|
「菜の花や月は東に日は西に」という有名な句があります。たしか蕪村でしたか。かつて中学生の頃,国語の時間にこの句を習って,「俳句って,なんて簡単なんだ」と,自分にでも手を伸ばせばすぐ届くところに俳句の境地があるような,いじらしい錯覚を覚えた記憶があります。
この句の解釈は専門家に任せるとして,素人の私にも分かることは,今の都会人には味わうことのできない雄大な田園風景が広がる中,時はまさに日が沈もうとする春の夕暮れ,ふと東を振り向くと,いつの間にやら大きなまん丸な月がぽっかりと顔を出しているではないか,というのです。この驚きがこの句のいのちだろうと思います。太陽と月を,西と東の同列の存在だと見ているのではないのです。驚きの対象は実は月です。 西の茜の空に沈みゆく太陽の劇的な深紅の涙に見とれていて,今の今まで気づかなかったのだが,ふと東に目を転じると,いったいいつ顔を出したのだろう,ひそやかに静かに,まだ明るさの十分残った碧空に,白く丸い月が溶け入るような恥じらいの姿を見せているではないか,というのです。 自然の大舞台を前にした観客の目は,下手に去ってゆく華やかな主役の演技に見とれている。主役が涙にむせんで観客に最後の手を振っている,ちょうどそのとき,上手では次の静かな場面を演ずる役者が,誰に気づかれることもなく姿を現している。そんな感じです。 季節は春,春分を過ぎたばかりの,菜の花盛りの十四夜です。十五夜の満月では,東と西に同時にまん丸な月と太陽を目にすることはできません。蕪村の句が可能なのは十四夜の夕刻だけです。しかも,満天晴れてうららか。月はおのれの存在を誇示することなく,ひっそりと空に溶けて,白く浮かんでいなくてはなりません。まるで透けた薄衣一枚を纏って恥じらう少女のように。 田園は見渡す限りの菜の花畑。独特の土臭い香りが一面に満ちていて,暮らしに精を出す人の気配はどこにもありません。昼から夜に切りかわるしじまの一瞬です。その瞬間,風は止み,昼の間にたくわえられたうららかな春の陽気が地表にとどまり,まるで時間が止まったように,ものみなすべて静止して見えます。しじまを支配しているのは,白く淡い夕光だけです。 そして,時の流れを証しする唯一のもの,それが沈みゆく太陽と,静かに高みに昇る月です。昼間のあくせくした時間を忘れて,ゆったりしたその動きの中に人はおのれをとけ込ませます。 「菜の花や月は東に日は西に」というと,いかにも日と月を同時に視野に入れて詠んだ句のように思われがちですが,それは無理です。菜の花に埋められた地上のわが身の解放感と,西空の劇的なドラマ,そしてふと気づくと,東の空に薄衣をまとった少女のような月。この取り合わせが蕪村の詩的感興をあおったのでしょう。 どうしてこんなことを長々と書いたかと言いますと,一昨日(3月28日)の夕暮れ,まさに蕪村の句そのままの光景を目にし,唖然として,心の中で叫んでしまったからです。28日は調べてみますとたしかに十四夜でした。いま上に述べた光景はすべて,そのときの私の体験です。気づくと,月は驚くような大きさで地表に姿を見せていました。白く,薄衣のベールを被って,ひっそりと空に溶けこんで…。真昼の高空に浮かぶときの月が感じさせる強さはどこにもなく,本当に少女のような恥じらいの姿でした。 見ていると,刻々と日は沈んでいき,それとともに月はほんのりと赤みを帯びてきました。ワインを少し口に含んでうっすらと頬を染めた乙女のようです。 やがて日は沈みきり,空から光が退いていきます。すると月は再び白さを取り戻し,今度は夜を支配する女神のような煌々とした輝きを示し始めました。 30分ほどのこの大自然のドラマを,私は呆然と見入っていました。見渡す限りの菜の花,まん丸な月と太陽,そして晴れてうららかな空。これだけの条件がすべてそろった光景を目にする機会は滅多にありません。少なくとも私にとって,これは生まれて初めての体験でした。生きていてよかったな,しみじみそう思いました。 |