多磨霊園駅
2003年12月23日
 もうすでに三十年近く前のことになる。東京郊外の府中で、電機・通信メーカーのコンピュータ部門に勤めていた私は、明けても暮れても「コンピュータ、コンピュータ」の生活に我慢できなくなり、そのとき丁度たまたま話があった今の学校に数学教師として勤めることになった。自分の本来の志向性を確かめた上での転職とは必ずしも言えない、若さにまかせた衝動的な方向転換であった。

 話が決まったのは秋、会社に退職願を出したのは年明けであった。唐突な退職願に、上司の課長はもちろん、同僚みなが「青天の霹靂」だと、驚きの色をあらわにした。が、すでに私の気持ちは動くはずもなかった。

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 三月末、いよいよ引っ越しの日が来た。すでに結婚して一軒家を借りていたため、運送屋はよほど荷物が多いと踏んだのだろう、大型トラックの手配をしてくれた。朝、家の前に止まったトラックを見て私は驚いてしまった。これなら荷造りなどいらない。家ごと積み込んでしまえそうだ。

 こちらが手を出すまでもなく、作業員がてきぱきと荷物をトラックに積み込んでくれた。家の中が空になり、さあ出発という段になってトラックの荷台を見ると、幌をかけた荷台はほとんど空っぽに近く、隅っこに小さく寄り集まって肩をすくめているのが我が荷物たちであった。まるで世の中での自分の立場を象徴しているような、哀れな姿であった。

 トラックは去っていった。もはや後戻りはできない。妻と二人、大家さんに最後の挨拶をし、小さなバッグ一つ持って、京王線府中駅まで歩いた。結婚以来、自転車のうしろに妻を乗せて何度走ったか知れないこの道。

 親しくなった定食屋さんを横に見つつ、学園通りを横切る。新しくできた大通りをしばらく行くと、やがて東京農工大の塀に沿って斜めに入る旧道が現れる。閑静な住宅地を斜めによぎっている一本道である。今はまだ少し時期が早いが、春のたけなわともなれば、家々の庭にとりどりの春の花が咲き乱れ、見事な花園となる細道だ。

 思い出多いこの道を、二人は言葉少なに歩いた。所々に散在している猫の額ほどの空き地から、関東ロウム層の黒い畑が垣間見えた。

 府中に来て真っ先に感動したのがこの黒い畑だった。四国や関西には絶対に見られない黒々とした土。初めて見たとき、この畑土の黒さは奇異だった。だがすぐに、かつて地理の時間に習った関東ロウム層がこれかと、納得した。その昔、富士山が振りまいた火山灰なのだ。どことなくほくほくと暖かい感じのする土である。

 富士山といえば、会社の屋上からしばしば遠望することができた。冬の晴れた夕方、日没前に西空を見ると、丹沢の山塊に左斜面の半分ほどをむしばまれた富士山が、鮮やかなシルエットとなって浮かび上がっている。片肌を脱いだ秋祭りの若い衆のように、右斜面だけが完全な姿である。見ても見ても見飽きることのない美しいその稜線。

 そんな富士山の姿をもはや見ることはないのかもしれない。

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 三月末とはいえ、その日は空っ風が吹いて肌寒かった。小道はやがて住宅地を抜け、大きなケヤキ並木に出る。大国魂(おおくにたま)神社の参道である。この道を徳川家康も馬で駆けて詣でたことがあるという。樹齢数百年の巨大なケヤキが両側に並ぶ。今は府中の目抜き通りである。

 私達の新婚旅行は、松山から府中までの四泊五日の列車の旅であった。大阪から金沢に向かい、さらに黒部峡谷、白馬岳、美ヶ原などの山歩きを楽しみつつ、最後は中央線の八王子駅に降りた。八王子の駅前で食べたトンカツの美味しかったこと。

 八王子から府中までは京王線である。なかなか暮れない五月初頭の夕刻、府中駅に降り立ち、妻と二人で最初に歩いたのがこのケヤキ並木であった。ひと月前からすでに私一人で住んでいた新居の借家まで歩く。妻にとっては初めてのこの道を、今とは逆に、ケヤキ並木を起点に歩いた。ケヤキには新緑が萌え初めていた。みずみずしい緑が私達の門出を祝ってくれているようだ。

 小道沿いの家々の庭から、色とりどりの見事な花が咲き出していた。

「きれいねえ。いいところみたいね」

「うん、静かで住みやすいところだよ、府中は」

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 今、妻と最後の府中を歩きながら、私はあの日のことを思い出していた。妻には申し訳ない気持ちで一杯だった。あの日の希望と夢には、今日のこの日の転職は微塵も想定されていなかった。

 私にとって、これは自分を生かすためのやむにやまれぬ選択だったのだと、自分に言い聞かせ、同時にそれが妻にとっても幸せの道なのだと、彼女を説得し続けて実現した転職だった。無限の希望を未来に感じる反面、後悔がないわけでもなかった。はたしてこれが成功感や満足感を生み出す基いとなってくれるものかどうか、自分にも確信はなかった。

 目の前にぶら下がった餌にただ食らいついただけかもしれなかった。最も大事なのは自分の志向性だった。私は、自分が理系向きなのか文系向きなのか、第一それが分かっていなかった。コンピュータであれ、数学教師であれ、傍目には明らかに理系の仕事である。しかし、私はそれを純粋に理系の立場で貫く自信はなかった。

 教師をしていれば、数学を教えながらも、新しく見出した自分の可能性に柔軟に対処できるのではないか。私にとっての「無限の希望」とは、ただそれだけのものだったのかもしれない。

 いずれにしろ乗り出した船である。この旅路を大いに楽しみ、先々に夢を追い求めようではないか。不透明な未来に萎縮するよりは、不透明なるが故に今は見えない可能性に期待しよう。そんな気持ちで、新宿行きの特急に乗り込んだ。

 これまでは、新宿行き特急は、帰りのある「往き」であった。今は違う。帰ることのない片道切符の新宿行きに乗ってしまったのであった。

 大学を卒業して最初に府中にやってきたとき降りた駅は、多磨霊園駅であった。独身寮が多磨墓地の近くにあったのだ。真っ黒な畑に驚いたのも、駅から独身寮に向かう道すがらだった。そういえばあの時も、未来に限りない希望を抱いて弾むように歩いたものだ。

 今、特急は多磨霊園駅を無情に通過した。その瞬間、過去を振り捨てよとの冷徹な声が天上から落ちてきた。

「ああ、あのときの、……」

 私は駅のプラットフォームに目をやり、湧き上がる感慨を確かめたかった。しかし、そのゆとりすら与えられないまま、特急は見る間に多磨霊園駅を過ぎていった。

 未来への希望とは、見えないが故の夢にすぎないのかも知れない。未来というその日が来れば、人はただ、潰え去った夢の残骸を懐かしく見返りながら、とぼとぼと一本の道を力無く歩いているだけかもしれない。

 そんな思いが一瞬私の脳裏をよぎった。

沈丁花
2003年12月24日
 数年の会社勤めを経て、私は、自分が卒業した中・高等学校に数学教師として戻ってくることになった。もうずいぶん昔のことである。

 故郷に帰るとはいえ、さしあたって住むところがない。アパートでも借りようかと、妻と私の双方の両親に、手頃なアパートが空いていないか調べてもらうことにした。

 そうこうするうちに、妻の実家から電話があり、庭の古い納屋に少し手を加えれば、夫婦二人くらいなら住めるという。是非そうしなさいと、強引な勧めである。だけど、そうなると妻の両親との同居ということになるではないか。私の心理的抵抗感は強かった。

 妻は大いに乗り気である。

「家賃は払うことにしましょう。そうすれば親に養ってもらうことにはならないでしょう。台所は一緒になってしまうけど、食事はわたし達の分だけ納屋に運んでもいいわけだし。アパートに住むより便利でいいかもしれないわ。ねえ、そうしましょう。」

 妻は一人でとんとんと事を進めてしまいそうな勢いである。

「そうは言ってもなあ、俺は養子じゃないんだからな。おまえの親父さんと一緒にしてもらっちゃ困るんだ。」

 妻の父は養子で、生まれは神奈川であった。はるばる一人娘の家に養子に来たのである。若い頃はそれでも義父母から離れて、台湾や九州に住んだこともある。松山に帰ってからも、子供が小さいうちは市内のアパートに独立して住んでいた。しかし、戦後すぐに夫を亡くして一人暮らしをしていた義母が歳をとってくると、いつまでも別居しているわけにもゆかず、妻が高校生になった頃には義母の家に同居するようになった。

 といっても、義母には古い家に住んでもらい、自分たちは同じ敷地内に新居を建てて住んだのである。

 考えてみるとその形は、いま私に勧めている納屋住まいとまさに同一パターンではないか。妻の祖母はなお健在で、私達が住めば三世代同居ということになる。しかも見かけは養子の養子である。おぞましさが先に立った。

「本当は私は松山に帰りたくはないのよ。府中で友達もたくさんできたし、ピアノのレッスンだってうまくいっているのに。あなたがどうしてもというから、仕方なく帰ることにしたのじゃない。」

 それを言われると立つ瀬がなかった。ここは一つ妻の言い分を通してやる必要がある。長くはいない仮住まいという条件つきで、妻の家の納屋に住むことにした。

 仮住まいの約束にもかかわらず、妻の両親は私達が住むとなると納屋の内装にも外装にも手をかけ、なんだかこざっぱりした新築家屋のように仕上げてしまった。送られてきた写真を見て私は気が重くなった。これなら気軽にアパートを借りた方がよほどいい。

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 といっても、すべては動き始めたのである。もはや後戻りはできない。

 府中からの引っ越し荷物を積んだ大型トラックは、妻の実家に隣接する空き地に巨体を乗り入れた。荷下ろしには私の父も加わった。まだ六十を少し過ぎたばかりで、力仕事も平気だった。

 何とか荷物を納屋の新居に運び入れ、「あとは自分たちでするから」と、運送屋や父、それに家内の両親にもいったん引揚げてもらい、妻と二人、顔を見合わせてほっと一息ついていると、入り口をとんとん叩く音がした。妻の祖母であった。皆で荷運びしている間は、祖母は家の中に引っ込んでいて、顔を見せることもなかった。

「きよしさん」

 妻と結婚した頃から、祖母は私のことをそう呼ぶ。

「きよしさん、よう帰ってきたなあ。あんたは私の実の孫みたいなもんじゃ。疲れたじゃろ。これお上がり。」

 金柑入りの手作りゼリーを何個かと、急須に入れた熱いお茶と湯飲みを持ってきてくれた。妻と二人でゼリーを平らげていると、また戸口をとんとん叩く音がする。

「沈丁花が咲いとるんよ。出てきて見てごらん。ええ匂いがするよ」

 ふたたび祖母であった。出て行くと、祖母は庭でたき火をしながら、人の腰あたりまでしかない小さな木を指さした。

「ジンチョウゲって言うんよ、これ。私の大好きな木。ほら、いい香りがするでしょう」

 庭の隅に、祖母が大事にしている沈丁花が一本だけぽつんと植わっていた。

 私は祖母というものを知らずに育った。母方の祖母は、私が生まれるよりもずっと昔に死んでおり、父方の祖母も、私が十歳にならないうちに死んだ。幼いころ、何度か父の実家に連れて行かれたとき、私はいつも庭に出て、珍しい農耕具や柿の木で遊んでいた。祖母に格別親しみを感じる機会もなかった。顔の輪郭すらはっきりとは思い出せない。

 ただ、死んで祖母が土葬になったときの様子だけは、なぜだか生々しく覚えている。棺桶を担いだ行列が墓地まで続き、土を深く掘った中にそれが下ろされた。上に土が被せられ、さらに足で踏み固められた。父の手にしがみつきながら、私は一部始終をじっと見つめていた。土葬になった小高い丘の上からは、水を満々とたたえた広い池が見下ろされた。

「父ちゃんが昔よお泳いだ池よ」

 そんな父の言葉も、昨日のように思い出されてくる。

 妻は子供の頃からおばあちゃん子で、両親よりも祖母になついていた。結婚してからもそれは変らず、私も思わず知らず、妻の祖母を自分の祖母のように感じることがあった。初めて知った祖母の味であった。

 祖母が育てていた沈丁花は、その後も春ごとに強い芳香をはなって私を迎えてくれた。十年ほどして祖母は死んだ。気がつくといつの間にか庭から沈丁花が消えていた。ここに植わっていたはず、というあたりを探してみても、水仙や野菊が茂って沈丁花は見当たらない。ひょっとすると祖母は、自分の死が近いことを覚ったとき、沈丁花を掘り起こして処分したのだろうか。いや、そんなことはありえない。それにしても不思議である。

 祖母の死を知った沈丁花が、祖母の供をして人知れず身を枯らしていった。私はそう考えることにしている。

 春になって沈丁花の香が漂ってくると、私は、「ほら、沈丁花よ」と、祖母が指さしたあの光景を思い出してしまう。

アトリエ
2003年12月26日
 府中から松山に帰って来たとき、私達夫婦は、「しばらくの間」との条件つきで妻の実家の納屋に住むことになった。納屋は南北に細長い長屋のような構造で、その南の端に、私達のために八畳ほどの畳の間と、押入、トイレ、洗面所が作られたのだ。その上、土壁をくりぬいて、本来はなかった広々とした窓が取りつけられた。台所のないのは不便だったが、まあ一応、夫婦二人が住むには十分な造りに改造されたのであった。

 納屋の北の端は、いつの頃にかすでに改造されていて、義父のアトリエになっていた。

 こうして、農作物の貯蔵や農具の収納という、納屋本来の目的を果たす空間は、両者にはさまれたごく狭い部分に押し込められてしまった。

 妻の実家の敷地は、中央に木々や草花が雑然と密生する庭があり、建物がそれを四方から囲んでいた。まず道路に面した南側には祖母の住む旧宅。東から北にかけて鉤形をした母屋。そして西側が納屋であった。

 祖母の住む旧宅は、もともとは藩政期に建てられた茅葺きの農家だった。跡を継いだ祖父が、戦前から戦中にかけて朝鮮総督府に勤務したため、農家は一時空き家になっていた。戦後、朝鮮から祖父と祖母が引揚げてみると、長く放置していた家はもはや住むに堪えず、やむなく壊して建て替えたのだという。それが祖母の住む旧宅であった。

 母屋は、妻の両親が祖母と同居することになったとき、新しく建てたものである。

 こうして考えると、敷地内で最も古い建物は、我々夫婦の住む納屋であった。この納屋は、当時すでに、築後百年はたつとの話であった。何世代にも渡って使い古されてきた挙げ句、なおも廃棄されず、改造されて住居になったのであった。執念深く生き続ける納屋であった。

 庭の中央には、百年や二百年の建物などまだまだ青二才にすぎないぞと言わんばかりの、巨大な松があった。言い伝えでは、南北朝の動乱期に、近在の武士が寄り集まる目印にした松だという。それが事実だとしても不思議はないほどに、いかにも古い巨松だった。

 この松はしかし、いつかの台風で傾き、倒れると危険だということで伐採されてしまった。いまはない。

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 妻は当初、「台所は親と一緒だけど、食事は私達の分だけ納屋に運んでもいい」と言っていた。しかし、住んでみると毎回毎回そんなこともしておられず、結局は母屋で一緒に食べることになってしまった。なんだか本当に養子になったようで、私は尻のこそばゆい思いを禁じ得なかった。

 そんなわけで、「早く出たい」という思いは募る一方だったが、反面、「わざわざ大工を入れて手をかけた納屋を早々に引揚げたのではあまりに情が薄いのでは」という、妻の両親への義理立てのような気持ちも働き、約束の「しばらくの間」の間合いを計るのに苦労した。

 といって、ここに住むのが別にいやだったわけではない。付近には山あり、川あり、谷あり、田畑ありと、ジョギングや散歩のコースには事欠かない。いつでもふらっと外に出れば、思う存分自然に同化することができた。

 義父の趣味につきあうのも楽しみであった。日曜日など、よく一緒にスケッチブックを持って絵を描きに出かけた。義父の絵はもっぱら水彩で、素早くスケッチして色を付ける技術にはいつも感嘆した。

 私は当時、勤めの帰りに油絵教室に通い始めていた。しかし、油絵では、水彩のようにさらさらとスケッチして終り、というわけにはいかない。義父につきあうときには、私もスケッチブックと水彩絵の具を持って出かけた。いっこうにうまくはならなかったが、それでも義父から盗み取った技術は少なくない。

 焼き物にもつきあった。砥部町に、義父がよく行く窯元があった。私も何回か一緒に出かけ、見よう見まねで土をこねたり絵付けをしたりしてみた。熟練を要する業であることは、やってみてすぐに分かった。絵付けの方は、素人でもそれなりに何とかやれるが、土こねはそうはいかない。土という対象が日常生活からあまりに遠いからだ。

 土を知らねば焼き物にならない。しかしそれは、見かじり、聞きかじりで得られる知識ではない。手先の感覚を通して経験的に知るより他に知りようのないものである。伝統工芸という、普段何気なく気楽に使っている言葉が、その実体としてもっている厳しさと奥深さを、窯元でプロの業を間近に身ながら体感したのであった。

 とはいえ、焼き物の世界の縁辺部には、初心者にもそれなりに味わえる楽しさがある。できの善し悪しにかかわらず、焼き上がった自分の作品を手にする喜びは格別であった。芸術的に客体視すれば価値はゼロかもしれない。しかし、自分がこね、絵付けをして作り上げた作品には、自分にしか分からない思い入れと味わいがあるのである。

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 納屋住まいは結局、三ヶ月ほどで終った。定年後悠々自適の創作三昧にふけっていた義父と、わずか三ヶ月とはいえ、ともにすごせたことは、私には貴重な経験となった。その後の人生にさまざまないろどりを与えてくれているのが、いまになってよくわかる。

 義父が死んで丸四年になろうとしている。義父のアトリエは、義父が最後に仕事をした日のままの姿で、いまも静かに主の帰りを待っている。

 描きためたスケッチブックが書棚から溢れ落ちそうになり、版画や焼き物が所狭しと並んでいる。短歌、俳句、川柳を書き記した手帳は、段ボール箱一箱では収まらない。

 翌日使うことを信じて筆立てに立てた絵筆がそのままになっている。

 版画台にも、彫りかけの板と彫刻刀が、その日のままに横たわっている。

 義父の創作魂が息づいているこの部屋に入ると、とてもこれらを片づけてしまえない気分になる。義父の息づかいを感じつつしばらく立ちつくし、そしてまたそっとそのまま部屋を出る。こんなことを何度繰り返したことだろう。

 そろそろ何とかしないといけないときだとは思っている。といって、どうすればいいのか妙案もない。

 時が熟すのをもう少し待つべきだろうか。

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