最後の能面 - 何かが変わり始めている



 ある時、気がついたら、自分の中の何かが変わっていた。
それが、具体的に何のことなのか、どのように変化したのかは、どうにも言葉で説明のしようがないほど、自分で意識したことでも、また自分で努力してできたことでもない。
ただ、確実にその変化が起っていること、そして、それが私にとって非常に居心地のいい状態になっていることだけは、確かな手応えとして受け止めていた。

恐らくそれは、私が自分の心を固くガードしていた最後の能面を、「はずすこと」ができたからではないだろうか。
いや、「無理なく、はずさせていただくこと」が、できたからだろう。 
お慕いする御主人様の前で・・。

   * * * * * * * * * * * * 

「さぁ、そこに正座しなさい」
「これから、私についてくるんだね」
「今日からは、私がご主人様だ。奴隷としての挨拶をしてみなさい」

こんな会話を期待して、初めて御主人様にお会いしたのは、秋も深まり始めたころだった。しかし実際には冒頭のような会話は、一切なかった。
御主人様のおっしゃる「ご主人様と奴隷」の関係は、命令されたことに対し、盲目的に従うことが全てではないらしい。まして、責めたの虐められたのという類のものでもないことは、それまでのお話からは理解していたので、本筋だけはわかったような気がした。

しかし、何かが見えない。

更におっしゃることに耳を傾けてはみるものの、その核心にふれると、どうにも私の理解を超えてしまい、ただ「ぼんやり」と響くのみで、何がなんだかよくわからなかった。理解できない自分がもどかしく、苦しくもあった。

 どうしたらいいのか、考え込む日が続いた。
そしてまず私にできることは、あるがままの自分を、飾ることなく御主人様の前に置くことではないかと・・、ようやく自分なりに思えたのは、しばらく経ってからのこと。

また、様々な「支配と服従」がある中で、御主人様についていくとは、それは自分自身の全てを明け渡すことではないか、ということも少しずつ見えてきた。
でも、"ついていきたい"と思えば思うほどに、とても苦しくなるのは、何かが私の中で、邪魔をするような感覚があったからだ。 

どんなにお互いのことがわかりあえる恋人や、夫婦の間にさえも存在するであろう、心の中の最後の仮面。自分の本音や本心を相手に悟られまいと、様々な表情をみせてもくれる。しかし、時にそれは、己の本心さえも見失ってしまうほど無表情になることもある。まるで能面のように。この能面がクセモノで、御主人様についていきたいと思う私を、妨害するのだ。御主人様の前で、自分の心を飾ることこそないにしろ、自分に素直になることが、どうしてもできなかった。

私の全部でお慕い申し上げることは、私の心も、身体も、思考も、そして、日々生きる生活基盤さえも明け渡すことを意味しているのだと思った。
それには、この能面の下にある醜い私の本心さえも、お渡しすることではないだろうか・・と。
 
「どうにも、(能面が)はずせないのです・・」
苦しくなって、御主人様にお話してみた。
できることなら、御主人様に取り除いていただきたいと、どんなに思ったことか。
せめて、「はずしてあげるから、こっちを向きなさい!」とおっしゃっていただけたのなら、どんなに楽なことだっただろう。
でも、御主人様は黙って見ていらっしゃるだけだった。


 時間の流れとの闘いが始まり、それは他でもない自分自身とのにらめっこでもあった。御主人様についていきたい、でも、長年つけていた能面が、ここぞとばかりに存在を主張してくる。気持ちが早まれば早まるほど、その感覚は強くなる一方だった。

「あせるな、ゆっくりでいい。」
「頭で理解するのではない。心と身体に自然に染み込んでいくことなの だから。」
そう、おっしゃっていただくほど、私には時間が必要だったようだ。

 どのくらい経っただろうか、いい加減自分自身に苛立ちを覚え、いよいよ苦しくなっていたとき、ふと、御主人様と目があったような気がした。
心の目が・・。
ひとりジタバタともがく私を、ずっと見ていらっしゃるその目は、何を私に期待されていたのだろうか。

御主人様の思いは、いったい何なのか。

その時、能面の紐がゆるんだような気がした。能面にしがみついていたのは、他でもない私自身だった。自分の本来の姿を見ることが怖かったのだろうか。
まして、そんな自分を御主人様にお見せすることなどできないと、本音では思っていたのだろうか。
いや、どうやら自分が「はずしたい」と思って、はずれるものではなかったらしい。

心の目が合った時、それは御主人様の思いに触れた瞬間でもあったのだろう。
「自分」が、御主人様の中で消えてなくなってしまいそうになった。
「私自身」ではなく、ご主人様である「御主人様」が望んでいらっしゃることが、私の望んでいることではないか・・と。
その思いに、お応えしていきたい・・と。

 気がついたら、最後の能面は、なくなっていた。
そこには、頑なな表情の私があるだけだった。そんな自分を御主人様にお渡しできたことが、不思議でもあり、また、なぜか嬉しくもあった。

まるで、狐につままれたような感覚に、唖然としていると、目の前の御主人様は、優しく笑っておられた。

 以来、大きな支配の中で、このなんとも不思議な感覚が、私を包み始めた。
気がつくと、知らない間に何かが変わっているのだ。
否、変えさせていただいているらしい。
この繰り返しが続いている。
また、初めて経験するほどの安心感にも驚いている。
私の全てをご覧になっていらっしゃるせいか、それはいつも守っていただいているような、感覚でもある。

 そして、少しずつ自分が自分自身でなくなることが、恐怖ではなく、「幸せ」として実感できることが、どうにも不思議でならない。
ようやく、御主人様のおっしゃる「支配と服従」の玄関前にたどりつけたのではないだろうか。
ちょっとだけ、胸を張って扉をあけることができそうだ。

いつの日か、本当の意味で愛奴にしていただけるように・・
御主人様についていきたい・・
これからもずっと・・




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