私の目の前を,次々と249名の卒業生が通過する。拍手を浴び,照れながら,わき上がる思いをかみしめるように口元を引き締めた彼らが通過する。 彼らが通り過ぎた後に,私は一人取り残されていた。そこは空っぽの空間だった。拍手の残響がいつまでもこだまする空間だった。私の視界に在校生も父母もいなかった。私は体育館の天井を見上げ,虚空に何かをまさぐっていた。 「取り残された」という思いだけが私を包んでいた。こうして来る年も来る年も,私はひとつところに取り残されている。私の目の前を,刻々と列をなして彼らは通過してゆく。「未来」という光輝に満ちた世界へ,彼らは旅立ってゆく。これまでにいったい何人が私の眼前を通過したことだろう。 私にはもう未来はないのか,光輝に溢れた未来はないのか。墓を抱いて暮らしてゆくしか道はないのか。 私にも卒業式を下さい,そう叫びたい気持ちに駆られた。 帰ってテレビをつけると,教育テレビで小林光一九段と新鋭の羽根六段の碁があった。激しい戦いの碁で,最後には羽根六段が天下の小林九段をねじ伏せてしまった。「よくやった」と拍手したい一方で,小林九段に「通過される者の悲哀」を感じ,我が身を重ねてしまった。 |
突風にあおられながら時折,激しく雪が舞う。大きなべた雪だ。視界がきかないほど。風に乗って横殴りに吹きつける。よく見ると,舞い狂っている雪に濃淡の縞模様がある。密度ゆらぎである。密度の濃いところがまるで大宇宙に漂う銀河のように,紡錘形になったり,糸のように伸びたり,激しく形を変えながら猛烈な勢いで目の前を吹き流れてゆく。 窓に打ちつける雪は「ペチャッ」と音を立てるほどの勢い。押しつぶされると直径2,3センチにはなる。窓が冷え切っているため,しばらく雪は溶けないでくっついている。結晶の観察にちょうどいい。 チカチカと針状に分岐して四方八方に伸びた結晶。湿っぽいべた雪にもちゃんと結晶はあるのだ。まだまだ成長途上の若々しさが感じられる。伸び盛りの結晶がいきなり窓に打ちつけられて,あえなく最期を遂げた,そんな武士道的なあでやかな死の姿がそこにある。 次々と彼らは窓に打ち当たって死んでゆく。風に吹きあおられる空間はまさに戦場なのだ。敵味方入り乱れて荒れ狂う戦場。人間はこうした修羅場を幾度となく現実のものとした。一つしかない命と命が激しく格闘し,互いをうち消しあってゆく。 命が最も軽い瞬間。そして命の奥に,命につながるものが,最も重く光輝を発する瞬間。 雪の激しい乱舞に遭遇して,彼らひとひらひとひらに実存の軽さと重さ,はかなさと永遠の価値を,象徴的に感じた私であった。 |
そんな中,土曜日に中学部のマラソン大会があった。中1生はインフルエンザの欠席者が多いため延期になり,中2,中3は予定通り実施された。このところ気温は異様に高く,ちっとも寒くないので,元気なものにとっては絶好のランニング日和であった。 昨日,少し熱が下がり気分も良くなったので,夕方,日がまだ十分残っている時間に,犬を連れて重信川の上流に出かけた。河川敷にちょっとした公園があり,桜の裸木が公園をぐるっと取り囲んでいる。花の季節にはすばらしい花見公園になるはず。だけど今はまったく目にもつかない裸のままで,公園の隅に埋もれている。 しだれて垂れている枝を手にとってみた。艶やかに色づいた枝だが,さわると一瞬身が縮むほど冷たい。これでも生きているのかと心配になるくらい凍えている。思えば,この季節,桜の枝をこうやって指でさわって感触を確かめるなど,生まれてこの方なかったことだ。この冷たさに自然の哲理を感じた。 太陽にも,寒風にも,雨にも雪にも,すべてに晒されてそれらと共に生きている自然界の生物の哲理。生物とはこうなのだ,自然の中に産み落とされ,自然を住処とし,自然を摂取して生きることを,ただそのままにためらいなく受容しているのだ。一人人間のみが,自然を隔離し,自然を敵として生きる知恵を身につけた。 哀れな寄る辺ない人間よ。そう感じた瞬間,私は桜と生を共有し,その中に取り込まれて,彼らと時空をともにした。ほんの一瞬のできごとだが,私は桜になっていた。桜の肌の冷たさの中に身をすりこませていた。 |
その中に一つ,首を傾げる問題があった。数学U・B(追試)のコンピューター分野の問題である。与えられたBASICプログラム自体は実に単純なもの。そのプログラムが何をやるかというと,まず任意の自然数 K の入力を求める。そして,その K より小さい自然数2個の全組み合わせ(順序も考慮すると (K-1)2 通りある)について,その積を K で割った余りを求め,マトリックス状に表示する。それだけである。 設問は,その余り群の中に1が何個含まれるかを調べよ,というのである。 内容はコンピューターというよりも,明らかに整数論の問題である。いくつかある設問の最後は,「K として12から20までの整数値を入力するとして,上のようにして求めた余りの中に1が K−1 個含まれるような K を求めよ」というもの。 この最後の問題を受験生がどう解くのか,非常に興味のあるところである。おそらく大半は,すべての組み合わせについてひとつひとつ積を計算し,余りを求め,余りが1になるかどうかを調べてゆくことだろう。これだとあまりにも受験生を馬鹿にした,ナンセンスな問題である。時間と労力と根気だけを必要とし,数学的内容はゼロに等しい。 この問題は数論を背景としていて,その知識があるか,あるいは受験の現場で理論的考察をする力のある受験生にとっては,いちいち計算しなくても,結果は明らかである。12から20までのうちの素数,すなわち13,17,19がその答である。 「自然数 A,B,K が与えられたとき,AX が K を法として B と合同になるような自然数 X が存在するための条件は,B が A と K の最大公約数の倍数になるときで,そのとき X は完全剰余系の中に,A と K の最大公約数個だけの解をもつ」という,数論のどの教科書にも述べられている基本的な定理を使うのである。 今の場合,B は1だから,定理によると,A が K と互いに素な場合にのみ解 X は存在し,しかも1つの A に対して解 X は1個だけ存在する。従って,1から K−1 までのすべての A が K と互いに素な場合(つまり K が素数のとき)に限って,余り1は K−1 個含まれるのである。 こうした数論の定理を受験生が知っているはずはない。しかも,限られた試験時間の中で理論的考察からこの定理に至ることは期待できない。とすれば,間違いなく全受験生は,ナンセンスな「やってみ算」に挑むことになる。首を傾げた根拠はこういうところにある。 |