学校の中庭の大きなキンモクセイも色づいてきた。我が家にも一本ある。写真は我が家のキンモクセイである。 キンモクセイの香りは私にいつも一つの記憶をよみがえらせる。子供の頃、松山の秋祭り(10月7日)が近づくと、町にこの甘い香りが漂ってきた。毎年毎年そうだった。それをてっきり私は、祭りにあわせて家々で焚くお香のようなものだと思っていた。 「うちではどうしてあのお香を焚かないの?」と母に尋ねて、母に笑われた。たったそれだけのことだが、キンモクセイは私に無限の郷愁を呼ぶ。 |
潮騒を聞きながら待っていると、やがて正面の海に夕日が落ちる。それを石段に腰掛けて固唾を呑んで見つめる。時の経過を忘れさせる壮大な自然のドラマだ。眺めているうちに、体にたまった澱が夕日とともに溶け去ってゆくのがわかる。気分がすっと軽くなる。 話には聞いていたが、先日家族を連れて初めて出かけてみて、夕日公園の不思議な力に魅了されてしまった。 季節は秋。夕日の季節だ。夏の燃えるような夕日と違い、秋の夕日は清澄に音もなく水平線に沈んで行く。 |
だのに我々はたしかにそこに光球を見る。それでいい。自然はいつでも詩なのだから。 昔は職場に電車で通っていた。それがいつからか便利さの魔力に魂を抜かれマイカー族に身を堕していた。車はたしかに便利な移動手段である。だけど毎日乗っているとこれくらい人を空疎にするものはない。出発地と目的地を点と点で結ぶ機械、人をハンドルに捕捉し奴隷を強いる道具、魂から精髄を抜き取る注射針、それが車だ。 近頃、電車通勤を復活させた。電車にはさまざまな魅力がある。一つは、本が読めること。片道30分、往復で1時間。毎日、本が読める。これは実に大きな魅力だ。 第二には、歩くこと。家と駅、駅と職場(学校)の間は必ず歩かねばならない。適度に日を浴びて健康的だ。しかも、歩くことは自然界に接近するチャンスを増す。ときには詩的な、そしてときには自然科学的な発見を呼ぶこともある。 歩きの世界は幼子の世界である。幼子の視界は地面に近く、そのぶん大人よりも自然を身近にしている。歩いているとまさに幼子になる。草花や木々、小石や水の流れ、あらゆる自然が赤裸々の姿を見せ、しかも堪能するまで視界にとどまってくれる。車にそれは期待できない。 第三には、多くのマス的人間存在を至近にして、実に多様な刺激を得ることができる。たとえば、女子高生の他愛ないおしゃべり、OLの社内人物評、茶髪の男子高校生のナンパ体験談、等々。聞くともなしに聞いていると、知らざる世界を垣間見るようで楽しい。 電車通勤万々歳! |
私の恩師、あるいはかつての同僚、そしてまた教え子たち。数百名の参加があった。恩師の中には、すでに物故された方々も多い。 私は今、個人的に、田中初代校長の足跡をたどる仕事に取り組んでいる。45年前の、校長以下教職員総勢6名という、ままごとのような学園出発の日から数え、愛光学園は何と壮大な人の輪を作りだしたことか。 思えば一夜の夢にすぎないこの45年を、悲しくも実体たらしめ、今ははや彼岸の地に移られた多くの方々の在りし日のお姿を想起しているとき、事物と想念の境界は分別がつかなくなる。 かつての彼らの旺盛なエネルギーは、今どこを経巡っているのか。田中先生はたしかに今、衣山の丘・キリシタン墓地にひっそりと眠っておられる。と同時に、またたしかに、宇宙の彼方を飛翔し、我々をあのほほえみの眼で見つめておられる。私はその視線をありありと感じる。 切り通し、それは夢。それは謎。坂の向こうに何があるのか。神秘と希望と、限りない光。永遠に手にすることのできない英知。 だから夢。だから希望。青空と白雲のみがすべてを知っている。 衣山の丘に切り通しの坂がいくつもある。見上げれるといつも、子供のような憧れに胸が高鳴る。 |