季節の準光速飛行
1998年7月7日
 久しぶりのHP更新である。この間ずっと病院でベッド暮らしを続けていた。5月中旬に10日間ほど退院していた期間をはさんで,4月中旬からの約2ヶ月半,長い長い入院生活であった。5月の退院中も病状は一向によくならず,そのまま連続的に再入院となってしまったものだから,元気になって退院した今の正直な感覚は,「知らぬ間に季節が一つ行き過ぎてしまった」というところである。

 腸の病気だから,腸を休めるのが一番ということで,入院期間の約半分は完全絶食を強いられていた。胸から点滴用のカテーテルを差し込み,寝ても醒めても四六時中点滴を伴としての生活だった。胃腸は空っぽのまま,点滴だけで我慢する。人間,いざとなればどんなことにでも耐えることができると,自らの身をもって実感した。

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 退院して,病院から一歩外に出たときに受けた真夏の太陽の強烈な照りつけは,生涯忘れられないものになりそうである。入院したときは,桜の木々が花から葉へいろどりを変える時期だった。それから約2ヶ月半,監獄のようなベッド暮らしを続けている間に,外部世界では確実に季節が一つ行き過ぎていた。ハッとするような驚きだった。

 私は地球を離れて相対論的な準光速飛行の旅に出ていたのか,あるいは竜宮城で夢を見ていたのか。夢から覚めて一歩外に出たとき,私は懐かしい夏の国に立っていた。季節を一瞬にやり過ごしていきなりむっと鼻を突くような熱気の国に立っていた。

 真夏の太陽の直射は私の心を躍らせ,生気をよみがえらせる。普段でもそうなのに,不安を後に引きずりながら病院の玄関を出た私を,何の前触れもなくいきなり強烈な日の光と熱気の渦が迎えて入れてくれたのだ。驚きと同時に,何とも言えない懐かしさに涙した。戻ってきたぞと,叫びたい気持ちが腹部をかけ登った。

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 退院後もしばらくは用心しながら自宅で静養するようにとの主治医の忠告なので,残りわずかとなっている1学期は,そのまま休ませてもらうことにしている。仕事は2学期からとなる。

 少し長めの夏休みを迎えたわけだが,この休みを利用して何か実りある精神活動をしたいものと考えている。それが何を指すことになるのかは,終わってみないとわからない…,ということにしておく。50歳は第二の思春期だと,たしか「心の旅」で神谷美恵子さんが書いておられた。ちょうど50歳を迎えたばかりの私にもそれは言えるのではないか。ちょうどいい機会だから,新しい挑戦を始めてみようと考えている。

散歩は新しい自然認識の窓
1998年7月14日
 二十歳代から続けてきたジョギングは入院を機にやめることにした。今は毎日散歩と自転車でリハビリに励んでいる。入院中に「脳内革命」を読んだことで、すっかり散歩の愛好者になった。

 といっても、すでに1年余り前から、毎日1時間程度、学校の周辺を散歩するのが習慣になり、楽しみともなっていた。だから、「脳内革命」が散歩主義者への変身の直接の引き金になったわけではない。しかしそれは強烈に、散歩の有効性を認識させてくれたのである。

 散歩していると、実に多くの発見がある。道路を車で走るのとはまったく異なったパターンの自然認識が、歩くことで得られる。自然が自分に近づき、拡大され、生命感をもって迫ってくる。子供の目を取り戻した喜び? いや、文明が人類から自然を遮蔽する以前の人類の目を、一瞬とはいえ、返してもらった喜びというべきか。

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 歩みを止め、ふと小川の流れに目をやる。岸辺の雑草が水面に映り、カオス的波紋をもって永遠の揺らぎに身をまかせている。青空に浮かぶ白雲は水底深く影をなし、形を無限に変化させながらゆっくりと風に流されている。小川の底では、あちこちで小石が色とりどりの光を放っている。すべては、実体とも影とも区別のつかない混沌の中で揺らいでいる。

 まさに、世界を認識する人間の目を象徴する姿ではないか。

 さらに、小川をのぞき込んでいると突然、これまで目にしたことのない不思議な姿を発見した。まるで気泡でできたように立体感のあるひし形が縦横にいくつも連なり、川の流れに沿ってゆっくりと揺らめき流れているのだ。ハッと思って周囲を見回してみた。その姿に対応する実体を発見することはできない。何かが水面に映った影ではないらしい。にもかかわらずたしかに、古城の石垣のようなその姿は疑いようもなくはっきりと眼前に在って揺らいでいる。

 狐につままれたのか。しばらく見とれているうちに、それらしい正体を突き止めることができた。どうやら風を受けて小川の両岸から斜めに進んでくるかすかな風紋の合体像らしい。だけど不思議なことにその像は水の表面には見いだすことができず、何ともいえぬ奇妙な深さに焦点を結んでいる。のぞき込む人の視線の焦点距離が偶然うまく合致したときにのみ姿を現す妖怪である。

 美しさに見とれながら私は、フッサールからハイデッガー、サルトルへと続く、現象学的実存哲学を頭に浮かべていた。「現象と実在」に関する問いかけへの新しい解答を、この眼前の像が端的に与えてくれているのではないか。川面を見つめながら私は時のたつのを忘れていた。
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