2002年8月2日 | ||
今年の夏休みはわずか3週間。連日の補習の末,28日,ようやく休暇開始。と言いたいところですが,28日は高校将棋竜王戦の引率。待ちに待った休暇は29日からとなりました。 窓を開け放して自然の風をたっぷり入れ,書斎にクーラーはつけない。風のない日も,窓から見る山や木々の緑を楽しみながら,やはりクーラーはつけない。これが私の夏休みです。汗は心地よいもの。クーラーで汗を押し込めるなんて,もったいない。 夏休みの最初の仕事は,たまっていた手紙類の返事とちょっとした原稿。一段落ついた昨日,それらを荷かごに詰めて,我が家を管轄する郵便局の本局まで自転車を走らせました。道のりは約4キロ。軽い上り勾配です。目の限り緑が広がる田園。風が光となって稲の葉先を流れて行きます。太陽は真上から直射。むき出しの腕がじりじり音を立てます。いつしか自転車は快速調です。 頭のてっぺんにほつれ穴のある野球帽をかぶり,一人野中の道を行く私を,高みからカラスが笑いました。カラスは長生きするという。このカラス,20年前の俺の短歌に出てくる,あのカラスかもしれん,そんなことをふと考えたりしました。 用を終えると,帰りは遠回りして,重信川の土手道へ。土手の取り掛かりはやや急勾配な二,三百メートルの登りです。それを一気に駆け上がる。そこまではよかったのですが…。登りきり,さらに長い橋を対岸へ。橋の半ばまでは再びゆっくりと登りです。その途中で息が苦しくなってきました。息切れです。 懐かしい,本当に懐かしい息切れです。20代後半,府中でNECに勤めていた頃,同僚と一緒にジョギングを始めました。昼休み,会社の周囲を約2キロ。その初日,走り終えるとうつむいてぜーぜー言いました。あの息切れです。 空気が希薄に感じられ,血中酸素が不足してくる。心臓がそれをカバーすべく猛烈に脈打つ。頭がガーンと痛み,もう立ってはいられない。激しくあえぐ。あれです。 走りなれるにつれ息切れの感覚はいつしか消えていきました。距離を増しても大丈夫。以来四半世紀,私は走り続けました。50歳,病に倒れて入院するまで,毎日走りました。 今,日々の運動は散歩です。走っていた頃には,自転車なんて運動の部類に入りませんでした。まして歩くことなんて。いくら自転車を走らせても,風を切って爽快でこそあれ,体への負荷などみじんも感じることはなかったのです。 それが,歩くことが日常となった今,自転車は立派な運動だと知りました。ことに上り勾配を精一杯こぐ,これは十分すぎるほどの心臓への負荷です。 老化とはこうして進むもののようです。やがてもし,一日の大半を家の中ですごすことになれば,外出して歩くことがもはや,大きすぎるほどの心臓への負荷となるでしょう。ベッド暮らしが日常となれば,今度は立ち上がることが激しい心臓への負荷となる。そしてさらには,ベッドに腰掛けることが負荷となり,寝返りが負荷となり…,ついには生きて息をすること自体が負荷となる。そして最後の最後,それにも耐え切れない日が来る。… ひと月前,家内の母が死にました。2年半前には,父も死にました。彼らの死にゆく様を見ていると,あらゆる生命活動が負荷となり,それへの耐性力がゼロになった瞬間生命が果てる,そのことを痛烈に思わされました。 そういえば昨夕,犬を散歩させていると,近くにある大きな団地のフェンス沿いで,50メートル歩いてはフェンスに体を預けてしばらく休み,そしてまた50メートル歩く,そんな老人を見かけてしまったのです。ジョギングを始めた頃,会社のフェンスぎわで,苦しい息を吐きながら腕立て伏せのような格好でフェンスに向かって両手を突き,支えきれない体重をフェンスに預けながら首を下に向けてハーハー言っていた,まさにあのときの自分の姿がそれでした。 わが身の過去であり,同時に,遠からず訪れるであろう未来の姿でもある,その老人のシルエット。夕日に浮かんだ悲しい映像です。 おそらく義父が最後にこの清思庵を使ったのは3年前の冬の初めだろうと思われます。それ以来ひょっとしたら誰も入ったことがないのかもしれません。義母も足が弱り,離れまで出かけて中の様子を見ることはできなかったでしょうから。義父が最後に仕事をした,そのときのまま時は凍りつき,机には絵筆やパレットが,帰ることのない主人をひっそりと待っていました。 床には埃がたまり,書棚の隅をネズミが走るのが見えました。私は大切なものをいたわるようにそっと足を忍ばせて上がり,見回してみました。版画,水彩画,焼き物など,義父の作品が所狭しと置き並べられています。そして,ふと書棚の一つに目がいったとき,ハッと息を呑みました。 手帳が棚からこぼれんばかりに積み重ねられていたのです。義父は絵や焼き物だけでなく,短歌,俳句,川柳もやりました。常々手帳を持ち歩き,浮かんだ句を丹念に書きとめていました。母屋にそうした手帳が何冊か転がっているのは知っていました。それをまとめて遺作集を作ってあげようかと,考えたこともあったのです。それが手帳のすべてだと思って。 ところが,母屋に転がっていたのはほんのわずか。義父の文芸創作のほぼすべては,この清思庵にあったのでした。 雑誌に発表したものから一部を抜き出し,作品集を作ってあげたこともありました。それは今からちょうど3年前,死ぬ半年前の夏でした。タイトルは「夏木立」。義父はとても喜び,友人に送るとともに常々懐中にしていました。 棚の手帳を一冊手に取り,開いてみました。まさに思ったとおりです。短歌や俳句がびっしり書き込まれています。作られた年月日もわかります。もうこれで十分。ほかのを手に取ることはありません。大変な宝の山です。 これをこのままネズミとカビの餌にしておくわけにはいきません。早く遺作集の仕事にかからないと…。しかしめどが立つまでは,とりあえずこのままそっと寝かせておくしかありません。 手帳の横には,スケッチブックもうずたかく積まれていました。手帳とスケッチブック。これは義父が出かけるときの必携品だったのです。町を歩いても,電車に乗っても,車で遠出をさせてあげたときにも,ふと何かが目に留まると,すぐその場で手帳を出し,あるいはスケッチブックを広げて,鉛筆を走らせ,淡い水彩で色をつける。手早さと見事さに感嘆することしばしばでした。 年に一度は版画,水彩,陶芸の個展を開き,見せる作品となったものの発表の場は作っていました。短歌や俳句はいくつかの雑誌が発表の場でした。スケッチブックや手帳のたぐいは,見せるためのものではありません。しかしそこにこそ,義父の生きた証しがこめられているようで,私にとってこの発見は,考古学者が何千年も昔の貴人の冠を掘り出したに匹敵する貴重なものです。 |
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2002年8月14日 | ||
このところ,日に一度は必ず激しい夕立がやってきます。雷と突風をともなう通り雨です。松山での今年最初の夕立は8月8日でした。初夕立は例年8月5日前後。早い年で8月2日,遅い年だと8月10日過ぎ。季節のめぐりは本当に不思議です。草花の開花と同じく,人知を凌駕して正確です。
先日横浜で行われた高校総合文化祭の将棋部門に,私の学校の生徒が愛媛県代表として参加し,7日と8日,引率で横浜に行ってきました。「ヤングジャパン」で,開港当時の横浜の様子はまるで見てきたように頭に焼き付いていたものですから,これまで歩いたどの横浜とも違って,今回はなんだかタイムマシンに乗って懐かしい故郷を訪れたような,そんな気分でした。 JR関内駅から港にかけての広々とした緑地帯。いま横浜スタジアムがある辺り。そこが開港当時,居留民のために幕府が提供した公園です。イギリス人はここでクリケットや乗馬を楽しんだといいます。それにしても驚くほど広い長方形の空間です。 周囲の町から町筋が45度傾いている一帯,いまの中華街ですが,ここは外国人居留地でした。広大な緑地公園は実は,居留地と日本人街とを仕切る,安全のための緩衝地帯でもあったのでした。 百数十年の昔に戻った気分で,私は横浜の町をひととき楽しむことができました。 そうそう,生麦事件のあったあの生麦にも行ってきました。泊まったホテルがたまたま生麦に近いところだったものですから。なんと言うこともない旧東海道筋です。居留地から馬で川崎大師までピクニックに出かけた女性一人を含む4人のイギリス人。彼らが折悪しく遭遇したのが,江戸から国許に帰る途中の薩摩藩主名代・島津久光の行列でした。 彼らは日本人のように土下座することなど知らず,騎馬のまま行列のそばをすり抜け(そう,「すり抜け」という程度に当時の東海道は狭いのです),そのうちの一人は無謀にも行列の中に馬を乗り入れたのでした。リチャードソンという香港に長く滞在していたイギリス商人です。中国人や日本人を「土人」として見下す横柄な性格だったと「ヤングジャパン」は書いています。「大名の行列が何だ」と,彼は家来どもを半ばからかいながら行列を分けて入ったのです。 大名行列同士のすれ違いにおいてさえ,格下の大名は駕籠から降りて,もう一方の行列が通り過ぎるのを腰を落として待たねばならなかった時代です。 行列のさきがけは,礼儀を知らない彼らに再三目配せで注意したといいます。リチャードソンを除く他の3人は,馬を止めて行列の通り過ぎるのを待つよう,先頭を行くリチャードソンに声をかけたともいうのです。しかし,リチャードソンは聞かず,馬を進め,挙句の果てに行列に割り込んで行ったのでした。たまりかねた家来の一人が彼に太刀を浴びせ,リチャードソンは重傷を負ったのち死亡しました。 他の3人は斬りつけられはしたものの,死にはいたらなかったようです。特に女性は帽子が幸いして軽症ですみ,血を流しつつほうほうの体で横浜に向け逃げ帰ったのでした。彼女の報告が事件の第一報となります。 薩英戦争の引き金になったかつてのそんな事件を,車の走る東海道に二重写しにしつつ,しばらく町角に立ってぼんやりしていました。 そして松山に帰ってきた8日の夕方,空港に着くとちょうど初夕立が通り過ぎたあとでした。滑走路も道路も,今の今まで降っていたことを思わせるたまり水で光っています。 あっ来たんだな,という感じです。夕立が来ると,夏の盛りは終わりを告げます。峠を越えて下り坂に入ります。夏は未練の哀調を帯びはじめます。 夕立に呼応するように日が急速に短くなってきます。松山では日没がもっとも遅いのは,夏至から10日近くたった6月末です。そのころを境にふたたび日没は早まっていきます。しかし,7月初旬にはまだ,3,4日かかってやっと1分早くなる程度です。しかも,たそがれている時間が長く,日が沈んでからもたっぷりと明るいのです。たゆたいつつ日が落ちていく感じです。 ところが今の時期,日没が早まる速度は1日あたりほぼ1分です。日を追って夕刻の早まるのが実感できます。それのみか,たそがれの時間もどんどん短くなっていくのです。日が沈むと,あわただしい店じまいのように,見る間に暗くなるのです。 もうあと数日すれば,7時の時報を聞くときにはもう外は暗い,ということになるでしょう。いますでに日没時刻は7時を切っています。 夏は刻一刻去っていく。この時期が来るといつも思います。暑さにも,ただ蒸し蒸しするだけで,精気が感じられません。火の止められたフライパンです。しかたなく火照っているだけです。神々の支配者ゼウスですら逆らうことのできない必然の女神が,太陽をしっかり捉えてはなさない。首根っこを押さえられて小さくなった太陽を私は想像します。 |
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2002年8月29日 | ||
一昨日,大型犬のラブラドール・レトリーバを散歩させていたときのこと。 さわさわ風の吹く田の畦を歩いていると,よく実った稲田の前方に,自転車を止めて突っ立っているおじさんが見えた。私も結構なおじさんには違いないが,そのおじさん,それを上回るおじさんだから,おじさんと呼ばせてもらおう。 おじさんが立っているのは畦道と農道が交差する地点。つまり,私と犬とが1分以内に間違いなく到達する地点である。畦は一本道だから,引き返さない限りは,疑いようなく犬と私はおじさんにぶつかる羽目になる。 顔見知りだろうかと,とっさに脳の中身を掻き回し記憶の糸をまさぐるが,検索の網にかかる人物は浮かばない。つまるところ,見かけない顔である。 おじさんは狭い畦の入り口にでんと立ちふさがったまま動かない。おまけに自転車のバリケードまで作って。 そのうち気づいてくれるだろう。犬の歩みを綱で加減しつつゆっくり近づく。気づいてくれれば,体をちょっと脇に寄せてくれるはず…。 ところがおじさん,視野の端にこちらを入れていることをにおわせながら,半身に構えて視線は横向いている。 ひょっとしたらこれは危険なケースかもしれない。待ち伏せ殺人とか,出会い頭の発作的殺人,こんなのが最近ちょくちょくニュースになっているではないか。 だけど,このおじさん,いかにも純朴な田舎のおじさん風で,危険の「キ」の字も身に帯びてはいない。野良焼けした顔が夕日に照っている。 とうとう1mの距離まで接近した。まぎれもないニアミスである。それどころか,互いが譲らなければ衝突である。 「ちょっとすみません」 声をかけようとしたその瞬間,相手のほうが早かった。振り向きざま,いきなり声が飛んできた。剣の達人の早業のごとく。 「おおけえのう,その犬」 そうか,そうだったのか。これを言うために,おじさん,わざわざ自転車を降りて畦の入り口を通せんぼまでして,私と犬を待っていたのだ。 松山弁丸出しのおじさんであった。私も松山に生まれ,松山で育ち,いままた松山の人々と交わっているが,本物の松山弁からは遠く隔たって暮らしている。2年前に腸の病で入院したとき,相部屋のおじいさんとその見舞いのおばちゃんが,忘れかけていた松山弁を話し,そうそうそう言えばこんな言葉があったよなと,懐かしく聞きほれたものだ。 それ以来かもしれない本物の松山弁。 「このイヌイノシシやるんけ」 うん? 意味不明。たしか「イノシシ」と聞こえたが,どういうこと? 「はあ?」 「イノシシやるんけ」 おじさんは結局三度同じ言葉を吐いた。 そのつど私は「はあ?」と,これまた同じ返答しかない。 「イノシシじゃがな。イノシシかましやせんのけ」 「ええ? イノシシ?」 意識のずれにおじさんもやっと気づいたらしい。 「わしゃ,あっちの山の人間よ」 おじさんが指差した山は北のほう。かつて私がジョギングを日課にしていたころ,週に一度はコースを北にとり,小野川沿いに谷を遡上し,今指された方角の山道を走ったもの。山の中腹から眺める松山平野はわたしの大の気に入りであった。 「あっちじゃのう,犬にイノシシかますんじゃが。十頭ぐらい犬連れてのう,逃げても逃げてもイノシシかましての,しまいにゃイノシシぐったりじゃげ。それを人間がとるちゅうことじゃ。ハハハハハ」 おじさんは畦道をせき止めたまま,イノシシ狩りを事細かに説明し始めた。そして最後に, 「イノシシはゼニになるけに,イノシシやらんとのう。犬にタダ飯は食わせられんぞな」 おじさんの松山弁に私は松山弁で対抗できない。私の言葉はどこか着飾っていて,土着のにおいがしないのだ。 「そうですか」 などと答えてはみるが,浮き上がっていて気恥ずかしい。かといって, 「ほーお,ほーかえ」 などとは,死んでも私は口にできない。 独演会がすむと,やっと道が少しあけられた。真っ赤に焼けていた西空がいつの間にか光を失っている。 しゃべり疲れたのか,おじさんは自転車に乗ろうともせず立ったままである。おじさんの視線を背中に感じながら,犬と私は紫がかすかに尾を引く西に歩き始めた。背後からはいつまでもすがすがしい風が吹きつけていた。 それにしても,この人懐っこさはなんだろう。見も知らぬ赤の他人にいきなり立ち話を吹っかけ,それがまるで旧知の間柄のようななれなれしさである。 自分の関心は万人の関心。おじさんの人生観の,これが中心柱だ。というよりも,農耕文化に長く染まった日本人の,これは自然な人生観なのかもしれない。松山弁が忘れ去られるとともに忘れ去られようとしている,これぞ土着の人生観。 定着し,土地を離れない農耕文化では,互いの関心も必然等しくなっていく。直接の知り合いだろうが,なかろうが,疑うべくもなく関心はみな等しいのだ。イノシシをしとめた場面を語るときのおじさんの満面の笑顔。口から泡を飛ばし,顔が崩れてしまいそうである。「お前も嬉しいじゃろが」と,言葉には出さないものの一片の疑いもなく,おじさんは私が一緒に嬉しがっていることを信じきっている。 日本人の人懐っこさは,江戸から明治にかけての日本文化論には,必ず出てくる特徴的現象である。欧米流の個人主義からは想像のつかない日本人のなれなれしさ。その根源はこれなのだ,と私ははたと思い当たった。子供のなれなれしさに通じる。 「マーちゃんがねえ,これくれたの」 マーちゃんなど知らない初対面の大人にも,子供は平気でこうしゃべりかける。子供においては,自分の世界は疑問の余地なく万人に共有されている。 日本の,特に農村で,長く培われてきたこの精神的一体感が,都会では見事に突き崩されている。都会に限らず,地方の小都市,あるいはその周辺の農村,いたるところで日本的感性は突き崩されている。生き残っているのは,地方都市の生活圏を離脱した農山村の,ごく限られた身内集団だけかもしれない。 良い悪いの判断を言っているのではない。事実を言っているのである。 都会の雑踏では,人一人の価値は蟻一匹の価値にも満たない。互いに互いを無視して歩いている。田舎の畦道では,遠くからやって来る見知らぬ人をわざわざ自転車を降りて待つ人がいるのである。この違いは看過できないと思う。 |