著作権セミナーに参加して
1997年3月1日
 二月中旬の二日間、授業のなくなった高三担任の特権を行使して、「著作権セミナー」なるものに参加する機会を得た。私にとって未知の世界へのいざないは何であれ、汚水に住む魚の目の前にちらつく純白の麩の餌である。後先を省みず食いついてしまう。

 著作権は特許などとは違い、手続きが不要。これをまず私は知らなかった。創作した時点で自動的に権利が発効する。新規性や有効性の審査は何もない。創作性が認められるものでさえあれば、直ちにこの権利が付与される。国内的な著作権法のみならず、ベルヌ条約によって万国でこれは認められている。知性に対するすばらしい権利だ。これを聞いて私の目の前に巨大な灯りがともった。

 著作権は売買・譲渡の対象となる。つまり財産権である。しかし、著作者にはもう一つの権利、著作者人格権というものが与えられる。これは文字どおり人格権であって、たとえ金を出して著作権を買い取った場合でも、著作者人格権の侵害は許されない。この人格権には三種あって、一つは公表権。著作者が公表してほしくないと言えば、著作権を買い取った側もそれを公表することはできない。第二は、氏名表示権。これも当然だろう。第三は同一性保持権。耳慣れない言葉だが、これは重要である。内容を歪曲したり、その一部分だけを切り取ったような使用は許されないということだ。部分部分を切り貼りすれば、作品の主張を180度転換させることもできるのだから、当然といえば当然であろう。

 この話を聞いて、私は大反省した。高三の私のクラスで「夢」という卒業文集を作ったのだが、ある生徒の文章が余りに長く、私は勝手にその一部を切り取ってしまった。文集にふさわしくないと思われる内容や表現が各所にちりばめられていたので、それを割愛したのではあるが、あとで当人から不満を漏らされた。「あれでは骨抜きになって、逆に笑い物になっているみたいです」と。私は彼の卓越した文章力を十分に認めていたので、そのことへの正当な評価を伝えて、その場は収まったのだが、後味の悪い思いをした。そしてセミナーである。そうか、教員の権威を笠に着て彼の人格権を侵害したのかもしれない。そういう思いを強くした。

 著作隣接権というのもある。著作物を実演する者に与えられる権利である。歌手が舞台で歌ったときのビデオ、録音、写真などにその権利は適用される。教員の教室での講義もあるいはこの範疇に入るのかなと、ふと私は思った(講義ノートという著作物を実演しているのだから)。写真屋がアルバム用にと講義風景の写真を撮ったりすることがあるが、無断でこれを使うのは違法という気もする。

 著作権の侵害は、主には無断複製という形で生じる。その点に関していつも気になるのは、授業で使うために種々の書物をコピーすることである。しかし、これはある意味では心配なく許されているということをこのセミナーで私は知った。法的に著作権の及ばない場所と場合があるわけで、教育機関における授業はその一つであるらしい。本の一部をコピーして生徒数だけ配る、これは無断で許されるというのだ。ただし、問題集の問題や解答をそのまま引っ張り出したり、ましてやそのコピーをホッチキスで止めて冊子にする、などは許されない。あくまでその本の売れ行きに影響しない範囲での、参考資料としてのコピーである。

 コンピューター・プログラムの違法コピーはかなり日常化している。企業や学校でソフトを一本買い、後はそのコピーですべてのパソコンをまかなうというのは、よくあることたが違法である。見つかって告発され、莫大な違反金を支払わされた例も多いという。愛光でも気をつけないといけない。

 インターネットの急速な普及によって、ホームページなどを利用して、誰もが簡単に創作物を発表できるようになった。私も、これまでに作ったプログラムや随筆類の書き溜めたものを、自分のホームページに載せようと思っている。著作権の問題は他人事ではない。

幼稚園に通いたかった
1997年3月20日
 彼は、1948年2月、愛媛県松山市の市街地のはずれで生まれた。1948年というと、まだ戦後の混乱期。戦地帰りの男たちや、引き上げの一家で町はごった返していた。その上、一人身をかこつ女のところへ男がどっと帰ってきたものだから、町はすぐに子供であふれた。路地裏からも電車道からも広場からも、いたるところから蛆虫のように子供が孵化して大地を埋め尽くしたのだった。

 子供でごった返す町々では、路地と路地で区切られた小区画のことごとくに自然発生的な遊びのグループができた。グループごとにボスとその取り巻きがいて、彼らを支配者とする階層構造の小王国が形作られていた。とはいえ、ボスに大した力があるわけではなく、ほかの者より年かさがいっている分だけ多少遊びのコツを心得ている年長者というにすぎなかった。小学校高学年の、あまり勉強好きでない子がその役回りをし、群がる年下の子供たちを引き連れて遊んでいたのである。時にはグループ同士が衝突して、小競り合いになることもあった。そんなときにはボスは太目の竹切れを持って先頭に立って胸を張る義務があった。

 彼はうんと小さい頃から、そんな集団の末端にくっついて、空き地から空き地へと遊びの種を探しながら歩き回っていた。今振り返ると、当時の自分の姿が、まるでよその子を見るように、ありありと脳裏によみがえってくる。中年に達した今の自分と幼い自分とが、時間の壁を越えて同時並列的に、一つの場面に二者として見えるのだ。どう見てもその幼な子は自分であるに違いない。しかし、無心に遊ぶその姿を背後からそっと見守っているこの主体もまた自分である。こちらの視点に立つと、幼子は明らかに見られる対象としての他人である。

 遠い過去に焦点を当てるときにはいつも、彼は自分から時間がどんどん逃げてゆくのを感じるのである。

 人間というのは、ひとひらひとひら限りなく脱皮を繰り返しながら、その脱皮した殻を後生大事に宝の箱にしまっておくもののようである。とはいえ大部分は干からび色褪せ、虫に食われて消え失せることになるのだろうが、そのうちの何枚かの殻は、ニスを塗られて風化を免れ、しかも思い起こされるたびに新たな生命を吹き込まれて永遠の活性を保つことになる。消える宿命を奪われたこうした選りすぐりの断片が、人に時間と存在のなぞめいた深淵を覗かせるのである。

 人はおそらく死を迎えるときには、深い暗褐色をしたこれら選りすぐりの殻の幾枚かを、一生を通じて真に自分の身が得た唯一の宝だと感じながら、それらをまるで連ダコのように後ろに長く長くたなびかせつつ、空高く昇ってゆくのであろう

 当時は、溢れかえる子供たちの数に比し、幼稚園の定員はわずかであった。まるで地面を埋め尽くすようにあふれかえった子供の数に、幼稚園の建設が間に合わなかったのは当然であった。あるいは、この時期を過ぎればどうせまたすぐに子供の数はもとに戻るのだからと、建設を踏みとどまるムードもあったであろう。

 彼は、新入園児の締め切りがとうに過ぎてから、突然気づいた母に連れられ、近所の幼稚園に申し込みに出かけた。ときはすでに遅かった。むべもなく断られ、あるいはと出かけたもう一つの幼稚園も駄目だった。

 母に手を取られて畑中のあぜ道を幼稚園に連れてゆかれたその日のことを彼はいまだによく覚えている。胸を膨らませていた期待感が外部の力によって無慈悲にも踏みにじられる悲哀を、彼はその日、生まれて初めて味わったのだった。ふたたび畑中の道をすごすごと帰るとき、ちょうど西空は真紅に輝いていた。その光景はいまだに彼の脳裏を去らない。

 彼の両親は当時、その日その日を食ってゆくのに精いっぱいで、子供のことなど構っていられなかったのである。

 幼稚園に入ることができなかった彼は、まわりの同年齢の子どもたちがわいわい連れ立って幼稚園に出かける後ろ姿を、指をくわえて見送る毎日となった。近くの金物屋のおじさんが自転車のリヤカーに子供たちを乗せ、送迎バスよろしく連れてゆく朝もあった。そんなとき彼もなんの気なくそのリヤカーに一緒に乗って遊んでいると、「おまえは違うじゃろが」と叱りつけられてつまみおろされたことがある。そのときの凍りつくような疎外感は、幼な心に染み入って泣くことさえさせなかった。

 幸い、寂しさもそう長くは続かず、一つ年下の子どもたちがまだまだ大勢近くにいたのをつかまえて遊ぶことを覚えた。年下の子を相手にするのも成長の一つの糧である。こうして毎日を遊びに明け暮れるうちに幼年期は終わり、小学校に入学することになった。

女の先生
1997年3月21日
 1954年4月、彼は松山市立東雲小学校に入学した。学校は、松山の中央にそびえる名城・松山城のすぐ北側に位置する。彼が入学した頃、生徒数はピークを迎えようとしており、学校は数の猛威に押しまくられて講堂や体育館までもが教室として占領されていた。まるで奴隷船の船倉である。先生一人に子供が六十名という巨大な構成単位をもった学校で、彼は入学と同時に学校恐怖症にかかった。恐怖症というよりも、拒絶症である。

 学校には教室というものがあり、教室の中には「これがあなたの机よ」と呼ばれる机が決められてある。そして、なぜだが知らないが時間が来るとみんな机に坐ってお行儀よくする。しばらくすると「先生」という名の女の人が入ってきて、「さあ、おべんきょうしましょうね」などと、にこやかなか作り笑顔を見せる。

 彼にはこうしたシステムのすべてが理解の枠の外にあった。どうして、何のために自分がここにいるのかも分からず、ただただうつろな目と耳で教室の中のものごとすべての進行を、あっけにとられてぼんやり眺めている。そんな毎日であった。

 先生から見るとよほど変った子に見えたのであろう。あるいは、たびたび朝泣き叫んで学校に行こうとしないことを母親から耳にしていたのであろう。ある日、みんなが運動場で遊んでいるのを廊下の窓から眺めていた彼に、先生が声をかけてきた。その言葉がなんであったのか、彼の記憶に残ってはいないのだが、ただ、後ろから突然肩にそっと手をかけられたときに伝わってきたやわらかい手の温もりと、振り返って見上げた視線の先に出くわした先生の大きな優しい笑顔とを、彼はいまだに鮮烈に覚えている。

 母親でもない女の人の優しい眼差しをこんなに間近にしたことは、彼にはいまだかつてないことであった。しかも、これまでほかの子の相手ばかりしていて、自分からは手の届かない存在のように見えていた「先生」と呼ばれるこの人が、自分を抱きしめるように両肩に手を当てて話しかけている。この自分だけのために何かを。語りかけられる言葉の意味はよくは分からないのだが、とにかく自分のためにこの人は優しく情熱的な視線を彼の瞳に注いでくれている。そのことがわかった彼は、表現しようのないほどの深々とした暖かいぬくもりを体全体で感じた。芯までとろけそうだった。それが彼にとっての「愛」と呼ぶものの原風景である。

 それまで異境の地のように感じていた学校が、その日を境にして、逆に親しみのある、期待とときめきを秘めた場所へと変化していったのである。

 そのときたしか、先生は彼の手を引いて運動場の遊びの輪の中につれていってくれたように彼は記憶している。周囲の子供たちの、濁流のような活発さに押しやらていつも輪の外でぽつんとしていた彼が、初めて遊びの輪の中に入ったのもその時であった。家に帰れば近所の子供たちと結構やんちゃに遊んでいた彼が、学校では、急流を前に立ちすくむロバになっていたのである。

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