梅は花びらが丈夫で,桜のようには簡単に散りません。しぼんで,まさに梅干し婆さんのように干からびてすら,醜態を小枝にさらしていることがあります。梅はまた,桜のように無臭ではなく,ほのかな甘い香りを発します。スイセンや菜の花ほどではないにしろ,梅林にいるとほのかな香りに包まれ,花びらを鼻に近づけると,ニーチェがルー・サロメと恋を語っていた19世紀末のイタリア田園にでもいるような不思議な幻覚を覚えます。 今年はこの梅が,盛りの色づきを誇示する間もなく,桜の季節が黄砂に乗って怒濤のように押し寄せてきました。梅の梅らしさは儚い予兆と期待だけで終わりを告げました。梅は桜と並べられると,艶やかさとふくよかさの点で勝負になりません。光に満ち満ちた春霞に見合うのは桜です。そのとき梅は存在価値を失って背景に溶けるように逃げるしかありません。梅は,「春は名のみ」の早春に咲く可憐な彩りです。梅のアイデンティティはそこにこそあります。 今年は梅のアイデンティティが奪われた年でした。 2001年9月11日に始まるアメリカの絶対的覇権主義と,アメリカナイズされたグローバル主義の横行を,この春,梅と桜に象徴的に見る思いがします。 ブッシュ大統領は,イソップの「太陽と北風」における「北風」の役を見事に演じ続けています。一人の旅人の衣装を身ぐるみ剥ぐために,世界に猛烈な北風を吹きつけています。そして自らが他者に与える実害と不快感には鉄のように鈍感になり,その実害と不快感故に蟻のように立ち上がる各地の人群を,再び北風で追い払おうとしているのです。 この仕打ちがいかなる結末をもたらすものか,世界がかつて味わったことのない悲惨な結末で終焉するのか,それとも,これまた世界がかつて味わったことのない大きな高笑いで終わるのか。いずれで終わったとしても,「21世紀はアメリカ覇権の終焉をもって始まった」と,後の歴史書に書かれる事態になることはかなりたしからしく,私の目には映ります。 話がそれました。春分の日の今日,松山は激しい春嵐です。窓から書斎に届いてくる風の音は狂い猛っています。この風で,庭の犬たちは小屋に小さく引きこもっています。太陽が彼らを誘い出すのはいつでしょう。 |
この句の解釈は専門家に任せるとして,素人の私にも分かることは,今の都会人には味わうことのできない雄大な田園風景が広がる中,時はまさに日が沈もうとする春の夕暮れ,ふと東を振り向くと,いつの間にやら大きなまん丸な月がぽっかりと顔を出しているではないか,というのです。この驚きがこの句のいのちだろうと思います。太陽と月を,西と東の同列の存在だと見ているのではないのです。驚きの対象は実は月です。 西の茜の空に沈みゆく太陽の劇的な深紅の涙に見とれていて,今の今まで気づかなかったのだが,ふと東に目を転じると,いったいいつ顔を出したのだろう,ひそやかに静かに,まだ明るさの十分残った碧空に,白く丸い月が溶け入るような恥じらいの姿を見せているではないか,というのです。 自然の大舞台を前にした観客の目は,下手に去ってゆく華やかな主役の演技に見とれている。主役が涙にむせんで観客に最後の手を振っている,ちょうどそのとき,上手では次の静かな場面を演ずる役者が,誰に気づかれることもなく姿を現している。そんな感じです。 季節は春,春分を過ぎたばかりの,菜の花盛りの十四夜です。十五夜の満月では,東と西に同時にまん丸な月と太陽を目にすることはできません。蕪村の句が可能なのは十四夜の夕刻だけです。しかも,満天晴れてうららか。月はおのれの存在を誇示することなく,ひっそりと空に溶けて,白く浮かんでいなくてはなりません。まるで透けた薄衣一枚を纏って恥じらう少女のように。 田園は見渡す限りの菜の花畑。独特の土臭い香りが一面に満ちていて,暮らしに精を出す人の気配はどこにもありません。昼から夜に切りかわるしじまの一瞬です。その瞬間,風は止み,昼の間にたくわえられたうららかな春の陽気が地表にとどまり,まるで時間が止まったように,ものみなすべて静止して見えます。しじまを支配しているのは,白く淡い夕光だけです。 そして,時の流れを証しする唯一のもの,それが沈みゆく太陽と,静かに高みに昇る月です。昼間のあくせくした時間を忘れて,ゆったりしたその動きの中に人はおのれをとけ込ませます。 「菜の花や月は東に日は西に」というと,いかにも日と月を同時に視野に入れて詠んだ句のように思われがちですが,それは無理です。菜の花に埋められた地上のわが身の解放感と,西空の劇的なドラマ,そしてふと気づくと,東の空に薄衣をまとった少女のような月。この取り合わせが蕪村の詩的感興をあおったのでしょう。 どうしてこんなことを長々と書いたかと言いますと,一昨日(3月28日)の夕暮れ,まさに蕪村の句そのままの光景を目にし,唖然として,心の中で叫んでしまったからです。28日は調べてみますとたしかに十四夜でした。いま上に述べた光景はすべて,そのときの私の体験です。気づくと,月は驚くような大きさで地表に姿を見せていました。白く,薄衣のベールを被って,ひっそりと空に溶けこんで…。真昼の高空に浮かぶときの月が感じさせる強さはどこにもなく,本当に少女のような恥じらいの姿でした。 見ていると,刻々と日は沈んでいき,それとともに月はほんのりと赤みを帯びてきました。ワインを少し口に含んでうっすらと頬を染めた乙女のようです。 やがて日は沈みきり,空から光が退いていきます。すると月は再び白さを取り戻し,今度は夜を支配する女神のような煌々とした輝きを示し始めました。 30分ほどのこの大自然のドラマを,私は呆然と見入っていました。見渡す限りの菜の花,まん丸な月と太陽,そして晴れてうららかな空。これだけの条件がすべてそろった光景を目にする機会は滅多にありません。少なくとも私にとって,これは生まれて初めての体験でした。生きていてよかったな,しみじみそう思いました。 |