老人たちの死(7)
2000年6月5日
 ずいぶん長く野ざらしにされていた「坊ちゃんだより」に今日からまた水やりをしようかと思います。

 「老人たちの死」を書き始めたのは,長い入院生活から解き放たれた昨年7月のこと。9月には6号まで進み,順調に完結に向かうかに見えたのですが,6号を最後にあっけなく頓挫し,わがHPは主に捨てられた廃屋と化していました。

 頓挫の理由を端的に言えば,6号を書いたのち突如訪れた意識の転換です。当たり前の人生なら,生涯で最も重い荷を背負って峠にさしかかろうとしているはずの50歳という歳にして,退院後の静養期間とはいえ半年にあまる解放と自由な日々とを与えられたのです。それは大きな喜びであるとともに,少々の悲哀に味付けされたものでもありました。前途につらなる茫洋とした日々の輝きを見たとたん,意識が過剰反応したようです。頭の中に形容のしようのないエネルギーが渦をなして押し寄せてきました。それは過去との連続を許さないエネルギーでもありました。結果としてそのエネルギーが半年の間に私に何を結実させたのか,それについては今はまだ評価するときではありません。

 長かった気ままな日々も過ぎ,何事もなかったかのように旧来の暮しに引き戻された今,「坊ちゃんだより」はふたたびわが精神生活の重要な要素になろうとしています。まずは,中断していた「老人たちの死」の再開から始めます。中断中,実に多くの方々から,メールその他で心配やら励ましをいただきました。「生きているのか」といったメッセージまで含めて…。

 実は,書き始めようとして少々とまどっています。というのは,構想のメモ書きがいつの間にか紛失していたからです。しかたないので今回は準備運動程度にしておきます。

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 長かった入院生活を今思い返してみて,やはりN島出身の例の老人のことが,私の心にもっとも強く焼きついています。老人が世を去って一年がたちました。Aさんという若い女性によって,老人のこけ落ちた頬の片面に鮮やかな光が投げかけられ,残る片面には,息子夫婦という鈍くて重い光が反照もなしに宿されている。それが私の目に映る老人の姿でした。

 老人はつねづね,「散髪したい,散髪したい」と口癖のように言っていました。私の見るところでは,ごま塩頭のその髪は,ミカン作りの風雪に耐えたスポーツ刈りで,さほど伸びている様子もなく,しかも病室暮らしを思えば,散髪に行く必要などどこにもないように見えました。にもかかわらず,週に一,二度息子さんがやってくると,とりつかれたように決まって「散髪しないと」としわがれ声で何度も繰り返すのでした。

 老人にとっての散髪は,髪を刈ることよりも,顔のひげ剃りを意味していたのかもしれません。ごわごわした無精ひげが顔から生気を失わせている,老人は自身の顔をそう見ていたのでしょう。老人が鏡を持っていたのかどうかは記憶にないのですが,指で顔をなぜてみて,藪のようになった無精ひげを耐え難く感じていたのだと思います。

 自分の顔に自信をもつということがいかに困難なことか,私は自分の身において痛切に日々感じています。持って生まれた顔形は変えようがないとしても,それが発する光は内面を映す鏡として,内面を磨けば自然に輝いてくるはず,そう思ってはみるのですが,一向に輝きなど生まれてこないのが真実であることに苛立ちすら覚える毎日です。

 老人にとっては,Aさんの訪問を心待ちにする気持ちが強まれば強まるほど,彼女のもつ華やいだ雰囲気と自分の発する老いの匂いとに,埋めがたい溝を感じ,それが消え入りたいほどの羞恥の心に発展していったのではないかと思われます。散髪は老人にとって,この羞恥の心から抜け出すための象徴的手段と化していたのでした。一人では歩くことすらできず,しかも手先に震えがあってひげ剃りもままならぬ,そうした身においては,自分に若さとの接点をもたらしてくれる唯一の希望の窓,それが散髪に行くことだったのです。

 実はこの散髪こそ,老人を退院という蘇りへの希望から,一転して死の道に追いやるきっかけになったものであったのです。それについては次号以降で語ることになるはずです。

老人たちの死(8)
2000年6月24日
 桜の季節が過ぎ,新緑と花の香りがあたりに満ちてきたころ,しばらく遠のいていたAさんの靴音が廊下の端に聞こえてきた。軽快にカツカツと響いてくるその乾いた靴音は,よどんだ病室の空気に心地よい高周波のうねりをもたらした。心地よさと同時にそれは罪の香をもともなっていた。人間に知恵を与えたリンゴの実のように,自らはあずかり知らない罪の光沢を誇示しつつ,清新な風となってAさんは老人の枕元に立った。

 そのころ私は慢性的な発熱のけだるさに悩まされていた。いったんはよくなりかけていた病状が再び悪化し,肉体のみならず精神的に滅入ってしまい,絶望の淵に追いやられていた。苦しさに耐えるには,ひたすら目をつぶって眠る以外になく,イヤホンから流れてくるラジオの音楽が唯一の慰めとなっていた。うとうとと眠っては覚め,覚めては眠りしている私に,ラジオの音は遠い無意識の世界から寄せては返す潮騒であった。

 たまたま覚醒状態にいた私は,Aさんの靴音と,それが部屋に忍び入り,老人のそばに立つ気配とを,敏感に察知していた。
 老人は気づいていないようだった。軽いいびきが老人の息から漏れていた。Aさんは手にしてきた紙袋からガサガサと何かを取り出し,オーバーテーブルに置いた。

 その音に気づいたのか,それともAさんの発する存在波が老人の意識を圧したのか,老人は目を開けたらしい。

 「こんにちは」いつものように明るい声がAさんから飛び出した。「あゝ」,かすれた老人の声もいつもの通りである。

 「昨日帰ってきたんですよ。春休みで帰省してたものですから」

 Aさんは東北地方の町の名をあげた。その町は偶然にも,私にとって学生時代の少々甘い思い出に満ちた町だった。大学のクラブで知り合った同級の女性に恋心を感じていた私は,夏休みになんとその町まで出かけて,彼女の家に二泊させてもらったのである。近くにある湖や半島の景勝地を二人で歩いたことが,Aさんの話を聞きながら蘇ってきた。

 実は私の友人も彼女に恋していて,私と入れ違いに彼女の家を訪れたという落ちは,夏休みが過ぎてから分かったことである。

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 老人はリクライニングになったベッドの頭の部分を持ち上げてもらい,はにかんだ笑みでAさんを見つめていた。

 「卒業してしもうたんかと思うとったんじゃ」「卒業はまだですよ。もっともっとお勉強しないとね」「そうか,勉強か。ええな,若いもんは」

 老人は,島でミカンを継ぐ宿命を背負わされた若いころを思い出していたのかもしれない。島を出て勉強したいという気持ちもあったのだろう。未来を自分の手で切り開く喜びを圧殺され,「長男は親の跡継ぎ」という既成のコースに宿命的に乗せられてしまった自分の人生を,働けなくなった今になってやっと,解き放たれた自由の目で振り返ることができたのである。「勉強」という言葉に人知れぬ思い入れがあるのを私は感じた。

 「これお土産です」,Aさんはオーバーテーブルに置いてある小さなこけしを手にとって,老人の手のひらに載せた。こけしはその町の特産品で,私も買って帰った記憶がある。再びオーバーテーブルの上に戻されたこけしを見ると,小さいけれど,大量生産の安物でないことは容易に見て取れた。名のある作り手による一級品なのであろう。

 「わしはなんにもあんたにあげるものがのうて,いかんのう」「心配しなくていいのよ。Sさんが退院して働けるようになったら,N島にミカンをもらいに行きますから。早く元気になって下さいね」

 ごわごわした老人の手にそっと自分の手を重ねて,Aさんはしばらく祈りを捧げていた。ちょうど私も入院する直前にプロテスタントの洗礼を受けており,Aさんのその祈りに何か心打たれるものを感じたのであった。

 「それじゃあ,また来ますね」と言い残してAさんが帰ってゆくと,老人はAさんの姿が消えていった入り口のあたりをいつまでも見やっていた。いつになく寂しげな様子が気になった。Aさんが去っていった寂しさというよりは,自分の来し方を振り返って,やるべきことをやり終えぬまま年老いたことの無念の寂しさというべきだったろう。

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