父の勇気と愛情
1997年7月1日
 7月1日は私にとって生涯忘れることのできない日である。

 西日本の霊峰と呼ばれる石鎚山のお山開きの日。そして私が11歳の命を落としかかった日。

 石鎚山は今はロープウエーやスカイライン・ハイウエイなどができてハイキング気分で登れる山になったが、私の子供の頃はそんな風ではなかった。

 小学校6年生のこの日、父と二人、お山開きでにぎわう石槌に登った。朝暗いうちに、西条口から登り始め、山頂近くの鎖場に着いたのはもう昼。突如激しい雨が降り始めた。滝のような雨で、鎖を握る手が滑る。仕方なく、一の鎖を登ったところで登頂はあきらめ、下ることにした。

 雨に打たれながら再び山道を下る。切り立った狭い山道で、左側は谷底。道は流れ下る雨水で川のようになり、見境がつかない。6年生の私にはすでに体力は限界に近かった。疲労の果てにふっと意識が薄れた瞬間、私の体は谷底に向かって滑っていた。笹が茂る斜面を意識のない体が落ちる。

 父が気づいて、私のあとを斜面に飛び込む。私の体は幸い立木にひっかかって止まった。

 父はてっきりあの瞬間、息子は命を落としたと思った。とっさに後を追って斜面に飛び込んだ父の勇気と愛情を私はあとで知った。

 翌日学校で事の顛末を級友に話し、すっかり英雄になってしまった。あれから38年。7月1日が来るたびに私はその日を思い出す。

CATVテレビの取材
1997年7月2日
 先週の予定だった棋道部への取材が今日になった。愛媛新聞の記事にするのかと思っていたら、実は愛媛新聞社傘下のCATVテレビとのこと。

 今日は予備取材で、明後日が本番の撮影取材。15分番組で、その大半がわが棋道部関連というから驚く。棋道部の歴史を物語る写真なども用意してほしいというので、今夜は古いアルバムを引っぱり出して大忙しだった。

 放映は7月10日。時間は今は忘れたが、24時間のうちに5回流すのだという。CATVのつながっている方、ぜひ見て下さい。

テレビ出演の巻
1997年7月5日
 昨日、学校の棋道部にテレビ取材班がやってきた。取材班とはいっても、ディレクターとアナウンサーとカメラマンの3人。放課後、2時間ほどの時間をかけて撮影した。

 主役は県大会個人戦優勝の浦部君と乗松君。彼らへのインタビューと私へのインタビューがあり、あとは、部員たちの練習風景、過去の戦績を記す優勝カップや優勝盾、出場記念の写真などを撮影する。

 普段は鷹揚で、ときには横柄にすら感じられる高1の乗松君は、人が変わったように緊張している。浦部君との対局風景も撮ったのだが、そのときの碁はまるで碁を覚えたばかりの子供のような内容。緊張のあまり頭が真っ白になっているのが分かる。

 それに引き替え、浦部君はさすがに高2生。落ち着いて応対している。

 放映は愛媛CATV、7月10日午後7時45分から8時まで。そのあと24時間の間に数回放映されるのだという。どうかごらんになって下さい。

真夏、火星、ああ成就の巻
1997年7月6日
 家内と犬の散歩をさせた早朝、道は真っ白に乾き、日はじりじりと肌を焼く。空の青さと雲の白さはまさに盛夏。朝っぱらから気温は30度を超えている。

 この暑さを坊ちゃんは好む。太陽光線の直射を受けながら、乾ききった道を黙々と走るのが好きだ。何かを取り戻したぞ、とそのとき思う。理知的でなかった幼い日々を、自然に埋もれて過ごしたあのころの一途を、この青と白の陽炎が引き戻してくれる。

 火星の真っ赤な土と岩を見た。空も赤く色づいている。いつからおまえはそのように枯れ果てたのだ。地球の未来を暗示しているのか。それともそれが自然の変わらぬ姿か。「地球よ、おまえが幻影さ」そう火星は告げているのか。

 坊ちゃんは火星で物思いに沈みたい。永遠の夕焼けに包み込まれたい。

 春から書き続けてきた原稿のすべてを今日終える。成就祝いは何もない。わが内に喜びを隠して、平穏な日々の一つとする。

 さあ、一学期の授業もあと一週間。少し暇ができそうだ。ホームページの刷新を図ることもできよう。

「時間よ回れ」の巻
1997年7月11日
 つい先日から、自分の時間をたっぷりもてる身分に戻った。ホームページを刷新したいのだが、その前に英気を養わねば。それには読書が一番。

 桜井邦朋氏の「宇宙のゆらぎが生命を創った」を読む。時間の非逆行性、宇宙の進化とともにある生命、時間を自己に引き寄せる生き方、など。示唆に富む視点に感銘を受けた。続いて、トーマス・マンの「魔の山」。そこでも時間の問題が多く語られる。宇宙の進化時間とは独立に、個の中で時間は速くも、ゆっくりも、そしてときには踏みとどまりつつも過ぎてゆく。

 そして今夕、小雨の中、犬を散歩させていて、不思議な現象に出会った。まず二人の老境の婦人とすれ違う。すれ違うやいなや、二人はすぐにUターンし、私のあとをついてくる。何だこれは?

 二人はやがて別の道をとった。しばらく行くと今度は定年間近と思われる夫婦とすれ違う。夫が小止みなく話しかけ、妻がうなずいている。そのまま長い迂回コースを散歩し、元の道とは縁もゆかりもない町を歩いていると、何とその夫婦が向こうからやってくるではないか。相変わらず夫がしゃべり続け、妻はうなずいている。何ということだ、これは。

 さらに、我が家に近づいた頃、犬を連れた若い奥さんとすれ違う。

 いったん家に戻り、別の犬を連れて再び散歩に出る。しばらく行くと先ほどの奥さんとまた出会う。そして極めつけは、三匹の犬を連れた初老の男。すれ違ったあとランダムに角を曲がっているうちに、さらに二度も角々で出会ったのだ。しまいには顔を見合わせた二人が時を同じくして笑い出してしまった。

 逆行不可能な時間も、ときにはこうして空回りすることがあるらしい。

1学期の授業終了
1997年7月12日
 中3から高3までは昨日が今学期の最終授業日。今日から期末試験である。中1,中2は今日までが授業。坊ちゃんの授業も今日の中1で終了となった。

 長かったのか、短かったのか、それすら見当がつかない。無我夢中で頑張り通した1学期、というところか。

 長いフルマラソンを走り通してきて、ゴールまであと100メートルの心境である。残る100メートルは試験の採点だ。それを終えればしばらくは休息。読みたい本、新しいプログラミングなど、計画はいろいろある。どれも食うための仕事でないのがいい。

 一昨日テレビ放映された我が棋道部の15分番組。なかなかいい出来だったと、何人かから声をかけられた。私の家で愛媛CATVは映らないので、当の本人は見ていない。主役の生徒たちも見ていない。

数学は読んで覚えるもの?
1997年7月15日
 期末試験の真っ最中。生徒たちは目前に迫った夏休みというニンジンを餌に、目の色を変えて勉強している(と思う)。

 そんな中、宅浪しているK君が、質問にやってきた。彼とは2年間クラス担任としてつき合い、私生活の面でもずいぶん踏み込んだ話をしてきた。京大を受けて失敗したこの春、予備校に行くことを極力勧めたのだが、自分で頑張るからと松山に踏みとどまった。それ以来、ときどきこうして学校にやってきては、質問をかねて気分転換に雑談して帰るのだ。

 今日は彼と4時間つきあった。質問は最初の1時間だけ。教えているうちに、彼の勉強方法の異常さに気づき、これでは空回りしているだけだと思った私は、話題を勉強の方法論に変えた。

 彼の受験勉強は「赤チャート」(6冊)の解答を読むことだけ。質問も従って、そのチャートの説明文で意味のつかめない箇所を教えてほしいということだけである。自分ではまったく問題を解かないのだ。「いちいち解いていたのでは時間がかかるでしょう。短時間で理解するには読むのが一番です。」6冊のチャートを10日で終えました、というのには声も出なかった。

 それをきっかけに、勉強の方法論にとどまらず、人生論にまで広がる大激論になった。最後には、「そこまで言うのなら、自分のやり方を通してみたらいい。だけど今後はもう面倒見ないよ」と最後通告するところまで発展した。「それでは困るんです。教えてくれる人がいないと勉強できないんだから」と、それでもやはりすがってくる様子だ。

 話は平行線をたどり、半ば喧嘩別れのようにして追い返すことになったのだが、そこまで言い合えるのも在学時代からの長いつきあいによる信頼関係が背後にあるから。そのうちまた「教えて下さい」と電話してくるのは目に見えている。

狂気に近い可能性
1997年7月20日
 さあ、夏休みだ!

 坊ちゃんの学校は昨日から夏休み。一昨日、期末試験が終わった瞬間、目の前にいた生徒が思わず拳を上げて素っ頓狂な声を上げた。「さあ、夏休み、夏休み!」 彼は狂ったように飛び跳ね、誰かれとなく握手を求める。そう、彼にとって夏休みは無限の自由と、無限の可能性の塊だ。狂気に近い可能性だ。可能性を秘めた何物かなどではない。可能性そのものなのだ。喜びそのものなのだ。

 坊ちゃんにはすでに、夏休み終了のその日が見える。秋風が立ち、日暮れがうんと早くなり、積乱雲が虚空に孤独をかこち、人生の終末期の寂寥が家々をあかねに染める、そんな日が見える。

 若いって、ああ、なんてすばらしいのだ。無知なるが故の美しさ。

 だけどこの夏、坊ちゃんにとっても可能性は無限だ。まず、ホームページの模様替えに手を着けた。読みたい本を机に積み上げている。ジョギングで体も鍛えよう。新しいプログラミングの計画もある。何より、自由の味を満喫したい。

週末台風
1997年7月26日
 週末台風またまた上陸

 台風9号、松山には被害なし。昨夜激しい風雨が襲ったものの、それっきりだ。あとは涼しい風と雨。暑気を吹っ飛ばす効果の方が大きい。

 しかし、通り道に当たった人たちは、すさまじい風雨に身を縮ませたことでしょう。お見舞い申し上げます。

 降り続く雨で、飼っている4匹の犬を散歩させられず、庭を少し走らせるだけ。欲求不満になりそうな彼らのために、昨日と今日、大サービスで犬たちを家の中に入れた。普段は外で飼っているのだが、台風は犬たちに降って湧いたラッキーをもたらした。

 嬉しそうにはね回っては体の不自由な下の娘の顔をなめたり、手足を軽く噛んだりする。それも彼らの精一杯の愛情表現と受け止めて我慢するしかない。

 明日から生徒3人を連れて東京に行く。高校囲碁選手権。勝ち上がる予定も、可能性もゼロ。だけど、選ばれてこうした大会に出場できることは、生徒たちにとって非常に大きな体験になる。過去、全国大会に連れて行った生徒たちは例外なく全員、一流大学に現役合格を果たしている。自信と度胸と勝負強さが功を奏するのか。

時効直前につかまった女性
1997年7月31日
 福田和子つかまる

 高校囲碁選手権を終え、生徒たちと坊ちゃんが松山に帰るために羽田を発ったのは29日午後6時40分。まさにその瞬間、福井市では福田和子の逮捕劇が展開されていたことになる。

 翌日彼女が護送されてきた松山東署は、市民と報道陣でときならぬ人だかりを見せた。松山東署は坊ちゃんが子供時代を過ごした上一万界隈に南接する。小学校時代、学校からの社会見学で東署を訪れ、薄暗い留置場を見せてもらった記憶が鮮明に残っている。署の建物はその後建て直されたとはいえ、福田和子はその留置場で夜を過ごす身となった。

 家内から車の中で逮捕のニュースを聞いたとき、とっさに浮かんだ思いは、不謹慎にも、「哀れだな、あと3週間、逼塞して暮らせば逃げおおせることができたのに。14年11ヶ月の逃亡生活が、最後の最後の気のゆるみで水泡に帰したではないか。哀れ、哀れ」というもの。追いつめる警察を強者、逃げる犯人を弱者と、坊ちゃんの感性は直覚する。弱者の味方を本性とする坊ちゃんにとって、福田和子は捕まった瞬間、哀れみと同情の対象と化したようだ。

 15年前の事件は坊ちゃんにとって記憶に新しい。ずいぶんあこぎなことをして逃げたもの、と当時は思った。今ももちろんその思いに変わりはない。15年間彼女の手配写真を駅や街角で拝み続け、そのどれもが風化で色あせ、青白くなった紙がはたはたと風になびくのを見るにつけ、思いの本質が変容していった。彼女は坊ちゃんと同い年。

 忘れ去られたままで時効を迎えてほしかったと、かすかに念じたとしても背徳ではないと、誰か保証してくれる人はいないだろうか。

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