ケータイなしでは死んだも同然?
2002年7月24日
 今年の夏休みはあまり嬉しくないなあ,なんて言うと叱られるでしょうか。夏休みの約半分は補習でつぶれてしまっている,そんな窮屈至極な夏休みです。私の学校で,こんなにも補習に追い立てられるのは,この学校に勤めるようになって初めての経験です。

 「教師という仕事には夏休みがあっていいよな」,などとよく言われます。しかし,精神労働と肉体労働の両面をあわせもち,その上育ち盛りの人間を相手にする日日の気苦労を思えば,一年のうちに何度かはほっと息の抜ける長期の休暇があってもなんら不思議はないと,私は思います。磨り減った精神と肉体に栄養を補給する大事な期間が夏休みなのです。

 普段はできないまとまった読書や勉強,体力養成,そして何よりもリラックスした気分で体の隅々までをもリフレッシュさせること。これを贅沢と考えるとしたら,生き生きと仕事に励むことを贅沢だと考えることと同値になるでしょう。磨り減ってぼろぼろになって仕事をすることこそがワーカーのあるべき理想的な姿だということになるでしょう。

 長期の見通しを立てることができず,眼前の成果だけを追い求める人には,ぼろぼろになって仕事をする姿が理想的に見えるのです。少しでも休んでいると,「もったいない,もっと働け」と自らに命じてしまうのです。自らに命じるだけならまだいいのですが,人にまで命じてしまうのです。囲碁の初心者が,目の前の一目二目の得失だけでゲームをやっているようなものです。これでは強い相手には勝てません。

 気長にやりましょう。

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 そういえば,百年前までは,自然に同化したゆったりした生活が地球上にありました。今はどこを見ても,歩きながら,自転車をこぎながら,あるいは街角に突っ立ったまま,はたまた路端にしゃがみこんで,まるで勤勉の元祖・二宮金次郎ばりにケータイを目の高さに掲げ,ピコピコ親指を動かしている「ケータイなしでは死んだも同然症候群」の若者が目に飛び込んできます。

 彼らを見ていると,人間は本当に進化を特質としているのだろうかと,ふと人間の本性への疑問が湧いてくることがあります。

 ローラ・インガルス・ワイルダーの「大草原の小さな家」に,次のような一節があります。秋口になって父さんが,馬車で片道たっぷり二日はかかる最寄の町まで出かけることになったときの話です。
ローラの時代のトウモロコシ皮人形
 「本当なら行かなくてもすんだのにな」父さんは言います。「どうでもいいことで,始終町へ行くことはいらないんだ。スコットが,もといたインディアナで作ったあのきざみタバコは,あまりうまいとはいえないが,まあ我慢できる。来年,ここでタバコを作って,スコットに返せばいいんだ。エドワーズから釘を借りさえしなかったらな」

 「でも,たしかに借りたんですからね,チャールズ」母さんは答えます。「それに,きざみタバコのことにしても,もうこれ以上借りたくはないでしょう。私だっていやですから。おこり熱の薬のキニーネもいりますよ。ひきわりトウモロコシもずいぶん倹約したけれど,もうほとんどないし,お砂糖だってそうですよ。ミツバチの巣のある木を見つけることはできても,私の知ってるかぎりじゃ,ひきわりトウモロコシの木なんかありゃしないし、来年にならなければトウモロコシの収穫はないでしょうに。それに,塩漬けの豚肉が少しあったら,鳥や獣の肉ばかりのあとだから,きっとおいしいだろうと思いますよ。それにチャールズ,ウィスコンシンの身内の人たちに便りもしたいし。いま手紙を出せば,この冬に向こうで返事を書いてくれるでしょうから,来年の春には,みんなから便りが来るでしょうし
 そう,人と人との愛情はいまのように敏速性だけによるものではないのです。

 バレンタインデーのチョコレートが菓子屋の発案で広められたように,ケータイも,本来の必要性をはるかにこえて,情報通信産業の巨大資本の手によって,はやり熱のように広められている,私にはそうとしか考えられません。これを進化の方向と呼ぶのでしょうか。主体性喪失の非進化・退化の方向と呼ぶのでしょうか。それすら私にはわかりません。

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