ホームページを開いてちょうど2ヶ月
1997年6月1日
 ホームページを開いてちょうど2ヶ月が経過した。アクセス数は平均すると一日15〜20程度。この種のホームページとしてはまあまあか。このところ忙しすぎて、お客様を呼ぶための工夫をする暇がないのが心残りである。案はいくつかあるのだが、実現させる時間がない。

 この「今日の坊ちゃん」は、わずかな時間で毎日更新の実を上げようという、苦肉の策である。と同時に、ややもすると閉鎖的になりがちな学校という職場の雰囲気を、多くの方に知っていただく効用も考えている。公式の学校案内ではない。そこに働く一人の教師のパーソナルな感慨を伝えたい。

 私が今住むところは松山の東のはずれ、重信町との境界に近い。基本的には田園地帯である。しかし、いたるところで宅地造成が進み、すっかり町に変容した。しかし、民家の密集地帯から少し離れれば昔ながらの田園風景に出会うこともできる。自宅から南に2キロほどゆくと松山平野を作った重信川、北に2キロゆくと小野川にぶつかる。小野川は石手川の支流、そして石手川は重信川の支流である。川は太古からの自然の力を保存していて私は好きだ。

 私の家のすぐ近くに陸上自衛隊松山駐屯地がある。一日何度か起床や点呼のラッパが響く。高校を出たばかりの若い隊員が毎日、フェンスで囲まれた敷地内を走っている。

 そのすぐそばを私も走り、小野川方面に向かう。これも私のジョギングコースの一つ。近頃は重信川を走ることが多くなっていたのだが、今日は久しぶりに小野川をさかのぼった。途中に葉佐池古墳がある。未盗掘の前方後円墳で、何年もかけて調査研究がなされている。小野川に出て上流に向かう。急速に平野が狭まり、谷となる。小野谷という。

 大きなため池をいくつも横に見て、ぐんぐん上流に向かう。谷はますます狭まる。直射日光が当たるのは一日数時間という谷間の村の公民館まで。かつてはそこまでバスが走っていたのだが、今は過疎のため廃線になった。バス停の標識とベンチだけが風化の標本のようにわびしく取り残されている。切符売り場をかねた雑貨屋は雨戸が下りたままである。

 そこまで行ってUターン。これも坊ちゃんの暮らしである。

京大後期の難問、飛び級のこと
1997年6月2日
 月に一度の自宅研修日。今年の坊ちゃんは月曜日が授業のない日になっていて、月に一度だけ月曜日を休みにできるのだ。週休二日からはほど遠いが、まあ、ないよりはましとしよう。

 今年の京大後期の問題を解いていて、えらく難しいのにぶつかってしまった。先日来取り組んでいる問題集の原稿の一部にするのだが、ベストと思われる解答と、その別解をいくつか考えているうちに、半日つぶれてしまった。参考までに、その問題を載せておこう。

 連立方程式

   y=2x2-1, z=2y2-1, x=2z2-1

 について、

 (1) (x, y, z) = (a, b, c) がこの方程式の実数解であるとき、|a|, |b|, |c| はすべて1以下であることを示せ。

 (2) この連立方程式は全部で8組の相異なる実数解をもつことを示せ。

 腕に自信のある人は一度やってみて下さい。なかなか骨があるのです。これを受験場で完璧に解いた受験生の顔を見てみたいなと思った次第です。

 そういえば、最近「飛び級」が話題になっている。我が校にもときおり、数学の天才的な感性を持った生徒が出てくる。彼らの感性をこせこせした受験数学の中に埋め込んでしまうのはもったいない、そんな思いに駆られることがある。

 だから飛び級は必要だ、と言いたいのだが、反面、ちょっと待てよという気持にもなる。こんなに早く弦(ツル)から矢を放ってしまっていいのか? 猪突猛進のように人生を限定してしまっていいのか? 学ぶべきことはもっとほかにないのか? 成功したときは君の人生はバラ色だろうが、真一文字に進んで万一失敗したときはどうなるのか?

 教育制度などの一般論でなく、その人個人の将来を慮って私は躊躇する。

アジサイの生命力
1997年6月3日
 庭のアジサイがいい色に色づいた。アジサイの薄紫と淡いピンクが、けぶった雨によく似合う。太陽に直射されたアジサイなんて、道ばたの乾いたアリの巣よりも情趣がない。

 アジサイの生命力には驚く。冬場の枯れ枝は犬にかじられてぽきぽき折れる。まさに死に体。潤いのかけらもない。それが春になると新芽を吹き、豊かな葉を茂らせ、初夏にはたっぷりとしたみずみずしい花をつける。どこに命の息継ぎがあったのか。淡々と時をやり過ごす坊ちゃんなどには味わうべくもない喜悦が、彼らの体内の奥底にみなぎっている。

 我が校はカトリックのミッションスクールである。ドミニコ会に属し、スペイン人の神父が敷地内の神父館(修道会)で生活している。生徒たちの日常生活に宗教色は全くないのだが、今日は放課後、新しく入った中1生に聖書の贈呈式があった。こういうときには神父が神父の顔になる。

 数学研究室のコンピューターがここ数日、壊れていた。それをやっと復旧する。ハードディスクに入った膨大なデータを生かしたまま復旧しようとしたものだから、困難な闘いを強いられた。授業の合間の暇々につつき回し、つついているうちにますます状況が悪化する。そんな段階もあった。結局、五日間くらいかかった計算になる。

犬の世界に人間の集団心理の真相を見る
1997年6月4日
 我が家の老犬メリーが元気を取り戻してきた。後ろ足を引きづり気味の歩きは相変わらずだが、寝たきりの老犬からは脱出した。

 ずっと長く我が家の一匹犬だったのが、ここ半年ほどの間に新入りが三匹も登場したもので、若者の勢いに負けて老け込んでいたらしい。新入りの仲間入りができず、彼らが遊び回るのを横目に、庭の隅に引きこもることが多くなっていた。

 こちらもそれを老衰だとばかり思い、もう歩けないんだから散歩はダメだと決めつけていた。ところが、若者三匹を散歩につれて行くとき、メリーは恨めしそうに流し目で「本当は行きたいのに」と訴えている。それを察知して、先日一緒に連れていってみた。

 結構元気に歩く。ときには負けまいと走ったりも。驚いた。老け込みは精神作用だったらしい。まだお払い箱ではないんだと知ると、みるみる元気になった。運動するものだから、食欲も戻ってきた。見ていると今日は、自分を無視するチビどもに吠えかかった。こんなことは初めて。

 犬の世界に人間の集団心理の真相を見る。彼らは人間のように心の内を隠すことを知らないから、ストレートに感情を出す。老人社会が到来しようとしている今、メリーの心理から多くのことを考えさせられる。

 棋道部に中1生が大勢入ってきた。授業の中で宣伝したのが効いたらしい。中には囲碁を少し知っているのもいる。将棋で早くも上級生を負かすのもいる。楽しんでやっているから、のびる可能性大だ。嬉しくなる。

犬のいじけ
1997年6月6日
 老犬メリーの続編。犬種はシェルティー。鼻筋の通った愛らしい顔だ。上の娘が幼稚園のとき買ったから、もう14歳になる。婆さんとはいえ、顔つきに衰えは感じられない。いっときかげりを見せていた食欲も、再び若い者に負けない旺盛さを取り戻している。弱いのは足だけだ。

 ヒガミ心は誰にも負けない。いじけているというか…。今日も若い三匹と一緒に散歩に連れていったのだが、土手に上がる取っつきの30センチほどの段を上がれない。後ろ足が弱いから無理なのだが、するともういじけてしまい、他の三匹が土手を歩き始めたのを上目遣いに見るや、こそこそと逆方向に戻り始めた。幼児がすねているのと同じ心理だ。すねて注意を引き、抱いて上げてもらおうという腹である。ミエミエの手を使う。

 呼んでもチラっとこちらを見るだけ。足は向こうを向いたままだ。段を上がれなかった恥ずかしさから逃れたいのかもしれない。ものは言わなくても、目つきと物腰に心理のすべてが表れている。かわいいやつだ!

 放課後、文化祭のパート別集合というのがあった。生徒会が主催して、パートごとに計画を立てさせようというもの。だけど棋道部は集まっても何もしない。文化祭の直前1週間ですべてをやっつけてしまおうというが「計画」で、今はただ碁や将棋をやっているだけ。これもまあしかたない。

教師の権威って?
1997年6月7日
 梅雨入りだと先日どこかで聞いたような気がする。それまでは梅雨の走りを思わせる雨が続いていたのに、梅雨入りなどとささやかれると、天は老犬メリーのようにすねるのか。晴れ上がってしまった。

 6月は学校行事が少ない。勉強が一番はかどる月だと、学生時代に友人が話していた。じとじとと湿っぽくて暑いのに、ホントかいなと、そのときは思った。今思うと急所をついている。6月は暑くないのだ、湿っぽくないのだ、そして時間がたっぷりあるのだ――学生にとっては――。それに、夏休みが刻一刻と近づいてくる気配が感じられるではないか。そう、6月は明るいのだ。知らなかった。

 そうそう、今日、宿題を忘れた中1生に、「放課後残ってやってしまえ」と叱りつけて命令しておいた。その後こちらも実はそんなことはケロリと忘れていたのだが、3時過ぎ一仕事終えて職員室に戻り、我が輩の机の上を見ると、「部活の先輩に絶対に来いと言われたので、宿題はできません」と、置き手紙がある。腹立ちよりも、笑ってしまった。

 部活の先輩の命令は教師の命令に勝るのだ。当たり前だ、彼らにとっては。そこに権威を振りかざして割り込む教師が無茶なのだ。

日曜日の朝はコーヒー
1997年6月8日
 日曜日の朝は、起きるとすぐにコーヒーを沸かす。これが決まりだ。3杯分のコーヒーを沸かし、朝から午後にかけて3杯飲む。砂糖やミルクは入れない。ブラックの苦みを楽しむ。

 日曜日の朝食は、我が家ではセルフサービスになっている。上の娘が高校生の頃からそうだ。お母さんに休みをあげようという暗黙の了解が娘との間にあったようにも思う。それに、週に一度くらいは自分で包丁をもつのも悪くない。かえって楽しみでもある。

 たいていはしかし、前日の残り物か、茶漬け、インスタントラーメンなど。それにトマトやキュウリを切って添えれば出来上がり。今日は冷やし中華を作った。それとナスの塩もみ。これは好物の一つ。

 そうやって軽く腹ごしらえしたあとは、一日中ずっと机に向かっていた。一歩も外に出なかったように思う。こんな日は珍しい。やりかかった仕事に熱中すると、時のたつのを忘れてしまうのが私の日常。夏休みなど、たっぷり時間のあるときは、三日くらいぶっ通しで熱中することもある。

 終えても終えても、後から後からやりたい仕事が出てくるので、いつもフル稼働している羽目になる。情けない性分に生まれたものではある。

原稿を仕上げる
1997年6月9日
 毎日汗だくで取り組んでいた原稿を今日の午前中でやっと仕上げ、今夜は久しぶりにのんびりしている。といっても、この快感は5月末にも味わった。快感の余韻にひたる間もなく、6月になって再び新しい仕事に取りかかっていたのだ。原稿を出版社に送った後の、ふぬけになったような脱力感は何とも表現のしようがない。

 先日天気のいい日に重信川の土手で撮った写真と、散歩に行く前の嬉しさのはち切れそうな犬の写真を、HPの表紙に載せました。土手の黄色い花はキンケイギクというらしい。土手に満面咲き、写真には写っていないのだが、左側の広々とした河原にもどきっとするほどの群がりようで咲いている。

 この土手が私のジョギングコースなのです。写真では十分に伝わらないのですが、うまい空気と広大な自然が土手周辺には残っています。都会にいては味わえない自然との一体感を体験できます。

 棋道部の中1生は本当に熱心だ。上級生が小さくなるほど、我が物顔にのさばっている。6月22日の囲碁の大会のメンバー選びに苦心している。高1生で伸びてきたのがいるので、高2生で確定だと思っていたメンバーを変更しなければならなくなったのだ。昨年の県大会で優勝した連中が、今年は正選手になれない厳しさである。

 今日の放課後は、選考をかねた指導碁を打った。感触はまずまず。

参観日
1997年6月10日
 6月は学校行事が少なくて勉強の季節だと、先日書いた。たしかに6月は淡々と過ぎてゆく。梅雨空の鬱陶しさとは関わりなく、時は過ぎ、授業が流れてゆく。生徒たちにはひと月余り先の夏休みがすでに視野に入っている。もちろん坊ちゃん本人にとってはなおさらそうだが…。

 高校編入クラス(E組と呼んでいる)の授業も、4月、5月は予定よりやや遅れ気味だったのが、6月に入ってペースを上げてきた。2次関数、2次不等式を終え、明日からしばらくは実戦的な演習をやる。

 中1も、どうやら昨年よりハイペースで進んでいるらしい。今日は投影図をやった。坊ちゃんにとって投影図は、大学での「図学」を思い出させられるものだ。円柱に円錐が突き刺さった図などを、烏口を使って丹念に書いた。まさに血のにじむ作業だった。

 今日は参観日。特に中1では廊下があふれかえっていた。なぜか中1は、机と机の間の隙間が多く、そのため机が教室全面を占めている。参観者は教室に入れず、廊下から参観となる。

 今年の坊ちゃんは十数年ぶりにクラス担任をはずれている。参観日といっても楽だ。親との面談をしなくていいのだから。その分、今日もまた、生徒に碁の相手をしてやった。

三代の校長
1997年6月11日
 我が校はこの4月から校長が交代した。新校長は3代目。

 初代校長はえらい人だった。長く大学教授を務めた学者であったと同時に、青少年教育に情熱を傾けていた。ひたむきで、真摯で、物事の限界を心得ていた。高校教師に学問で身を立てることを期待せず、その意味では教師連を見くびっていた。自由に泳がせ、伸びるに任せ、沈むに任せた。

 若気の至りで私がうんと昔、学内で研究紀要を作ったらどうですかと進言すると、「できるわけがない。そんな能力のある人間が校内のどこにいますか。」と一蹴されてしまった。が、しかし自由を尊び、教師をも生徒をも縛ることをしなかった。

 2代目校長はその後を継ぎ、この3月まで校長を務めた。初代校長がドイツ学派だったのに対し、2代目は中国派。漢文の専門家だった。初代校長は生徒への訓辞をヒルティーで貫き、2代目は孔子、孟子の包装紙で包んだ。2代目は自分の主張を最小限にし、見ようによっては無能。だがその実、教師の隠れた能力をよく見ており、各人の仕事ぶり、書くものにはこまめに目を通していた。実務家を側近として配することで成り立つ、温厚な高邁紳士であった。

 3代目は一気に若返った。実務に長け、雄弁では誰にもひけを取らない。初代のような達観した大局観をもっているのか、2代目のような教師の隠された能力を見抜く力を持っているのか、それらは今のところ未知数。私の見るところ、側近政治の傾向が強い。主流を愛し、非主流を軽視する。見かけの強者に依拠し、真の強者が見えない。そんなムードがかすかに漂う。碁をやっているとこの匂いには異常に敏感になる。

 今日なぜこんなことを書いたかというと、2代目校長の「退任にあたって」という文章をワープロで清書する仕事をし、前校長の思索を丹念に追っかけたからだ。訓辞などの形で普段耳から聞いていたことと内容は変わらないにしろ、それを本人が原稿用紙にしたためたものを、しかも相当丹念に読むうちに、これまで気づかなかった偉さが見えてきた。儒者としての風格はあるにしろ、哲人としての色合いをこれまで感じたことがなかったのだが、今日初めて、彼の思索に哲学があることを知った。

補習が長すぎると叱られた
1997年6月12日
 熱心に補習をやりすぎると、叱られてしまった。事情はこうだ。

 高1編入クラスは在来生より進度が遅れているため、ほぼ毎日補習がある。そのうちの木曜日が坊ちゃんの補習の日と定められている。他の教師はたいてい、この補習を7時間目の時間帯で切り上げているのだが、坊ちゃんはたしかに熱心なのだ。これを5時過ぎ(ときには5時半まで)やっている。今日もそうだった。

 ところが、これでは寮生は帰寮した後、食事と入浴のどちらかをカットしないといけなくなるらしい。そのことをある生徒が親に言った。その親はそれを地区別懇談会(今の時期に各地で行われている)で取り上げた。ところがその会に出席していた教員は、「補習は7時間目にやることになっているのだから、そんなことは絶対にありません」とか何とか、反論したらしい。そこからその会は大もめになったというのだ。

 親は、「食事もさせない学校、風呂にも入らせない学校、部活もさせない学校」と、言いたい放題。険悪なムードになったらしい。

 そのことを、今日、折りもおり、補習を終えて職員室に戻ってきたとき、教頭から聞かされた。「5時までには切り上げて下さい」とのこと。部活をやっている生徒はたいてい、5時半まで練習し、それから寮に帰っている。こちらはその感覚でいたのだが、一人の生徒と一人の親が強硬にそれを問題にしているという。少しでも多く教えてやり、少しでも早く在来生に追いつかせようと思ってやったことが、裏目に出たことになる。

 こんなことでショックを受ける坊ちゃんではないが、なんだか割り切れない思いでいるのも事実だ。

うっぷん晴らし
1997年6月13日
 勉強というのはきれい事でできるものじゃない。「上品に、手を汚さず」なんてものではないんだ。汗と涙でどろどろになりながらやる性質のものだ。少々補習が遅くまでかかるからといって、親に泣き言を言うような者に勉強なんてできるわけがない!

 昨日のうっぷんを晴らすかのように、今日の高1E組の授業で彼らに吠えついておいた。「親に馬鹿なことを言ったのは誰だ?」と、坊ちゃんを支持する顔つきが大半だったので、高ぶった気持ちが少し助けられた。

 学校というのは不思議なところだ。宿題も出さず、補習もせず、従って生徒との間に何らの波風も立てずに安閑と暮らしている教師と、毎日宿題を出してはチェックし、補習をし、小テストをやり、それが故に生徒との摩擦もときには甘んじて受けねばならない宿命にある教師と、二色に分かれている。管理職はたいてい前者のグループから推挙される習わしである。

 暇だから、彼らは会議が好きだ。学校というのは本当に不思議なところだ。

自由な時間を奪われずにすむ有り難さ
1997年6月14日
 中1の数学を分割してもっている相棒が高知の地区別懇談会に出かけたため、今日はまた4時間ぶっ通しの授業になった。その分、授業の入れ替えによって昨日楽をしているのだから文句は言えないが…。

 今日は高知で、明日は福岡で地区別懇談会がある。福岡組も今日の午後出発した。坊ちゃんも毎年、2ヶ所から3ヶ所、こうした会に出席してきた。今年は担任をはずれたためこの種の会に出席する必要がない。こんなことは愛光学園に勤めるようになって初めてである。

 自由な時間を奪われずにすむことくらい坊ちゃんにとって有り難いことはない。

 重信川の土手からキンケイギクが消えた。刈り取られたわけではない。自然の寿命、枯れるべきときが来たのだ。長い間、鮮やかに土手や河原を埋め尽くしていた真っ黄色の絨毯が、色あせ、しぼみ、討ち死にしてしまった。

 それに代わって名は知らないが、ススキ状の穂が伸びてきた。まるで秋だ。そのせいでもなかろうが、夕方7時過ぎ土手に行くと、曇り空のために早くも暮れかかった河原にまるで秋風を思わせる風が吹いていた。胸にキュンとくる夏の終わりの寂しさだ。一瞬、季節を倒錯してしまう。

父・母の日
1997年6月15日
 一日中曇り空。Tシャツとランニング用の半パンで過ごした坊ちゃんには、少々肌寒い一日だった。

 昨日も書いたが、自然は真夏に向けて脱皮を始めている。重信川の河原の光景が日を追って変化してきた。初夏をいろどっていた可憐な草花は枯れてしまい、かわりに生命力あふれる緑濃い真夏の草木が伸びてきた。ススキ状の草はその間隙を縫う一瞬の幻か。

 相模原にいる娘から、父の日のメッセージがFAXで届いた。「母の日は何もしなかったので、今日は父・母の日です」とある。大学は、試験、試験で忙しそう。最後に「お父さんの稼いだお金で頑張っています」と締めくくってある。

 こういうのをもらうと、人間の命ってこういうためにあるんだと、累々とつながる生命の糸の今を受け持つおのが存在を幸せに思う。思えば、自らの全存在をかけて幸せに酔うなんて、近頃すっかり他人事になっていた。

 今日から田植えが始まった。

ネズミ出現
1997年6月16日
 先週の土曜日から高2生は北海道に修学旅行に出かけている。土曜日は函館、日曜日は昭和新山から洞爺湖、そして今日・月曜日は小樽。こちらの曇天とはうって変わって晴天続きらしい。

 坊ちゃんも、2年前と8年前には修学旅行の引率で北海道に行き、去年は家内と二人で行った。雄大な草原、高原、牧場が懐かしい。

 我が家にネズミが現れた。先日から台所でガサガサ音がすると思ったら、何とネズミ。ネズミ取りの毒餌をおく。夜の間に全部平らげ、糞が流しのあたりに散乱している。何という食欲、そして何という無謀さ。ここに現れましたよという証拠をしっかり残している。

 数日これをやればいなくなるはずだが、昨日は夢にまでネズミが出現した。真っ白な大きなネズミが枕元、手の届くところにやってきて、まるで兎のように愛らしく走り回る夢だ。その白さはたとえようもなく美しかった。夢判断はこれをどう解くのか。

まっ黒坊っちゃんはもういない
1997年6月17日
 今日は、高1,高3のクラスマッチ。梅雨時には珍しい炎天下のスポーツ大会となった。坊ちゃんはしかし、中1の授業があったため、見物はできず。

 今日のような炎天下で一日スポーツをすることは、かつての坊ちゃんには日常茶飯事だったが、今は少し恐い。日に焼けすぎることが恐いのだ。美容のためなどではない。皮膚ガンが恐い。今は、ジョギング等の運動はたいてい、夕暮れ時にやることにしている。

 テニスに明け暮れていた頃の真っ黒坊ちゃんは今はどこにもいない。

 クラスマッチが終わった夕方、突然豪雨がやってきた。一日火照りっぱなしだった生徒たちの身も心もこれで少し冷めたか。

 図書館報「ビブリオ」に載せる推薦図書の原稿を書いた。「ニーナの日記」。スターリンの粛正最中のモスクワで感性豊かに生きた少女の日記である。坊ちゃんは昔、ソ連邦時代のモスクワやレニングラードを訪れたことがある。その思い出とも重なる。

 愛、自由、そして生き甲斐を求める行動力、これらは国や時代を超えた人間らしさの発露だ。それを強く思う。

台風接近中
1997年6月18日
 高2生が2便に分かれて北海道修学旅行から帰ってきた。先着組は5時前に学校着。帰るとすぐ棋道部の連中が部室にやって来た。日曜日の大会に出る高1生の相手をしていたときだ。

 「暑い、暑い。北海道は涼しかったのに」などと、疲れた様子もない。「何が涼しかったものか、テレビの気象状況で、向こうも27度と言ってたぞ」と野暮なことを言ってみる。しかし思えば、カラリとした北海道はヨーロッパの夏に似て、木陰は冷え冷えしていたはずだ。

 楽しんできた彼らの顔は、数日前より開放的に見える。

 台風が接近中。このまま直進すると、明後日には四国上陸か。我が校には明文化された規定があって、午前6時現在(あるいはそれ以後)風の警報が出ていると自動的にその日は休校となる。教師の身で不謹慎かもしれないが、内心、台風接近を期待の目で見守る我が輩である。

期待は裏切られるためにある
1997年6月19日
 台風はどうやら四国の西に向かっている。愛媛県は暴風雨域からはずれる見込みと、帰りの車で聞いたニュースは告げている。ちょっと残念な気持ちと、期待はいつもこうやって裏切られるんだという達観した気持ちとが錯綜する。

 先週、補習をあまり遅くまでやらないようにと、教頭から一言された矢先だが、今日の補習は再び5時半までになった。5時には終わるからと約束して始めた補習だが、やりだすと終わらない。生徒たちも仙人めいて諦念の権化と化している。文句を言うものは一人もいない。

 でも、今日は特別やることが多かったからね、来週からは5時には終わるから、と、石のようになった生徒たちを新たな期待感でほぐすことも忘れない。

 期待は裏切られるためにあることを、彼らはこうやって覚えてゆくのだ。

前校長をたたえる会
1997年6月20日
 台風は来ず、逆に晴天。これでよかったのだ。高1E組の授業の進度を思えば、本当にこれでよかった。予定がどんどん後ろにずれ込んでいたのだから。

 今日、職員会議の書記を務める。回り持ちで、数年に一度巡ってくる。今日の議題は一つだけ。少しもめたものの結論ははっきりしていたため、書記の仕事としては楽な方だった。

 夜、この3月に勇退した門屋前校長をたたえる会が開かれた。全日空ホテル南館。学校の教職員以外に、OBの教員、同窓会、父母会などの代表が参加。ローマ法王から送られた見事な感謝状が圧巻だった。

 前校長は82歳。2,3ヶ月お会いしなかった間にすこし年をとられたなとの印象だが、背筋のぴんと伸びた姿は相変わらず。剣道の素振りの効果だ。包容力抜群の先生だった。しばらくぶりにお会いして、学校にあいた空白の大きさを今更のように知った。

 先生の書かれた原稿をこの坊ちゃんがワープロで清書してあげたことをすでに知っておられて、わざわざそのことで声をかけていただいた。門屋前校長はそういう人だ。一人一人の仕事や、一人一人の書いたものを実にこまめに把握している。その下で安心して仕事のできる人だった。

高校囲碁選手権・県大会
1997年6月22日
 今日は高校囲碁選手権・県大会。雨が降り続く、うっとうしい一日。県大会はいつもこんな日に開かれる。梅雨時だから当然とはいえ、県大会の記憶と雨のイメージは重畳する。

 聖陵高校という我が校からそんなに遠くない高校が会場。朝9時から夕方5時半までの長丁場。我が校の選手は、自画自賛ではないが、他校の選手をはるかに凌駕している。代表決定戦は必然、我が校同士の戦いとなる。昨年の個人戦代表が、今年は敗れてしまった。新しい力の台頭である。

 その結果、当然ながら、我が校が男子部門の優勝を総なめした。全国大会出場権を得たのは、男子団体(3人)と男子個人2人。ただし、個人の2人は団体戦のメンバーでもあるので、実質は3人。まあ予定通りの結果といえる。

 女子は、団体が西条高校、個人(1人)が済美高校。

 7月28日からの全国大会に向けて、また少し練習だ。

新聞に特集が出るらしい
1997年6月23日
 昨日の囲碁優勝が今日の愛媛新聞に載り、しかも長期間の連続優勝だというので、後日、愛媛新聞に特集が出るらしい。今週中に取材に行きますとの電話が今日あった。何年連続の優勝なのか、坊ちゃん自身忘れてしまった。

 我が校の棋道部(囲碁・将棋部)は以前にもラジオの番組で紹介されたことがある。そのとき坊ちゃんのインタビューも放送された。自分の声が放送されるのは気恥ずかしく、聞くに耐えなかった記憶がある。

 一昨年は、囲碁の全国大会の会場でインタビューされ、何と「打ち込め青春」の全国版テレビでそれが流された。声だけではない、顔出しでだ。

 そういえば、愛媛新聞夕刊で、紙面の3分の1くらいの大きな顔写真とともに、坊ちゃんの囲碁・短歌人生が囲みの特集記事になったこともある。7,8年前だ。記者が家に来て、長時間インタビューされたものが記事になった。

 今回のはどういうものになるのかまだ知らない。

 このところ、数学の原稿書きに明け暮れている。頭の中が散文になってしまった。詩を書かねば、短歌を書かねば。

高校生集会
1997年6月24日
 いよいよ夏休み近しだ。日差しの強さは本物。例によって夕方土手を走る。6時すぎとはいえ、まだ日は高く、真夏の日差しに全身を直射されてしまった。

 中1生の数学は、今日で空間図形を終える。残りの授業は演習だ。1学期間でよくぞここまで攻め上ってきたもの。彼らもよくついてきた。

 それに比し、高1E組の方は少し停滞気味。2次関数の最大・最小や解の条件のところで行き詰まってしまった。いつまでたっても理解してくれない者がいて、ほとほと困り果てている。次に進めないのだ。

 放課後、高校生集会というのがあった。生徒会主催のはずが、いつのまにか学校主導に変身している。最初に、優秀な成績を上げた部活の表彰。柔道部と写真部、それにわが棋道部が表彰される。あとは教頭の訓示と生徒部長の諸注意。生徒会の影はどこにもない。

平成3年発行!
1997年6月25日
 中1数学の教科書に、正八面体をデザインした切手の写真が載っている。「これを見たことがある者はいるか」と聞くと、「平成3年発行!」と皆が声を上げる。たしかによく見ると「平成3年」と小さく読める。

 だけど坊ちゃんには彼らの言っている意味が分からなかった。「見たことがあるか」と聞いているのに、彼らの答えは異口同音に「平成3年!」なのだ。しばらくして意味がとれた。「そんな昔の切手、見たことあるわけないでしょう」と彼らは主張しているのだ。

 平成3年が昔? 坊ちゃんは仰天してしまった。たかが6年前、と言おうとしてハタと気づいた。6年前は、彼らが小学校に入学した年なのだ。誰かが小生意気に言う。「僕らの人生の半分ですよ」

 「先生には6年前なんて、昨日のことみたいなもんじゃ」と笑って言いつつ、時の流れの過酷に頭を痛打されていた。坊ちゃんにとっては過酷、だけど彼ら中1生にとっては柔らかい布団にくるまれたようなソフトタッチの6年間。長い長い夢のような6年間。

 あゝ、坊ちゃんも夢の世界に戻りたい。

「何かさせていないと不安」症候群
1997年6月27日
 今日の職員会議で、夏休みの補習計画が報告された。例年通りで、異議は出ず。我が校の夏休み補習は、周辺の県立高校から見ると、ないに等しい分量だ。坊ちゃんがかつて訪問したことのある九州のいくつかの進学校では、補習のために夏休みは事実上返上されていた。
 愛光学園に勤めているありがたみを思う。

 生徒の父母は、夏休みにもっと面倒見てほしいと考えておられるかもしれない。しかし、充電期間は生徒にも教師にも必要なのだ。それは時間の空費ではない。新たな飛躍のための休息である。

 と同時に、自由な時間を手にする喜びを真に知ることには、それ自体、計り知れないほどの積極的な意味がある。単なる休息では終わらない。そこから必ず各人なりの新たな価値が創造されるはずである。

 日々、与えられたスケジュールに乗って、外部の監視と強制のもとで生活する今の生徒たちにとって、夏休みという長い期間を束縛から解放されることに、どれだけ大きな意義があるか。手をさしのべ続けることが子供たちの成長に有益だと考えることは、教師や親のエゴイスティックな自己満足であろう。「何かさせていないと不安」症候群である。

 子供たちの自由な羽ばたきを阻害するこうした不安症候群からはおさらばしたい。親はむしろ「自分自身の成長のために何かしていないと不安」症候群に陥るべきである。

ツバメでありたい
1997年6月28日
 台風で休校。先週の台風7号では「ひょっとしたら休校か」の期待を見事に裏切られた。今回の8号は逆に、まさかの襲来である。月曜日はもともと坊ちゃんの自宅研修日だから、そう、なんと3連休の出現だ!

 台風らしい強風が吹き荒れたのは夕方5時ごろ。それも突然。それまで、雨は降り続いたものの、風が吠えることはなかった。

 坊ちゃんがいつも仕事をしている自宅の二階から、隣のスーパーとその駐車場が見下ろせる。突然の突風に男が走った。亀の子のように首をすくめて走った。危険に遭遇したときの刹那の心理と行動。笑える現象だから、笑ってしまう。

 風とともに雨も猛然と襲ってきた。横殴りの雨が窓を打つ。

 子供がずぶぬれになって家に駆け戻る。だけど子供は首をすくめたりしない。きゃっきゃと笑いながら雨と風を全身で受け止める。

 ツバメも負けない。ゴーゴー吠える風を切って、窓をかすめ飛ぶ。さっそうたる雄飛だ。

 雀はおそれをなして早々と巣に戻る。風の小止み小止みを縫うように、群をなしてバタバタ飛ぶ。カラスもカーカー叫んで恐怖感を露わにしている。

 坊ちゃんはツバメでありたい。群れ飛んだりせず、さっそうと一羽、風を突っ切る。

酸っぱい味を人間はまだ知らない
1997年6月29日
 重信川の川筋がまた動いた。台風の所業だ。いつもは半涸れになって流れている広い川の中に、人が築いたのかと目を疑う精巧な瓦礫の堤防ができ、それに沿って真新しい流れが急流をなしている。さわさわといい音で流れる。

 自然の変化は悠然として、しかも激しい。人が住むのはその間隙の不安定な空間。

 雲を見上げる。太陽を見る。落ちる寸前の煌々たる巨大な太陽。人の知恵の芽生えぬ太古にも、太陽はこうして巨大な深紅の塊になって落ち、雲が流れ、河が瓦礫を運んだことだろう。

 理性なるものに認知されることなく、悠久の時を彼らはただひたすら刻みゆく。それが自然。
 理性の無謀を思う。傲慢を思う。盗人なのだ、理性とは。

 生命はバトンタッチを本性とする。そして常に新しい。そして常に愚かだ。ほのかな恋心を、自分にのみ与えられた、人類史上唯一の至宝と人は思う。ばあちゃんも、じいちゃんも、人たるもの皆が一度は味わった酸っぱい味だと彼は知らない。

 この虚妄と傲慢が、形を変えて自然を台無しにする。自然たるもの皆味わった酸っぱい味を、人間はまだ知らない。

文明の足音
1997年6月30日
 坊ちゃんが住むのは松山市の最東端。十歩歩けば重信町だ。一昔前までは、田んぼとミカン畑と柿畑が広がる田園地帯だった。いや、昨年までそうだった。

 そこが今やすっかり町である。田畑に囲まれてこんもり茂っていた鎮守の森も、今は住宅街のど真ん中で身を縮めている。まさに場違いという有様だ。

 車2台がすれ違うのに苦労した坊ちゃんの家の前の道路も、街灯に輝く広々とした美しい道路に変身した。歩道のモダンな色タイルがかつての田園地帯に似つかわしくない。

 「日露戦争戦勝記念」の巨大な石碑が百年の風化を受けつつ社の参道脇に立っていた。堂々たる姿が遠くからもよく見え、当時を偲びつつ、かつてよくそこを散歩したもの。その石碑も今は住宅地に囲まれた子供広場の隅に置かれている。場所はたしかにもとのまま。四角形に小さく視界を切り取られた。

 住み易くなったというべきか。

 今日、テレビでアフリカのピグミーの森を見た。森の民にも「文明」の足音は響いてきている。

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