カタカタ押し車
2003年6月7日
 今年の五月は、土曜も日曜もない、働きづめのひと月でした。囲碁や将棋の大会への生徒たちの引率 (一つの大会で日曜日が丸一日つぶれる痛さ!)、所属している教会の親睦行事の世話 (当日の世話と事前の準備)、学校図書館をIT化するための講習会への参加 (東京に行ってきました)、突然舞い込んできたテレビ出演 (放映時間はわずかでも、撮影には結構な時間を費やしました)、などなど。しかもこれに加えて、頼まれた原稿の締め切りに追われ、夜なべにつぐ夜なべ。

 諸々の仕事を一つまた一つとあえぎつつこなし、原稿の方も締め切り間際になんとかピリオドを打ったのが、先日の火曜日。ようやくフリーな身を取り戻し、ほっとしているところです。


 今年度から、学校の図書館長という仕事を仰せつかりました。授業のないときは図書館で過ごすことが多いのですが、図書館にいると右も左も読みたい本であふれています。まるでお菓子の国に迷い込んだ子供です。書架がそばになければ、いわゆる知らぬが仏で、読みたい欲求に駆られる度合いも少なくてすむのですが、四六時中本に囲まれていると、いやでもうずうずと欲求が頭をもたげてきます。といっても、現実に読むことのできる本は限られていますから、気持ちばかりがはやって押さえきれなくなる。恵まれすぎた悲哀を味わっている毎日です。

 消化すべき仕事が山積している間は、それでもぐっと我慢して仕事に精を出してきました。やっと自由な時間を回復した今、これからは好きなだけ読もうと、心を躍らせています。

 「幼い日々」にもやっと手を戻すことができそうです。再開します。

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 幼い私が家族以外の「他人」を初めて意識したのは、東一万町に引っ越してしばらくたった、二歳半ばの夏だったように思う。それを物語る場面が記憶の隅に焼きついている。

 私の家は南が道路に面した二軒長屋の東半分、その横に路地があった。路地は一見すると袋小路だが、突き当たりに子供がやっとすり抜けられるほどの細道があって、それを伝えば、裏手の道に通じていた。子供たちにとってこの路地は、誰に干渉されることもなく遊べる自由空間であった。実に様々な遊びを子供たちは考えだし、毎日暗くなるまで遊んだ。ときには変則的に細長い三角ベースの野球までやることができた。

 後に大人になってから、たまたま通りかかったついでに、懐かしさのあまり路地に足を踏み入れたことがある。あまりの狭さに唖然とした。これがあの路地? 野球までやったあの路地がこれ? 記憶と現実の齟齬に呆然と立ちつくしたものだ。

 路地をはさんだ東隣は、例のニワトリ小屋の家である。かつてこの辺り一帯を所有していた地主の家だと、母から何度か聞かされたことがある。敷地は、私の住む二軒長屋の、さらに二倍ほども広かった。

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 二歳半ばのその日、私は路地の入り口にひとり立っていた。そばには、しゃがみ込んで子供を遊ばている老婆がいた。私の背後にもう一人若い母親がいたような気がする。老婆が遊ばせている子供は私よりやや年下らしかった。

 老婆はしきりに子供に声をかけていた。

「さあ、よしよしこっちにおいで」

「じょうず、じょうず、こんどはむこうむきよ」

 子供はカタカタ押しで遊んでいた。車輪が回ると、カタカタと音を立てながらウサギや犬が順に跳ね上がっては落ちる、木製の押し車である。子供は私の目の前で、行ったり来たり、何度も路地を往復していた。

 私は老婆のそばに突っ立ったまま、カタカタの動きを見つめていた。順に跳ね上がっては、カタカタと音を立てて落ちる動物たちが、私の目を釘付けにしていた。

 自分もやってみたいという気持ちが働かないはずはなかった。しかし、「これは自分のものではない」という踏み越えることのできない決定的な一線が私を縛っていた。私にはただ眺めていることしかできなかった。

 老婆は私の背中越しに子供に声をかけながら、同時に、私の背後にいたと思われる若い母親と世間話に熱中している風であった。

私は寄りかかるべき大人を持たない孤独の空間で、カタカタの動きをただ凝視し続けていた。

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 これが「他人」を意識した最初の瞬間である。

 当時、父も母も食うための仕事に、いや正しく言えば、食うための仕事を探し求めることに、日々精一杯の暮らしをしていた。私を遊ばせるために時間をさくゆとりなどなく、ましてや遊具を私に買い与える経済的余裕などどこにもなかった。

 私は幼いころ、発達の遅れた子供だと周囲から見られていたらしい。あまりしゃべらなかったから。周囲の動きを常に観察してはいるが、自ら他者に働きかけることはせず、いつも無口でいる。後々まで私の習い性となった性格である。

 うんとのちに母から「ごめんね」という言葉とともに聞かされたところによると、私の無口は、幼いころ母が私に語りかけをしなかったせいだという。たしかにそうかもしれない。私にとって言葉を発達させるべき最も大事な時期は、母が毎日手内職などに明け暮れていた時期に一致する。

 毎夜眠りにつく前、布団の中で子守歌や昔話を聞かせてくれた、それが母から言葉をかけられる唯一の機会であった。毎夜毎夜私は同じ話を母にせがんだ。話の筋を覚えてしまった私は、先行するイメージに母の言葉があとからついてきてくれる喜びと安心感で眠りにつくのだった。

 そのころの私にとって言葉は、自分の意志を他者に伝える道具などではありえなかった。自分の内側にイメージの空間を限りなく広げてくれる道具、それが言葉だった。

 言葉の持つ二つの側面の、片方だけで私は育ったのかもしれない。周囲から知恵遅れと見られていたことなど、当人の知ったことではなく、庭の片隅でいつまでも飽きることなくアリの動きに見入っている、そんな子供に育っていった。

 それでも徐々に成長した私は、行動圏を戸外に広げ、ある日、家の横の路地まで歩いてみたのだった。そこに老婆と子供がいた。子供がカタカタで遊んでいる。老婆は子供に話しかけ、同時に彼女は若い母親とも世間話に興じている。

 目に飛び込んできたこの世界は、自分がこれまでつながっていた内なる世界とは異質の世界であることを、私はとっさに悟った。自分とは空間を共有しない絶対的な他者の世界であった。驚きの目でひたすら見つめ、カタカタの音と動きに全神経を集中させる。可能なのはそれだけであった。老婆の言葉は私の背中を越えて、私などまるでいないかのごとく子供に向かっていった。私にとどまることはなかった。ましてや背後で老婆と母親が交わす会話においてをや、である。

 こうして私は冷徹な他者の中に迷い込み、しかし、それを通して思わず知らず、言葉の持つ別の側面を感づかされていったのであった。

真珠細工、ウズラの卵売り
2003年6月15日
 職を定めるまでの二年間ほど、父と母は、真珠細工やウズラの卵売りで当座の糊口をしのいでいた。

 東一万町に引っ越して最初に始めた仕事は、模造真珠をつないでビーズを作る手内職だったと思われる。そのころの私はまだあまりに幼く、後になって思い起こすことができるような真珠細工の場面を一つも憶えていないのではあるが…。

 かつて両親が真珠細工をやっていたという事実を、私に直接結びつけてくれる物的証拠は、部屋の片隅に積み置かれていた木箱であった。広くて底の浅い木箱がたくさんあって、どれにも格子状の小さな仕切りが入っていた。五、六歳になったころ、それが何なのかを母に尋ねたことがある。

「これはねえ、あんたがうんと小さかったころ、真珠を糸に通してネックレスや腕輪を作る仕事をしていたときのものなのよ。いろんな種類の真珠があったから、間違えないように、仕切りをした小さな部屋ごとに入れておいたの」

「ふーん」

「あんたは小さかったから、憶えていないかねえ」

 母に尋ね、母が答えたこの場面は、鮮烈な記憶として今に残っている。人には、本人にすら知りえない遠い過去の世界があることを、木箱と真珠細工という具象によって私は初めて知らされたのであった。なんだか甘い乳のにおいに包まれているような、懐かしい過去、自分のふるさと。真珠細工を思い浮かべることは、子供のころの私にとっては、遠い遠いノスタルジーの世界への想像の旅であった。

 今にして思えば、真珠細工は、苦しい家計をやりくりするための、急場しのぎの手内職であった。食うためには少しでも多く働かねばならない。起きてから暗くなるまで、裁縫台の前で黙々と真珠に糸を通している母の姿が想像される。母のこの仕事のために、私は物言わぬ子に育ったのかもしれない。しかし、私はそのことを恨みに感じたことはない。それどころか、私の根っこに座っているこの性格を、わたしは十分すぎる満足感で受け止めている。

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 真珠では食えないとわかった父は、ウズラをやることにした。ウズラがいい商売になると、どこかで聞き知ったのであろう。

 家の入り口に六畳ほどの土間があった。その壁にびっしりと棚をとりつけ、ウズラを飼い始めた。ウズラが卵を産むようになると、父は割れないように気をつけながら丁寧に箱に詰め、自転車で卸しに出かけるようになった。私も何度か自転車に乗せられて一緒に出かけた記憶がある。

 私の記憶に残っている卸し先は二軒ある。一軒は、家から西に四、五十メートル行った最初の角を右に折れ、そのまま北へまっすぐ数百メートル進んだところにあった。南北に延びているさほど広くないこの道は、南に行けば、電車道を横切って、測候所(今の松山地方気象台)の横を通り、御宝町に抜ける。北に行けば、道後温泉駅から西に流れてくる小川沿いの道に突き当たり、そこを東に折れれば道後温泉に至る。

 今となっては知る人も少ないのだが、実はこの道、明治の後半期に松山市内を走っていた坊ちゃん列車の、道後から一番町方面に向かう軌道の跡地である。現在の市内電車の軌道は、この坊ちゃん列車に対抗して大正期にできた松山電気鉄道の軌道である。

 両路線は、8の字を描くように途中で互いに交差して、道後と一番町を結んでいた。対抗心むき出しで張り合っていたのである。

 卵の卸し先は、この坊ちゃん列車跡地の道沿いにあった。小さな店だった。

 もう一軒は、道後の堀端にあった。道後公園をぐるりと囲むこの堀は、かつての名城・湯築城の堀である。鎌倉末期から戦国にかけて、地元の豪族河野氏の居城であった湯築城は、徳川の時代になり、加藤嘉明が今の城山に松山城を築いた際、三百年の歴史に終止符が打たれて取り壊された。

 道後公園の南側を、堀に沿って風情のある古道が通っている。道をはさんだ堀の反対側には小川が流れている。父が卵を卸していた店は、その道端の小川に面していた。

 父は自転車を止め、店の前の小さな橋の上に立った。

「入るか」

 父は言ったが、

「ううん」

 私は首を横に振り、父がガラス戸を開けて中に入るのを見送った。中で父が用を済ませ、店主と雑談を交している間、私は橋にしゃがんできらきら光る川の水を眺めていた。小石や貝殻が神秘的な光を放ち、その上をとどまることなく水が流れて、渦になり滝になり、微細な反照の変化が川面を駆けめぐっていた。飽きることのない万華鏡であった。

油揚げの見習い
2003年6月30日
 四歳になるかならないかの、凍えつくような朝、私は突然眠りの底から揺り起こされた。天井から垂れた豆電球の明かりが、気ぜわしく動く人影を照らしている。陰になった背後には、黒々としたタンスが闇に埋もれていた。

 「起こしてごめんね。ぬくくしておいてあげるから、また寝たらええんよ」

 耳元で母のささやきが聞こえる。

 何が起きたのかわからない私を父が抱き上げ、外に出た。道端に自転車が止まっていた。荷台に大きな竹かごがくくりつけられている。私はその中に押し込まれた。暁にはまだ遠く、澄み透った空は無数の星のまたたきで埋め尽くされていた。

 父のあとから出てきた母が、私のまわりに毛布を詰めた。

 「先に行っとくけんの」

 「はい、S(私の兄)を学校に送り出したら、私も行きますからね」

 あたりは寝静まっている。人通りはない。星明かりの町筋を自転車は動き始めた。私は、しばらくはかごから顔を出して眺めていたが、自転車が電車道に出る頃にはもう眠りに落ちていた。

 目が覚めると、そこは三方を板壁に囲まれた見知らぬ小部屋だった。小さな窓からきらめくような朝日が差し込んでいた。壁際に大きな風呂敷包みが置かれ、足元には火鉢が据えられていた。老婆が一人火鉢にしゃがんでいた。

 「起きたかえ」

 親しげに声を掛けてきた老婆の姿も、その声も、私には覚えがなかった。

 「心配せんでええよ。父ちゃんと母ちゃんは向こうにおるけんの」

 部屋は海水浴場の貸間のようで、土間に向かって開いた上がり口には、壁も障子もなかった。「向こう」と指さされた方を覗いてみたくて、私は上がり口まで歩いた。

 上がり口の板壁に手をかけて土間を見渡すと、左前方は広々とした仕事場になっていた。熱気と湯煙が一面に立ちこめていた。

 湯煙の中に、後ろ向きに立って仕事をしている母が見えた。父はその奥にいるようだが、霞んで見えなかった。

 小部屋はどうやら仕事場の隅に造りつけられた休憩所であった。

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 父が家の玄関先でウズラを飼ったのは長い期間ではなかった。四歳の春には、ウズラは処分され、我が家は油揚げ屋になっていた。油揚げの技術を習うため、父と母は一週間ばかり、油揚げ屋に通った。厳寒の二月であった。

 この日は見習い修行の初日であった。

 私が起き出した様子に、母は仕事の手を休めて小部屋にやってきた。

 「おばあちゃん、すみませんでしたね。もういいですよ。あとは私がしますから」

 そんなことを言いながら母は小走りに小部屋に上がった。老婆はこの家の主の母で、私が起き出すまで側で見ていてくれたものと思われる。

 母は、家から用意してきた朝食用の弁当を取り出し、私に食べさせた。済むとすぐに、

 「この近くで遊ぶんよ。遠くに行ったらいかんよ」

 そう言い残して仕事に戻り、私は一人になった。

 部屋にいてもすることがないので、土間に下り、仕事場を覗いてみた。仕事場は大きく二つの区画に分かれていた。手前は油の入った大きな鍋で豆腐を揚げる場所。薄く切った豆腐を揚げてアゲを作るのである。母はそこで仕事を習っていた。

 奥の空間は、豆腐を作る場所。大豆をふやかしてすりつぶし、それにニガリを加えて煮て絞り、絞り汁を木枠に入れて固めると豆腐になる。父は豆腐作りの技術を習っていた。

 豆腐作りの大きな湯釜と、豆腐を揚げる大きな油鍋。湯気と油の熱気が仕事場を包み、真冬でも、体がほてってきた。

 仕事を見るのに飽きた私は、仕事場の外に出た。表通りから細い路地を入った裏庭が、仕事場の入り口であった。裏庭は奥の製材所と共用になっていて、製材所の丸太がうずたかく積まれていた。丸太に座って私は一人で遊んでいた。

 今思うと、長い時間をよくまあ一人で過ごすことができたものだと、不思議に思われるが、丸太には子供にしかわからないいろいろな遊びの対象が潜んでいて、飽きもせず丸太に乗って遊んでいた。あるいは、ひょっとすると近くの子供がやってきて、一緒に遊んでくれたのかもしれない。しかし、少なくとも私の記憶には、丸太に乗って同年配の子供と遊んでいる場面は残っていない。

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 一度だけ、小学五年生が終わろうとしていた兄が、学校帰りに仕事場にやってきたことがあった。いつものように丸太に乗って遊んでいると、学生服姿の兄が突然目の前に現れた。驚きとうれしさで私は有頂天になり、兄の手を引いて丸太に乗せ、一緒に遊んだ。

 しばらくすると、兄が、

 「もうちょっと遠くに行こう」

 と言い出し、母の許可を得て、表通りの空き地まで出かけた。それだけでも、私には嬉しい冒険なのに、その上、兄はポケットからキャラメルを取り出して、私に食べさせてくれた。なんだか兄が、夢を与える手品師のように見えた。

 見習いの一週間を終えた最後の夕方、いつものように暗くなった町を、父が自転車をこぎ、母がサドルの前に腰掛け、私は荷台のかごに入って、帰路についた。帰り道、上一万交差点の角にあった書店の前で、母が

 「ちょっと止めて」

 と、父に頼み、母は私を連れて書店の中に入った。いつもはただ通り過ぎるだけで、気にとめることもなかったが、中は明るく灯された別世界であった。入り口近くにあった絵本のコーナーで母は本を選んでいた。私はただ物珍しく、店内を行ったり来たり走り回っていた。しばらくして母が選んでくれた本は「はなさかじいさん」だった。きれいなカラーの絵本に私は胸を躍らせた。

 経済的には苦しいどん底にあった私の幼年期、母が私に買ってくれた唯一の絵本がこの「はなさかじいさん」だった。書店の明るい蛍光灯の記憶とともに、この本を買ってくれたときのうれしさはいまだに忘れることができない。帰ってから私は何度も何度もそれを読んでくれるよう母に頼み、一枚一枚の絵が、満開の桜のように、幼い頭に鮮明に焼きつけられたのであった。

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