老人たちの死(5)
1999年9月11日
 老人は,就寝時間を過ぎると決まって活動的になった。昼間はそうでもないのに,夜になるとトイレが近くなるらしい。おかげで私は,隣のベッドでがさがさ,かたかたと物音がして,一晩に何度も眠りを破られることを生理的習慣にしてしまった。看護婦を呼んで手伝ってもらうこともあるが,2回に1回は尿瓶を使って一人で用を足そうと試みる。体が不自由な上に暗い病室での手探りだから,大変な時間とエネルギーを費やし,その挙げ句に,たいていは布団や下着を濡らしてしまうのだった。

 やっぱり看護婦に来てもらわねばならず,大騒動でシーツを交換したり,下着やパジャマを着替えたりしなければならないのである。

 「おじいちゃん,またパンツの替えがなくなったねえ」と,看護婦が荷物の袋や戸棚を点検しながら困り果てた声をあげるのも,すっかり夜々の習わしごとになった。「家の人が来たとき,少し多めにパンツを入れてもらうように言っといて下さいね」と,看護婦はその都度念を押すのだが,老人がそれを実行したのを聞いた覚えはない。

 家の人というのは,息子とその嫁である。二人が一緒にやってくることはなく,週に2度ほど,どちらかがやってきた。洗濯物の交換が主な目的である。

 嫁が最初にやってきたのは,老人が入院して10日余りもたったころだった。「おじいちゃん,元気にしてますか」と,物腰の柔らかいおだやかな声で,嫁は老人に話しかけた。一語一語ゆっくりと区切った,粘着力のある声である。老人はいつものかすれた小声で,「早よ来てくれりゃよかったのにな」と,少し不満げな答えをした。「忙しいゆうても,近いんじゃから,来れんことはないじゃろ」と,なおも老人は畳みかける。

 「それはそうですけど,T子が高校に入学してあわただしかったものですから」
 「ちょくちょく来てやな。あれも口では毎日来るゆうときながら,来やせんのじゃ」と息子にも当たる。「すみません。私も勤めがありますから,毎日は無理かもしれませんけど,できるだけ来ます。」

 嫁はそう言って,もってきた洗濯物を棚に並べ,汚れ物を袋に詰めた。そして花瓶に目をとめた。

 「お花がありますね。誰か来られたんですか」 老人は口ごもった。「うん,ちょっとな。知り合いが来てくれて…」「あの人ですか,また」「いや,うん,まあそうじゃ」「そうですか。毎日来てくれるんでしょう,あの人」「いや,そんなことはない。この間一回来ただけじゃ」

 嫁はそれ以上は問わず,黙って花瓶をもって流しに行き,水を交換した。

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 嫁が袋を下げて帰って行くと,老人はぐったりした様子で枕に頭を沈め,うつろな視線を天井に向けた。そのまま長い時間身動きもしなかった。私はときおりその姿を視野の隅に入れながら,宮尾登美子さんの「朱夏」という小説を読んでいた。午後はたいてい7度台後半にまで熱が上がり,読書の気力もなくなるのだが,その日はなぜか気分がよく,読書を楽しむことができた。

 読みながら意識の一方で老人のことを考えていた。老人には4つの顔があるように私には思えた。一つは,一人でベッドに横になっているときの,眠っているとも醒めているとも,あるいは物思いに沈んでいるとも,いずれともとれるうつろな顔。二つ目は,私とときどき声を交わすときに見せる,澄み切った笑みと心の内をのぞき込むような視線をもった華やいだ顔貌。三つ目は,Aさんにのみ見せた,ときめきと羞恥心を秘めつつ生気と喜びにあふれた顔。そして四つ目は,息子と嫁に見せる,適度な愛想と嫌みを混ぜた無表情で投げやりな顔。

 どれもが仮面ではなく,そのときどきに精一杯生きていることを証しする表情であった。老人はいつでも必死に生き,それでありながら運命の手のもと,悲劇に向かって転がりつつあった。

老人たちの死(6)
1999年9月29日
 老人が生まれ育ったのは瀬戸内海に浮かぶN島である。その島で老人は若くして父親からミカン畑を受けついだ。島の斜面は日当たりがよく,しかも年中潮風にさらされている。島ミカンは甘くてうまいことで定評がある。老人は地の利を得たその島でミカン一筋に生き,つい1年余り前まで,現役で働き続けた。

 「わしはミカンのことしかわからん人間じゃ。八十を過ぎても軽トラックを運転してな,畑にゆくにも,ミカンを運ぶにも,トラックなしではすまんかった」と,老人はまるで昨日のことのように目を輝かせ,島の生活を話してくれた。島にいた頃の話になると,老人の表情には生気がよみがえり,頬がゆるみ,白い歯がすばらしい笑顔を作るのだった。

 足が萎えて,立つことすらおぼつかない今の老人を見ていると,つい1年あまり前までこの人がトラックを運転してミカンを運んでいたなどとは,私にはとても信じられなかった。しかし,足はたしかに萎えてしまったけれど,よく見ると手はごつごつと硬く,手袋のように大きい。後日,死に直面した老人を励まそうと,意識も薄れかかった彼の手を握りしめたとき,両の手のひらからはみ出してしまいそうなその巨大さとともに,指の皮膚のあまりに硬くて分厚いのに驚いてしまった。半世紀にあまるミカン作りの風雪の歴史が,その指には,死をもってすら消せないほどに濃密に刻まれていた。

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 老人は父親から畑を譲られたことに大きな責任と重荷を感じながら生きてきたようだ。老人は二人兄弟の長男である。次男は島の学校を卒業するや,直ちに大阪に出て働き始めた。父親は二人の兄弟に畑を分割してやりたかったようだが,次男には島で働く意志がなく,事実上,長男が一手に引き受けてミカンを作るようになった。そして,長男の結婚を境に,父親は仕事を引退し,その日から長男が一家の主となってミカン畑を経営することになった。

 やがて次男は戦争にとられ,フィリピン沖の海戦で戦死した。島を出て以来,「あんなやつ」と,次男のことをいつも親不孝者のように言うのを口癖にしていた父親は,次男の戦死の報を聞くと,悲しみに飯が喉を通らなくなり,やがて次男の後を追うように死んでしまった。「親父は,小さいころから俺より弟をかわいがっていたんじゃ。弟にはよほど家にいてもらいたかったんじゃろう」と,老人は悲しそうにつぶやいた。

 嫁をもらうことなく死んだ弟と,孫を見ることなく死んだ父親,その二つの魂を鎮めて生きることを宿命づけられた老人にとって,以後のミカン作りは,意に反して背負わされた重荷以外の何ものでもなかった。若いころには,外に出てみたいという衝動に何度も襲われたけれど,その都度,ミカン畑という現実の拘束がそれを許さなかった。

 老人には遅くして息子が生まれ,結局子供はその一人だけであった。かわいがりすぎたのか,親のことを省みない子に育ってしまったと老人は言う。息子にはミカンを継ぐ気がなく,島の高校を出ると,一目散に島を出てしまい,M市で就職した。

 父親が生涯をかけて開拓した畑を,自分の代を最後に再び荒れ地に戻してしまわなければならない。それを知りつつ,老人は82歳になるまで畑を守り通した。「親父が苦労して水を引いた場所とか,石垣を積んだ場所とかを見とるとな,土にしみこんでいる親父の汗に申し訳ない気がするんじゃ」

 今はそれらすべてを雑草の茂るがままに放置していることに耐えられず,老人は涙をにじませた。
 老人は2年ほど前,肝臓に異常を覚え,息子のいるM市の大学病院で診てもらった。そのときは小康を得ていったん島に戻ったものの,再び悪化し,1年余り前,ついに島を引き払って息子と同居し,そのまま病院に入院してしまった。

 以来,老人は島には戻っておらず,「畑がどうなっとるのか,ようはわからんのよ」という有様である。

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 私の体温が比較的低い午前中,しかも老人が目覚めているわずかな時間,毎日少しずつ老人から話を聞く中で浮き彫りになった老人の人生の筋書きは,上のようなものである。老人のかすれた小声は聞き取りにくく,しかも話はいつでも一本の筋に沿って焦点を結ぶとは限らないので,こうしたアウトラインが見えてくるには,かなりの根気が必要であった。

 戦時中,老人も比較的短期間ながら応召を受けたようである。しかし,外地に出向くことはなく,内地で訓練を受けている途中で終戦を迎えた。老人にとっての戦争体験には兵士としての意識はほとんどない。そのため,老人の年頃の人によくある,戦争を懐かしむような言葉は老人からは一言も発せられなかった。

 私の父が見舞いに来たとき,父も老人と話をするようになった。父の方が2,3歳年上である。父は,日華事変,太平洋戦争と,2度の応召を受け,戦火をくぐり抜けて帰還した一人である。老人がN島の出身であることを知ると,「わしの一番の戦友にN島の人がおってな,T君というんじゃが,いつの間にやら連絡がとれんようになって。あんた知らんかいのう」と言う。「Tさん? あゝあゝ,知っとるよ。だけどあの人,いつじゃったか死んでしもうたがな」「そうか,死んだか」

 父は少し力を落としたようであった。父は戦争賛美派ではないが,20代から30代前半の,人生のもっとも充実した時期を戦争に明け暮れした経験を持つ。不幸と言えば不幸な人生である。だが,これは当時としては避けることを許されない,唯一の選択肢たる人生であった。従って,戦火の中でともに生き残った友人は他の何ものにも代え難い存在であり,私の子供時代にはそうした友人の話を父から何度聞かされたか知れない。年をとるにつれいつの間にか互いの行き来は疎遠になり,生きているのか死んでいるのかさえ定かでなくなってきた。しかし,思いは変わらず,生きているうちにいつか訪ねてみたいと常々考えていたようであった。

 戦友中の戦友であるT氏の死を思わぬところで知った父は,86歳にして悲しみに目をしばたたかせた。すでに人生の秋を過ぎ,冬に入っているとはいえ,父はかくしゃくとして元気だし,車を運転すれば,山にも登る。まだまだ同年輩の友人の死が信じられない気分なのだ。

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 父と二人並べて見比べてみたとき,老人にはすでに人生の終焉を迎えるもの悲しさがあった。遠からず訪れる死を,すでに予感させる何かがあった。島暮らしのころを懐かしみ,生き生きと語ってくれてはいても,意識はすでにそこから切れていた。過去は老人にとってすでに遠く望見する幻影にすぎなかった。重荷に感じながらも人生のおおかたを過ごした島を捨てたことで,老人は過去との接点を失っていた。足をしっかりとつけて生きるべき空間を失っていた。

 島での生活を私に語るときに見せる,うっとりとした喜悦の表情は,今の自分の依って立つ基盤のなさを暗示していたのかも知れない。すでに切れてしまった人生,果ててしまった人生,それを老人は無意識のうちに受け入れているようであった。終着点をすぐそこに感じながら…。老人のいのちの灯は,過去を語るときにのみかすかに燃え立つのであった。

 そう考えたとき,Aさんとの不可解な関係にも,何か意味が見いだせるように私には思われてきた。

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