トリ小屋に住む母と子
2003年5月16日
 「二歳の春」を端緒とする幼い日々の記憶を、時間序列にこだわらず、思い出すままポツリポツリと綴ってゆくことにする。

 敗戦から五年たった春、九歳の兄と二歳の私を連れた一家四人は、河原町にあった家を引き払い、東一万町に移り住んだ。新居は南に面した二軒長屋の東半分であった。かつて兄と二人で始めた下駄工場も、兄の死後は兄嫁が取り仕切るようになり、ぞんざいに扱われた父はすでに工場をやめていた。とはいえ新しい仕事の当てがあるわけでもない。苦しい失業状態での転居であった。売った家と買った家の差額を運転資金として何とか新しい仕事を開拓したい。人生再出発の必至の願いがこめられた転居であった。

 それから十数年、私は多感な幼少年期をこの東一万町で過ごすことになった。人格形成にとって最も大事な時期、最も充実し、最も思い出多い時期、それが私にとっての東一万時代である。

 東一万町は、上一万交差点から農事試験場 (今の県民文化会館) にいたる区間の北側一帯の町である。道後から市内に向う市内電車がすぐ南を走っている。大正期には道後と市内を結ぶもう一本の鉄道があり、両者はちょうど東一万のあたりで交差していたらしい。

 敗戦間際の七月末、松山は大空襲に見舞われた。町は全滅し、記録によれば、焼け残ったのは道後、持田等の一部のみとあるから、東一万周辺はおそらくすっかり焼け野原になったものと思われる。

 焼け野の中から雑草のように、焦げたトタンや木材を利用したバラック小屋が建ち並び始めた。私も幼い頃、あちこちにまだそれらが姿をとどめているのを目にした覚えがある。中でも私の脳裏を離れないのは、バラックとも呼べないトリ小屋に住む母と子のことである。あの光景は今も忘れることができない。

 何かの拍子に隣家の庭に迷い込んだ私は、庭の隅に小さなトリ小屋を見つけた。覗きこむと、薄暗い小屋の中にニワトリはおらず、代わりに人がいた。ぼろをまとい、幼子を胸に抱いた母親であった。地面にじかに筵を敷き、母親はその上にしゃがみこんでいた。体を伸ばすことすらできない狭くて暗いトリ小屋である。

 母親は黙ってじっと、おびえたように私を見つめていた。見られてはいけない現場を見つかってしまった恥じらいと慙愧の念が目に浮んでいた (と今の私には思われる)。幼い私の方もまた、見てはいけない人生の暗部を覗き見してしまったような、暗く悲しい罪の心でいっぱいになった。母親と私とは目をそらすことも口を開くこともできないまま、しばらく呆然と互いを見つめ合っていた。

 母親の横には、わずかな所帯道具らしきものが積み置かれていた。その清楚な暮らしのにおいが、なおいっそう場の空気を物悲しいものにした。

 私はその後何度か彼女の姿を見かけたように思う。辺りの気配をうかがいながら忍び足で隣家の裏木戸を出入りする姿である。しかしいつしかそれも絶え、すっかり彼女のことを忘れてしまった頃には、隣家の庭からニワトリの鳴き声が聞こえるようになっていた。三つか四つの頃のことである。

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 それよりももっと前、「二歳の春」からさほど時をへない頃の記憶がある。私を抱いて散歩している父の腕の中で、ふと眠りから覚めたときの記憶である。日はすっかり落ちていて、薄闇があたりを包んでいた。

 桜が咲き初めた頃と思われるその宵、引っ越したばかりの父はおそらく町の様子を探りがてら、私の手を引いて散歩に出かけたのであろう。眠くなった私はやがて父の腕を求めて抱かれ、寝入ってしまった。父は私を抱えて農事試験場のあたりまで足を伸ばし、帰りは細い路地を縫うようにして家の近くまで戻ってきた。私が目を覚ましたのは、電車道から一筋北側にあるわが家の前の道に差しかかったときであった。

 突然目覚めた私の目に映ったものは、一面真っ暗な闇であった。「二歳の春」が光の原初風景であるとすれば、それから時を経ないこの「目覚め」の記憶は、私にとって闇の原初風景となった。暗い闇に出会うたびに、私は無意識のうちのこの原初風景を思い起こしてしまう。

 闇に目が慣れてくると、目の前に何本もの丸太が立てかけられているのが見えた。後の経験に照らせば、疑いなくそれは大工の資材置き場の丸太である。わが家から数軒先にあった。
 暗い中にかすかに浮き上がったおびただしい数の丸太と、それを透かして彼方まで続く闇。私の中で闇は、立ちふさがった抗いがたい壁とも見え、同時にすべてを包み、すべてを許す安らぎの源とも見えた。

 父の腕に抱かれた安堵感を母体として、闇の暗さと透明感は、恐れよりも親しみを私にもたらしたように思う。

 私はぼんやりと目を開けて父の腕に抱かれていた。やがて家に戻ると明りの中に降ろされ、さらに、母が敷いた布団に寝かされた。私はそのまま闇の余韻とともに眠りについたのであった。

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 このなんでもない生活の一こまが消えない記憶として残ったのは、不思議といえば不思議なことである。しかしそれには十分な理由があったように思われる。私の人格形成を一つの彫刻にたとえれば,決定的に重要なノミが,その瞬間,工 (たくみ) の手によって振り下ろされたのだと、私には思えるのである。

 いきなり眼前に立ちふさがった闇の世界と、明るい光の下への回帰、そしてまた、眠りにつく前の闇の余韻。私は波に漂う藻屑のように闇と光の間を揺り動かされ、それによって、この世界には対立しつつも調和する二つの色彩があることを、幼いながらに直覚させられたのだと思う。しかもその二者は、一方が善で一方が悪、一方は重く一方は軽い、などと単純に片付けられるものではなく、互いに補い合って一つをなす、同一物の表裏にすぎないことをも、そのとき直覚したのであろう。

 この「対立の裏の調和と合一」という、思考以前の無意識的感覚は、私の人格形成の中で、たしかに根源的な役割を果たしていることを、今も自覚している。

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