ディレッタント
2004年1月8日
 ディレッタント、この言葉は僕のトラウマだ。これを聞くと、僕の心は凍りつく。

 これまで、いろいろな道をまさぐってみた。どれも所詮は素人芸。専門家への道は固く閉ざされたまま。悪いことには、どれもそこそこに上達する。

 「愛好家」、「好事家」、辞書を見るとたいていこんな言葉で「ディレッタント」を説明している。悲しい言葉だ。

 NECを辞して今の学校に勤め始めた遠い昔、

「おまえはボタンを一つ掛け違えた人生を歩み始めたぞ」

 心の奥底でたしかに誰かがささやいた。僕はそれを黙殺した。新しい道と、そこに広がる新奇な光景とに、僕はひたすら目を奪われた。外の世界に魅せられた僕は、内なるささやきを聞けども聞かなかった。絶対零度の意識化に、僕はそれを押し込めてしまった。

 時はその間、止むことなく僕の足を泥田に深く引きずり込んでいった。僕はそれに気づかなかった。

 時は無情に流れた。

 声は風化しなかった。執拗にささやき続けた。あるとき、それはふたたび僕の心に届いてきた。以来、ときには嵐の夜の遠い潮鳴りとなり、ときには耳元でする聞こえよがしの悪口となり、またあるときは十軒も先のかすかな風鈴の音となって、とぎれても聞こえ、とぎれても聞こえ、それは洞に響く雨だれ。耳底にとりついて離れない言葉となった。

 声の真実の意味が明かされたとき、ことはすでに果てていた。逆行できない時間となって。

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 ディレッタント、この言葉は僕の根深い劣等意識に同化した。専門家になり得ない、それでいてそこから離れる勇気もない、ただうろうろと道の周囲をさまよっている劣等生。それが僕。

 時おり専門の高みから「ほれ、ほれ」と、誰かのしゃぶり終えた骨が投げ捨てられることがある。飛びつくなり、なおもかすかに味のするそれを後生大事にくわえ込み、「やったぞ、やったぞ」と、群衆に手を挙げて自慢たらしく叫ぶ。それも僕。

 会社勤めに限界を感じた心底の理由は、大学に戻って勉強し直し、第二の人生を研究者として歩みたいことだった。事実僕は、出身大学にその道の可否を問い合わせ、道の開けていることを確認した。

 だのに僕はそれを捨てた。捨てたのではない。強い力が僕からそれを奪ったのだ。まだ歩みもしないうちから、それは僕から奪い取られたのだ。

 強い力とは、結婚。

 そして、義母の頑迷な抵抗。

 娘を嫁入らせた相手が、勤めている会社を、しかも情報通信のトップメーカである会社を辞め、いたずらに無収入の学生生活に戻ろうとしている。何でまた安定した暮らしを捨てて、わざわざ自ら生活苦を求めねばならないのか。一人だけならまだしも、私の娘を引き連れてまで。

 これではまるで結婚詐欺ではないか、そこまで言いたげな口ぶりだった。

 義母には、僕の夢は語っても語っても理解の外だった。現実生活の失楽が目に見えている。目に見えているそれを、先の見込みの定まらない夢が補い償うことなどありえようはずがない。義母の現実主義の前には、僕の理想は蜃気楼に等しかった。

 絶対に認められません。義母はかたくなだった。

 ついに現実が夢を踏み倒した。僕の夢は無惨に踏みつぶされてしまった。抵抗しきれなかった僕の弱さ。いま痛烈にその弱さを悔いている。

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 義母との戦いの中で、母が折衷案として、勤めながら少しは勉強できるかもしれないからと、出身高校に勤める案を出してくれた。校長に声を掛けてみると、意外にも「来てほしい」との返事だった。

 僕は一も二もなく飛びついた。あのとき、将来を予測する冷静さが少しでも僕にあったなら、ボタンの掛け違いに苦しむことはなかったのかもしれない。

 僕には、突然開けたこの道が、抱えている逼迫感を解き放つ特効薬に見えてしまった。進みたい真の道から外れたことを、あえて僕は意識から払いのけた。というより、新しいこの道の先に、ありえない夢を見てしまったのだ。

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 今、僕の専門は何だろう。それに対する答は「数学教師」。これしかない。悲しいが、これしかない。趣味はいろいろある。数えるのはもうやめよう。

 ああ、いま品のいい「趣味」という言葉を使ってしまった。そこに実は落とし穴がある。その趣味こそがディレッタントなのだ。

 いや、本当は趣味がディレッタントの源なのではない。それなら僕が劣等感を抱く理由はない。趣味は趣味なのだから。もともとそれは素人芸なのだから。

 そうではない。プロたるべき仕事において、僕はディレッタントなのだ。自分を教師と認めることに抵抗がある。ましてや、教育者などと言われると背筋がぞっとする。

 数年前、全国各地の学校説明会に出かけ、学校のPRをするのを係としていたことがある。たいていは校長か教頭のお供をして、二人で出かけた。あれはたしか福岡での説明会のとき。説明会が無事終り、お世話になった御当地の親御と打ち上げの夕食会をもった。その席、当時のA教頭が言った。

「私は骨の髄まで教育者ですから、自分の子供にも学校でするのと同じ厳しい姿勢で臨んでいます」

 平然と、何のわだかまりもなくそう言われるのを、隣に並んで聞いていた僕は、「ああっ」と思わずうめき声を上げそうになった。

「教育者、そうか、おれもひょっとしたら教育者なのか」

 目の前で「教育者」という言葉を聞いた、それは初めての体験だった。人から「教育者」と呼ばれるようになれば、紛れもなく教育のプロである。ましてや自らそう呼べば、紛れようもない。

 高い高い壁、深い深い溝、A教頭と僕との間にとてつもない隔たりがあるのを、そのとき僕は感じた。これは一人A教頭との隔たりですむものではない。教育世界全般との隔たりであった。

 僕はとても教育者ではない。その道を極めようともせず、事実しないまま、長い年月を惰性で過ごしてきた。この道のプロとはとても呼べない。

 だからディレッタント。いやいやこれは自分を虚飾に包んだ言いようだ。真実のディレッタント、それはプロたる仕事を持てないこと。教師という見かけのプロをプロと自認し得ないこと。

 プロだけど、プロたり得ない、というのとは少し違う。プロであるべき教師職をも僕はプロにできないのだ。本来的に僕は教育のプロではないのだ。

 いやおかしいな、まだちょっと違う。要はボタンの掛け違え、これに尽きる。プロたろうと目指す方面において、僕はプロになり得なかった。歩み始めた道がすでに違っていた。それこそが僕のディレッタントの根元なのだ。劣等感の根元なのだ。

 漂泊者、戯れ者、アウトサイダー、冷めた者、まあ何とでも呼ぼう。組織の中に熱血を注ぎ込むことのできない人間、それが僕である。悲しいが、それが僕である。

花梨(カリン)
2004年1月13日
 僕の心を癒してくれるもの、それは庭の花梨だ。郵便受けのそばに二本並んで立っている。四季折々、千変万化の姿で僕を楽しませてくれる。

 暖冬のせいで今年は色づいた葉がいつまでも散らずに残っていた。正月前になってやっと散り始めた。散り始めると止まらない。パッチワークのような色彩に包まれ華やいでいた花梨が、たちまちモノトーンの世界に突き落とされてしまった。

 昨日はついに、最後の一葉が落ちた。ごつごつした枝と梢ばかりの花梨になった。それでもまだ、熟し切った果実が数個、梢の先に刺さっている。その脂ぎった黄色の艶肌が、花梨のモノトーンにいっそう哀れを加えている。残った果実も数日中には落ちるだろう。最後に残るのは、天を鋭く突き上げる梢の群れだけだ。

 これでいい。これがいいのだ。これで花梨は冬のまどろみに入るのだ。裸身を天にさらしたまま、花梨はひとときまどろむのだ。

 花梨は夢を見るのだろうか。ひとときの老い、仮象の老いの中にも、花梨は夢を見るのだろうか。人は老いると夢を見なくなる。そう言う人がいる。歩みが平穏になれば、人は夢を必要としなくなるのか。壮絶に生き、壮絶に戦うところにのみ、夢はリアルに羽ばたくのか。マントルの海に浮かぶ大陸プレートのように、夢は力と躍動の下にのみ根を伸ばす生き物なのか。力と躍動のアイソスタシー的補完物なのか、夢は。

 花梨は夢を見るだろう。花梨には明日の蘇生があるから。明日の戦いがあるから。夢はその日のために花梨に安息をもたらす。

 夢は、すべてを生き返らせるために、すべてを焼き尽くす。夢とはそういうもの。

 冬の薄日を、凍える夜気を、しみいる雨を、舞い散る雪を、花梨はエーテルを吸って眠る手術患者のように、裸身をさらして受け止める。苦痛もなしに受け止める。夢の中で。

 夢が花梨の残り香を焼き尽くす。花梨の過去の栄光を、過去の彩りを、花をなし、実をつけ、育て、そしてふるい落とした過去の営みを、過去を引きずるあらゆる残滓を、夢は焼き尽くし、花梨はそれに耐えている。すべてを失った者にのみ新生の恵みがあることを、花梨はどうして知り得たのか。

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 僕は花梨を見続けた。花梨も僕を見続けた。

 二本の花梨、それは実生の花梨だ。花梨が僕の家に来たのはあの日、僕が妻の実家の納屋住まいを捨て、砥部の新居に移った日。暑い夏の日。

 納屋住まいは三ヶ月で終った。労働者住宅協議会(労住協)が開発して売り出した住宅団地に応募したところ、十一倍の倍率をくぐり抜け、当たってしまったのだ。

 「もうこれが六回目の応募なんですよ。くじ運がないのね、あたしたち。何度応募してもいつも落ちてしまって」

 「うちもそう。もう何回くじを引いたかわからないくらい」

 そんな会話を耳にしながら、名前を呼ばれた僕が抽選会場の正面に進み、コーヒー挽き機のようなハンドルを回すと、穴からぽとりと玉が落ちてきた。それが競争相手の十人を蹴落とす玉だった。

 たった一度のチャレンジで引き当ててしまった住宅。高台のミカン畑を整地した百軒ほどの団地だった。

 早速引っ越した。六月末、梅雨の晴れ間の暑い日だった。

 学校に勤め始めて三ヶ月。そのころ僕は物理のK先生が主催する原子物理学の勉強会に参加していた。会員はわずか四人。シュポルスキーの「原子物理学」を読む会だった。何でもいい、とにかく勉強したかった。数学のI先生も、岩波の「微分積分学」を読む会を開いていた。それにも僕は参加していた。

 新居に移ることを話すと、K先生が、

 「うちの庭は雑木林をそのまま買ったものだから、余るほど木がある。来て好きなのを取っていったらいい」

 そう言ってくれた。引っ越しの前々日、K先生のお宅を訪ねた。訪ねたと言っても、僕はまだ運転免許を取っていない頃。送り迎えともK先生がやってくれた。僕はただ運ばれて行き、運ばれて帰っただけだ。

 庭はたしかに鬱そうと茂る林だった。どの木がいいのか皆目見当が立たなかった。K先生が、

 「これは小さいけど、いい木になるよ」

と、勧めてくれたのが花梨だった。雑木林を突っ切る細道に植わっていた。

 「花梨は必ず二本を対にして植えるんだ。そういう決まりなんだよ」

 なぜだか僕は知らない。いまだに知らない。調べたこともない。本当かどうかも知らない。しかし、言われるままに二本の花梨を根っこから引き抜き、土の付いた根には包帯のように新聞紙を巻いた。

 高さはせいぜい七、八十センチ。幹の直径は二センチにも満たない。幼い花梨の苗だった。

 「実生の花梨だよ、これは」

 花梨は、新居の庭に移された。

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 それから一年もたたない頃、僕の不注意で二本のうちの一本が、幹の半ばから折れてしまった。皮だけを残して斜めに折れてしまった。K先生に申し訳ないことをしたと後悔したが、折れたものはどうにもならない。

 しかし、接ぎ木や挿し木ということがあるではないか。ひょっとしたらうまくいくかもしれないと、僕は折れた切り口をしっかりくっつけると、その回りを布きれを細く裂いたのでぐるぐる巻いた。そして添え木をして、さらに巻いた。まるで外科医になったような気分だった。

 それからは毎日、大丈夫くっついているだろうか、枯れていないだろうかと、まるで病弱な我が子をいとおしむように花梨の様子を見続けた。

 やがて布きれがぼろぼろになる頃には、花梨は元通りにくっついていた。命のしたたかさを思った。

 砥部には十年住んだ。そして今の家に引っ越した。花梨も一緒に引っ越した。K先生に言われた通り、ふたたび花梨は対にして植えた。

 今の家に移って、はや二十年になろうとしている。花梨はずいぶん成長した。剪定していなければ、とっくに二階の屋根に届いているだろう。折れた傷口など、どこを探しても見当たらない。どちらの木が折れたのかすら、今となっては思い出せない。三十年近く、僕はこの花梨とすごしてきたことになる。

 花梨は僕のすべてを見てきた。僕も花梨のすべてを見てきた。

 今の学校に勤めてからの僕の半生、喜びのときも悲哀のときも、花梨は僕とともにいた。

 春、桜が葉桜になると、花梨がみずみずしい若葉をつける。仮象の老いをかなぐり捨て、見続けた夢を振り切って、花梨は新しい命に目ざめる。過去の受粉も、栄えも、実りも、紅葉も、落葉も、すべてを夢とともに振り捨てて、花梨は新しく蘇生する。見栄も虚飾も、過去の栄光も、花梨の新生の命には毫も印しづけられていない。何もかもが新しい。

 花梨の目覚めは、生まれ出た赤子のよう。無垢で純である。時間がそこから始まったかのごと。過去を知らない。新生の命には、過去の揺曳はない。

 だがたしかに、過去の命を引き継いで生まれたその命。印しはなくとも、連綿たる命の末にあるその命。命は一つ。絶えることない命が仮象の死を経て蘇る。一つの命が蘇る。そこでは花梨も人も一つ。命は一つ。

 花梨の蘇生を見ると、いつもそう思う。

 若葉が五、六分茂ると、淡いピンクの小さな花が咲き始める。桜が散り終る頃、花梨の木では、したたるような緑とピンクの色が春をたたえて競い合う。

山茶花(サザンカ)と父
2004年1月22日
 サザンカを見ると思い出す。苦しいその日暮らしの中、快活に生きていた若き日の父と母を。あの遠い日々を。立ち止まることなく、身を労働にさらし、それでもなお輝いていた、父や母のことを。その愛を受けて僕が、無心に育ちの日々を送っていたあの頃を。

 毎日汗して働き、明日のために祈り、なお満たされることのない日々。そんな中、人はかすかな変化にも喜びを見出す。

 喜びは、悲しみに生きる人に与えられるひとときの蜜。労せずして満ち足りた心に、喜びはない。それに気づく人もまた、悲しみを知る人である。

 父や母の本意ならざるつらい日々に、ときおりふっと訪れた喜びと平安。蜃気楼のようにそれは、手を伸ばすとたちまち脇をすり抜けて、苦悩の陰に消えてゆくまぼろしだった。それを知ってか知らでか、眼前にきらめく線香花火の光彩を、ただじっと無心に見つめ、味わっていた父と母。母が日頃のきつい表情を崩し、解き放たれたかすかな笑みを浮かべるとき、それが二人の幸せのときだった。

 そんな喜びの一コマが、あの日。

 雨空が割れ、天の高みから輝く光が降るように、それは一瞬の夢。美しくも、はかない夢。そう、僕には夢に思われた。唐突に、夢のように。しかし、たしかに現実に、それは我が家にやってきた。父の手に握られてそれはやってきた。サザンカだった。

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 僕の家は典型的な町屋だった。家に庭や畑は手のひらほどもなかった。雨が降っても、濡れる一握りの土くれすら、我が家には見つけることができなかった。

 戦後、父が復員して間もない頃、父にとって最も頼れる存在であった父の兄が死んだ。兄が販売、父が製造と、二人で支え合ってきた下駄工場が、兄の死とともに兄嫁の手に移った。父は共同経営者から、うとまれる存在へと転落した。父の技術は必要とされても、人としての父は不要であった。兄嫁はいつしか、他の技術者を雇うようになっていた。

 父の居場所はもはや下駄工場にはなかった。

 こうして僕が二歳になった春、父は下駄工場に見切りをつけ、兄嫁とも決別した。新しい道に踏み出した。わずかに貯めていた資金で家を買い、人生をやり直したのである。

 仕事のあてがあったわけではない。当分は手内職でその日を食いつなぐしかないだろう。それを覚悟で父は下駄工場を飛び出した。

 引っ越してきたのは二軒長屋の片割れだった。裏手には小さな庭があった。しかし、真珠細工やウズラの飼育という、急場しのぎの内職仕事を経て、やがて油揚げの製造を始めたとき、裏庭にはすっぽりとトタン屋根がかぶせられ、廃業した業者から譲り受けた製造機械が庭を埋め尽くした。仕舞た屋風の小庭であったその風情はかき消され、あわただしく人が立ち働く仕事場と化した。

 庭に一本ぽつんと植わっていたとかすかに記憶する南天の木も、四歳の春、庭の消滅とともに葬り去られた。

 以来、我が家からは緑が消えた。ものごころついてからの僕は、我が家に草木が植わる姿を思い浮かべることすらなかった。

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 家は道路にじかに面していた。ガラスの引き戸を開けると、玄関というにはやや広めの土間があった。その片隅に油揚げの原料となる大豆袋が積まれていた。うずたかく積まれた大豆袋は近所の子供たちの格好の遊び場であった。

 玄関の土間からは、座敷の横を通って、細い通路が裏まで続いていた。年中、日を浴びることのない薄暗い通路であった。裏に出ると、薪で焚く二基のかまどをもつ台所。そしてその横手が油揚げの仕事場であった。

 仕事場は奥と手前に大きく二つに分かれていた。奥の方は大豆から豆腐を作る父の仕事場、手前は、豆腐を油で揚げて油揚げを作る母の仕事場であった。母一人では手が足りないので、たいていは誰か一人手伝いに来ていた。僕が小学校に上がる頃までは、二十歳前後の若い女の人が来ていた。そのあとは、父の妹が来ていたこともあり、母の妹が来ていたこともある。

 できあがった油揚げを卸し先に配達するにも人手が要った。近所の時計屋の奥さんがそのために来てくれていた。ズボンをはいた男勝りの女性であった。自転車の荷台に箱を何段も積み重ね、ゴムのベルトを掛けて出かけていった。

 薄暗い通路をはさんで、座敷の向かい側には、二階に上がる階段がついていた。土間から直接二階に上がれる構造で、下とは独立に生活できた。

 二階は広々とした畳の一間で、僕がものごころついた当初は、大学生が下宿していた。学生はよく僕の遊び相手になってくれたが、どうやら下宿代を払わないまま卒業していったらしい。あとで母が、はるばる汽車に乗って親元まで下宿代を取りに出かけたことがあるのだと、後に聞いた。人と抗うことの決してなかった母の、唯一見せた激しい一面であった。

 そんなことがあったからかどうか、油揚げを始めて間もなく、素人下宿はやめてしまった。以降、二階は僕の兄の勉強部屋になり、やがては僕の勉強部屋になった。
空中庭園から撮った父。この窓の外(手前)に父が作った空中庭園がある。
空中庭園への出口に座る母。いずれも僕が5年生のとき。

 そんな僕の家には、日の当たる窓際こそあれ、雨の当たる場所はどこにもなかった。木や草花を植える環境は皆無であった。

 ところが何を思ったか、僕が小学四年生の秋、父が小さな苗木を買ってきた。近くの農事試験場で毎年行われていた農業祭に出かけ、買ってきたのだ。

 「サザンカじゃ」

 父は言った。苗はまだ三、四十センチ。まっすぐ伸びないで、弓のようにたわんでいた。

 「冬になると真っ赤な花が咲くぞ」

 そうは言っても、我が家には植える場所がなかった。

 「どうするんです? 鉢植えにでもして、玄関先に置いておきましょうか」

 母も思案顔であった。

 父は「まあ、まあ」と言い、その翌日、二階に上がって何やら仕事を始めた。

 二階の北側の窓から張り出している屋根と、それに向き合った仕事場のトタン屋根とを支えにして、その間に水平に何本かの丸太をつるし、板を乗せ、さらにいくつもの木箱を置いて土を入れ、見事に空中庭園を作り上げたのだ。家の北側だから、日差しの点では最高級といえないまでも、雨が降れば雨に濡れる待望の土の庭の出現であった。

 最初は、買ってきたサザンカを植えるためだけの狭い庭だった。しかし、翌年の春までに父はどんどん庭を広げ、ついには三坪ほどの庭に仕上げてしまった。夏には朝顔を植え、ヘチマも植え、キュウリやナスまでも植えた。空中庭園はたちまち、足の踏み場もないほどに、さまざまな植物で埋まった。

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 世話は僕の係だった。新入りの木や草花が茂りだすと、最初に植えたサザンカの影がどんどん薄くなっていった。だが、そうなればなるほど僕のサザンカへの愛着は深まった。土が乾かないように水をかけ、毎日成長を見守った。一年目には咲かなかった花が、二年目には咲いた。紡錘形にふくらんだつぼみが、ある日突然開いた。父が言った通り、あでやかな赤い花びらだった。翌日にはまた開いた。

 サザンカは、相変わらずたわんだままだった。しかし、確実に成長し花をつけたのだった。

 父が作った小さな庭園。そこに、父の、母の、そして家族みんなの小さな幸せが凝縮していた。父の満足げな顔、母の満ちたりた笑み。

 幸せに大小はないのだ。その瞬間、心から満ち足りることができれば、それは最高の幸せである。わずかな空間が、花を、緑を、喜びを、僕らにもたらした。それが僕らの最高の幸せであった。

 苦しい生活の中に、喜びを見出した瞬間であった。父が買って帰った小さなサザンカの苗木が、僕らにそれをもたらした。

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