2002年9月4日 |
「大草原の小さな家」の大ファンという方々から,メールをたくさんいただきました。 私はつい最近まで,テレビ番組で見るローラしか知らず,しかもお恥ずかしいことに,彼女をフィクションのヒロインだとばかり思っていました。 10年余り前,娘が小学生だったころ,「大きな森の小さな家」と「大草原の小さな家」の2冊の物語を買ってやり,娘は読んだのでしょうが,私は本を開くこともなくそのままにしていました。今年の春遅く,巣立ってしまった娘の本箱を眺めていたとき,偶然この2冊が目に止まり,手に取り,読んでみたのです。それが,ローラとの本を通しての最初の出会いでした。 ローラの物語が実名で語られた伝記物語であることを知ったのも,そのときでした。 子供のように夢中になって2冊を読み,すっかりローラのとりこになった私は,図書館からローラの他の物語や,ローラについての解説書を,何冊も借りてきて読みました。6月2日の小文「大草原の小さな家」は,ちょうどそのころのものです。それ以降も,ローラの文章の抜粋を紹介したり,ローラが子供時代遊んだであろうトウモロコシ人形の写真を載せたことがあります。 ローラ・インガルス・ワイルダーが子供時代を振り返って第一作「大きな森の小さな家」を書いたのは,1932年。なんとローラ65歳のときでした。出版されるや,たちまち全米のベストセラーとなり,続きを期待する多くの読者にせっつかれながら,「小さな家」シリーズが書き継がれることになります。第二次大戦後は国外でも翻訳され(50カ国以上に上るそうです),世界的名作との評を得るようになりました。日本でも戦後早い時期に翻訳され,焼け跡の子供たちからたくさんのファンレターが届いたということです。 彼女の書いたものを読んでいますと,学者的な頭の切れや,芸術家的な感性の飛躍が感じられるわけではありません。ごく当たり前のストレートな感性が,周囲の出来事や自然の変化を,あるがままに,しかも能動的に豊かに受け止めている,そんな感じです。 ローラは傍観者になることがないのです。貧しさにも,災害にも,病気にも,苦しい労働にも,いつでもローラは自らかかわり,悲観することなく目いっぱい対処していく,それも楽しみながら。これがローラの最大の魅力です。逃げることがありません。ローラにとっては,貧しさや苦労はつらい現実ではなく,未来を約束する喜びなのです。 ローラの作品が,多くの読者に感動を与えるのは,開拓時代を自由に生きた少女ローラとその家族の,生きざまの魅力によるだけではなく,ローラ自身が天性のものとして備えている豊かで楽天的な感受性によるところも大きいのだと思います。 ローラは子供のころから詩や作文に秀でた子として評判だったようです。そのころの詩や文章はほぼすべて,家族によって大事に保管され,今も残されています。老齢になってから書かれた作品とは別の味わいで,これらも魅力的です。 結婚して両親の元を離れ,ミズーリ州オーザーク丘陵のマンスフィールドに住むようになってからは,地元の「ミズーリ・ルーラリスト」という新聞の専属コラムニストに迎えられました。子供時代の資質の延長です。そこで書いたのは,農家の主婦の生活,自然の魅力,ニワトリの飼い方など,生活に密着したものがほとんどです。連続して何十回もニワトリの品種と飼い方を紹介する記事を書いたのには,娘のローズもあきれたという話があります。ニワトリ研究は,ローラのひそかな,生涯にわたる楽しみでした。 こうした地方新聞の書き手としての経験がローラの筆力を高め,世界的名作を生み出す下地になったのは疑うべくもありません。しかし,プロの目から見れば文章力にはなお稚拙なところもあったようで,ローラの作品には,一人娘であるローズの手がずいぶんと加えられているという説があります。 母ローラが第一作目を書いたころには,ローズはすでに,全米に名の知れわたった流行作家でした。それまでにも,そしてそのあとにも,数多くの作品を発表しています。ローズは合衆国内はもちろん,世界中を駆け回り,材料を仕入れ,それを種に次々と作品を発表していました。母ローラが書き始めたころは,油の乗り切った絶頂期でした。原稿依頼が次々と舞い込み,応じきれないほどでした。 ローラは第一作目に限らず,原稿はすべて安っぽいノートに鉛筆で書き,それをローズに送り,ローズがタイプライターで清書して出版社に送る,こういう方式をとっていました。特に第一作目においては,ローズはすぐには清書せず,筋立て,言葉の調子,焦点のあてどころなどを母親にアドバイスし,ローラはそれに従ってすっかり書き直しをしたということです。 さらには,清書する段階で,ローズが勝手に修正を加えた部分も,ひょっとしたらあるかもしれません。ローラ自身,後になって,「ローズの手直しがなかったなら,私の物語がこんなにも多くの人に読まれることはなかったでしょう」と語っています。 こうした裏話を知ってもなお,ローラの作品が魅力を減じることはありません。 彼女の作品の魅力は,芸術的な感性や技巧の輝きによるものではなく,自然の中に満ちている土と水と光の素朴な輝きが作品に浸透していることにあります。このような輝きは,あるいはプロが加筆することで返って伸びやかさを失い,屈折してしまう危険性すらあります。ローズによる直接の加筆というよりは,ローズのアドバイスをもとにしたローラによる書き直しというのを私は信じたいと思います。 (注 : ローズは清書したものを必ずローラに送り返し,それにローラが手を加え,再びローズに送る。このような往復が何度も繰り返されて,やっと出版にこぎつけるというのが現実でした。ですから,清書段階でローズが手を入れた箇所は,必ずローラの承認を得ていることになります。しかも,ローズの加筆は微細な部分に過ぎず,作品の生命はすべてローラの実力に負っている,というのが多くの研究者の一致した見解のようです。ローズもやがて,「母の文章は直す部分がないくらい一級品です」と言うまでになりました。) ローラは文字通りのパイオニア・ガールです。パイオニア・スピリットを父さんから血潮として受け継ぎ,母さんや姉メアリーが現状維持志向であるのに対して,父さんとローラは「西へ,西へ」のパイオニア・スピリットを持ち続けました。より開放的な生活の場を求めて,何度となく移動する父さんに,母さんは半ばあきらめ顔で付き従い,ローラは父さんとともに期待に胸躍らせて旅します。 ローラは常に目標を持って強く生きていました。学校の先生になること,それが少女期のローラの最大の夢でした。姉のメアリーが盲人大学に通うようになり,その学資を援助するためにもと,ローラは教員免許を取るための厳しい勉強に打ち込みました。そのころのローラの詩があります。 何をやるにも味付けも何もない詩ですが,ローラの意気込みが伝わってきます。今の日本に,胸を張ってこう言える若者がどれだけいるでしょう。 ローラは幼いころからメアリーの内向性とは志向を逆にしていました。姉のしとやかさにわざと反抗することもしばしばでした。しかし,高熱の病いによってメアリーの視力が失われた1879年(メアリー14歳,ローラ12歳のとき)を境に,ローラはメアリーから内面の豊かさを吸収しはじめました。そのときのことは次のように語られています。 メアリーの目がまったく見えなくなってしまった悲しい日,父さんはローラにこう言い渡しました。ローラの写真はいくつか残っているのですが,何といっても私は,6月のホームページにも載せたメアリー,ローラ,キャリーの3人が並んだ写真が一番好きです。これにまさるものはないように思います。それを再度ここに載せておきます。メアリーが失明した翌年の写真です。母さん手縫いのおそろいの服を着,メアリーの目となり杖となって精一杯いのちを輝かせているローラの表情が,たまらなく好きです。 多分,デ・スメットの町の,できたばかりの真新しい写真館で撮ったものだと思います。 この写真はまた,ローラ,メアリー,キャリーの3人の姉妹の,それぞれに異なる立場・性格の違いを,表情や姿勢を通してものの見事に表現しています。見ても見ても見飽きない写真です。 ローラは父さんの言いつけどおり,いつでもメアリーのそばにいて,見えるものすべてを言葉にして伝えました。刻々と変化する夕焼けの鮮やかな色調を見事にメアリーに伝え,「あんたのおかげで私も一緒に夕焼けを見ているようよ」と,メアリーが心からローラに感謝した話が残っています。 この写真の1年後,メアリーはアイオワ盲人大学に入学し,そのさらに1年後,ローラは15歳で教員免許試験に合格しました(本来は16歳にならないと取れないもの)。そして,自ら学校で学びつつ,頼まれると数ヶ月間ずつ各地の学校で臨時教員として働くという生活が始まりました。教室で教えながら,子供たちが自習している間は,自分も教卓で勉強する,そんな先生でした。けなげなローラの姿が,この写真からも想像できます。 臨時教員になったことがきっかけで,ローラは将来の夫アルマンゾを身近な存在とします。まあこの話はここではやめておきましょう。 気丈なパイオニア・ガールであるローラも,恋の魔手には勝てず,将来を約したアルマンゾが長旅に出たとき書いた次の詩があります。長くなりついでに紹介しておきます。 さびしい,ああ,とてもさびしい書き写している私の方が赤面してしまいそうです。失礼しました。 ローラのことは,気が向いたらまた書くかもしれません。あまりにも魅力的な人だから,いくら書いても書き足りません。 |