夕日のイデア
2001年9月30日
 ソフトウエア工房の仕事に追い立てられ,「坊ちゃんだより」の更新に手が回らない日々でしたが,気づくと夏の余韻が冷めないうちに,季節はすっかり秋,ここ二三日は,夕暮れ時のすがしい風にキンモクセイがほのかに匂い始めています。

 整列して一斉に空を仰ぐ埴輪のように,曼珠沙華の燃えるような紅(くれない)が田の畦を埋め尽くしたも束の間,今はもう,彼らの頭はぼうぼうに乱れ,名残りの色をわずかにとどめるばかりです。ぽきぽきと首を跳ねられるか,さもなくば見苦しい老いさらぼえの身をさらしつつ朽ち果てるか,夢見るように立ち上がった彼らの運命も極まり,ときの来るのを待ちつつ夕暮れ迫る畦道でひとときの眠りに落ちようとしています。

 沈む夕日の丸さが際だつのも秋です。人類は太古から,真円のイデアを夕日に見てきました。夕日の真円こそは,個のレベルを超えた人類共通の潜在的イデアです。

 不幸にも世界は戦争に向かおうとしています,そしてその悪が,「仕返し」という子供じみた発想のもと,全世界のファッショ的整列を得て,大義名分を得ようとしています,この現実に深い悲しみを覚えた絶対者のもたらす一しずくの涙,一点の濁りもなく深紅に染まった真円の涙,人類の遠い遠い懐旧の心に訴える涙,それが秋迫る西空に落ちる夕日です。すわ戦いと,はやる心を抑えかねている時流迎合主義者には,この涙は見えないのでしょう。

 こういってしまうと非難囂々(ごうごう)でしょうが,日本の小泉政権の戦争への協力姿勢の根本発想は,湾岸戦争の轍を踏まないといっていることからもわかるように,戦後の論功行賞ねらいとしか,私には映りません。時流に遅れず,しっかりと論功行賞にあずかる,これだけです。理想も理念もそこにはありません。

 今は「テロ対反テロ」という図式が戦争という悪に仰々しい飾り羽根をつけていますが,長引きこじれるうちにはどのような図式に変化するとも限らず,挙げ句には第三の広島・長崎をも生み出しかねない今の状況にあって,スイスのようにはっきりと中立の立場で戦争を抑止する側に立ち,仲介役に徹するのが,日本のとるべき最善の道ではないのでしょうか。

 戦争抑止の努力がまったく評価されないようなら,人類はすでに死んでいるのです。

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 夕暮れと暁とは,闇と光の境界線という意味で同一現象でしょう。しかし,それがわれわれにもたらす意味はまったく別物,と私は感じ,常々その思いを深くしていました。

 レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」を読んでいて,この思いをそのまま代弁してくれる個所を発見し,嬉しくなりました。さわりをちょっと引用させてもらいます。
夕方と朝ほど違ったものはない。夜明けは一つの序奏であり,日没は昔のオペラでそうだったように,始めにではなく終わりに演奏される序曲なのである。……。曙光は何の予言もしない。それは天気予報の働きをするのであり,雨が降るだろうとか,晴れるだろうとかいうのである。日没の場合,事情は異なっている。それは初めと中と終わりのある,完全な一つの上演である。このスペクタクルは,十二時間のうちに相次いで起こった戦いや,勝利や,敗北を,縮小された一種の映像として,だが速度をゆるめて示すのである。暁は一日の始まりでしかないが,黄昏は一日を繰り返してみせるのだ。(川田順造訳)
 私は,黄昏は,ただ単に過ぎ去ったその一日をスペクタクルとして見せるだけではなく,多くの一日を,人類が経たあまたの一日の集まりを,そしてそれを通して,人類の多くの悲しみを,多くの喜びを,それらすべてを凝縮してわれわれに見せるもの,そんな風に考えています。

 落ちていく数分のドラマに,私はいつもそれを感じます。立ち上ってくる暁にそれを感じることはないのです。

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