何の興味もないようで、 「これを逃すと一生見られないかもしれないぞ」 「あっ、そうなん。でもまあ、そんなの見れなくてもいいわ。」 と、一向に乗ってこない。女には夢もロマンもないのか。 土手までは歩いて三分ほど。途中、太陽は西空低く強く輝いていた。曇り空ながら、雲間にはっきり顔を覗かせている。これなら大丈夫。勇躍土手道を駆け上がる。 そして、いつも夕日を眺める私のお気に入りの定位置に。背の高い草が開け、西には地平線まで高い建物はない。夕日が瀬戸内海に沈むのを最後まで見届けることのできる場所だ。 ところがである。定位置についたとたん、何ということだ、太陽が真っ黒な分厚い雲に隠されてしまった。瀬戸内海から立ち昇り、横にたなびくまるで山脈のような雲。風がないので、雲は動く気配をまったく見せない。そのまま文字通り「山のように」動かず太陽を遮っている。 薄雲ならむしろ歓迎だった。雲を透かすことで目を痛める光が多少とも和らげられる。だのに、この分厚い黒雲の奴め。透かすどころか、太陽を影も形もないまでに、その姿を隠してしまった。黒いセルロイドの板と双眼鏡を手に、私は分厚い黒雲を呪った。 これはもう待っても無駄だ。残された時間は20分ほど。とてもその間に立ち去ってくれそうな雲ではない。 ああ、今の今まで見えていた太陽。それがまさに観測しようと位置に着いたとたん、一瞬にして姿を消してしまったのだ。私はあきらめきれず、なおも長く西空を眺めていた。雲の山脈の上方の空は、太陽の照り返しで茜に染まって輝いている。その下にたしかに太陽がいることだけは見てとれる。 しかし、照り返しをいくら眺めても、太陽を通過する金星を見ることなどできはしない。時は刻々と過ぎてゆく。「走れメロス」のメロスの気分だ。日が沈んでしまえばすべてがおしまいである。 黒雲は鮮やかな稜線を保って横にたなびき、どう見ても遠く立ちはだかる山脈である。視界を遮って立ちはだかる山脈である。タクラマカン砂漠にでも行けば、天山山脈がこんな風に地平を遮っているのだろうか。 苛立ちながらも、それはそれで様々な想像を働かせつつ、私は雲間に隠れた太陽を思った。地平に沈みつつある太陽。本来なら燃えるような深紅の巨大な真円を衆人の視線のもとにさらし、見る間に地の底に沈んでゆく太陽。そしてその片隅に、小さなシミのような金星が黒くへばりついているはず、今ごろは。 待ちこがれた恋人にすっぽかされ、それでもなおあきらめきれずに彼女の姿を蜃気楼のように追い求めている悲しい男。そんな姿が土手にたたずむ私のシルエットであった。 あまりに悲しげに立ちつくしていたからだろう。土手の端に上がってきた犬を連れた若者が、そのまま私を避けるように再び土手を降りてしまった。近寄れない悲しみのオーラが私を包んでいたのかもしれない。 |
2004年6月20日 |
イソップ物語は子供向けの童話や絵本として昔からなじみの深いものだが、私はこれまで、その手の子供向けの童話以外にイソップを知る機会はなかった。 最近、岩波文庫の「イソップ寓話集」を読み、初めて原典の味わいに触れることができた。といっても、イソップ自身がこれらを書き残したというわけではなく、彼は聴衆に向けて語る人であった。 紀元前600年ころの人物とされるイソップの物語は、年を経るとともに類似の他の物語を雪だるまのように吸収、膨張し、それらすべてにイソップの名が冠せられて書物として集大成されたのは、紀元前300年ころのことらしい。しかし、最古のそれは現存せず、今に伝わる最古のものは紀元1,2世紀に、ラテン語およびギリシャ語で書かれたものらしい。 イソップ物語は、早い時期から様々な文化圏に広がり、翻訳され、どの文化圏においても砂漠に水がしみいるように自然にその文化になじみ、愛読者を広げていった。古代ギリシャで生み出された数多い物語の中で、イソップほど全世界に愛読者の輪を広げた物語はないのではなかろうか。 日本に伝わったのは秀吉の時代である。宣教師が持ち込み、「伊曾保物語」の名で翻訳されたのは1593年のことだという。これが西洋文学の日本語訳第一号となった。 読んでいて興味深かったのは、日本にも類似の物語が、おそらくイソップとはまったく独立に生み出され、伝承されていることである。あるいはこれは日本だけのことではないのかもしれない。人類に共通の、神話的原型が人の心の働きの中にはあるのかもしれない。ユングが「集合的無意識」や「原型」を言い出した理由が、イソップを読んでいて実感させられたような気がする。 一つの例は、「金の斧、銀の斧」などと呼ばれているあの物語。日本各地によく似た物語が民話として伝わっている。イソップ版は次の通り。 ある男が川の側で木を伐っていて、斧を飛ばしてしまった。斧が流されたので、土手に坐って嘆いていると、ヘルメスが憐れに思ってやって来た。そして泣いている訳を聞き出すと、まずは潜って行って、男のために金の斧を持って上がり、これがお前のものかと尋ねた。それではないと答えると、二度目には銀の斧を持って上がり、飛ばしたのはこれかと再び訊いた。男が首を振るので、三度目に本人の斧を運んで来ると、これこそ自分のだと言うので、ヘルメスは男の正直なのを嘉(よみ)して、三つとも授けた。説き明かしの解説まで入っているのがイソップの特徴である。日本の民話と何とよく似ていることか。そっくりだと言ってもおかしくはない。 もう一つ例を挙げる。 農夫の息子たちが喧嘩ばかりしていた。いくら言って聞かせても、言葉ではとうてい改心してくれないので、行いで教えこむしかないと悟り、棒の束を持ってくるよう命じた。息子たちが言いつけどおり持ってくると、農夫はまず、棒を束のまま渡して、折ってみろと言った。いくら力を入れても折れないので、今度は束をほどき、棒を一本ずつにして渡した。息子たちが易々と折っていくのを見て、農夫が言うには、この話も、「三本の矢」として日本ではよく知られている。毛利元就が三人の息子を諭す話である。少なくとも元就は伊曾保物語が訳されるよりも前の時代の人だから、元就がイソップ物語を知っていたとは考えられない。 それにしても、二例とも、筋立てといい、教訓の内容といい、日本における同類の例にぴったり重なっている。あまりの一致に驚いてしまう。それぞれが独立の文化圏で、独立に発生し、独立に伝承されたとはとても思えない。そっくりさの度合いが強すぎる。 人の思考のバラエティーや独創性など、一般に考えられているほど幅広いものでないことは、私自身の体験に照らしても明らかである。何かの拍子にふっと思いついて書き記した文章が、すっかり忘れていた過去の日記にそっくりそのまま記されていて、唖然とする。こんな体験が私にはこれまで何度かある。独創的な思いつきで、これは忘れないうちに書き記しておかねば。そう思って書いたものが、そっくりそのまま過去にも書かれているのだ。細部の表現に到るまで一致していて、進歩のなさに我ながら情けなくなることすらあった。 ある場面に遭遇したとき、あるいは、ある事物を眼前にしたとき、それから受ける印象と、それを言い表す言葉とは、案外いつでも同じなのだ。その瞬間には、いかにも突然ひらめいた黄金の輝きをもつ表現に見えても、実は同じ場面に出会えばいつでもそのひらめきが突然頭に浮かび上がる、ワンパターンの表現であったりするのだ。 一人の人間の中での固有のワンパターンを越えた場合には、これが集合的無意識となり、神話的原型になるのであろう。この意味で、人類共通の心理を巧みについた作品であるイソップは、あらゆる国々、あらゆる文化圏で共通に受け入れられ、時代と地域を越えて愛読され続けてきたのであろう。 |
2004年6月28日 |
ネコが人の手で飼育されるようになったのは、犬ほど古くはないものの、遅くとも紀元前2500年ころまでは遡れるという。たしかな証拠としては、紀元前2000年ころのエジプトの絵に、首輪をつけたネコが描かれているのがあるらしい。 日本にはしかし、土着のネコはいなかった。日本にネコが入ってきたのは、平安初期のこと、とか。 面白いのは、エジプトにおいてもヨーロッパにおいても、あるいは中国においても、日本においても、ネコは常にネズミを捕る目的で飼われていたということだ。ネコがネズミを捕るのは、今も昔も変わらぬ宿命の習性なのだろう。 ネズミが穀物を荒らして人に嫌われるのが宿命の習性なら、ネコがそれを捕獲して人に益をもたらすのも、これまた宿命の習性である。 本来、人とは無縁の習い性であるにもかかわらず、たまたまそれが人の利益にかかわる習い性であったが故に、一方は害獣とされ、他方は益獣とされたのである。 もっともネズミにとっては、ネコが人に飼われようが飼われまいが、それが彼らの天敵であることに変わりはないのだが、…。 そういえば、ネコが実際ネズミを捕る場面を、少なくともネズミを捕って口にくわえている場面を、近ごろでは見る機会がなくなった。ネズミが棲みついている家がめっきり減ったことがその理由だろうし、もしネズミがいたとしても、そしてまたその家にネコが飼われていたとしても、家の構造がネズミとネコの遭遇チャンスを極端に減らしていることもあろう。ネコはネコで、ネズミとの出会いがまずない環境で飼われていれば、そしてそれが何代にもわたってそうであれば、ネズミを捕獲の対象と見なくなってしまう変種が現れないとも限らない。 いやいや、ネコの習性はそんなに簡単に変質してしまうようなものではなかろう。都会棲まいで、ネズミなど一度も見たことのないネコであっても、田舎に連れて行って、穀物倉にでも放してやれば、たちまちネズミを見つけて捕獲するはずである。 私は過去に三、四度、ネズミをくわえていたぶっているネコを見たことがある。ネコはネズミを簡単にかみ殺してしまったりはしない。口にくわえて振り回し、ちょっと放してやる。まだ生きる余力を残しているネズミはその瞬間起き直り、逃亡を図る。それを見て再び狩りの本能を呼び覚まされたネコは、一瞬にしてネズミを前足で取り押さえ、再び口にくわえる。ネコの一瞬の素早さはネズミのそれをはるかにしのぐのである。 こうした動作を何度も繰り返しつつ、ネコは結局のところ、ただ遊んでいるだけに見える。ネズミは最上の遊び道具なのだ。 ネコは動いているものに反応する。動くものでなくても、たとえば新聞紙を丸めて目の前に投げてやると、自分でそれを前足でつつき回し、あちこち飛び回るのを見ては、追いかける。自分でつつき回して、自分で追いかける。いっときは、それで十分ネコは一人遊びをする。 ネズミの場合、つつき回すまでもなく勝手に走り回るのだ。ネコにとってこれくらい楽しい遊び道具はないだろう。 ネズミがもはや生きる力を失って、口から放しても身動きしなくなってしまえば、ネコにとってそれは遊び道具ではなくなる。そのときネコがそれを食べてしまったりはおそらくしない。ネズミを食ってしまうネコを、少なくとも私は見た覚えがない。ネコの興味はその時点で失せ、ネズミの死骸はただの動かざるモノに成り下がり、放置されるのである。 後始末は人の手にまかされる。 ネコの本能は残虐であり、同時に幼稚である。残虐さと幼稚さとは、たいていの場合同居するもののようだ。上から見下ろしている「ヒト」から見ると、ネコの本能はまさに本能であって、それ以上のものではない。彼らはただ眼前の動きに目を奪われ、それのみを追いかけ、それが何であるかを考えない。それが動きを止めたとき、ネコはもはやそれを見ない。その意味で限りなく幼稚であり、そしてまた、追いかける対象の命を顧みない点で残虐の極みである。 人間世界にもネコのタイプがいる。喧嘩好き、戦争好きは、残虐さと幼稚さの同居した思想に満たされている。用意周到であればあるだけ、残虐さは倍加し、幼稚さもそれに連れ添う。目的が衝動に由来するとき、詭弁が論理を打ち破る。そしてそのとき、残虐と幼稚は極まり尽くす。 今、世界は、衝動に泳がされ、詭弁が横行している。まっとうな論理は、力の前に身をすくめている。崇高な目的は、弱々しさと女々しさの衣をかぶせられ、語ることすらはばかられる。ファシズムが席巻した時代の風潮そのものである。 時代がこうなるとき、必ず現れるもの、それは力あるものにへつらい、その威を借りて、意にそわぬもの、弱きものに論理以前の威圧をかけるものである。彼らに正当な論争を挑んでも、彼らは論理以前の力を振り回す衝動的動物である。論理は彼らに通じない。 冷静かつ冷厳なのは、時の流れである。不当な力を押し流すのは、時の流れである。ネコはネコたるをやめなくても、時の流れは彼らから爪を剥ぎ取る。ネコは再びロゴスの前に腹を向ける飼い猫となる。ゴロゴロと喉を鳴らし、彼らは再びロゴスに忠誠を誓う。…、それがいっときのものであろうとも。 我が家には今、名前を「ミンミンミン」というネコがいる。娘が学生時代にアパートで飼っていたのを、数年前につれてきたもの。「ミン」と呼ばれ、「ミンミン」と呼ばれ、よほどでないと「ミンミンミン」とは呼ばれない。 ネズミは捕らない。ロゴスにも従わない。家ネコで、庭に出ただけで、もう震えが止まらない。Bushの下で小さくなって助けを求め、「ニャゴニャゴ」となく。 |