職場の裏山ともいえる大峰ヶ台(松山市総合公園)は私の日々の散歩コースになっています。何度眺めても飽きることのない木々の彩りの多様さには驚かされます。どれ一つとして同じ色合いの紅葉はないのです。春には爛漫の花弁に満たされるソメイヨシノは,赤銅色に紅葉します。これは周知のことです。しかし,赤銅色というその印象はあくまで遠く眺めてのこと。間近に,つぶさに一枚一枚の葉っぱを観察すると,とても一言で言い表せる色合いではありません。玉虫色というのか,光の当たり具合にもより,千変万化の光彩を放っています。 葉ごとにそれがすべて違うのです。赤褐色の強いもの,黄緑がかったもの,紅色に輝くもの,茶褐色のもの。一枚の葉っぱの中にもそれらが混然と入り交じり,さらには蔭になったり,日差しに照ったり,風に揺らいだりと,空間と時間の狭間の中で,精妙かつ無限のランダムさで揺すられ続ける万華鏡,それが一樹の桜の晩秋です。 大峰ヶ台の山頂には,オオシマザクラ,カンザン,イチヨウという,どれも桜の仲間ですが,春の美しさにはそれぞれに味の異なる桜が多数植わっています。これらもまた,今,個性あふれる冬への変貌の最中です。数の多いのはオオシマザクラ。一樹一樹を見て歩くと,とても同じオオシマザクラとは思えません。たっぷりとした黄褐色と薄緑の葉に包まれたのもあり,天を突く細枝ばかりとなったのもあり,今まさに風に吹かれて葉を一斉に振り落としつつあるのもあり,それらが山頂広場を点々と秋色に染めています。 先日,天気のよい昼下がり,イチヨウの木の下のベンチに腰を下ろして遠足に来た幼稚園児を眺めていました。彼らはいっときキャーキャーと甲高い叫び声で走り回っていましたが,やがて先生の笛の音とともに山を下ってゆき,忘れられていた静寂が山頂に戻ってきました。そのときです。足下で乾いた音がしました。ガサッと確実に何かの気配です。ハッとして辺りを見回しますが,何もありません。しばらくすると,またガサッ。 わかりました。イチヨウの葉が風に吹かれて落ちる音でした。一枚の小さな葉,それがびっくりするような大きな響きを立てて落ちるのです。これは発見でした。半年かけて蓄えられた重力エネルギーが,落下の瞬間一息に解放され,空気の振動となって私の耳を打ちます。 ガサッという濁った音が,あちらからもこちらからも不定期にひっきりなしに響いてきます。聞くうちになんだか心地よくなってきました。ランダムな中にも不思議なリズムが感じられます。そのリズムに感性が共鳴したとたん,私は宇宙と渾然一体になっていました。まるで空から降ってくる陶酔のリズム。 私は思いました。このリズムこそが芸術ではないかと。芸術は人の英知のはるか彼方,人の世に先行するはるかな過去から,それを誰に鑑賞されることもなく,ひたすらあり続けたのではないかと。人は芸術の源泉に,時空を越え,見えない目で,聞こえない耳で,内なる感性だけを頼りに,たどり着く宿命にあるのではないかと。 偶然がその味わいをもたらし,秘密の琴線に触れたその瞬間,無限の虚空に充満した究極の喜びに人はひたることができるのです。だけどその喜びは,次の瞬間には儚い夢と消えています。計り知れない余韻のみが,それをもたらした実像をもはやまさぐることすらできないままに,人を震わせ続けます。 雲一つない秋空が私を包んでいました。イチヨウは見る間に裸になっていきました。時間は,あるときは速く,あるときはゆっくりと,私たちのまわりを流れていきます。私は一本のイチヨウの木が裸にむしり取られる神聖な急歩調の時の流れに立ち会ったのでした。 そして不思議なことに,最後の瞬間,小さな葉が一枚,軽く握っていた私のこぶしの中に吸い込まれるように落ちてきました。それは音もなく吸い込まれてきたのでした。何の輝きもない,無惨に乾いた葉っぱでした。 私はそれを握りしめて立ち上がり,空に向かったイチヨウの小枝をなでてみました。小枝にははやくも,冬を越したあとに芽を吹くつぼみがふつっと小さく姿をなしていました。表面は氷のように冷たく,人を拒んで…。 |
音響等を例年いつも担当している方がたまたま用事で出られないということで,私がピンチヒッターを務めることになりました。事前に機械の操作方法などは教えてもらっていたのですが,なにぶん初体験の素人音響係,本番では必ずしも成功とはいきませんでした。 リハーサルと本番とではボーカルの声量が違い,その上,お客さんがいるのといないのとで会場の音の響きが違います。そうした計算がまったくできていなかった悲しさで,本番になってリードボーカルの声が割れてしまう結果になりました。 その上,マイクやスピーカーの案配を調整する一方で,舞台正面に映像を映すプロジェクターの操作まで一手に引き受けてやったものですから,キリキリ舞いの舞台裏初体験となりました。 話は変わりますが,冬至といえば,いつも思うことがあります。冬至の定義です。百科事典で見ると,「太陽が黄道上の最も南に来る時。その日,北半球では,夜が一年で最も長く,昼が最も短い」,とあります。 それはその通りでしょう。だけど不思議に思うのは,生活実感として,日の暮れが一番早いのは決して冬至の日ではなく,それよりもうんと手前の11月末ころだということです。冬至のころにはすでに明らかに日は長くなっています。私の住んでいる松山でいえば,夕方5時は,11月末には真っ暗です。だけど,冬至の時期である今,夕方5時は十分明るいのです。 日の出の方でいえば,冬至の時期の今,朝の7時はすでに明るんでいます。しかし,1月に入って,たとえば1月10日ころだと,朝の7時は真っ暗です。例年そうです。この冬も間違いなくそうでしょう。 こうした現象をふまえて,あらためて冬至の定義を見るとき,「日の出が一番遅い」とか,「日の入りが一番早い」とか書かれている本が一冊もないのを,宜なるかなと思う次第です。冬至を過ぎてからも日の出はなおも遅くなります。しかしそれを上回るスピードで日の入りが遅くなっていくのです。 夕方犬の散歩をさせていて,つくづくそれを実感します。冬至をまだ迎えていないにもかかわらず,12月に入ると早くも夕空の明るんだ状態が日を追って長くなっていくのです。数日前までなら真っ暗になっていたはずの時刻に,西空の茜が長くたなびいているのを見ると,「日が戻ってきた」と体の底から感じられて,ほっと安堵を覚えるのです。冬至はその意味では,折り返し点を過ぎたあとにやってくる単なる通過点です。 この奇妙な現象が生じる理由について,正確なことは私には判らないのですが,ただ一つ,多分こうだろうなと思うことがあります。それは,地球の公転軌道が楕円であり,しかもその近日点(太陽に最も近づく点)が北半球の冬に当たるとすれば,定性的には上の現象に説明がつくということです。 といいますのは,地球の自転角速度が季節によらず一定であるのは当然ですが,公転角速度の方は太陽からの距離によって,つまり季節によって変動するからです。近日点のあたりでは公転角速度が大きくなり(ケプラーの第2法則でしたか?),その分見かけの一日(夜明けから翌日の夜明けまで)が24時間よりも長くなります。それが北半球の冬,つまり今なのです。これで一応,上の現象の説明になっているのだと思います。 それにしても,日々の生活実感から,地球の公転軌道が楕円であること,さらにはその近日点が北半球の冬であることまでもが傍証されるというのは,面白いことです。 |