2002年11月9日 |
自分の記憶を究極の原点にまでさかのぼったとき、そこにはどのような光景が開けてくるのでしょう。あるいはそもそも、遠い過去の漠とした闇の中で、記憶のスタート地点を探し当てることなど、できる相談ではないのでしょうか。 さいわい私の場合、かなりはっきりと特定できる日付をともなって、スタート地点を示すことができます。身の回りの世界を初めて意識的に、意味あるものとして眺めたのはこのときだと、確信できる一つの光景がくっきりと脳裏に焼きついているからです。 一九五〇年三月末のよく晴れた朝のこと、二歳になったばかりの私は、春の日を満面に受けた南向きの三畳間で、母の膝に抱きかかえられていました。前置きのない物語のように、気がつくと唐突に私は母の膝の上にいたのです。ちょうど母が私の足の爪を切り終えたところでした。 記憶の出発点となるこの瞬間、私の目には見えるものすべてが明るく輝いていました。ビッグバンで生まれた宇宙が、やがて光を解放して晴れ上がったように、意識が闇から解放された瞬間でした。 不思議なことに、その一瞬前の世界を私は思い起こすことができないのです。一瞬前はまだ、内なる自分と外なる世界とが溶けあった、混沌の中にありました。ですから、爪を切ってもらっていた場面は、輪郭ある光景としては浮かび上がってきません。その場面を闇に置き去りにしたまま、私の記憶はその直後から始まるのです。足指に加えられていたリズミカルで心地よい刺激を、身もだえするように激しく追憶している場面が、私の記憶の出発点です。 くすぐったい刺激を残して、母は爪を切り終えました。身をまかせていた快感を突然もぎとられた私は、空虚となった足先に目をやり、今の今までそこにあった心地よさを、からだ全体で追い求め、追憶したのです。 この瞬間、私の中で、過去が現在から切り離されました。失われた過去を想起し、取り戻そうとまさぐる私に、神は時来たれりと、意識をおおっていた混沌のヴェールを吹き払ったのでした。過去と現在との分離は、自己と外界との分離をも意味しました。私の目に、外界が輪郭のある形として見えてきました。 さらには、自分の肉体をこの私自身から区別して客体視する目をも、神は私に与えました。意識に灯がともり、記憶が始まった瞬間です。 私は母の手に抗って膝を滑り降りました。振り返ると巨大な像のように母が視界を覆っていました。膝から腹、胸、顔と、視線を移しながら母を見上げました。母は、ローラ・インガルスの少女時代によく似た、きりっとした切れ長の瞳で私を見つめていました。右手は爪切りばさみを握り、裁縫箱にしまうところでした。左手は私の背中に伸びてきました。 母の手を逃れつつ、私は周囲を見回しました。まず目についたのは、畳の上に乱雑に積み置かれたいくつかの木箱でした。母のそばには開かれたままの三面鏡がありました。 記憶に鮮明に残っているこの場面が、二歳になったばかりの三月末のことだと特定できたのは、かなり後のことでした。両親は一九五〇年三月末、二歳の私と九歳の兄を連れてこの家に引っ越してきました。そのことを父や母の話の端々から聞き知り、それなら記憶に残るあの場面はそのときのものに違いないと、自ら得心したのでした。 記憶の一角を占めるあの乱雑に積まれた木箱は、運び込まれたままの引っ越し荷物に違いありません。おそらくその前日、両親はリヤカーを何往復もさせて、一日がかりで荷物を運んだのでしょう。そして、当座の炊事道具と布団だけを取り出し、大方の荷物はそのままにして、一家は寝についたものと思われます。翌日、新居での最初の朝は明るく晴れ渡っていました。母は三面鏡を取り出して身繕いをし、さらに私の足の爪を切ったのです。夫婦にはこの後、荷物を片づける大仕事が待っていました。 これが私の記憶の原風景の背景です。 しばらくすると隣の部屋からのっそりと父が入ってきました。直射日光の差さない薄暗い部屋から突然現れた巨大な人影に私はよほど驚いたものと見え、父が鴨居をくぐるときの姿が色あせた古写真のように、眼裏に今も焼きついたままになっています。 父は薄茶色のジャンパーを羽織っていました。目を見開いて見上げている私を父はいきなり掬い上げました。 天井に届きそうになった視点から見下ろす三畳間は、深海の底のように深く、座っている母が遠く小さく感じられました。右に左に首を回して見回す私の目に、南に面した窓の上に掛かっている一枚の絵が飛び込んできました。絵はガラス張りの額縁に入っていました。先の住人が置き忘れて行ったものか、それとも割れないように布団にくるんで運んだものを、昨夜さっそく取り出して掛けたものか。 後の記憶によれば、それは東南アジアか台湾あたりの山深い渓谷の絵でした。椰子のような熱帯樹が茂る中を、岩にぶつかりながら流れ下る激しい谷水が描かれていました。谷を遡上する兵士の後ろ姿が描かれていたようにも記憶しています。戦争の余韻を残す風景画でした。この絵は後々ずっと我が家の数少ない風雅の一つであり続けました。 父は私を畳に下ろすと、母と話を始めました。自由になった私は窓から差し込む春の光に目を奪われました。窓は南側の通りに直接向き合っていました。細い木枠で格子状に仕切られ、最上段にだけは透明ガラスが入り、残りはすべて磨りガラスでした。 ガラスには割れ跡がたくさんあり、どの割れ跡にも、割れ目に沿って小さな丸い紙が点線状に貼りつけられていました。 磨りガラスは朝の強い日差しにキラキラ輝いていました。ガラスの割れ目は、ことさら鮮やかに煌めいていました。艶々した断面から七色の光が放たれ、顔を動かすと、それが万華鏡のように複雑な変化を見せるのでした。 日差しの明るさもまた、微妙な変化を繰り返していました。雲が去って強い光が差し込んだときには、鏡台や木箱にまぶしい光が照り、畳の上にくっきりと黒い影が伸びました。薄雲がかかると、淡くやわらかな光に変わり、畳の影は見えなくなってしまうのです。不思議な光の変化を私は飽きることなく見つめていました。 光をつかもうと手を伸ばしてみました。手のひらが光に透け、骨の形が浮き上がりました。私はからだ全体で光を感じ、光とたわむれた。光は温かく私を包んでくれました。 二歳の春は、こうして光あふれる映像となって、私の中に消えることなく残されたのでした。 |