麦,菜の花,桜。よりも雑草
2001年4月3日

 今,田園は伸び盛りの麦の緑と,春の光そのものともいえる真っ黄色な菜の花とに,視界の限りをおおい尽くされています。それに加えて桜が満開になりました。まさに春爛漫です。

 爛漫は長くは続かないのが世の常。散歩をしていて,色彩豊かな花々の彩りに胸躍らせる一方で,散る日の悲しみを早くも感じてしまう,いやな人生体験者になってしまいました。

 爛漫の春はしかし,麦や菜の花や桜にばかりあるのではありません。風に吹かれて日がな小刻みに震え続けている足下の名もない雑草にこそ,春はたしかな足どりでやってきています。つい先日,川の土手に腰を下ろし,はじめは河原のそこここに咲く色鮮やかな花々に目を奪われていたのですが,なんだか物足りない。

 あまりに鮮やかで,あまりに春でありすぎて,あまりに潤沢な光に満ちていて,あまりにほのぼのとしてあたたかく,類型の春が声高に春を叫んでいて,はじめは圧倒される春の気配にめまいがするほど陶酔していたのですが,なんだか物足りない。

 歌を詠もうと手帳を出すが,浮かばないのです。内側に響いてくる詩的幻惑がない,ただうっとりと眺める対象ではあっても,心を打つ力がない。そんな感じでした。

 そしてふと足下に目を落としてみる。腰を下ろした我が身から手の届く範囲。たいして風もないのに,草々が小やみなくそよぎ続けている。 ぴりぴりと震えるように力を帯びて一瞬の止むときもない。彼らには冬の衣を脱いだみずみずしい新芽の緑が,飾らず,叫ばず,凛として光っている。

 あゝ,と思わず声が出て,その瞬間,それまでどうにも言葉になしえなかった春が,やっと詩の対象になったのでした。

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打ち震へ止むことのなきあらぐさを手折りてそっとわが息とせむ

もぎとりて青き匂ひを押し当てし鼻腔に刹那春うつつなり

草をもて鼻をかみたり原初なるロゴスとはかくも青臭きもの

さくら考
2001年4月11日

 新学期が始まったばかりだというのに,はや春を越して夏が来たようなここ数日の天気です。先日まであでやかに春を飾っていた桜も,ピンク色の淡い色彩が褪せ,新緑の緑にとって代わられようとしています。あと数日で,文字通りの葉桜になることでしょう。

 日ごと変化してゆく桜のいろどりを眺めていると,眺めつつ移ろいでゆく私の心境が,人生における諦念の積み重ねにまざまざと折り重なってゆくことに驚かされます。

 人生というのは,前方に淡く光る希望と,後方に無惨にうち捨てられた朱筆だらけの未上演台本とが織りなすリハーサル抜きのドラマです。底にはいやおうのない諦念が堆積しています。諦念の重層的積み重ねこそが人生です。

 咲き始めた桜が満開になってゆく様は希望の光そのもの。しかし,満開の繚乱を一瞬の峠として,桜は早くも散り始めます。それを知らない私ではないのに,現実に風に舞う花びらを見ると,秋風の吹き始めた心細さを覚えます。そして,ああやっぱりそうなんだと,一つの諦念を自分に言い聞かせるのです。

 次には花びらの間から緑の新芽が出始め,やがてはそれらがうららかに春を謳歌していたピンクの彩りを駆逐するようになります。気がつくと木々のいろどりは薄緑色に支配されています。その変化の一瞬一瞬が,私の心に諦念の層を深めてゆくのです。

 自分にはどうすることもできず,ただただ受け入れて,涙とともに自らに言い聞かせるしかない諦念の情。人生の一段階一段階も,それを各人の主体の側から眺めれば,可能性を秘めた希望の光を,ただ一つの現実に,そしてたいていの場合は最も光り少ない現実に固定する諦念の羅列ということがいえます。

 はじめはたっぷりの砂を篩っていた篩いに,気がつくとたった一粒の平凡な砂粒が残っているだけ。ああ,所詮はこれだけなのかと,愕然としつつもそれを現実として受け入れるしかない,そうした諦念の日々こそが人生なのだと,私はこの歳になって知りました。

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 日本のいにしえ人が桜に異様なまでの愛着を寄せたことも,今この歳になってよくわかる気がします。彼らは盛りのみごとさをひたすら無心に子供のように謳歌していたわけではないはずです。移ろいのはかなさ故に,桜を愛惜していたはずです。いや,桜を通して,移ろいゆく我が身を愛惜していたのです。

 盛りのときを永遠にとどめたいという願いよりは,移ろいのはかなさをいかに美的に諦念として演出するか,それがいにしえ人の桜遊びの真相だったように思います。

 しかし,所詮は幻とはいえ,人それぞれに抱いている希望の光を盛りの桜に象徴させ,永遠のイデア(理想の虚像)として定着させ,共有したい,そうした願いもあったと思います。諦念の蔭で泣いている,イデアとしてしか実現し得ない本来的自己が,一刹那盛りを極める満開の桜に象徴されているわけです。そのイデアなくして,人は諦念をやすやすと容認できるものではないのですから。

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