大草原の小さな家
2002年6月2日
 もっと頻繁に更新しようと思いつつ,いつもいつも長く間が開いてしまいます。依頼された種々の原稿の締め切りに首を締め付けられ続けているのが原因です。

 腰を落として取り組めるのは土曜の午後と日曜日くらい。ところが5月の連休の頃からずっと,肝心の土曜日も日曜日も,雑用に追い立てられて休みなしの状態でした。一方,容赦なく時は流れ,締め切りは迫り,毎日夜遅くまで切迫感に追い立てられて仕事をする。そんな日々が続きました。

 やっと昨夜,そう,昨夜遅く,ここ一月あまりかかりきりになっていた原稿にやっと決着をつけることができたのです。この解放感,たとえようがありません。

 これもまたいっときの解放感に過ぎず,再び借金地獄の日々に舞い戻るのはわかりきっているのですが,そうはいっても,ひとつの仕事をやり終えた喜びと充実感と,それゆえの解放感は,他にたとえるものをもちません。

 「大草原の小さな家」というNHKの大ヒット番組をご覧になったことのない人はいないと思います。ローラを中心としたインガルス一家の物語です。一作一作が開拓精神とプロテスタンティズムに満ち満ちており,しかも,けなげな少女の視点で描かれているところになんともいえない魅力があって,見ているとついついその世界に引き込まれてしまう,そんな番組です。

 私は実を言いますと,これは作られた物語,フィクションだと思っていました。ところがつい最近,それが実名で語られた自伝物語のテレビ番組化であることを知りました。ローラも,その姉メアリも、妹キャリーも,さらには父さんチャールズも,母さんキャロラインも,すべて実名かつ実在の人物です。

 そして一家は物語の通りの開拓時代をすごし,やがてローラは18歳で結婚して,マンスフィールドで農場を開き,一人娘ローズを生み,「ルーラリスト」という地方新聞に恒常的に投稿し,なんと65歳になってから「大草原の小さな家」を書いて,一躍ベストセラー作家になった,そんな人物です。

 ローラが生まれたのは1867年,奇しくも漱石,子規と同い年です。65歳で,というのが私には衝撃的でした。「ときすでに遅し」「ボタンを掛け違えた人生だった」そんな思いにとりつかれることの多いこのごろ,65歳で発奮したローラの人生は私には希望の星ともいえるものです。

 実物のローラ(右端),メアリ(中央),キャリーの写真を載せておきます。著作権等の問題は多分ないでしょうから。1880年,ローラ13歳のときの写真です。ローラのきりっと引き締まったまなざしが印象的です。メアリはこのときすでに失明しています。


名もない野花
2002年6月8日
 野辺に初夏の花々が咲き乱れています。色も形も微妙に違う花々が,ひっそりぽつんと,あるいはこれ見よがしに群れをなして…。

 私が心惹かれるのは名もない小さな花々。いやいや,名のない花なんてよほどの幸運に恵まれない限り巡り合わせるはずはなく,どんな花にも名はとうについているのでしょう。知らないのは私だけ。

 とはいえ,つけられた名前にいったいどれだけの値打ちがあるというのでしょう。人の便宜でつけられた名前。分類する必然の基準なんてどこにあるわけでもないのに,研究の便宜や,生活とのかかわりの便宜,そのために人はあらゆるものに名前をつけます。

 パターン認識の立場から考えると,いかなる諸物にも,それらを分類する客観的必然性は,本来ないはずです。分類の基準を人が主観をもって設定して初めて,そこに分類という操作が可能になるのです。

 このことを「醜いアヒルの子の定理」と呼んで,数学的に証明した本をかつて読んだことがあります。たとえば,一見区別のつかない美しい白鳥2羽の間のパター認識上の距離と,美しい白鳥と醜いアヒルとの間のそれには,数学的な差はないというわけです。両者に違いを感じてしまうのは,人の先入観や主観がなせる幻想作用の結果だというわけです。

 分類の基準は社会生活のありようや伝統にも左右されますから,よく言われるように,たとえば生活の中に馬がほとんど入り込んでいない民族にとっては,馬を指す言葉は「馬」一つだけだが,馬が生活の隅々にまで入り込んでいる民族にとっては,馬のわずかな違いに応じて,それを指す言葉が十種類も二十種類もある,そんなこともあるわけです。

 別の例を引きますと,囲碁をまったく知らない人が囲碁の局面を見ても,それは単に四角な板の上に黒と白の石が散在しているだけです。ですから,石の配置が少々変わっても,その人はそこに違いを見ることはできないわけです。しかし,囲碁に熟達した人が見れば,石の配置のわずかな違いが (100個並んでいる石のうちのたった1つが横に一路ずれただけでも) 局面の大きな違いとして映ります。熟達者にとっては,石の散在というぼんやりしたワンパターンではなく,石の配置のわずかな違いごとに,無数のパターンをそこから読み取ることができるわけです。

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 話がそれました。野道にしゃがみ込んで,足元に可憐に咲く小さな花々を見つめていると,不思議な気分に誘われることがあります。人はこれを「ツユクサ」とか「イボクサ」などと,一律に括って呼んでいるわけですが,よく見ると一つ一つの小さな花にもはっきりした個性があり,その一つ一つが私に何かを語りかけてくるのです。

 もし人が,あなたも私も一括して「人間」と呼ばれて処理されてしまったら,いい気分はしないでしょう。それぞれに個性があり,アイデンティティがあるのだと抗議するでしょう。

 花もやはりそうではないか。というよりも,花はわれわれの分類を度外視した世界に生きているのです。人間による名づけなどどこ吹く風,彼らは彼らの世界を生きているのです。自然の中に,自然のままに。そして,理性という得体の知れない幻影の束縛をもたず,自由に,あるがままに,最大の個を主張している存在しているのです。一つ一つがひたむきに個を個として生きているのです。

 野道にしゃがんで,子供のように無心に花を見つめていると,小さくてもそれらがこの世界にたしかに存在して,時の中を,この私と同じ時の中を,思うことをせず,ひたすらに存在を存在させて,風に身を任せながら,そして目の前の私に「自然であれ,自由であれ」とロゴス以前のロゴスで語り告げながら,それらは今を生きていることが,身の真髄にまで感じられます。

 自然って,在るって,生きるって,いったいなんでしょう。名もない小さな野草と私と,どこに違いがあるのでしょう。

ヤング・ジャパン1
2002年6月16日
 幕末の動乱期に10数年にわたって日本に滞在したJ・R・ブラックという人がいます。ペリーやハリスによって強行された米欧諸国との和親条約を機に,横浜に外国人居留区ができ,ブラックはその居留区民に向けた英語新聞「ジャパン・ヘラルド」を発刊しました。そして,明治3年には有名な「ファー・イースト」を創刊しました。

 幕末から明治初頭にかけての激しく揺れ動く日本を,新聞記者として,鋭い批判精神と真実を見抜く洞察力で描き続けた,たぐいまれなヨーロッパ人です。

 その彼が,1858年の条約締結から20年を経た時期に,「ヤング・ジャパン」という著書を著しました。やっと成人に達したばかりの日本という意味です。

 この「ヤング・ジャパン」を,私は勤務先の学校の図書館で先日偶然手にしました。原著の出版から90年たった1970年になって初めて日本語訳され出版されたものです。貸し出し記録を見ると,3分冊のうちの第1巻だけは1972年に一人借りていますが,その人も第2巻以降には手をつけなかったようで,ほとんど誰に読まれることもなく,開いた痕跡すらないままに色あせて,図書館の書架に眠っていました。

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 偶然手にとって最初の数ページをめくった私は,たちまちその魅力の虜になってしまいました。通常の歴史書がそうであるような味気ない語り口と違い,同時代人である新聞記者が,鋭い記者の目で,幕末の日本を生き生きと,まるでニュース映画を見るようなリアルさで,ドキュメンタリーに綴っているのです。

 歴史が嫌いでない私は,江戸,特に幕末の歴史についても,さまざまな書物で当時の様子を読んだことはあります。幕末を生きた日本人の日記なども,何冊か読みました。
 しかし,それらのどれによってもいまだかつて得られたことのない,生々しいリアルな現実が,ヤング・ジャパンによって私の中に表出されてきました。

 桜田門外の変,生麦事件,攘夷を叫ぶ浪人による度重なる外人襲撃事件,英艦による薩摩攻撃,関門海峡を通過する船舶への長州砲台からの砲撃,それに続く欧米列強による長州攻撃と幕府による長州征伐決行,などなど,幕府崩壊に向けて流れていく一連の事件を,その時代にタイムスリップした感覚で,ここまで生々しく描いてくれている書物を私はこれまで見たことがありません。歴史が今によみがえるとは,まさにこういうことを言うのでしょう。

 今との連続性を欠いた,いわゆる「過去の歴史」に過ぎなかった私にとっての幕末が,脳髄の奥底で突如眠りから覚め,出船のテープのようにしっかりと連続の糸を握りしめた先に生命を帯びて輝きはじめたのです。

 上に挙げたような政治的重大事件のみならず,江戸時代の庶民の暮らしぶりについても,ヤング・ジャパンはなんと新鮮にみずみずしくリアルに描いてくれていることでしょう。読んでいる私が,タイムマシンに乗って,記者とともにその場に居合わせて観察している,まさにそんな感じです。

 一つ,二つ,本文を紹介します。まずは,いわゆる桜田門外の変です。

 「1860年3月,井伊掃部頭(かもんのかみ)は駕籠に乗り,家臣に囲まれて,江戸城に向かっていた。堀にかかった橋の上には,紀州候の行列がいた。さらに同じ地点へ尾張候の家臣が向かっていた。大老はこういうわけで橋のたもとで二つの行列の間にいた。そこは橋へ通じる大通りであって,広場になっていた。雨合羽に身を包んだ二,三のまばらな人群れが,近くにいるだけだった。

 その時,突然,このぶらぶらしているように見えた一人が行列をさえぎって,飛び出し,またたくまに,大老の駕籠の前に出た。駕籠の両側にいた家臣たちは,この先例のない妨害,決死的行動に向かって,飛びかかった。明らかにこの襲撃は事前にたくらまれたものだ。というのは,このすきに,家臣たちのいなくなった駕籠の両側を,突然大地から湧き出したように,鎖かたびらを着た18人か,20人の一団がおさえてしまった。不運にも,家臣や従者は不意を打たれ,雨具が邪魔になって,刀を抜く間もなく,主君をふせげずに倒された。寸秒間の出来事だった。

 その時一味の一人が,血だらけの戦利品を手にして,土手道を走っていく姿が見えた。乱闘で,双方とも多数の者が倒れていた。重傷した二人の襲撃者は逃走不可能と見て,逃げるのをやめ、追っ手に、これ見よがしに、落ち着き払って切腹した。

 大老の従者の多くは,襲撃者のそばで,死傷し,地上にのびていた。生き残った家臣は,死闘から解放されると,この短時間の間に主君がどうなったか,と駕籠のほうを振り向いた。あるのは,ただ首のない胴だけだった。」

 次は,江戸の正月風景です。

 「元日、夜が明けるにつれ、家の戸は順次正面からはずされ、家族の者は盛装して訪問者を待つ。あるいは、年始廻りに出かける用意をする。

 しかしながら、元旦には、たいして年始廻りをしない。訪問は一般に二日目にまわされる。役人達は家来を連れて、三々五々年始廻りに往来している。というのは、これは厳しくお上から申し渡されているからだ。役目を持つある階級の家臣達は、礼装をして、上役の所に行き、新年の祝賀を述べることになっている。

 これは面白く、絵のような光景だ。豪華な絹の服装と、肩の上に面白い翼のようなものをつけた衣は、この光景に美しさと奇抜さを添えている。

 日が高くなるにつれ、街路は人で混んで来る。だが、普段見られるような、せかせかと不安げな群衆ではない。それどころか、天気のいい時には、なんと愉快な光景となることだろう。男の群、女の群、子供の群が、みんなタコをあげたり、羽根をついたりする。タコの形はいろいろで、大きさも違い、老いも若きも一所懸命あげている。

 だが面白くて、愉快なのは羽根つきだ。六人か、八人で一組になって、羽根をつく。みんな一張羅を着ている。髪は黒く、つややかで、女の場合は、色のついたちりめんのきれとか、サンゴのこうがいや、鼈甲の櫛をさしている。みんな、明るくて楽しそうだ。しばらく羽根をやり取りしたあげく、羽根が地面に落ちると、しくじった方は罰としてみんなから背中をピシャリとたたかれたり、時には墨で顔に印をつけられるという有難くない罰を受けねぱならない。こんな時、ドッと笑いがわき起る。しかし、みんな順々にこれを我慢しなければならなかった。そこには、ただ喜びと陽気があるばかり。笑いはいつも人を魅惑するが、こんな場合の日本人の笑いは、ほかのどこで聞かれる笑い声よりも、いいものだ。彼らは非常に情愛深く、親切な性質で、そういった善良な人達は、自分ら同様、他人が遊びを楽しむのを見ても、うれしがる。」

 江戸の人々の笑い声がこうしてじかに聞こえてくるのを私は初めて耳にしました。

 長くなるので引用するのはやめますが,大名行列の描写なども圧巻です。

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 「ヤング・ジャパン」の世界がなぜこのように清新でリアルなのか。著者の新聞記者としての取材能力と洞察力の鋭さ,これももちろんあるでしょう。だけどそれだけではないように思われます。

 外国人の目で見たが故にいっそう,今のわれわれにリアルに迫ってくる。この点が見逃せない大きな点だと思われます。当時の日本人にとってはすべてがあまりにも当たり前すぎ,あるいはそれを引き継ぐ歴史家も,無意識のうちに「当たり前」という「描写以前の土俵」にすでに乗せられている,そういうことがあります。

 「当たり前」の土俵に乗っていては,ものごとを印象深く感動を持って描くことはできないのです。異邦人にして初めて,「当たり前」のヴェールをはいで真実を描き,感動を与えることができる,これはあらゆる世界によくあることだと思います。

 「ヤング・ジャパン」は,歴史書としてみれば不完全でしょうし,「素人もの」にすぎないのかもしれません。しかし,読む人をリアルにその時代に連れ出し,その空気を吸い,その場の人々と生きた交わりを持たせてくれる,そういう不思議な魅力を秘めた著作です。

 この効果を思うとき,たとえば科学の素人が科学を感動的に描くことも許されるのだ,と思い当たりました。科学のプロが科学を語るときには,確かに精密で体系立ってはいるでしょうが,感動の素材が当人にとってはあまりに当たり前にすぎ,観衆に感動をもって伝えることができない,そんなこともあるのではないでしょうか。素人という異邦人にして初めて,科学に潤沢な明かりがともされる,そういうことは十分考えられることです。

ヤング・ジャパン2
2002年6月22日
 「ヤング・ジャパン」は,幕末の動乱を,外国人ジャーナリストの目で,冷静かつ克明に描いた興味深い著作です。私はこれによって初めて,幕末の諸相を,通り一遍の通史の世界から眼前の映像に昇華させることができ,さらには,その時代の空気を吸いながらその世界に身を置く感覚をも味わうことができました。

 「ヤング・ジャパン」がなぜこのように真に迫る力を持つのか。前回は,外国人という異邦性が,真実をつかみ出す客観性の源であろうと考えました。生まれながらにして身を置いている世界に対しては,私たちは真の客観性を持つことができないのです。人類が長い歴史を通して,疑いようのない「当たり前」の事実として天動説を信じてきたのが,その証拠です。人類がもし地球ではなく月に生まれていたら地動説を信じたか,そんなことはありません。そのときには月が天の中心となった天動説が「当たり前」の事実となったはずです。

 とはいえ,月から見れば,美しく青い巨大な地球だけは,回転する他の天体から独立して,天空のひとつところに永遠に張り付いていますから,天動説といっても果たしてどのようなものになるのか,興味のあるところではあります。しかも,この不動の地球が,月面上を人が移動することによって,高度と方角を変えていき,ついには地平の底に沈みこむことすらある。なんとも不思議です。自分が止まれば地球も止まり,自分が動けば地球も動く。摩訶不思議と言わずして,なんと言うのでしょう。

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 話を戻します。「ヤング・ジャパン」の異邦性は,単に生まれ育った世界の違いということだけではないように思います。日本人と日本の国土から異邦であるだけでなく,同じ居留地に住む他の外国人からも,さらには居留地を取り仕切る各国の公使や軍の司令官などからも,異邦性を保って自由です。これが「ヤング・ジャパン」の基本的視点となっています。

 この自由と独立の精神が,同時代の人々や文化からの異邦性をもたらし,ひいては,時代そのものからの異邦性を可能としたのです。時代に埋没しない客観性を彼(ブラック氏)の言葉は持ちえていると思います。百数十年を隔てた今の私たちに,同じ空気を吸っているような親近感と迫真性をもたらす要因は,時代そのものからのこの異邦性にあるのだと,読み進んでいるうちに私は感じました。

 居留地の住民や,その指導者たちから,彼の視点が独立していることを示す一つの例を挙げてみます。イギリス軍人を殺害した攘夷の志士の話です。

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 1864年(元治元年)11月,鎌倉と江ノ島に馬でピクニックに出かけた(当時,外国人の娯楽のひとつとして流行っていたようです)イギリスの軍人二人が,日本刀を振りかざした二人の男に切りつけられ,一人は即死,一人は重傷を負って,数時間後に死亡しました。

 何日かして殺人犯の一人が捕らえられました(この事件以前にはこの種の犯人がつかまることはあまりなかったようです)。直ちに裁判が行われ,判決は「横浜の市街引き回しと斬首,さらにその首を大道にさらす」というものでした。12月30日が処刑の日と決まりました。

 その当日,彼は固く縛られ,荷馬に乗せられて,居留地と日本人街を引き回されました。荷馬の周囲には次々と人の列が加わり,長い行列になったそうです。そのときの様子を引用します。

 彼は決然とした激しい外人憎悪の態度を示した。その全道中,あらん限りの声で,外人に対する憎しみを表している文句を歌い,同国人に自分と同様に,歌えと呼びかけた。彼は外国人からも呼びかけられると,それに答え,自分の行為を誇っていた。外国人について一般に行き渡っている感情がどんなものであろうと,彼に対して強い同情がもたれたということは,まったく明らかだ。徹頭徹尾その男らしい態度を考えてみると,このことは,ほとんど不思議とするに足りない。

 新聞記者として行列に同行したブラック氏が,自分と同郷の軍人を殺害した犯人に対して,一般の居留民が抱くような憎しみの情を表に出さず,ひたすら客観的に,日本の民衆が犯人に抱く感慨を観察し,犯人の雄々しい思想性を評価しようとしているのがわかります。 行列はいよいよ最後の処刑場に向かいました。しかし,日が暮れたため処刑は翌日に延期されたそうです。

 本人(犯人)は大いに残念がったが,もう一日命を延ばすことになった。

 翌朝,ついに処刑のときを迎えます。日本人も、外国人も,横浜中の人々が処刑を見に集まってきました。普通,こうした場合囚人は目隠しをされた上,麻薬を飲まされて,最後の瞬間が本人には自覚できないようにされたそうです。しかし,この犯人は違いました。

 数名の刑吏に付き添われて,一台の乗り物が,監獄から,畑のうねうねとした細道を進んでくるのが見えた。到着すると乗り物の桟がはずされ,殺人犯人は縛られてはいたが身軽に出てきて,役人に丁寧な礼をした。明らかに麻薬を飲まされていなかった。というのは,刑吏が目隠しをしようと布を持って進み出ると,彼は「こんな屈辱は容赦してもらいたい」と熱望したので,役人は聞き届けたからだ。彼はすぐに身も軽く,陽気に穴のところへ歩いていき,その前にひざまずいた。介添え人がいつものように,取り押さえて連れて行く暇も与えなかった。

 執行人の前で彼は「ちょっと待ってくれ」と頼んだ。そして上体をそらせて,一篇の詩を歌った。 それから位置につき,介添え人が彼の衣服を正していると,彼は執行人を見上げ,「俺の首はたいそう厚いが,お前の腕は確かか」とたずねた。執行人はこれを聞いて,少したじろいだようだ。

 もう一度調子の狂った猛烈な叫び声を外国人に向かって発したあとで,「さあ,やれ」といった。一瞬,刀は宙にひらめいた。

 刀が振り下ろされたとき,騎兵隊は一発を発射した。この音を,殺人者は自分の意識がなくなる前に,最後の音として聞いたことであろう。

 すべては終わった。この男が死に面して示した雄々しさは,多くの人々の胸に,一種の哀れみの情を引き起こした。

 事件後,すぐにもひっとらえて処刑せよと,興奮して叫び続けた居留地の人々との間に,「ヤング・ジャパン」ははっきりした一線を画しています。かといって,もちろん殺人を容認しているわけではありません。

 人を殺し,自らの死をも潔く受け入れる犯人の行動の原動力を,その場に流れる憎悪の感情からは一歩はなれた地点から,冷静に見つめようとしているのです。そして,殺人犯の,やむにやまれぬ一徹の理念をも,それはそれとして理解しようとしているのです。

 ニューヨークにおけるテロと,それへの報復といった,時代の感情に押し流された地点からの報道ではなく,まさに時代を超えた地点から,時代の諸事象を眺めている,これが「ヤング・ジャパン」の特徴だと思います。それだからこそ,今を生きる私たちに,当時の姿が真に迫って伝わってくるのです。

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