2003年7月4日 |
私が三、四歳の頃といえば昭和20年代中頃だが、当時の松山にはまだ、敗戦直前に受けた空襲の傷跡が随所に残っていた。 子供の記憶にもたしかなのは、焼け跡から春のツクシのように萌え出したバラックの仮住まいである。復員した男たちが焼け残りの板やトタンを拾い集めて作った、雨露をしのぐだけの小屋。戦後六、七年もたてば、そのほとんどは新しく建て替えられていたはずだが、それでもなお、表通りを一歩入ると、バラック小屋は当たり前の光景であった。当時の写真を見ると、市駅からまっすぐ北に延びる花園町の通りなど、20年代後半にしてなお、典型的なバラック住宅の家並みである。 私の家の近くにもそれらしきバラック小屋があった。卑弥呼の住まいを思わせる高床式で、畳はなく、目の粗い板が敷かれていた。周囲の壁も薄板一枚。明かりとりの小さな穴があるだけで、内部は昼でも暗かった。おばあさんと、若夫婦、それに私と同年配の女の子が住んでいた。入るとすぐ二、三段の踏み段があった。その上に荒削りの手すりがついた高床。そこがいわば玄関である。奥には居間と呼ぶべき小さな部屋が一つあった。床下が覗けるような目の粗い板敷き。 子供の遠慮なさで、一度だけ中まで入り込んだことがある。奥の部屋は、目が慣れるまではしばらく何も見えなかった。ようやく輪郭が区別できるようになり、よく見ると、敷きっぱなしの布団におばあさんが座っていた。私を誘い入れた女の子は、けらけら笑って布団の上を転げ回っている。布団のそばには茶碗やカップが食べ残しのまま重ねられていた。 寝ること、食べること、そして日中の生活すべてが、渾然一体となった散らかりようであった。子供心にもこの光景はおぞましかった。私の家も暮らしは楽ではなかったが、布団は朝にはきちんとたたみ、食器はその都度洗って食器棚にしまい、暮らしのけじめはしっかりしていた。 もちろんこの一家が、好きこのんでだらしない暮らしをしていたとは思えない。ひょっとすると、その日おばあさんは病の床に伏せっていたのかもしれない。よその子が入ってきた気配に、とっさに布団から起きあがり、乱れた髪をなでようとした、その瞬間を私は目撃してしまったのかもしれない。 女の子の両親は毎日きちんと仕事に出かけていたと、後に母から聞いたことがある。どんな仕事をしていたのかは知らない。 私が小学校に上がるか上がらないかの頃、一家はバラック小屋を引き払い、大阪に引っ越した。引っ越して数日すると、家に葉書が来た。引っ越しの挨拶だった。それについて話す母は、意外にも一家のことをよく知っている風だった。「かあちゃんはなんであの家のことをこんなによう知っとるんじゃろ」と不思議に思ったことを、今も憶えている。母と何らかのつながりをもった一家であったことはたしかなようである。 それから二十数年たち、私に長女が生まれた。名前をどうつけようかと思案し、妻と私のそれぞれの両親に相談した。母は 「私があれこれ言うよりも、あんたらが好きにつけた方がいいんじゃない。だけど、実を言うとね、一つだけつけてもらいたくない名前があるの。それは○○」。 その「○○」とは、あのバラック小屋に住んでいた女の子の名前であった。何十年も思い出すことのなかったあの家の女の子の名前が、こうして突如母の口から出たのには驚いた。 「あの子は後々、大変不幸な目に遭ったから、その名前だけは孫につけさせたくないの」という。 一方、妻の父は、運勢見に画数を調べてもらい、それに合った名前だというのを考えてきてくれた。見た途端、私はしばらく口もきけなかった。あろうことか、母が「これだけはやめて」といった、まさにその「○○」であったのである。こんなことってあるのだろうか。偶然というにはあまりにも不思議な符合であった。 結局は、運勢見が良しとした画数には従うことにして、それに合った名前を皆が持ち寄った結果、母が考えた名前が採用されたのであった。 それにしても、母が「○○だけはやめて」と言い出さなければ、ひょっとしたら生涯思い出すことすらなかったかもしれないあのバラック小屋の一家。私にとっては、あまたの竹馬の友の中で、ごく縁辺部をなしていたにすぎない女の子。ほんの二、三度遊んだだけのその子。その一家が、私の知り得ない世界で母と濃厚に結ばれていたとは。 母に聞いてもそれ以上は話そうとしない、不思議な縁がたしかにあったようである。 「あの子は後々、大変不幸な目に遭ったのよ」 という言葉は、こうした継続的な縁の存在をはっきり証明している。それのみか、「○○」という名前は、それが他から提起されたことへの反応として母の口から出たものではないのである。そうではなくて、白紙の状態おいて、つけたくない名前の筆頭に自ら積極的に掲げた名前が「○○」であった。一家のその後が母といかに深い関わりをもっていたかということを、これは暗示している。その女の子の不幸は母にとって、人生を揺さぶる衝撃であったものと想像される。 私から見れば、いつもニコニコ笑っている女の子であった。道ばたで一人でいると、そっと近寄ってきて「遊ぼう」という。私が他の仲間と遊んでいるときには、決して近寄ってはこない。 彼女と遊んだ記憶は切れ切れにわずかである。家の前の小川を何度も何度も飛び越えて遊んだ。卑弥呼の玄関の手すりにぶら下がって遊んだ。輪ゴムであやとりをした、…。そうそう、私があやとりというものを初めて知ったのは、その女の子によってであった。何度やってもうまくいかず、癇癪を起こして投げ出してしまった。それでも怒った顔一つ見せず、笑った瞳を私の目の奥に向けながら、何度でも手本を見せてくれた。 私よりほんのわずかお姉さん。心を許して甘えることのできる女の子だった。 その子にその先いかなる不幸が降りかかったのか。母を震撼させたその不幸とは何であったのか。 私が知る彼女は、親切でやさしい子。屈託のない笑顔の子。その子が、私を去った後、遠い遠い時空の彼方で、知られざる苦しみを背負い、悲しみに生きたのである。想像は許されても、手をさしのべることの決してできない分厚い壁の向こうで。 私の目に宿る屈託のない笑顔と、苦痛にゆがむその後の人生と、どうすればその狭間に橋を渡すことができるのだろう。 はがゆいようなこの思いをなんと呼べばいいのだろう。悲しい、つらい、かわいそう。いやいやそんな直情で表現できはしない。「切ない」、そう、これだ。苦しもうが、悲しもうが、それを決して相手に届けることのできないつらさ。それが切なさである。胸がキューンと締め付けられる。しかし、その思いは自分のうちで乾くのを待つしかない。人にぶつけることはできない。切ないとはこれである。 バラック小屋の一家を思い出すと、私は切なさに胸が張り裂けそうになる。 |
2003年7月13日 |
父と母が厳寒の中、油揚げの製造技術を習いに行った先は、製造機械一式を売りに出していた廃業予定の店であった。買い手を探していることを伝え聞いた父が、技術の伝授とともに、機械・道具のすべてを買い取ったのであった。 私が4歳になった春、見習いを終えた父は機械を運び入れ、仕事に着手した。今回は、それまでの真珠やウズラのような当座をしのぐ手内職ではありえなかった。大きな設備投資を必要とし、失敗すれば破産の憂き目に遭うかもしれない賭のような船出であった。一大決心を要した転職であったはずである。 以後、父はこの仕事に精魂を傾けることで、下駄工場で発揮していた職人気質に再び火を点すことができた。細部にこだわった創意と工夫が,父の仕事の命であった。 我が家の入り口には、墨で大書した「松山油揚製造組合」の看板が掲げられた。 我が家は左右対称の二軒長屋の東半分であったが、油揚げの製造を始めてからは、対称性に崩れが出てきた。裏庭に大きな屋根がつき、活気あふれる仕事場が出現したからである。 不思議なことに私は、仕事場になる前のひっそりとした仕舞た屋風の裏庭を思い出すことができない。庭に下りて遊んだ記憶もない。ものごころついた日から、私の遊び場は、部屋の中、玄関の土間、外の道路、家のすぐ横の路地と、家から外に向かう方向に限られていたらしい。家の裏手に庭があることを知らなかったはずはなかろうが、そこを自分の空間だと感じることはなかったようである。 一つだけ覚えているのは、裏庭の隅に渡り廊下でつながった便所があったことと、渡り廊下の途中に手水鉢があって、その横にナンテンの木が植えられていたことである。「あそこにナンテンの木があるぞ」と兄から聞かされ、わざわざどんな木か見に行った記憶がある。それが唯一、庭が庭であったときの記憶である。「ナンテン」という言葉もそのとき初めて聞き、奇妙な響きがそのまま耳に焼きついてしまった。 油揚げの仕事が始まると、玄関先の土間の一角に、原料になる大豆の袋が積み置かれるようになった。常に十袋ほどが、三、四段の高さに積まれていた。大豆を入れるこの麻袋を父は「ダンブクロ」と呼んでいた。今そのことを思い出して、辞書で引いてみると、「ダンブクロ」とは「ダニブクロ(駄荷袋)」がなまったものとのこと。言われるとその通りで、馬の背の両側にくくりつけるのにちょうどいい大きさの荷袋であった。 この大豆袋の山は、子供たちの格好の遊び場になった。壁に沿ってうずたかく積まれた山を、私たちはロッククライミングのようによじ登った。麻でできた袋だから滑りにくく、その上、大人でも一人で抱えるには苦労するほどの重さである。子供がよじ登ったくらいで崩れるおそれはない。 ものごころついて最初にできた幼な友達が数人、毎日家に遊びに来た。大豆袋の上で遊んでいると、父がときどき裏の仕事場から大豆を取りに来た。大豆はいつでも取り出せるように、二袋分ほどが大きな木の箱にあけられていた。そこから一斗枡で計って大豆を取り出し、仕事場にもってゆくのである。対角線に桟の入った大きな一斗枡であった。 私たちが遊んでいると、父は必ず、 「だーんするぞ、あぶないぞ」 と、声を掛けた。いつでも決まってその一言だった。崩れるおそれのないことは父も端から見越していた。 大豆がなくなりかけると、家の前に大豆の袋を積んだトラックがやってきた。電話はまだない頃である。大豆の卸問屋には父が自転車で知らせに行ったものと思われる。若い衆が二人乗ってきて、一人が荷台に立ち、もう一人が下で背中に袋を受ける。父も運び手になった。背中に袋を乗せたまま土間に運び入れ、仰向けにひっくり返るようにして、大豆の袋を積み上げていった。 それを見るのも、子供たちにとっては大きな楽しみであった。荷台が空になり、袋の山が天井に届くほどになると、子供たちのロッククライミングはいっそう興を増した。 玄関の土間が子供たちの尽きない遊び場であったのは、大豆袋だけの故ではなかった。土間には、父の愛用の自転車があり、さらに木の空箱がいくつもころがっていた。ロッククライミングに飽きると、私たちはよくかくれんぼをした。隠れる場所は決まっている。空箱の中である。身を押し込めて、顔を両手で覆えば、上からは丸見えでも、子供たちにとっては紛れもない隠れの身となる。 隠れ場所は決まっていても、子供たちは鬼になれば嬉々として探し回るのである。それが子供の遊びであった。何度も何度も同じ絵本を読んでもらい、その都度喜びを新たにするのと同じである。 知恵がないといえばないのだが、大人の目には見えない違いを、子供はその都度発見しているのである。大人の既成概念を適用すれば、一度読んだ本はすでに一つの範疇に属して、それ以外の物ではない。一度体験すれば、早くもそれは一つの言葉に括られてしまう。それが大人の世界であり、大人の物の見方である。固化した概念を共通の約束として、人は互いを認識し、枯れた世界に生きている。 子供には固定の概念はない。「木箱」を共通に括る概念はない。そのときそのとき、目の前の物が、「あれ」であり「これ」であるのである。先ほどの「これ」も今の「これ」ではないのである。同じ木箱でも、先ほど隠れた木箱と、今隠れている木箱は明らかに別物である。子供はその違いを敏感に察していた。 概念に括られた世界は一つの上部世界ではあろうが、事物に密着しない枯れた死の世界でもある。子供たちにとっては、事物と自分との区別も定かにはなく、すべてが一つに溶け合っている。事物そのものを事物のままに受け入れて楽しんでいる。時空間の四次元性をありのままに受け入れているのである。一瞬前の「これ」と今の「これ」の違いを、四次元性の中にあるがままに感じ取っているのである。 今思うと、実に無垢な時代であった。概念に毒されず、人間関係に泥塗られない、澄み渡った宇宙空間を漂う時代であった。天才と呼ばれる早熟の子供がいるものだ。彼らはこの無垢な時代を経ることなく、言葉と概念の世界に突入させられた作り物の人間ではないかと思う。世の概念を誰よりも早く我がものとした分、大人からは「天才」と呼ばれることになるのだが、彼らは決して宇宙の実在の中で「超人」ではないだろう。私はそう思う。 当時、我が家で遊ぶ幼な友達は、私を含めて四人いた。遊びの輪が広がる前の、私にとって最も懐かしい初期グループの子供たちである。今生きているのはそのうち三人。大人になって後も、ときおりは交わりを持ちながら、それぞれにそれぞれの道を歩んでいる。 |
2003年7月28日 |
油揚げを始めても、家計の苦しさがすぐに解消できたわけではなかった。戦前からの蓄えをただ食いつぶすだけの生活から、多少はそれが残る生活へと、わずかばかりの方向転換がなされたことに、父や母はほっと一息ついたというのが実情だったと思われる。 油揚げを始めた頃の一時期、家の二階に学生を下宿させていたことがある。わずかではあれ、下宿料という定収入が得られるのが魅力で始めた素人下宿であった。大学に登録しておけば、学生は大学から斡旋してもらえた。賄いなしでよいとのことだった。 子供はまだ小さいから、当分は階下だけで暮らしていけるだろう。二階には玄関の土間からそのまま上がれるし、裏のトイレも土間づたいに行ける。他人を住まわせたとしても、階下の生活に踏み込まれる心配はない。余った部屋で定収入が得られるのなら、ありがたい話ではないか。そう考えて、気楽に始めた下宿屋であった。 二階は八畳一間きりだった。しかし、その八畳というのが、床の間と飾り戸棚付き。その上、南に面して廊下がある。実質は十二畳ほどの広々とした部屋であった。 「よその兄ちゃんが住んでるんだから、上がったらいかんよ」 そう母から禁止されていたにもかかわらず、私はちょくちょく上がっていった。私が上がると学生は喜んで相手をしてくれた。 指相撲をやって、ちっとも勝てなかった思い出がある。私は必死だが、相手は二十歳の青年である。指の敏捷さが決定的に違う。目の前にある相手の親指に何とか食らいつこうとするが、タッチの差で逃げられてしまう。誘いのスキを本当のスキだと思い込み、必死で飛びかかる。一瞬捕らえたかに見えるが、わずかに届かず逃げられる。そのうち、なんということはない、その気になれば、ひょいと私の指は押さえつけられてしまい、もうどうすることもできない。何度やっても結果は同じである。 兄とも親とも違う、抗いようのない巨大な力を私は全身に感じとった。 あるときは、そっと足音を忍ばせて上がっていき、うたた寝をしているところにいきなり飛び乗った。ギャフンと言わせるつもりであった。ところが目覚めた獅子は強かった。逆に手足を捕まれて身動きできなくなり、「ごめん、参った」と言うまで学生の腹の上でもがき続けた。 下宿業は長くは続かなかった。結局は踏み倒されて、廃業せざるを得なくなったのだ。下宿料をため込んだまま学生は卒業していった。母は学生の実家に督促の手紙を書き、ついには南予のその実家まで下宿料を受け取りにいったという。表面では人と諍うことを絶対にしなかった母の、内面の厳しさを垣間見るようなエピソードである。当時のせっぱ詰まった家計を傍証するエピソードでもある。 私が小学生の頃、二階は七つ離れた兄の勉強部屋になっていた。兄が大学に入ってからは、私が引き継いだ。南には障子に仕切られて廊下があり、その外は全面窓。北側にも一間幅の窓があった。広くて明るい部屋であった。 二階から北を見ると、家並みの向こうに低い山が連なっていた。その連なりの西の端に、正規分布曲線をうんと尖らせたような、形のいい山が突出している。高さ164mの御幸寺山である。太古の昔にできた死火山で、「御幸(みゆき)」の地名は、古代の天皇が道後温泉に行幸したことに由来するという。 御幸寺山には子供の頃何度も登った。南の正面から登ると傾斜がきつく、赤土の崖と岩肌がむき出しになっている。手をついて這うように登らないといけない。西からだと比較的なだらかで、楽に登れる。道後に湯築城があった頃には、この御幸寺山の山頂にも城があったという。水もない瓦礫の山頂に、はたして人が住んでいたのか。不思議である。城というよりも砦というのが当たっていたのかもしれない。 その山の麓に御幸中学があった。今の城東中学である。私が小学生のとき、御幸中学が火事になった。兄はそのとき家にいなかったように記憶するから、小学六年生の時だったと思われる。 「大変、すごい火事よ。御幸中学が燃えているよ」 夜中、母に起こされて二階の窓から見ると、北西方向が真っ赤に焼けていた。直線距離にするとわずか五、六百メートル。火柱が間近に、天上高く立ち上っている。吹き上がった火の粉がこちらにまで降りかかってきそうな勢いである。巨大なたき火だと、そのとき咄嗟に私は感じた。巨人が現れて、寒さをしのぐために町の一角に火をつけたのではないかと。火柱はごうごうと空に噴き上がっていた。おそらく高みで巨人は手をかざしているのだろう。 その夜燃えたのは講堂であった。翌朝出かけてみると、燃え尽きた黒々とした残骸が、くすぶって白い煙を吐いていた。 御幸中学に隣接してすぐ南に、私の通う東雲小学校があった。団塊の世代の私たちは、東雲小学校の全教室を使っても生徒たちを収容しきれず、かつては講堂として使っていたと思われる粗末な木造の建物をも教室にしていた。そのため、年に一度の大行事である学芸会(特別な名称があったように思うのだが、思い出せない)には、御幸中学の講堂を使わせてもらっていた。 学芸会は運動会と並ぶ大きな行事で、地域の親や祖父母が弁当持参で集まってきた。薄暗い会場には独特の「ハレ」の雰囲気があり、舞台で自分がやることにはあまり気乗りのしなかった私も、場の雰囲気は大変に魅惑的であった。毎年ひそかに心待ちにする行事であった。学芸会の会場であった御幸中学の講堂は、その意味で私にとって特別な思い入れにつながった場であった。 燃え落ちたそれを眺めて、奇妙な感慨に襲われた。過ぎてしまった楽しみは、心の中にこそ引き継がれているけれど、事物でそれをとどめておくことはできないのだと、私はしみじみ知らされた。 その年の学芸会は、東雲小学校の西隣にあった愛媛大学の講堂で行われた。暖かみのある木造の講堂から、冷え冷えとしたコンクリートの講堂に移り、しかも照明がやけに明るくて、学芸会の魅力が半減されてしまったことを覚えている。 |